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イエス=キリストは実在の人物ではない ---- 『聖書』は中国の古典からのパクリである
2003年12月22日 月曜日
◆キリスト神話作成の目的
自分の右の頬を最初に打たれるなら、その打った相手は左利きだということに接し、『聖書』という書物に謎めいたものを感じ、あれこれ調べ始めた。
第1に見つけたのは、「西暦元年は辛酉歳で、『聖書』がキリスト以前を旧約、以後を新約とに分けていることなどを考えると、キリスト生誕は神武天皇即位年と同様に、辛酉革命と呼ぶに相応しい出来事だと言える」ということだった。そこで、西暦元年は辛酉革命による作為ではないかと疑った。
これが出発点であって、その疑いから、古代中国との共通点を他にも捜してみたのだが、するとこんな発見があった。
中心教義の「愛」は、『墨子』の「兼愛」と同じだった。
生誕神話の受胎告知は、司馬遷の『史記』にある漢の高祖の出生伝説に似ていた。
東方の三博士が生誕したばかりのキリストを拝みにやって来たことや、生誕地がユダヤの中心地エルサレムの南方のベトレヘムだということ、ユダヤの新しい王だと称えられたことは、西暦元年の九星の巡りと一致していた。
そして最も目を引いたのは、クリスマスの日付を、易と数の関係によって易の卦に置き換えてみると、辛酉革命の生みの親でもある[新体制を支える三人の力]という卦を示していたということだった。
そこでこの関係に注目し、辛酉革命と易六十四卦の序次を組み合わせてみたら、馬小屋で生まれたとすることや救世主と呼ばれたことも、この序次と結び付き、さらにはキリスト教会が根拠不明とするユダヤ暦元年も計算できた。と同時に、そのユダヤ暦元年に行われたとする天地創造神話の、神は6日間で天地創造を行い、7日目に休んだとすることと、6日間各日の様子も、易六十四卦の序次の流れと一致していた。
これは西暦元年と天地創造神話の当該個所が、同時に考案されたか、古い時代に易によって天地創造神話が創作され、そのことを知っている人物が、その易の理論の延長線上でユダヤ暦元年や西暦元年、『新約聖書』の当該個所を作成したかの、何れかでなければあり得ないことである。しかし、少なくとも、天地創造神話もキリスト生誕神話も、ともに易を熟知した人物が作成したことだけは確かである。
その上、日月火水木金土という1週間各日の名称も、中国に古くからあったものだった。
また、キリスト教は男尊女卑を正当化しているわけだが、それも中国と共通し、なおかつその理由も、キリスト教は神の意志として明らかにしないのに、儒教を手がかりに探ることができた。そして仏教に目を転じると、水の上を歩いたり、食料を増やしたりという奇跡は、何もキリスト教の専売特許ではなく、仏教伝説にもあったことが確認された。
これらの様子から、さらに聖書神話を検証してみると、ノアの方舟神話を手がかりに、現在キリスト教会に伝わっている『旧約聖書』は、古くからあっものそのままではなく、新約編纂時に作為をもって内容を一部改められていたことが判明したとともに、キリストが架空の人物だったことを初め、いろいろなことがわかって来た。
ノアの方舟神話も天地創造神話と同様に易六十四卦の序次をもとにし、ここでは序次が上篇から下篇に移行するところをモチーフに作られていたのであって、そのことを踏まえて探って行くと、今度は太祖7代目エノクの、365歳の時に神が取り去ったとする記述に秘密めいた示唆を見出し、それはアダムからキリストに至る系図とトランプとの、ただならぬ関係を教えてくれた。と同時に、この系図は一部に矛盾があり、また、エノクの次の太祖メトシェラーの年齢にも矛盾があり、この二つの矛盾はキリスト教のシンボル十字架について、こんなことを教えてくれた。
