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グローバルアイ 15号 03年回顧録/構造改革の名のもとですすめられた官僚支配と小泉首相の指導性の欠如
03年回顧録 構造改革の名のもとですすめられた官僚支配と小泉首相の指導性の欠如
2004年1月14日 更新記事
日本は開国以来、富国強兵から戦後の経済復興、高度経済成長にいたるまで役人に頼ってきた。
戦後、民主主義が"官導"のもとで普及したのは事実だが、それだけに目下、日本中に「官僚主義化」がじわじわと浸透している。
国家公務員試験をパスしただけの連中に国家を牛耳られないようにするには、小泉首相がグランドプランを示すことだ。
官を増長させた小泉の構造改革
03年を振り返ってみてつくづく痛感させられたたのは、政治家の非力と官僚の増長である。
しかもそれが「構造改革」の名のもとでおこなわれたのが皮肉である。
本来、構造改革は、硬直した官導体制の打破でなければならなかったはずだ。
官僚制度による旧態依然たる仕組みを打ち破り、国民の代表である政治家が、国民のパワーを十分にいかせる柔軟なシステムをつくりあげてゆく―――それが構造改革の本旨だろうと思われるからである。
ところが小泉改革は、国民に痛みを我慢しろという一方、官導体制の非効率性には手をつけない、という本末転倒もはなはだしいものだった。
それはそうだろう、小泉改革は、グランドプランをしめさずに案件を無能な大臣や、官僚に丸投げする性格のものだったからである。
国のリーダーが青写真を描くことなく、事情に疎い大臣に案件をおしつければ、あとは官僚に丸め込まれるのは目に見えている。
派閥力学で大臣の椅子に座った素人と、事情を知りつくし、情報を一手に独占する東大出のキャリアでは勝負にならない。
かくして小泉改革はすべてが官僚が牛耳るものとなった。
ということは、国民の意思が政策にいっさい反映されないということだ。
国民はみずから選出した政治家をとおして国政に参加する。
その政治家が無力化すれば、官の独裁体制が完成する。
日本のこの一年の停滞はことごとくこの指揮系統の不全さから生じている。
国交省の石原伸晃大臣が道路公団の藤井総裁と対決させられたとき「いったい何をやればいいんですか?」とたずねたというが、親分が何を考えているかわからなければ子分も腕のふるいようがない。
モノがわからない首相より、十分すぎるほどの事情通の官僚のほうがよほど頼りになるとすれば、大臣も官僚のペースにのってしまう。
かくして官導政治がますます骨がらみになる。
"グランドプラン"を示さない小泉の愚鈍
首相はグランドプランを示すだけでいい。
そのグランドプランがないから素人大臣の暴走がおこる。
竹中金融大臣の「不良債権処理問題」がそれだ。
竹中は、株価が八千円台に低迷していた当時、さかんに不良債権処理問題を口にし、アメリカではメディアに「大きすぎて潰せないということはない」とメガバンクの破綻をちらつかせ、さらに日本金融のIMF管理下構想まで堂々と語ったものである。
当時、日本の金融経済はピンチに立たされた。
わたしもヒヤヒヤしたクチだが、ふり返ってみるとあれは竹中が一人勝ってに死神のカマをふりまわし、それを小泉が追認した危険な独走だった。
最近、竹中が不良債権処理問題を口にしなくなったのは、本HPが何度も指摘してきたとおり、不良債権を減らすにはなにもしないほうが賢明だからである。
経済オンチをさらけだした小泉と竹中
先秋以降、日本経済に明るさが見えはじめ「日銀短観」も景気回復の兆しをみとめた。
株価は一万円台を堅持し、なお上げ含みである。
株価が千円あがると15兆円の資産増になる。
2千円あがると日本経済の資産が30兆円ふえることになるが、それが株安によって生じた担保割れの含み損を補填したため、不良債権は、処理しなくとも減ったのである。
景気循環は、投資や在庫の変動にもとづく長短の周期などいくつかの波があるが、主軸は「十三年周期」である。
