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中国は世界経済に地殻変動を起こすのか
http://www.diplo.jp/articles03/0310.html
フィリップ・S・ゴラブ特派員(Philip S. Golub)
パリ第八大学教員、ジャーナリスト
訳・北浦春香、斎藤かぐみ
2003年の7月中旬、米国では中国に対する非難の声が高まっていた。米国の貿易赤字累積、失業率上昇、繊維産業やエレクトロニクス産業の空洞化の元凶は中国にあるというのだ。同月18日のこと、「わが国の製造業の息の根がとめられてしまう」と、チャールズ・シューマー上院議員が声をはりあげた。「人民元が人為的に低く抑えられているせいで、安い外国製品がなだれこんでくる。わが国の企業にはとても太刀打ちできない」。エリザベス・ドール上院議員も言い立てる。さらに、「中国は貿易合意を遵守していない。
(・・・)財務省はこの問題について調査し、わが国の産業を害する人民元安を中国に許さないよう、必要な措置を講じるべきだ」と、リンゼー・グラハム上院議員がたたみかけた (1)。
彼らの主張の後ろ盾となったのが、その前日に連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長が議会で行った証言だ。中国をはじめとする東アジア諸国の通貨は過少評価されており、これらの国々が外貨準備を無際限に膨らませるようなことがあってはならないという主張だった(2)。
これに勢いを得た上院議員たちは、中国政府に対して為替相場管理を廃止し、現在1ドル=8.3元に固定された人民元レートを変動させるよう、財務省が圧力をかけることを公式に要請した。こうした国粋主義的な舌鋒は8月に入ってやや落ちついたが、9月初旬になってアジア歴訪中のスノー財務長官が中国に対し「通貨価値は市場の決定に任せる」よう求めたことで、ふたたび勢いを取り戻した。北朝鮮やアジア地域安全保障がらみで中国の助けを切実に必要とする政府にしては、また随分と奇妙な態度ではないか。
しかし、米国の中国たたきは今後数カ月、数年にわたって続くと考えざるを得ない。米国は貿易赤字の増大に対処する必要に迫られ、中国は世界経済の貴重な成長株として東アジア地域経済統合の牽引役となっていくだろうからだ。実際には、米国のアジアたたきの原因は、移り変わりの激しい国内政治状況を反映して、攻撃的な通商政策への揺り戻しがあったというだけではない。そこには、世界経済の力関係に地核変動が起きつつあり、今後は東アジア、より正確には中国が優位に立つのではないかという積年の不安が潜んでいる。
躍進する「猛虎」や「昇竜」の経済に対する米国のどっちつかずの姿勢は、既に1980年代から現れていた。「アジアの奇跡」がはやし立てられる一方で、アジア諸国の重商主義や脅威的な競争力に対して警鐘が鳴らされていた。米国は第一次世界大戦以来初めて債務国となり、財政と対外収支の双子の赤字に直面していた。当時は日本と東アジアの新興工業経済諸国(NIES)が、今日の中国と同じく、欧米の繊維産業の空洞化を招いていると非難されていた。これらの国々には、通貨を切り上げ、米国の貿易や投資に対して国内経済や金融システムを開放せよと、大きな圧力がかけられた。
1985年、レーガン政権はいわゆるプラザ合意により、対ドル円レートの50%切り上げを目論んだ。構造的に米国に依存し、選択の余地のない同盟諸国に押しつけられたこの合意は、米国の輸出を自動的に拡大し、日本産業の競争力をそぐことになるはずだった。ところが、この政策は予想外の結果を生んだ。円高のもと、日本は瞬く間に世界一の債権国になったのだ。日本企業が付加価値の低い輸出産業は東南アジアに移したことで、アジアの経済統合も進んだ。これらの企業が生産体制を見直した結果、東アジアに日本を中心とする新たな分業が急速に確立されたのだ。
50年代から70年代にかけては、この地域の政治経済は環太平洋貿易を軸に形成されていた。その特徴は、北東アジア諸国の構造的な対米依存(単一市場依存)にあった。メレディス・ウー・カミングズの表現を借りれば、東アジアは「米国の湖」であり、米国は日本が輸出を通じて再工業化することに道を開いたのだ(3)。これらの国々が統制経済をとる開発型国家となることも容認された。それどころか、ソ連や中国を取り囲む地域で、日本や韓国や台湾が安全と繁栄の砦となるという了解のもと、奨励さえされた。
