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12月21日(日)
来年春から、国立大学の独立行政法人化がスタートします。それを前に、国立大が揺れています。
揺れているのは、国立大学だけではありません。公立大学も揺れています。
激動の嵐の中で難破寸前になっているのが、東京都立大学と横浜市立大学です。この嵐は自然に発生したものではありません。
発生源は石原都知事と中田市長です。どちらも、大学の「改革」を掲げ、都民や市民に開かれた大学という名の下に自主的な改革努力には目もくれず、思いつきの案を一方的に“ゴリ押し”しようとしている点で共通しています。
都立大学の問題については、すでに12月12日付のこのHPでも書きました。それに関連して、近代文学の研究家で漱石やプロレタリア文学の研究家でもある横浜市立大学名誉教授の伊豆利彦さんからメールをいただきました。
伊豆さんはホームページで、横浜市立大学の「改革」動向がいかに多くの問題を抱えているかについて書かれています。おそらく、都立大学も同様の問題に直面することになるでしょう。
以下、参考のために、伊豆さんのHPから当該箇所を転載させていただきます。
五十嵐氏はイラク出兵、石原都知事の都立大学のごり押しについて書いていた。
同じことが市大でも起こっている。
昨日、横浜市は理事長予定者を任命した。
同時に、教員のポストに<横浜市大学改革推進本部 コース等検討プロジェクト部会設置要領(要旨)>なる文書を配布した。新大学の<国際総合科学部(仮称)を構成するコースや大学院の専攻、コース、文系博士課程などについて検討をおこなう>ためにプロジェクト部会を設置したので、設置者の基本的な考え方に沿って、新しい大学づくりに参加・協力するものは申し込むようにというのである。
普通は学長は理事長を兼ねている。国立大学の独立法人化の場合もそう規定している。公立大学法人でも同様である。ただ、特別の場合には、別の人間が理事長になってもいいというただし書きがある。このただし書きによって横浜市大は、学長とは別の理事長を選任し、学長は副理事長とするとされたのである。
しかし、大学案は各教授会で反対意見が決議され、学長は、これまでは外のことが主で、これからは内を固めて、全学一丸となって改革に取り組むと、市議会でも証言している。それら一切を無視して、市当局は理事長を選任し、ごり押しに新大学の設立を進めようとしている。
このような乱暴なことが、これまであっただろうか。戦争中のことはよくわからないが、もしかしたら、戦争中以上にひどいのかも知れない。これは、あきらかにファッショ的手法である。この実態は、市民には知られていないのだろう。この実態を知れば、市民は驚き、怒るにちがいない。この横暴な手法は、単に大学問題であるにとどまらず、中田市長の本質、いま、日本で進行しているファッショ的行政の実態を具体的に明かにするものであると思う。この横暴な手法は、批判する前に、その実態を明かにすることが必要だ。事実がわかれば、だれもが驚き、怒らずにはいないのが、いまの中田市政である。
いま、都立大学のことが問題になっている。都立大学の場合は、学長が都知事に反対したので、もっと問題が露骨にでているが、ここまでくれば、市大も都大も同じことである。ただ、市大の場合は、学長がひたすら市長に迎合し、屈従的態度をとったので、なにか大学自治の枠内でことが運ばれているかのような錯覚をあたえることに成功し、いままでのところ、都大よりもおだやかに進行しているように見えただけである。しかし、大学案が出て、市長がそれを承認するという形で成立した以上、もう、新大学は新大学で、設置者の意向にしたがって、まっしぐらに突進することができるというわけである。
新大学には、大学の自治というようなものはない。新大学は新大学のルールでやるので、旧大学の大学自治とは関係がないというつもりである。旧大学から旧大学のルールにしたがって改革という形で発足するという形式をとったために、なお、厄介な問題が残っているが、それは、既成事実をぐいぐいつくっていき、学長が協力してくれれば、旧大学の教員たちがいくらかさわいでも問題ではないということなるだろう。
学長はみずから奴隷になることを選んだのだから問題はないが、学部や評議会には、この改革に反対するものもある。彼らは大学の自治などという古くさいルールに固執して、あれこれいうかもしれないが、それは無視して、既成事実をつくっていけば泣き寝入りするだろう。そして、結局、新大学に入れてくれと泣きついてくるだろう。
このような無茶苦茶な考えは、多分、文科省の考えをもはるかに越えた非常識なものにちがいない。彼らの無知な強引さがいかにも実行的でかっこよく見えるかもしれない。これがかつて、旧体制を破壊し、新体制を実現せよというファッショの主張と行動が、人々の支持を得て、世界を支配するかに見えた理由だ。
しかし、この暴走体制には重大な欠陥がある。
受験生が激減し、教員のあいだでも、他大学にうつることができるものはどしどし辞めていくという状態がある。
市民の子弟に対する推薦入学の受験者は商学部、国際文化学部で30%減である。理学部は10%減になった。これは市民の大学改革に対する率直な反応だと思われる。この傾向は来年早々に行われる入試、さらには再来年とますます激化することと思われる。
教員のあいだにも市大の未来に絶望して、辞職して行く者が相次いでいる。すでに定年退職者の後任は採用しないという乱暴な決定をした市大は、自発的な退職者、他大学にうつる教員が続出して、大学の運営自体が危機に陥る結果をまねくおそれがある。
商学部では5依命の定員中11名が不足、国際文化学部では、4名不足、そしてこの傾向はますます強まるだろうという。
市民に魅力のある、市民に支持される大学という言葉で強引に進めた改革の結果がこれである。
少子化で、大学間の競争がはげしくなる時代に、市大はこうして衰退の道をたどることになる。
市大の問題は、単に一公立大学の問題ではなく、現に進行中の改革の波がどんなものかを示すものであり、小泉首相や竹中大臣の改革の掛け声が、結局日本経済破壊でしかない現実と対応している。
こうして、美辞麗句をかかげながら、日本は戦争と破滅の道を歩くのだろう。
小泉の場合も当初は高い人気に支えられて傍若無人に、国民が求める改革を実行するかのように見えた。
中田市長の場合も同様だ。
そしてそれはあの石原都知事と同質のファッショ的政治でしかない。
このことを明かにし、具体的に訴え、市民のあいだに不信の声が強まれば、ひたすら人気にだけたよっている中田市政はその根底からゆらぐのではないか。
この伊豆利彦さんは私の都立大学時代の友人のお父さんです。顔も似ているし名前も似ているので、以前からそうではないかと思っていたんですが、今回、メールのやりとりで、そのことが分かりました。
その方と、このような形で共同歩調をとることになったというのも、インターネットによる縁です。何だか不思議な気がします。
教育は物づくりとは違います。過って「不良品」ができたからといって、はねることも作り直すことも取り替えることもできません。
教育を受ける者にとって学校生活はワンチャンスであり、それぞれの人にとってはかけがえのない青春時代になります。「改革」の名の下に、思いつきや「経営感覚」だけで教育を歪めてはなりません。
教育に携わる人は、若者の人格と人生を左右する可能性のある大事業だという自覚を持ってもらいたいものです。教育に関わる全構成員の納得の下に、英知を結集し、慎重にも慎重を期しながら「改革」を進めなければならない理由がここにあります。
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm