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雑談板の人にだけご謹賀新年ですだ。
他の板ではとてもいえねえことだで、あえて言わせてもらうだ。
本当はこういうと不謹慎かもすんね。
イランの地震の被災者のことを思ったら、とてもおらは、自分が阪神大震災の被災者だったなんていえねえ。阪神大震災で死んだ人たつの無念ささ比べると、生き残ったおらだの生き残ったがゆえの苦しみを語るのは、あまりにもつらい。
イランの被災者さ対しては、なんの慰めのことばも出てこねえだ。あんまり被害がひでえもんでなあ。イランのハタミはおかしいんじゃねえのけ?ここさおよんで震災ば機会にアメリカとの関係修復ば模索すてんだとは。権力者の考えることはそっだらもんだべ、被災者の気持ちなんてわがってねえ。
おらだが神戸で6000人の犠牲者ば出したことは、イランのひとたつからみれば、悲惨さと規模のでかさからみて、くらべもんさなんねかもすんね。
んだども、おらはここではっきりイランの犠牲者のみなさんさ、被災者とすて気もちがわかるもんだから言わせてもらう。身内ば失った悲しみは、おらは身内はいねえけんども、二日間泣き続けてな涙が枯れっちまったと言ってた。
瓦礫の中から、思い出ばたどるように蒸し器の金具ば探し当てていとおしそうに見ていた髪の毛が灰やほこりだらけにしてた若いねえちゃん、みんな悲惨だったよ。
神戸の町ば、2号線さ沿って大阪さむかっでな、住吉あたりさんぐ(行く)とは、ほら、神戸の生協ってば、ほら、有名なよう、灘神戸生協ってよ、あんべすた、この生協はよう、会員のひとたつの犠牲者ばよう、次々と葬らねばなんねがったんだ。ほんで、住吉のえぎまえの生協のメモリアルホールのそばではよう、棺桶の山なんだ。犠牲者が次々とここさ運ばれてきではあ、何段も積み上げられてるんだあ。おら、たまんねぐなってな、単車ばとめて、生協の、汚れまくった人たつんとこさいっでは、おくやみ申す挙げてた。寒さなんざふっ飛んでなあ。生協の人たつも家族が含めて何十人も死んだんだ。
生協のひとたつもよう、もう、そのことばばだすだけで、こみあげてくんだ、涙がぼろりとな、ほんで、「ありがとうございます」ってことばがかえって くるだけだども、あんときはみんなよう、被災状況ば知ってんべ、んだから、気持がわがるんだ。
このホールのそばもよう、ふるい家はみーーんなぺしゃんこさなっでな、軒並みつぶれてんだ。地面さ横たわってる瓦の屋根さ花束がおいてあるんだあ。
神戸でもダウンタウンはよう、古い家がお多ぐてな、家ばなかなか改築でげねひとたつが多かったんだ。下町ほど犠牲者が多かった。学生も一杯死んだ。これさ比べると山手の景色のいい六甲山よりのほうは犠牲が少ねかったんだ。こっつは金持つが多かったんだ。山の斜面さ作った別荘なんざすっかり残ってただ。芦屋の有名なお坊ちゃん大学も何の影響もねがったみたいだ。
おら、正月だってんで、今日本酒ば仕事場さもちこんでよう、エンセンさん、もうすわげねども、酔っ払う寸前なんで、くどくなってんだ。
んだども、この新しいおらの職場で、おらは一人イランの人たちのことば思うと、まんず寒かんべな、とつくずく思うだよ。なんもかんも失ってしまったあとは、寒さがひとしおだ。それさ比べておらのそばには今はファンヒーターが回ってる。
おらが単車で大阪さかようようなってな、寒さでびしびしんなって、手足がしびれまくったことば思い出すと、不思議とイランの生存者の気もちがわかる。会社の連中はテレビ未ながら崩れてゆくビルば未ながら歓声上げてたって言うからなあ。
他人さまから見ればそっだらもんだべな。おらもおんなじことすたかもすんね。
んだどもたまたま被災者だったすい、大阪さ移住すろっては、会社から言われて、「もすもそれば断ったら?」っておらは馬鹿な上司さ聞いたら、混乱すてたんだろうと思うだが、「勝手にすろ」だったよ。
ほれからだよ、おらはドタマさきては、封建的な企業の紐帯ば破って組合ば作ったんだ。今は解雇されっちまったもんでそっだらことどうでもいいけんども、同僚はんあつうってたと思う?