「十字架は、キリストが処刑されたからシンボルになったのではなく、[王様と親しむ民衆]の卦象(卦の形)から考案されたのだった。この卦は宗教社会の理想像を表現している形であり、だからこそシンボルとされたのであって、処刑神話はシンボルとするための口実として作られたのだった。」
もっとも処刑神話はただそれだけの寓話に過ぎないというわけではなかった。「過ぎ越し」という言葉で[背負った大きな重荷]という卦をアピールし、そこにキリスト復活という寓話と、1週間と十二消長との数の差という事柄をリンクすることで、易を知る異邦人の読者に対しては、重大なことを伝えようとしていたのである。
それは、「『新約聖書』はそのすべてが、西暦301年から360年の間のある時期に、易を熟知した人物の指導のもとで書かれたのであって、キリストが架空の人物であることは無論だが、旧約もそれと同時に内容を一部改められた」
ということである。
駆け足で話せば、ざっとこんなところだが、とすると聖書成立はどういう経緯だったのだろうか。当時の中国人になったつもりで、少しシミュレーションしてみよう。 西暦166年。ローマ帝国と中国の後漢との間に交流が始まったと、『後漢書』にある。
それから150〜200年くらい経った西暦300年代前半。中国は西晋の終わり、あるいは東晋の初めといった時代で、北方では五胡十六国が覇権を争っていた。
そんな頃、とあるローマの旅人が中国を訪れ、「仁」や「愛」すなわち「他人に対する思いやり」という観念に触れ、その素晴らしさに感動した。武力と財力を権威の象徴とし、弱者を非人間的に支配しても、何の後ろめたさも持たないローマ帝国の治世に、人々の心は荒れ果て、憤りを感じていたのだろう。
何とかヨーロッパに紹介できないものかと考え、中国の学者達と相談した。
手っ取り早いのは、「四書五経」や『墨子』、その他の漢籍をそのまま翻訳することだが、あまりにも文化が異なるので、それでは真意が伝わりにくく、まして権力者には耳が痛い話ばかりなのだから、彼等が受け入れる可能性も低い。
当時のローマ帝国は、ユピテルやアポロンを中心とした古来の神々に、ペルシャ伝来のミトラ教などをブレンドした多神教によって社会が支配され、その神々の名の下に法律や制度が運用されていた。とすると、これに対抗し得る宗教を作り、民衆の心を揺り動かすのが、最も効果的だろう。
多神教に多神教で対抗しても、民衆にはわかりにくい。
多神教に対して最もインパクトがあるとすれば、それは一神教しかない。神はただひとりしかいないとすれば、宗教イメージも簡潔でわかりやすくなり、その教えを民衆も理解しやすい。そうだ、それが一番よい。後は具体的な一神教の物語を作ればよい。
何かよい題材はないだろうか。
歴史を紐解いてみると、200年くらい前(西暦135年)に、ローマが滅ぼしたユダヤという国がある。これを使おう。
すでに滅亡し、国民は離散してしまっているのだから、何をどう書こうと文句は出ないに決まっている。丁度よいことに、彼等ユダヤ人は一神教を信仰していて、その一神教が太古からあったとする神話をもっている。これを神との古い契約(旧約)の書とし、新しい契約(新約)の書を、新たに書き下ろそう。それは愛と正義の主人公の物語にし、その主人公がそれまでの歴史を総括しながら、死後の世界の幸福と現世の生活を結び付け、それを心の癒しとし、なおかつ仙人伝説にあるような超能力による病気治療といったことで、神秘なものに対する好奇心をくすぐればよい。仏教伝説もヒントにしよう。そしてクライマックスでは、主人公に非業の死を遂げてもらおう。その方がインパクトが強く、民衆の共感も得られよう。
最後はローマに布教されるところで終わりにすれば、ローマの民衆にも愛着が出る。そんな事実はないと指摘されたとしても、時代を少し古くしておけば、当時のローマ帝国にとっては些細なことだったので、すでに忘れ去られたのだと反論すれば、事無きを得よう。