これらの国々は、自国の主権と引き換えに、米国市場へ無制限にアクセスすることができた。80年代半ばに至るまで、米国は日本の輸出の3分の1以上、韓国の40%、台湾の44%を受け入れていた。米国政府はこのように構造的な依存状態にある同盟諸国に対し、非常に強大な政治的影響力を及ぼすことができた。ところがプラザ合意以降、日本は東アジア諸国を中心に、貿易相手国や投資先を分散させるようになった。90年代初頭には、日本の輸出先に占める米国の割合は27%にまで減少した。この間にアジア域内貿易は32%から44%へと12ポイント上昇した。そこには、日系企業が地域内分業で重みを増したことが反映されている(4)。域内貿易は94年にはアジア諸国の貿易全体の48.5%を占めるまでになり、翌年には50%を突破した。
奇跡か、それとも幻か
米国はこうした結果を望んだわけでも、予想したわけでもない。冷戦時代には、日本とそれに続くNIESは「うまくやるように、ただし自分たちを脅かさない程度に、と欧米諸国から促されていた」(5)。世界経済の覇権を握ろうなんて、もってのほかということだ。それが冷戦後の世界では、アジアの開発型国家は戦略上の意義を失っただけでなく、米国と欧州の目に脅威と映るようになった。米国政府は躍進する地域経済ブロックの出現という妄想にさいなまれるようになった。
1989年、後にクリントン政権で財務長官となるローレンス・サマーズは、この問題を次のように言い表した。「日本を頂点としたアジア経済ブロックが明らかに形成されつつある。これらの事実は、アメリカにとってソ連よりも日本の方が脅威であるという半分以上のアメリカ人の認識が正しいという可能性を高めている(6)」。翌年に東京で金融と不動産のバブルが弾け、日本が長い不況の時代に入ると、そういうわけで安堵のため息が聞こえるようになった。ある米国人の横柄な言葉を借りるなら、アジアの危機により「『日本の経済モデル』は、(・・・)異なる種類の資本主義ではない。むしろ初期段階の資本主義の名残である」ことが示されたというわけだ(7)。
むろん、この危機が何ごとかを証明したわけではない。しかし、こう考えることで自律的なアジア経済ブロックという妄想が遠のき、西洋の没落を危惧していた人々は安堵した。その数年後、97年から98年にかけてアジアを襲った深刻な経済危機は、西洋が唯一無二の優越的な存在であること(逆に言えば東洋が経済的に幼稚な状態にあること)の証拠として受け止められた。チャルマーズ・ジョンソンが述べているように、アジアの社会と経済が奈落の淵でよろめいているのを見て「アメリカの多くの有識者やエコノミストが、この危機を公然と歓迎した」のである(8)。今日では戦争と帝国に血道をあげていることで有名な新保守主義の三流評論家、チャールズ・クラウサマーが当時こんなことを書いている。「わが国の成功は、アメリカ型資本主義の成功を意味する。アメリカ型資本主義はアダム・スミスの主 張した自由市場に他のどの国よりも――当然ながらアジアの恩情主義的、縁故主義的な資本主義よりも――近い。バブルの崩壊以前は、アメリカのシステムを批判する者にとってこうしたアジア型資本主義が非常に魅力的に映っていたものだが」(9)
同様の意見を持つ者は学者の中にもいて、「金融危機は、(・・・)東アジア・モデル、あるいは日本型経済成長モデルの信頼性を淘汰した」などと述べている(10)。グリーンスパン議長まで一緒になって、アジア危機を引き起こしたのは開発型国家、つまり国家の主導する工業化であり、市場ではなく政府による資源分配だと述べている。彼によればアジア危機は、世界が統制経済に見切りを付け、「自由市場資本主義という西洋モデル(11)」へ向かったことを意味するものだ。一言で言えば、アジアの「奇跡」は一夜にして「幻」と化したということだ。
こうした議論から読み取るべきポイントは、近代資本主義の「後発国」が分相応の位置に舞い戻ったということだ。米国でもアジアでも、この危機は東洋と西洋の衝突として、世界経済の勢力図にとっての決定的瞬間として捉えられた。97年から98年に米国が実施した危機管理の中身は、次のような見方を裏付けた。危機の対策および事後処理として、米国政府と国際通貨基金(IMF)が推進した現地金融市場の強引な自由化は、支配力を及ぼすための道具であり、さらに広くは「世界中で開発型国家式の政策を解体(12)」する試みの一環だという見方である。