「もう一度こっだら大震災がこねえかな、また燃え尽きることがでけるかも」ってんだ。
おらはこら正直だと思った打。仕事さ熱入れても燃え上がらねえ若者さとって、人助けさ走り回るってことがかれら若い世代の、とてつもなぐエネルギーば注入でげる機会だったんだ。
しばらくはなあ、生き残った人々さ襲う絶望ってな、「生きるも地獄、死ぬも地獄」ってことばなんだ。単なる災難といってもいいんだ。なぜならおらも阪神大震災ば知ってしまった一人とすては、東京の人さはこの苦しみはわがんねんだ。すたども、関東大震災ば経験すた東京の人たつさとってはは、ほら、やっぱすおんなずなんだな。関西の人たつは、あほうでよう、義理堅いとこはあんだども「関西では地震はねえ」なんてたかくくってたんだな。
おらが山形から東京の学校さ引越すたとぎだども、中学校の校長先生がよう、「いばらぎの水戸からも東京の町が燃え続けているのが見えてました」って言ってただ、朝礼でな。40年以上も前の話だども、おら、この校長のことばさ、「他人事」とすか映ってねえな、って、今思うんだな。
すばらぐすてな、テレビ局も、神戸の現地の人たつの苦しさば、青テントの日常生活の紹介なんぞ含めてコメントすてたんだども、おらが一番頭さきたのは、現地のドラム缶で焚き火ばしながらテントの中でえらそうに地元住民の言葉だなんてやってた筑紫哲也の態度だった。ニュース23かなんかすんね。被災者とおんなずだ、っつてもは、ほら、こいつは体験すてねべな、んだから、おらこいつの言うことさ「嘘こけ」って常に思っただ。ほんでおらの恥ずべき経験だども、なぜかNHKの古谷和幸アナウンサーがおるんっだども、な、この人、自分でたまたま神戸さいたもんでな、涙流すて思わず絶句すてたんだども、こらほんてんだった、おらと同じ年配だから、信用でげるってな、本能だったんだども、阪神大震災ってな、それほどに破壊力があっただ。
そのうちよう、東京さいぐだよ、大震災がよう。
おらもうすんね、おらももう生ぎでねべ、そんころはよう、
んだども、関東大震災ではよう、隅田川の水も沸騰すたんダド。
地表が火炎さおおわれて、水の中さ逃げこんでもな、水の中も焦熱地獄だったんだ。
10万人だよ、関東大震災の犠牲者はよう。
おら、ひそかに思うだが、震度7ならまだええだが、震度8や震度9がこねとも限らねべ、高層マンションなんざポキポキだかんね。
芦屋の海沿いさマンション郡があるんだども、そこの36階さ住んでた女性なんざ、六甲の山並みば見て暮らしてたんだども、絶対に見えねえはずの眼下の芦屋の町並みや道路が、揺れの激しさゆえに見えたっつってんだ。
おらの第三の初恋の女性(第二は死んだ。東北弁ば理解すてくれたやさしいプラトニックラブの思い出があるだ)もよう、年ばとってすまってまだ人妻だか未亡人だかすんねども、死んですまうんかなあ。さびしくなるだが、なんもかんもおすまいだ。
戦争の被害もさることながら、一夜にすては、何万人の死んで、町が破壊され尽くされればよう、阪神大震災はそこまでんがねがったども、国は滅びるかもなあ。
何はともあれ、発生すたとぎはな、まず、事態ばはっきりつかむことだ。
備えあれば憂いなすでな、家さつっかえ棒のひとつでもいれたらそれだけで助かるだ。
背の高い家具は天井さ針金一本、紐一本でもええだ、つないでみろ、崩壊すねってば。
茶碗類は常に茶箪笥の中s入れとげ。そんだげでとびちらねえ。
テレビもなんかさつないでおけばなあ、とばねえから。
阿修羅の人たつはPCばなんかさ固定すておく事。そばで寝てればそいつが飛んできてどたまさ当たったらそれで死ぬだよ。
ビルさすんでる人は、いつでも飛び出せるよう、構造が簡単にすておぐこった。西宮の見るなんざ、中から「助けてくれ」って声がすてたんだども、われわれはどうしようもねぐて、「レスキューがくくるまでまってけろよ」といっても、レスキューなんてほかで忙しくてこれねえんだ、そうこうすてるあいだによ、火災でビルは焼けてグ。
地獄だよ。
ああ、おら、こっだらこといいたぐて謹賀新年ば言うつもりではねがっタンだ。
本当は「戦争と人間」と「おもひでぽろぽろ」のことばいいたかったんだども、信念の挨拶さ代えさせていただきます。
ことすもよろすぐ。