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「492」現下の総選挙。福澤諭吉の文章がいい。バード論文「消費性向とデフレ」を賞揚する。2003・11・4
副島隆彦です。 今日は、2003年11月4日です。
私は、現在、さる政治家(候補者)の選挙事務所のそばのビジネス・ホテルに泊まっています。外は小雨です。
ここの小型ホテルには、意外にもインターネット環境が極めてよくそろっていて、今は朝の4時ですが、こうして、私は自宅や大学の研究室PC以外から、「学問道場」にネットを通して直接アクセスして「今日のぼやき」に文を載せることが出来ます。
ようやくここまで時代が進んできました。
地方都市(県庁所在地)の駅前大型ホテルでさえ、まだここまでのネット環境は出来ていません。私が、モバイル型のPC(まだ、持っていません)を持参せずに旅先からネットに文章を書こうとして、ホテルのコンシェルジェ(案内係)に、「ビジネス・ルームがあろだろうから、そこからネットに書き込みたいのですが、どこにありますか」と聞いても、そのビジネス・ルームさえがない。客用のネット専用の端末と設備を揃(そろ)えていないのだ。仕方が無いので、FAXで出版社への用事を済ますことになる。そうすると、FAXを一枚送るだけで、300円も取る。ホテルはサーヴイス産業だから大きな人件費を抱えているので、欧米の真似をしてそういうことをする。
私は、目下の衆議院選挙(総選挙とも言う)の選挙運動の応援演説の為に、全国各地の政治家(候補者)のところを点々と回っている。私が応援演説をしにゆくのは、あくまで私、副島隆彦の本を読んでくれて、それで私の考えに理解を示してくれる政治家たちのところである。だから、所属政党を問わない。自民党か、自由党か、民主党か、保守新党かを問わない。だから、行った先で、演説の内容が微妙に異なる。
私は以下のような演説を調子を変えながらする。
「小泉首相は、”首狩り族”です。 高齢の長老政治家たちの首を自ら、狩りにゆく。
野中広務さんも引退した。宮沢喜一元首相も、中曽根康弘元首相も『首を取られて』無念の涙を流している。私は、小泉さんと言う人は、なかなか凄い人だと思います。
普通だったら、こういう蛮勇は振るえない。自分よりも20歳も年上の、長年、同じ政治の世界で世話になったり、喧嘩したりしながら生きてきて、”代表権(は無くなったが)名誉会長”のような年長者に向かって、『そろそろ引退なさったらいかがですか』と言いに行くのは、なかなか大変なことです。普通の大企業の雇われ社長では、こういうことは絶対に出来ない。小泉さんは、それをやる。だから、小泉人気が続いている。
(どうやら、今度の選挙は、3党連立政権の方の勝ちの様だ。これは、民主党の候補者のところでは言わない。民主党は、善戦しても、以前の138議席を、170議席ぐらいに増やすだけだろう。160議席台だろう。祝儀金ではなかった衆議院の定数は、480議席だから、過半数は240議席だ。だからとても政権交替、二大政党制への移行へは、今度の選挙では直接結びつかない。自民党の圧勝だろう。・・・・だが、あと4年すると、政権交替するだろう。
このことも、確実なことのように、私には思われる。もう、自民党の時代は終わる。国民に見捨てられている。まだ余力のある企業経営者層と金持ち層の国民だけが、『しがみつくように』に自民党マシーンに頼っている。自民党は、耐用年数(減価償却、デプリシエーション)を過ぎつつある。
やがて分裂して、今の若手の自民党の政治家たちが二つに割れて、そして、「改革派」の政治家たちが、政権を取る時代がやがてくる。そのときまでに、あと最低、2回は選挙をしなければならない。あと2回で参議院で多数を取るか、参議院自体を廃止、縮小してしまうほどの強烈な内部改革案が出てこなければ済まない。
11年前(自民党大分裂。 1993年の小沢動乱、小沢革命ともいう。細川8党連立政権)の戦略的な失敗は、参議院で少数派のまま日本改革を断行しようとしたことだ。参議院を、自民党竹下派に握られていたので、改革法律をどんどん通すことが出来なかった。
・・・・ということで、私の演説の内容を続けますと、
「このように小泉首相は、凄い人だ。ややアメリカのブッシュ大統領にべったりで、言いなりで、(この世界権力の力を借りて、虎の威を着て)日本国内の政治をやっている気配がしますが。これは、テレビでやっている、6党首討論でも、『アメリカの言いなり」論という形で、すこし噴き出しました。
それでも、小泉さんの『私が、自民党をぶっ壊してやる』とか、『自民党の解党的(「解凍」ともわざと使う。電子レンジ electronic oven ではあるまいし。) 出直し』というポスターを使っていました。
ですから、小泉さんに、自民党をぶっ壊して貰(もら)いましょう。おそらく、小泉さんという人は、徳川幕府の最後の将軍、徳川(一ツ橋)慶喜(ケイキ)さん。徳川慶喜(とくががわよしのぶ)将軍のような役回りの人ではないか、と私は思います。
小泉さんは、どうも、ご自分の政治家としての名前を、後世に残すことを考えている人だ。私には、そのように思えます。当の自民党総裁が、自民党をぶっ壊す、と言っているのですから」