ただし、ユダヤ人の神話(旧約)にも少し筆を加えておこう。と言っても大したことは必要ない。ストーリーに違和感が出ない程度で、要所の名前や数字をほんのちょっといじれば、それでこと足りる。天地創造神話だって、理由はわからないが、要するに昔の中国人が作ったからこそ、易の序次とその流れが一致するのだし、そんなまがい物の神話なんだから、この辺で新たに手を加えても、別段悪いことはないだろう。
主人公が処刑されるのは祭りの期間とし、その祭りの名称を沢風大過から採って「過ぎ越しの祭り」なんていうのが面白い。
そんなふうに加筆すればそれでよいのであって、このようにしておけば、容易に主人公が架空の人物で、その神話が中国に帰って来た時にも、それが中国製であることが、簡単に読み取れる。
そうだ、より中国製であることが明瞭になるように、易と辛酉革命で、暗号の骨格を組み立てておこう。それと、7日でひと区切りとしていることと十二消長を利用して、加筆製作年代がわかるようにもしておこう。
主人公の時代から暗号に従って計算すれば、この前の辛酉歳(西暦301年)になるようにすればよい。それに、その時代(西暦元年)に主人公を設定しておけば、ローマと中国がまだ正式には交流していない時代なのだから、易や漢字のわからないローマの民衆としては、それが中国製だとは思ってもみないに違いない。そうそう、主人公の誕生日は、彼等ローマ人の暦の中から、辛酉革命と結び付く日付を捜し出しておこう。その方が、こちらとしてもわかりやすい。
おそらくローマ人の依頼を受けた中国の学者達は、こんなことでも考えながら、旧約の加筆と新約の物語のアウトラインをまとめたのであって、依頼人はそれをローマに持ち帰り、ユダヤ周辺などでいろいろと取材し、その結果あのような聖書神話を完成させたのだろう。
そしていざ布教活動を始めてみると、その愛の教えは、疲弊したローマの民衆の心を掴んで離さず、瞬く間に広がり、西暦380年にはローマの国教となるなどして、その地位を着実に上げて行った。
ちなみに旧約新約の全聖書がローマ教会によってまとめられたのは、西暦397年、ラテン語版聖書が完成したのは405年だとされている。
しかし一方では、そんな聖書神話に疑いの目を向ける人々もいたことだろう。そこで国教となった地位を利用し、キリスト神話を初めとする各種の物語を歴史的事実であるかのように見せかける偽装工作が、あちらこちらで行われだした。
その結果が、現在われわれが知る古代西洋におけるキリスト教発展史なのではないだろうか。
西暦紀元頃から四、五世紀までのキリスト教に関してを記述したものとしては、エウセビオスの『教会史』、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代史』、また、タキトゥスの『ローマ年代記』などを初めとするローマの歴史書があるが、これらこそ、その見せかけ工作の一環として、後世に編纂あるいは加筆修正されたものなのだろう。
まして西暦590年、グレゴリー1世がローマ法王となるころには、キリスト教会は絶大な権力を誇り、それは以後数百年持続する。とすれば、その間にもキリスト教に都合のよい歴史歪曲や遺跡捏造が行われたとしても、何の不思議もない。
聖地奪還を旗印にイスラム教徒と戦った十字軍は、数多くのキリスト教関連の遺跡から、貴重な資料を持ち帰ったとされているが、あるいはそれも捏造の一環だったのかもしれない。そこで次に、その古代ローマのキリスト教関連の歴史につして、少し考えてみたい。
◆古代ローマとキリスト教
キリスト教がローマに伝わった様子は、おおむね次のようだったとされている。
新約「使徒行録」では、キリストの死後=正確に言えば、死後三日目の復活から40日目の昇天の後、弟子達は聖霊のお告げに従って各地に伝導に赴き、ローマにはペトロとパウロという十二使徒中の最重要人物によって伝導されたとある。
