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(回答先: 継起点での手紙 [如往さんへ] 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 11 月 16 日 00:37:27)
マルハナバチさん、こんにちは。継起点での御手紙、有り難うございます。また、caranさんの共振(性)を嬉しく受け留めています。
先ず、「神話学的」とはマルハナバチさんご紹介の三木成夫によって誘われた何度目かの生物学的遡行において携えてきたものが色濃く関与していると思い当たります。折りしも素人の手習い事よろしくR・ドーキンスや佐倉統の著作を読み返している時節とも重なりました。個体発生が系統発生を繰り返す過程においてホログラフィックに派生する事象を何と受け留めるかといったテーマは際限なく迷走しかねませんし、同様に歪曲とも紛うほどの強引な帰結や視野狭窄を免れ得ぬ教義には受容しがたいものがあります。
そして、お金も人間が創り出さざるを得なかった供物(呈上に伴なう)の総体の一部を成しているに過ぎないとの見方をとっています。あるいは、より現代的な表現では上部構造による下部構造支配の道具であり、地域性を超越している点ではメディアであると言うことも可能かも知れません。それにしても、上部構造の頭頂部のさらなる上天に一体何があるのでしょうか。
以前、アルファンド氏の降服の告白にたいし、私は内心では早きに過ぎるのではないかと問い掛けていました。何故なら彼ほどの才知ならば呈上までをレンジに措いて、より多くの人々との共振性を生み出すことが可能ではないかと考えたからに外なりません。なるほど降服は個別的事象であり個の済いには資するかも知れませんが、呈上は多くを総べてなされなければならぬものと理解しています。私自身は降服するには甚だ往生際がわるく、呈上するにはそれに充足するほどの天与の才に恵まれてはおりません。
もしやすると、アルファンド氏が希求されるように天皇(制)は日本ばかりではなく、少なくともアジア全域を天蓋に収むるほどに三世を済度する摂理を包蔵しているのかも知れません。しかし、より地球的に三世を済度すべく呈上の極みを見い出そうとするとき、もはや天皇の理では応じきれないものと思量しています。それは可能な限り臆見を排しつつ淵源を探索するならばその力の有限性は自明であり、何よりも敷衍にあたっては人間の力に負わざるを得ないという限界性(宿命)を排除できないからです。
マルハナバチさんの「きわどさ」のご指摘を甘受したいと思います。ご指摘の通り「地球の経営という枠組みで人類の役割を捉え直すか、あるいは全人類の福祉の追求といった視点から地球の経営を構築していくのか。」において、その何れであってもベクトルの尖端に「呈上」があるとの予感めいたものを抱懐していますが、遺憾ながら私は多くの人々を巻き込むに堪え得る水際を過ぎる術も気概にも秀でているわけではありません。しかし私事は他所に、三世を済度する理を求むるのも、済度する存在も、済度される存在も、やはり当事者は地球に営む我々人類であると信じたいと思います。そうした自覚が生まれないならば、地球を糧とし地球を支え来て、今この瞬間もそのようにし、これからもそうしていくだろう、人類を含む全ての生命が済われることにならないと想われるのです。
全人類に脈打つエートスの煌きこそ呈上に値すると信じ、降服は水際を過ぎる瞬間(とき)までは限りなく時期尚早と戒めつつ、凡夫の道行きは今のところ止むことがありません。
友よ 寛大なる者よ
誠実なる者よ 知恵に富める者よ
勝利者よ −フリードリヒ2世(1194〜1250)−
また、お会いしましょう。