・・・小泉たちは、今、国内実権を握った、森喜朗(もりよしろう)元首相の勢力と、闘っている。この亀裂が、一気に、政治家たちの内部で広がっている。野中撃滅、中曽根引退のあとの、次の政治分裂線と、拮抗点(きっこうてん)は、ここである。
どす黒い動きをする森喜朗たち、北朝鮮の覚せい剤ルートや、アジア闇社会( 英語で、Triad トライアッドと言う ) や、ロシア・マフィア勢力とも付き合うこの、残された最後の旧勢力が、何とか駆逐されなけばならない。これ以上は、危ないので「会員専用ページ」でしか私は書かない。
・・・・こういうことを、私、副島隆彦は今、やって回っています。
商店街のはずれや、駅前や、大型郊外スーパー・マーケットの駐車場のその先の交差点から、ほとんど、誰も聞いてくれる人が居ないところから、選挙カー(街宣車とも言う)の上から、候補者と共に演説をする。自民党の現職の政治家でも、10人から20人ぐらいの人が、老人層を中心にして、ぱらぱらと集まってくる程度だ。
それほどに、日本の政治は死に絶えている。
政治家のまわりに人が集まらない。
日本の国民政治は、ほぼ、ゼロ・ベースまで、死滅している。国民は、政治(選挙)に近寄らない。これが、日本国最大の危機なのです。自分たちの代表 representative リプレゼンタティヴ、指導者、リーダー、決定権限者、「代議制民主政体 democracy に基づいて、権力 power を握らせた人々」である政治家たちを、こんなにも嫌う国民に、日本人は成り果てた。
今が、政治株式のゼロ円(額面の50円さえしない)の時だ。だから、私は、その株式を買いに回る。私は、そういう人間だ。私は、そんじょそこらの、金融相場師や、株式予想屋程度の馬鹿たちとは違う。何を今、どん底値で買うべきか、を知っている人間だ。
私の決意の深さを知っている人々だけが、真にこの「学問道場」の会員たちである。
私の本を何冊かでも読んでくれて、そして私に声をかけてくれる政治家たちが、すでに60人ぐらいいる。さすがに大臣クラスの政治家たちの選挙区には、たとえ私の考えの理解者であっても、私のほうからは近づかない。既にその株式は高いし、そういう政治家たちの周りには、びっしりと家来たちがついている。
私は、今後、伸びそうな若い政治家たちのところに進んで行く。今回は、負け(落選)でも、次回、それは案外、2年以内だろう、には勝つだろう、根性のある、国道の四辻に立って、誰も聞いていないところで、遠くの車の列に向かって演説をずっと出来るような、根性のある政治家たちのところに行く。
街頭に立つことが、政治家のあるべき姿だ。街頭で、辻説法ができなければ、政治家にしてはならない。どんなにこの事が、みじめなことであるとしても、これをずっと出来ないような人間を政治家にしてはならない。
だから、私は、安倍晋三(あべしんぞう)のような、ボンボンの、二世議員の、サラブレッドの、貴公子の、「ボクちゃんはそんなことは知らないよ」みたいな人間は嫌いだ。街頭に立たずに、企業動員で聴衆を集められた、ホテルの会場でだけ、「御輿(みこし)に担がれて」ようやく演説が出来るようなボンボンや、官僚上がりを政治家にする時代を早晩、終わらせなければならないのである。
さて、このあとは、私は、ここに、私たちの研究員で大阪に住む庄司君が、ここの「ふじむら掲示板」に以前9月に、載せてくれた、福澤諭吉(ふくざわゆきち)の『学問のすすめ』の冒頭の部分を、以下に転載します。今、読み返しても、やはり、福澤諭吉の文章と思想は、すばらしい。私は、彼をお手本として、「学問道場」を営んでいます。今の、慶応( 義塾、と慶応大の人たちは必ずくっつける)大学には、福澤の遺志をきちんと継ぐような人物はひとりもいない。全員、低脳の馬鹿学者だ。
あ、そうだ。その前に、ここの総合掲示板である、「重たい掲示板」に載っている
最新文章である、バード(2262)君の論文がすばらしい。
彼は、文句なしに、優れた知識と学識をしている人です。
それは、以前、彼が、私、副島隆彦と大阪の奥田研究員が示した「レイシオ論文」に対して、極めて高度な理解と共感を示してくれたことに現れている。
奥田君が、マックス・ウエーバーの大著『プロテスタンティズムと近代資本主義の精神』を細かく調べなおして、「レイシオの思想」が資本主義を作ったのであって、けっして、北ドイツ、北フランス、オランダ、イギリスのプロテスタント(ピューリタン)たちが、近代し資本主義を作ったのではない。本当は、当時の東方貿易の船主たち、企業経営者層の、ユダヤ人大商人たちが、冷酷で厳格なレイシオ ratio の実践思想で、近代資本主主義を作ったのだ、と奥田くんが論証(論理証明)した。
あの奥田業績は、私たちのこの学問道場の業績のひとつです。
プロテスタントたちが、金銭崇拝、商業利潤の肯定をするはずかない。プロテスタントたちは、黒詰めの服を着て、女性は肌をあらわに出来ない、今のイスラムの女性たちのチャドルのような服を着ていた人々だ。このピューリタンたちが、商業利潤獲得や、金銭利得崇拝をするはずが無かった。新約聖書の記述(教え)に忠実に、ピューリタンたちは、ユダヤ商人たちに守銭奴、高利貸し、金銭崇拝を非度く嫌い、蔑んだはずなのです。
だから、プロテスタントが近代資本主義の精神を作ったのだのだ、とするマックス・ウエーバーを、奥田君が細かく調べて、この事実を解明した。ウエーバーが、苦し紛れに、自分の所属した北ドイツ・プロテスタントの西欧文明を賞揚したい余りに、大きな点で、近代学問(サイエンス)を意識的にゆがめたことを、奥田論文は暴いた。