わたしは、03年後半以降からの景気回復の兆しが90年のバブル崩壊から13年を経た「景気循環説」による不況脱出の出口ではないかとみている。
するともっと株価はあがるはずである。
地価の下げ止まりも期待できる。
株価や地価が底を打ったとなると、担保評価が上がり、不良債権はさらに減る。
株価が低迷していた当時、直接償却をふくめた不良債権の処理を急いでいれば、減るどころかむしろ増えていたことであろう。
不良債権を放っておいたため徐々に減ってきたのである。
竹中はやっとそのことに気づいて方向転換し、中小企業の資金手当てなどを気にしはじめたが、その半年前、竹中はメディアと一緒になって「不良債権処理を先送りにするから景気が回復しない」と叫んでいたのである。
竹中が愚かだったというより小泉がしかるべき経済ブレーンを揃えて勉強し、きちんとグランドプランを描いていてさえいれば、日本経済を瀬戸際まで追い込んだあの不良債権処理問題も、もっと上手にあしらえたはずだったのだ。
自衛隊のイラク派兵で小泉首相はまがりなりにもグランドプランをしめした。
だから戦後初の自衛隊の"海外派兵"がそれほど困難なく実現した。
石破防衛庁長官も福田官房長官もそれなりに仕事をし、制服組との連携もうまくいっている。
小泉首相がグランドプランをださなかった数ヶ月前、派遣準備について石破・福田長官と制服組の関係がギクシャクしていた。
首相のグランドプランがいかに大事なことかいまさらながら思い知らされる。
景気がわるいのは役人がのさばっているからだ。
政治家がしっかりしたグランドプランを描かなければ役人がのさばるようになる。
するとたちまち政治が乱れてくる。
社会から"人間らしさ"が失われるからである。
人間というものはそれほど上等なものではない。
欲張りな上にわがまま、身勝手なものだが、それでも世の中はなんとかうまくいく。
自分が欲張りでわがままなら他人も同じというわけで、そこにおのずとルールのようなものができあがり、それが社会に、人間的なゆたかさと秩序の両方をもたらすからである。
それが政治である。
政治が人間学とよばれる所以だ。
法でもイデオロギーでも、神話でも宗教でもない、人間が集団で生きるために必要な知や情が練り上げられて政治といういわくいいがたいものになるわけだが、政治が役人の手に移ると、その妙味が消える。
役人は法や制度の番人である。
そんな役人が政治を仕切ったら、世の中は制度だらけになり、人間は疎外される。
マンデビルは「個人の悪徳は社会の利益」といったが、国が制度で個人を押さえつけると、悪徳はなくなるだろうが、社会に不利益がもたらされる。
北朝鮮には悪人が一人もいないという。
金正日の悪口を言っただけで強制収容所で餓死させられるからである。
悪人がいなくとも、北朝鮮はこの世の地獄。
数百万人が飢え死にし、収容所で拷問をうけ、虫けらのように殺されている。
北朝鮮に個人の悪徳はないかもしれんが、国家そのものが極悪なのである。
イデオロギーが悪いのはむろんだが、もっと悪いのが労働党という官僚機構。
旧ソ連も共産党官僚の腐敗によって倒壊した。
八億人もの極貧層をかかえる中国も共産党組織(=役人組織)が国の発展を妨げている。
日本でも、官の力がつよくなると民のパワーが殺がれて景気が悪くなる。
それが、官がのさばりはじめると人間性が疎外されるという意味なのである。
日本は旧ソ連並みに効率の悪い国
社会にもたらされる不利益――それぞれがデフレ不況であり、物騒で不安定な世情だ。
個人の消費意欲の減退が経済を縮小させ、占領憲法や道徳教育を除外された教育基本法、過度な人権主義が犯罪を増殖させ、欧米の十倍といわれる規制が生産や消費、市場を萎縮させ、ニュービジネスの誕生を阻んでいる。
官僚がのさばる国は滅びる。
旧ソ連では共産党幹部(=高級官僚)が中央政府から地方の行政機関までの重要ポストを独占していた。
まるで総理大臣から知事、村長までを役人が独占するようなものだが、これでは国会運営をとうていたちゆかない。
日本も役人の国だ。