その後、シリア、小アジア、ギリシャから首都ローマまでの主要都市や農村に教会が建てられ、さらにはアルメニア、エジプト、イスパニアや北アフリカにも広まり、三世紀の初めまでにはローマ帝国の地中海沿岸全域におよび、またペルシア帝国にも伝わった。
当初は都市部商人や奴隷などが信者の主体だったが、次第に農村部や社会各層におよび、だんだんと富裕な高身分の人々の中にも信者が現れるようになった。もっともそんな様子をローマ帝国は、ただ指を咥えて見ていたのではなく、信者を見つけると、改心を迫り、それでも従わない場合には、身分の低い者は火刑、十字架刑、猛獣との格闘刑、鉱山労役刑、身分の高い者は斬首刑、流刑に処したりといったふうに、キリスト教徒撲滅作戦を行ったので、十二使徒の全員を初め、数多くの殉教者を出した。そのため信者はカタコームと呼ばれる地下の墓地などに秘密の集会所を作り、密かに活動したりもした。
しかしそんな迫害を受けても、いや、受ければこそそれが却って弾みとなり、反政府的なエクスタシーとなって民衆を酔わせ、キリスト教徒の数は益々増えて行き、いつしか政府の中枢にも信者が存在するような事態に陥り、ついに政府としても認めざるを得なくなり、公認するまでになって行った。
また一方、ギリシャ哲学とキリスト教を融合させたグノーシス派というキリスト教異端の集団も生まれ、さらには仏教の影響も受けてマニ教という宗教に発展したグループもあった。
二〜三世紀のキリスト教の歴史とされている事柄を駆け足で辿れば、だいたいこんなところだが、これらの出来事が、前項で話した虚構の歴史ということになる。
おそらく真実は、次のようなことだったのだろう。
西暦70年、エルサレムの神殿をローマ人に破壊され、自分達の宗教と民族としてのプライドをずたずたにされたユダヤ教徒すなわちユダヤ人は、ローマに対する報復を画策し、同じくローマ帝国から搾取されていた貧農や奴隷階層の人々を抱き込み、反政府ゲリラ活動を行った。困ったローマ政府は、その防衛のために、彼等を探索して摘発し、ローマへの忠誠心を問いただし、反抗すれば処刑した。カタコームもその反政府ゲリラの拠点だったのであって、そんな彼等を牽制し、ユダヤ人のゲリラ活動を封じ込めるという狙いも、キリスト教を考案した目的のひとつだったのではないだろうか。
「マタイ伝」第27章のキリスト処刑神話のところでは、「今後我々ユダヤ人の子孫がどのような迫害を受けようと構わないから、ともかく今、キリストを処刑しろ」というユダヤの民衆の熱望によって、ローマのユダヤ総督ピラトは処刑を許可したとあるのだから、キリスト教を信仰して最も損をするのはユダヤ人ということになる。このピラトに対する嘆願により、キリスト教徒は、例えローマでの身分は奴隷であったとしても、ユダヤ人を自由に迫害する権利を得たことになるからである。
後世、そのユダヤ人のゲリラ活動をキリスト教布教活動の歴史にすり替え、カタコームにもキリストの絵を描いたりして、それが恰もキリスト教の遺跡であるかのように偽装したのだろう。無論、十二使徒を初めとする多くの殉教伝説も、作り話ということである。
グノーシス派やマニ教も、キリスト教から分派したのではなく、ユダヤ教エッセネ派という集団がギリシャ哲学や仏教と融合させて起こしたのではないだろうか。エッセネ派とは、西暦紀元前後に盛んに活動していたとされるユダヤ教禁欲主義の異端集団で、1947年以来死海近郊のクムラン地方の洞窟の中から、いわゆるクムラン文書と呼ばれる相当数の『旧約聖書』の断片や戒律などを記した書物の断片が発見されて脚光を浴びたが、その洞窟も活動拠点のひとつだったのだろうとされている集団である。(後略)
『聖書』の作者は古代中国の易学者だった!! 橘 翼
(私のコメント)