そして、バード君は、そのことを、鋭く見抜いて、共感した。私は、このような優れた弟子たちを次第次第に、私の周りに集めることが出来て嬉しく思う。凡百(ぼんびゃく)の低脳たちで、私たちの学問道場を、内心おびえながら、密かに猿真似(剽窃、盗用)したり、腐(くさ)すことしか出来ないような、者たちとは、土台、頭の出来が違うのです。
ですかた、ここの重掲 (気軽ではなくて重たい気分で書く掲示板) の以下の最新の文章、バード論文「消費性向とデフレ」を、みんな、しっかり読んで、勉強してください。
[3286]消費性向とデフレ 投稿者:バード(2262)投稿日:2003/11/03(Mon) 20:00:17
副島隆彦です。この論文では、以下の点が結論となります。
(転載貼り付け始め)
・・・・ただ現在はデフレである。だから、「貧乏人」の可処分所得を増やさなければならないのだ。
私たちは少なくとも当面は、所得格差を、すなわち貧富の格差を、それ自体は必要だと認めるべきだろう。やはり金持ちと貧乏人がともに住める社会が最も快適な社会でないだろうか。開明的な金持ちが時代の先端を少し先に歩み、貧乏人(普通の者)がその少し後から少しずつ追いつく、という光景になる。
しかし現在はデフレだから、現在の「貧乏人」の可処分所得が低すぎるのだ。ということは、貧富の差が大きいということである。だから金持ちの所得が大きいので、それに対して増税をして、何とか「貧乏人」の所得に回るようにして、貧富の差を縮め、「貧乏人」の可処分所得を増やすときなのである。
増税分を健康保険料など社会保険料に補填してそれらの保険料を下げるということで、「貧乏人」の可処分所得を増やすことができるかもしれない。様子を見ながら、デフレがなくなるまで、貧富の差を縮めるのである。もしデフレが克服され、インフレのようなデフレ以外の症状がでれば、貧富の差を縮めすぎたとして、今度は貧富の差を少し広げてみるべきなのである。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。このバード君の現下の経済政策への理解は、ほぼ完璧であり、そこらのアホの官庁エコノミストたちの水準をはるかに凌(しの)いでいる。
まさに、副島隆彦が、現在、政権の一角にある優れた政治家たちと考えを同じくするのは、この考えです。まさしく、
「増税分を健康保険料など社会保険料に補填して、それらの保険料を下げるということで、「貧乏人」の可処分所得を増やす・・・・」
という政策だけが、現在、唯一正しい政策です。これはケインズ経済政策学の真髄でもある。このことが分からないような人間は、インテリでもなければ、知識人階級の人間でも無い。恥を知れの一点である。
だから、小泉首相のアメリカ・ブッシュ追随、一点張りを諌(いさ)めて、「低所得者層への所得再分配する、政策介入」をしなければいけなのです。
アメリカのグローバリストたちの手先に成り下がる程度の、「拉致問題にだけ焦点を会わせれば自分の勝ちだ」と思っているアホの「拉致議連」系の(主観だけは、日本愛国派)の、思考力の無い政治家たちの尻を思いっきり蹴飛ばして、覚醒させ無ければならない。
「小泉首相。不良債権をばっさり斬ることと、債務超過の企業を潰すことと、アメリカに日本の企業を乗っ取らせれば、それが、日本の景気回復になるというのは、間違っている」と諌(いさ)めることの出来る、政治家と官僚たちがまだ、残っていることが救いだ。
バード論文は、最後の方で、以下のように書いている。
(転載貼り付け始め)
6.アメリカは貧富の差が拡大している
アメリカは貧富の差が拡大しているという。アメリカ経済は危険だという。すなわち、「貧乏人(国民の6〜7割)」の所得が下がっているということだろう。減税という大盤振る舞いによって、「貧乏人」の可処分所得の減少をくい止めたかもしれないが、それが限界に来て「貧乏人」の可処分所得が減少したとき、デフレになっていくであろう。これまで、日本とサウジアラビアのおカネを使って(たぶん騙し取って)この不自然な「減税という大盤振る舞い」が可能だったらしい。
かつてアメリカは、自由市場経済を守るために、独占禁止法(アメリカでは反トラスト法というそうだ)という法律を作った歴史を持つ。しかしこの法律は実際には余り機能しなかったようである。したがって、現在も自由市場経済を守るための動きは乏(とぼ)しく、アメリカの主流経済学もそのことを忘れてしまっているのではなかろうか。
『ハリウッドで政治思想を読む』から引用する。
「 時代はちょうど1929年に始まった大恐慌の最中である。このとき、ヒューイ・ロングは、ルイジアナ州選出の上院議員となってワシントンの連邦議会に乗り込み、フランクリン・ルーズベルト(ローズベルトと発声する人もいる)大統領と激しく争った。
『大金持ちに課税せよ。失業者たちに職を与えよ』と議会でわめいた。ヒューイ・ロングの国民的人気はいよいよ高まった。これ以上高まると、もはや『生かしておけない』というところまできた。事実、この後ロングは1935年に殺された。」
( 副島隆彦著 『ハリウッドで政治思想を読む』メディアワークス2000年8月171ページ)