94年のメキシコ危機の際には、米財務省が迅速な資金援助を断行したが、97年に東アジア全体に危機が及ぼうとしていた時期には、米国もアジア諸国も数カ月にわたって手をこまねいていた。IMFによる大規模な資金援助策が講じられたのは、事の重大さに人々が気付いてからのことだった。危機の連鎖的な広がりはもはや手の付けようがなくなっており、世界市場に及ぼうとしていた。さらに強烈な事実がある。米財務省は97年末、アジア通貨基金(AMF)を創設するという日本の提案に対し、拒否権を行使したのだ。これがあれば、国外への大量の資金流出に直面していた国々に対し、必要な流動性のかなりを供給することができたはずだった。
この構想は「当時のサマーズ米財務長官によって直ちにつぶされ」、それが「アメリカはアジア諸国経済の多くを見殺しにし、ともすれば、アジアの苦しみから利益を得ようとしているのではないか」という見方を東アジアの中で強めてしまった(13)。米国政府にとって問題だったのは、AMFが自律的な地域金融システムの核となり、欧米の世界覇権の道具であるIMFの好敵手になりかねないところだった。だからこそ、IMFを介入させ、お決まりの過 酷な構造改革という処方箋で臨ませたわけである。目的は債権者を救済し、保護されていた経済部門を開放させ、内需を抑え込むことだった。
アジア経済危機が、現地の戦略的に重要な保護産業に手を出す機会として捉えられたことに疑いの余地はない。モルガン・スタンレーのダニエル・リャンが米国の政策を批判的に分析して述べたように、欧米は「(東アジアが)外需に依存し、外資系の生産手段に依存する状態」を維持することに利益を見出しているだけでなく、「地域諸国の国内経済の掌握」も望んでいるのだ(14)。
アジア経済統合の流れ
円の切り上げの時と同様、この政策は狙いとは正反対の結果を招き、まったくの失敗に終わった。
第一に、関係諸国では、非常に激しい国粋主義的な反発が起きた。そのため、国内産業が叩き売りされるようなことは起こらなかった。それどころか、インドネシアのような若干の例外を除けば、危機に見舞われた国々の大半は、民間企業の債務を国が肩代わりしたり、公共部門の民営化を阻止することにより、戦略的に重要な部門を手元にとどめることに成功した。
第二に、この政策に刺激されて、地域内の通貨協力が進んだ。2000年、アジア諸国はチェンマイ・イニシアティブを打ち出した。非公式のAMFのような仕組みを作り、地域内で外貨を融通し合うことを目指している。2003年には、一部の国々によってアジア・ボンドが創設された。これは、地域に積み上げられた莫大な外貨準備を生産的な用途に振り向けるための共同の資金流通手段として構想されたものだ(15)。
第三に、まったく皮肉なことだが、米国は日本による地域統合の動きを妨害することで、巧まずして中国の戦略的立場を強めてしまった。これまで日本政府が牽引してきた地域経済統合の流れは、今日では中国政府の主導下にある。
為替管理のおかげで危機の直撃を免れた中国は、1990年代末より地域統合の牽引役となってきた。そこには、日本の失速と中国経済の躍進が反映されている。2002年に7.8%を記録した中国の経済成長率は、SARS(重度急性呼吸器症候群)の流行にもかかわらず、2003年には8%から9%に達すると予想されている。国際的な直接投資の受入額は、2002年には 527億ドルと世界最大になった。こうした状況には、今後数十年にわたって東アジアの中核となろうという地政学的見地からの意気込みも見て取れる。
中国政府は2001年に、東南アジアや北東アジアとの地域自由貿易圏を2010年までに確立する構想を打ち上げた。世界貿易は低迷しているが、中国と他のアジア諸国の間の貿易や投資は大きく伸びている。東南アジア諸国連合(ASEAN)の対中貿易黒字は2003年第一四半期には55%増え、全700億ドル中200億ドルを占めるまでになった。ASEAN地域の対中貿易は、対米貿易に比べて急速に伸びているのだ。日本でも、中国からの輸入が既に米国からの輸入を抜き、対中輸出はコンスタントに増えている。同様の傾向は、中国と韓国、タイ、マレーシアやシンガポールとの二国間貿易にも認められる(16)。
このような流れは、中国を中心とした地域経済の構築が始まりつつあることを意味している。中国政府はそうした展望に多くの利益を見出している。米国市場への依存が減れば、外国からの圧力や衝撃にやられにくくなり、他のアジア諸国との相互依存ネットワークが確立されれば、米国との間の緩衝地帯の役割を果たしてくれるようになる。
こうした展開の影響は、他のアジア諸国にとっては明白でない。地域内で突出した先進国の日本は、日系企業が対中投資を拡大しているにもかかわらず、中国と地域の盟主の座を争っている。両者の競争は、現在の戦略的な依存先(米国)を別の相手(中国)に替えようなどとはまったく考えていない東南アジア諸国には、おそらく好都合に働くだろう。しかも、東南アジアの途上国の生産体制、それにエレクトロニクスや繊維のように付加価値の低い分野への特化を考えれば、中国は手強い競争相手となっている。