18日の日記の続きになりますが、キリスト教のの謎について探求していくと、とんでもない天地をひっくり返すような説を唱えるホームページがあった。しかしながらよく読んでゆくと、キリスト教の内容と中国の易学との単なる一致ではすまない事実がたくさんあると指摘されると、納得させられることがあります。
歴史によると中国とヨーロッパの交流は、シルクロードを通じて紀元前の遥か昔からあったと見るのが常識だろう。ならば中国を訪れた中東かローマ人が、中国の古典や易学を学び自分のものとして『聖書』を編纂したとしてもおかしくはない。正統性を持たせるために200年前にローマ帝国に滅ぼされたユダヤ教に接木を当てたような形にした。だから聖書は新約と旧約とに分かれている。
このようなキリスト教が出来た原因はいろいろ考えられますが、当時はローマ帝国がユダヤ人の反乱に手を焼いていた事実がある。一説はローマ帝国がユダヤ人への弾圧を正当化するために、イエス・キリストを裏切ったのはユダヤ人だという作り話を広めて口実にしたという説だ。
もう一つはユダヤ人の方から、ローマ帝国の市民達を古代ギリシャの神々やギリシャ哲学から、キリスト教に感化させ国家としての支柱を弱体化させることにあったとする説も考えられる。あるいは双方の思惑とは別に、中国の「墨子」の「兼愛」の思想はローマの奴隷達から市民へと広がっていった。ローマ帝国もキリスト教が広まるにつれ強大な武力も弱体化していった。「汝敵を愛せ」だの「右の頬を打たれたら左を差し出せ」などと言っていたら、兵士達は戦争が出来ない。
だからローマ帝国は野蛮人のゲルマン民族の侵入を防ぐことが出来なくなってしまった。この点ではユダヤ人の作戦勝ちであり、キリスト教でもって大帝国を滅ぼすことが出来た。しかしながらユダヤ人はキリストを裏切ったという作り話は残り、その後のヨーロッパにおけるユダヤ人弾圧の根拠ともなった。
この事からも古代ギリシャの合理的思想がヨーロッパには広まらず、ビザンティンや中東に伝えられたのは、ユダヤ人との確執があったか、なかったかの違いによるものだ。旧約聖書の神話そのものも中東で昔からあったものを作り直したものですが、年代などの記述は中国の易学の影響が反映している。キリストの誕生した年も生年月日も易学から導き出されたもので、イエス・キリストは架空の人物なのだという根拠にもなる。
月火水木金土日の七曜も古代中国の昔からあったものであり、男尊女卑の思想も同じく中国の思想が反映している。このように古代中国思想に詳しい人が聖書を研究してゆけば、聖書が中国人が書いたのか、中国で易学や思想を学んだ人が書いたのではないかという事に気が付いてもおかしくはない。
だから中国や漢学の盛んな日本でキリスト教が布教しないのも、「墨子」や「孔子」の教えを焼きなおした宗教に改める必要も無いからだろう。日本においても戦国時代にキリスト教が広まった時期もありましたが、南蛮文化に対する物珍しさに過ぎず、禁令を出したとたんすぐに廃れてしまった。同じアジアでも漢学のないフィリピンとか、ハングル化で漢学が廃れた韓国などではキリスト教が普及している。
18日の日記でもキリスト教の三位一体は訳がわからないと書いたのも当然であり、またマリアの処女受胎も中国の伝説の焼きなおしに過ぎないとわかれば、訳がわからないのは当然なのだ。世界史などでキリスト教西欧文明が過大評価されているのも、世界史学会の中にはキリスト教信者もいるから、なかなかキリスト教のタブーには触れられないようだ。
イラク戦争などを見ると、アメリカのキリスト教の傲慢さがどうしても目立ちます。キリスト教=文明であり、他の宗教は野蛮な宗教とみなしているようだ。ヨーロッパは古くからオリエント文明やエジプト文明に接していたから、多少は異文化や異宗教にも理解があるが、アメリカ人キリスト教信者のハルマゲドンという作り話を信ずるばからしさにいつ気が付くのだろう。