大恐慌(激しいデフレ)の時代、「大金持ちに課税せよ。失業者たちに職を与えよ」というヒューイ・ロングの主張は正しかった。しかし凶暴な支配層に抹殺されてしまったという。考えてみれば、アメリカの貧富の差の拡大は、このころから一貫して続いているのかもしれない。
7.小泉構造改革は「貧乏人」の可処分所得を削減し放置している
小泉構造改革は、
@日本型のシステムは限界となったのでそれを破壊し、アメリカ型システム(の良いところを)を導入する。
A財政赤字を縮小し、財政を建て直すこと。
を行っていると思われる。
小泉首相もそうだが、否、小泉首相がそうだからこそ、アメリカ信奉者が集まって推進している。彼らはアメリカは世界一成功した国であると思い込んでいるので、また憧れの国であるので、その成功の秘密(制度)を取り入れようとしているのだろう。(昔の日本の知識人は中国に憧れ、その文化を取り入れようとしていた。憧れの対象が中国がアメリカに変わっただけで、その生態は酷似しているのではないだろうか。)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。以上のように、バード論文は、本当に優れている。
私たちは、このような優れた知性を、この学問道場で次々に、示さなければいけません。
アメリカの政治家、ヒューイ・ロングこそは、私の鏡となる政治家です、と私は、これまでにも、再三書いてきた。このことを分かってくてる弟子たちが、優秀なものたちから順番に増えてゆくことが、何よりも嬉しいことです。
それでは、最後に、庄司研究員が、復刻した、福澤諭吉の文章を載せます。
これもすばらしい。
私たちのサイトの各掲示板には、たくさんの優れた文章が載ります。私は、それらをきちんと鑑定し評価していますので、みんな安心して書き込んでください。
それが出来なければ、学問道場の道場主など堂々と名乗れない。
(転載貼り付け始め)
[4041] 福沢諭吉・著『学問のすゝめ』(岩波文庫)より。 投稿者:庄司 誠 投稿日:2003/09/28(Sun) 22:49:25
小山みつねさん、私のリクエストに応えて「珈琲ブレイク」の絵文字をふたつ投稿して下さってありがとうございます。これからもどんどんやってください(笑)。
では小山さんも来てくれたことだし、ここに改めて日本の元祖リバータリアンともいうべき福沢諭吉先生が、学問というものをどのように考えていたかを紹介しましょう。あまりにも有名な名著『学問のすゝめ』の「初編」からです。
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「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人(げにん)もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。「実語教」に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由(よ)って出来(いでく)るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役(りきえき)はやすし。故に、医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、夥多(あまた)の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。
身分重くして貴ければ自(おの)ずからその家も富んで、下々(しもじも)の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺(ことわざ)に云(いわ)く、「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」と。
されば前(ぜん)にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。
古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀(まれ)なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精(しゅっしょう)するを見て、やがて身代(しんだい)を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
されば今かかる実なき学問は先(ま)ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬(たと)えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合(ちょうあい)の仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論(もちろん)世界万国の風土道案内なり。
究理学(今の、物理学、副島隆彦記)とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉(ことごと)くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商おのおのその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。