日本の地域主義は、東南アジアを根本的に変えることなく、表面的な工業化を生み出しただけだった。発展度の高い国々(日本、韓国、台湾、シンガポール)と低い国々(マレーシア、タイ、インドネシア、ヴェトナム)の間に大きな開きがあり、地域内にライバル意識がある以上、アジアの一体的な地域システムが近いうちに確立されることはないだろう。とはいえ、長期的な趨勢はこの方向に向かっている。こうした構造変化は、米国が経済覇権国となった経緯に多くの点でよく似ている。その流れは、1930年代の不況によって中断されたものの、とどまることはなかった。現在の人民元たたきが示唆するように、西洋はこの事実を素直に受け止めるようになる前に、コペルニクス的転回をくぐり抜けなければならないだろう。
(1) << Senators urge Treasury to take action to get China to float its currency >>,
http://schumer.senate.gov
(2) << Fed's calls for yuan float grow louder >>, International Herald Tribune, Paris, 17 July 2003.
(3) Meredith Woo-Cumings, << East Asia's American Problem >> in Past as prelude, Westview Press, Boulder, Colorado, 1993.
(4) クロード・ポティエ『多国籍企業、そして競い合わされる給与所得者たち』(ラルマッタン社、パリ、2003年)参照。
(5) Giovanni Arrighi, The Long Twentieth Century, Verso, London, 1994, p.353.
(6) リチャード・カッツ『腐りゆく日本というシステム』(鈴木明彦訳、東洋経済新報社、1999年)より。同様の見解は欧州でも示された。クレソン仏首相は1991年に、遺憾ながら大きな物議をかもす発言をしている。日本は「固く閉ざされたシステム」であり、欧州と世界の「征服を望んでいる」と述べたのだ。
(7) 前掲書。
(8) チャルマーズ・ジョンソン『 アメリカ帝国への報復』(鈴木主税訳、集英社、2000年)。
(9) 前掲書による。
(10) ドナルド・K・エマーソン「アジア経済モデルは淘汰されたのか」(『フォーリン・アフェアーズ』日本語版1998年6月号、『論座』同年6月号)。フィリップ・S・ゴラブ「欧米型経済の曲がり角の島国」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年4月号)も参照。
(11) Alan Greenspan, << The ascendance of market capitalism >>, speech at the Annual Convention of the American Society of Newspaper Editors, Washington, 2 April 1998.
(12) Immanuel Wallerstein, << America and the World : The Twin Towers as Metaphor >>, Charles R. Lawrence II Memorial Lecture, Brooklyn College, New York, 5 december 2001.
(13) バーナード・K・ゴードン「自由貿易構想という危険な妄想」(『フォーリン・アフェアーズ』日本語版2003年9月号、『論座』同年10月号)。
(14) Daniel Lian, << Mr. Thaksin's role in the East-West Dichotomy >>, Morgan Stanley Economic Trends Reports, New York, 25 July 2003.
(15) 日本と中国は合わせて9000億ドルの外貨準備を主に米国債の形で保有する(それぞれ5600億ドルと3400億ドル)。これに他の東アジア諸国の外貨準備高を加えれば、総額は1兆ドルを超える。言い換えれば、東アジアの資金がアメリカの債務と消費を支えているということだ。
(16) バーナード・K・ゴードン、前掲論文。
(2003年10月号)