霞ヶ関から全国の都道府県、市町村にいたるまで役人が目を光らせている。
これほど官僚機構が発達していながら、日本が旧ソ連のように崩壊しなかったのはなぜか。
それなりに政治の力が強かったからである。
各省庁の大臣や自治体の首長は、大臣の場合は例外もあるが選挙で選ばれる。
これが、日本を旧ソ連のような硬直した官僚国家に陥るのを防いできた。
権力を手にした役人は始末に負えない
ところが竹下以降、自民党の下野をきっかけに政治が弱体化してゆくにしたがって官の力が相対的につよくなり、日本の官導型の政治体制が出現してきた。
官僚はそれまで実務家として政治家の下で秀でた能力を発揮していたのだが、政治家に代わって頻繁に酒席へ顔をだすようになった。
それが官界の竹下といわれた涌井洋治や田谷廣明、一柳良雄、泉井接待に応じた多数の高級官僚である。
日本は、軍人や内務官僚が全権を掌握した戦時体制以外、役人が国の舵をとることはなかった。
日本の社会が活気を失うことがなかったのはそのせいだったのだが、ロッキード事件以降、政治の力が弱まってくると、官僚が政策や利権に口出ししてくるようになった。
かならず"ボス化"する官僚支配体制
権力を手にした役人がやることはきまっている。
官民癒着の系列化と天下りの"受け皿"をつくることである。
官の人脈と特殊法人の巨大利権を合体させた「通産・石油公団」の和田敏信や「大蔵・日銀」の澄田智、道路公団の藤井治芳ように官僚出身者がボス化して裏権力をつくりだすのである。
霞ヶ関を中心に数千の特殊法人が天下りを戴いて数十兆円ものカネを無駄食いしているような国は、世界に例がない。
旧ソ連の共産党官僚の横暴や中国共産党の硬直ぶりもこれほどではなかった。
それでも日本が潰れないのは、日本人が勤勉だからだが、それもそろそろ限界にさしかかっているのではないか。
一番怖いのは――民間の官僚主義化
日本では勤労者の一割近くが役人・準公務員である。
役人には生活苦がなく、社会保障も万全、場合によっては権限も手にはいる。
その役人はひたすら自己利益の原則に則ってうごく。
前例踏襲や手続き主義、保身主義と派閥の親分子分関係、天下りの面倒見など。
そのどれも、我が身かわいさと責任回避の思想で貫かれている。
官僚に権限があたえられているのは社会悪を封じるためだ。
非能率がゆるされるのも、官僚が全体の利益の奉仕者だからだが、最近、民間や政治までが官僚主義化している。
政治や民間がこの官僚主義をもちこんだらどうなるか。
選挙の洗礼をうける政治家も、厳しい市場競争にさらされている民間も、脱落を余儀なくされる。
政治や民間のあいだに官僚化がすすみ、政治運営や企業経営が官僚的な非能率に陥っている原因の一つに天下りがある。
官僚出身者が民間にはいるとさっそく書類いじりをはじめる。
手続きなどを官僚スタイルに変えてしまうのだが、そんな愚劣なものを民間がとりいれたら、民間企業はすべて潰れてしまうだろう。
官庁には、市場競争や自由主義の風土がない。
したがって資本主義の社会で官の力がつよくなると社会から活気が失われる。
一千億円もかけた"親方日の丸"のH2ロケットは飛ばないが、オートバイのホンダは自前でジェット機をつくった。
いまの日本では、政治がマニュフェストなら経営はマニュアルというわけだが、手引きがなければ何もできないのは官僚主義である。
旧聞に属するが、東海村のウラン事故やH2ロケット発射失敗などをみるまでもなく、日本人はマニュアルなしには何もできないロボットになってしまった観がある。
マニュアルまかせにしていると臨機応変な判断力が消え、常識で考えればすぐにわかることがわからなくなる。
これが官僚主義の最大の弊害である。
日本は官の力をおさえ、もっと民の力を育てなければならない。
この年末年始に、つくづく考えたのは、小泉政権が続くのであれば、小泉の構造改革を"民活"へふりむけなければならない、という一点である。
http://homepage3.nifty.com/globaleye/starthp/subpage01.html