学問するには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれ附(つき)は、繋(つな)がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我侭放蕩(わがままほうとう)に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我侭との界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令(たと)い酒色に耽(ふけ)り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。
また自由独立の事は、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。我日本はアジヤ洲の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず独(ひと)り自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永(かえい)年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始まり今日の有様に及びしことにて、開港の後も色々と議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところ甚だ狭く、諺にいう井の底の蛙(かわず)にて、その議論取るに足らず。
日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空気を共にし、情合(じょうあい)相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸を祈り、天理人道に従って互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り、道のためにはイギリス、アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落さざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。
然るを支那(シナ)人などの如く、我国より外に国なき如く、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)々々と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賎(いや)しめこれを嫌い、自国の力をも計らずして妄(みだり)に外国人を追い払わんとし、却(かえ)ってその夷狄に窘(くるし)めらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずして我侭放蕩に陥る者というべし。
王制一度(ひとたび)新たなりしより以来、我日本の政風大いに改まり、外は万国の公法をもって外国に交わり、内は人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民へ苗字(みょうじ)乗馬を許せしが如きは開闢(かいびゃく)以来の一美事、士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)ここに定まりたりと言うべきなり。
されば今より後は日本国中の人民に、生まれながらその身に附(つき)たる位などと申すは先ずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とに由(よ)って位もあるものなり。譬(たと)えば政府の官吏を粗略にせざるは当然の事なれども、こはその人の身の貴きにあらず、その人の才徳をもってその役義を勧め、国民のために貴き国法を取扱うがゆえにこれを貴ぶのみ。人の貴きにあらず、国法の貴きになり。
旧幕府の時代、東海道に御茶壷の通行せしは、皆人の知るところなり。その外(ほか)御用の鷹は人よりも貴く、御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、すべて御用の二字を附くれば石にても瓦にても恐ろしく貴きもののように見え、世の中の人も数千百年の古(いにしえ)よりこれを嫌いながらまた自然にその仕来(しき)たりに慣れ、上下互いに見苦しき風俗を成せしことなれども、畢竟(ひっきょう)これらは皆法の貴きにもあらず、品物の貴きにもあらず、ただ徒(いたずら)に政府の威光を張り人を畏(おど)して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。
今日にいたりては最早(もはや)全日本国内にかかる浅ましき制度風俗は絶えてなき筈(はず)なれば、人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平を抱くことあらば、これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求めその筋に由(よ)り、静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶(かな)う事ならば、一命をも抛(なげうつ)て争うべきなり。これ即ち一国人民たる者の分限と申すものなり。
前条に言える通り、人の一身も一国も、天の道理に基づきて不覊(ふき)自由なるものなれば、もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば世界万国を敵とするも恐るるに足らず、この一身の自由を妨げんとする者あらば政府の官吏も憚(はばか)るに足らず。ましてこのごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、何(いず)れも安心いたし、ただ天理に従って存分に事をなすべしとは申しながら、凡(およ)そ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。
身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これ即ち学問の急務なる訳(わけ)なり。
昨今の有様を見るに、農工商の三民はその身分以前に百倍し、やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、今日にても三民の内に人物あれば政府の上に採用せらるべき道既に開けたることなれば、よくその身分を顧み、我身分を重きものと思い、卑劣の所行あるべからず。
凡(およ)そ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪(にく)むべきものはあらず。智恵なきの極(きわみ)は恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧究に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずして妄(みだり)に傍(かたはら)の富める人を怨み、甚だしきは徒党を結び強訴(ごうそ)一揆などとて乱妨(らんぼう)に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。天下の法度(はっと)を頼みてその身の安全を保ちその家の渡世をいたしながら、その頼むところのみを頼みて、己が私欲のためにはまたこれを破る、前後不都合の次第ならずや。
或いはたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして相応の身代(しんだい)ある者も、金銭を貯(たくわ)うることを知りて子孫を教うることを知らず。教えざる子孫なればその愚なるもまた怪しむに足らず。遂には遊惰放蕩に流れ、先祖の家督をも一朝の煙となす者なからず。
かかる愚民を支配するには、迚(とて)も道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おど)すのみ。西洋の諺(ことわざ)に愚民の上に苛(から)き政府ありとはこの事なり。こは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災(わざわ)いなり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。故に今、我日本国においてもこの人民ありてこの政府あるなり。
仮に人民の徳義今日よりも衰えてなお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた人民皆学問に志して物事の理を知り文明の風に赴(おもむ)くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛(ゆる)やかなるとは、ただ人民の徳不徳に由って自(おの)ずから加減あるのみ。人誰か苛政(かせい)を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮(あなどり)を甘んずる者あらん、これ即ち人たる者の常の情なり。今の世に生れ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦(こ)がすほどの心配あるにあらず。
ただその大切なる目当ては、この人情に基づきて先(ま)ず一身の行いを正しく、厚く学に志し博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易く諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得て共に全国の太平を護らんとするの一事のみ、今余輩の勧むる学問も専らこの一事をもって趣旨とせり。
引用終了。『学問のすゝめ』(岩波文庫)p.11よりp.18まで。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
重掲 [3286]消費性向とデフレ 投稿者:バード(2262)投稿日:2003/11/03(Mon) 20:00:17
2003/11/04(Tue) No.01
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