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古代ギリシャの科学や哲学はどのように伝わったのか(『株式日記と経済展望』より転載)<---一神教としてのキリスト教の論理的整合性の危うさがよく分かる
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/843.html
投稿者 まさちゃん 日時 2003 年 12 月 18 日 19:53:40:Sn9PPGX/.xYlo


下記記事中に引用されている「関岡e-歴史研究所 キリスト教の謎」は一読の価値有り。
キリスト教神学の発展とは、
キリスト教の一神教としての論理的整合性の面での危機とその回避の繰り返しであることがよく分かる。

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古代ギリシャの科学や哲学はどのように伝わったのか --- アリストテレスの思想は中東から西欧に伝わった。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu61.htm

2003年12月18日 木曜日

◆ハウス・オブ・ウイズダム

西暦紀元前343年か342年頃、アリストテレスは、まだ13才だった未来の大王アレキサンダーの教師として雇われた。アリストテレスが42才の頃である。それは、人類史上でも最大級の二人の人物の出会いといえるだろう。しかしそれにしても、われわれ現代人は、なぜこのような遥かな昔の史実や、そもそも古代ギリシアの科学や哲学を知っているのだろうか。知識あるいは知恵の集積を後世に伝えることは、案外難しいのだ。

古代ギリシア人の知恵の産物が、われわれに伝えられたのは、多くの人びとの努力と歴史的幸運のお陰である。エジプトを征服したアレキサンダーは、アレキサンドリアに図書館をつくることを命令した。当時の図書館は、本をつくることから始めなければならなかった。文書の断片が帝国の各地から集められ、著者別に推論、区別され、本が作成された。それらの本は、ほとんどギリシア語で書かれていた。

アレキサンドリアの図書館は、いろいろな政治的事件に翻弄されながらも、かなり長く、存続し続けた。しかし、西暦391年にはキリスト教徒によって、642年にはイスラム教徒によって破壊された。いずれも、古代の合理的な思想が、宗教的に危険な存在と見做されたのである。その後、生き残ったギリシア語の文献は、ビザンチン帝国によって保管されることになった。

ビザンチン帝国は、東ローマ帝国とも呼ばれるので、ローマ帝国と考えられやすいが、事実上ギリシア帝国に変わっていた。しかしビザンチン帝国は、古代ギリシアの科学や哲学に積極的な関心は持たなかったらしい。当時のキリスト教徒は、キリストを神と人の間にどう位置づけるかという問題をめぐって、きびしい宗教的対立を続けていた。そんな雰囲気では、古代ギリシアの理性を重んずる思想は危険視されたのだろう。

そのままでは、ビザンチン帝国の書庫の中で朽ち果てたかもしれない古代の知識が、再び陽の目をみたのは、アラブ人の手によってである。751年、イスラム・アラブ帝国がウマイア朝からアッバス朝に変わり、首都がダマスカスからバクダッドに移ると、多くの民族が集まってきた。新しい都バクダッドは、かつての古代ペルシア帝国、ササン朝の都、クテシホンに近かった。そしてササン朝時代の学問の中心、ゴンデシャプール大学も、バクダッドからそれほど離れていなかった。

ゴンデシャプールでは西のギリシアの科学が、起源を異にするインドの科学と接触・融合していたのである。アッバス朝は、早くから知識の習得に熱心だった。第二代カリフで、実質的なアッバス朝の創設者であったアル・マンスールは、754年から775年の治政の間に、ビザンチン皇帝の下に使節を派遣して古代ギリシアの数学の教科書、とくにユークリッドの著書を求めている。そのために、同じ重さの金を支払ったと伝えられているはどの熱心さであった。

しかしアッバス朝の知識吸収欲が最高潮に達するのは、9世紀に入ってからである。第七代のカリフのアル・マアムーンは830年、バクダッドに「ハウス・オブ・ウイズダム」(知恵の家)という政府機関を設立した。伝説によると、アル・マアムーンの夢にアリストテレスが現われ、「神の啓示とギリシアの理性の間には矛盾がない」と保証したという。もっとも、イスラム教では、キリスト教と違って、知識の吸収は大いに奨励されていた。預言者ムハンマドも、「学者のインクは、殉教者の血より価値がある」とし、「知識を求めることは全てのイスラム教徒の義務」とまでいっている。

「ハウス・オブ・ウイズダム」は多数の学者を雇って、ビザンチン帝国から求めてきたギリシア語の文献を、まずシリア語に訳し、それをアラビア語にさらに訳した。このような二段階作戦をとったのは、直接訳すことができなかったからである。とくに、ギリシア語からシリア語に訳すのにキリスト教徒が雇われた。

国家権力を基礎にした大規模な翻訳事業は、2世紀にわたって続けられた。当時存在したギリシア語の文献はほとんどアラビア語に訳されたという。それは、50万部にも達する膨大なものだったようだ。そのような膨大な本をつくることができたのは、751年のタラスの戦で、中国からの紙の製造技術を獲得していたからである。それまでは、羊皮紙あるいはパピュルスが使われていたが、羊皮紙は高価で、パピュルスは長持ちしなかった。

アラブの学者たちは、翻訳だけに満足していたわけではない。ギリシアの科学をインドの科学と結合して代数学などの独自の科学をつくり出し、自らの観察によって、ギリシアの科学を修正、発展させたのである。以上のように、知識の継承者としてのアラブ人の功績は大きい。しかしバクダッドは、西欧からあまりにも遠く、かつ、いずれモンゴルに亡ぼされる運命にあった。

古代ギリシアの知恵を現代に引き継ぐには、さらにスペインの役割が必要だった。ダマスカスにおけるアッバス朝の大虐殺をかろうじて逃れたウマイヤ朝の一人の王子が、スペインに後期ウマイア朝を建てた。アブダル・ラーマン一世である。その孫で、第四代のアブダル・ラーマン二世は、822年から852年にかけて、スペインを治めたが、バクダッドのアッバス朝に対抗するため、多くの学者を好遇をもって招いた。以後、その都、コルドバは、約400年にわたって学問の中心地となった。

繁栄をきわめたスペインのアラブ・イスラム帝国も、その頂点、10世紀のアブドル・ラーマン三世の死後急速に衰退する。「レコンキスタ」の旗印の下、キリスト教徒が、イスラム教徒をしだいに南に追いつめていった。しかし、幸いなことに、今やキリスト教徒も知識欲を高めていた。1085、キリスト教徒の手に落ちたスペインのトレドが、その後200年にわたって、ヨーロッパのための知識の発信地となった。

少し遅れて、12世紀ノルマンに征服されたシシリーのパレルモも、アラビア語の文献の翻訳センターとなった。アラビア語から、ラテン語、ギリシア語、ヘブル語へ翻訳されたのだ。やがて、ヨーロッパの奥地、今日のフランス、ドイツ、イギリスなどから多くの学者が、蜜にすいよせられる蝶の如くに、トレドやパレルモに勉強にやてきた。

オックスフォード大学やケンブリッジ大学、それにソルボンヌ大学など現在のヨーロッパの大学の多くは、その創立の淵源をこの時期にもっている。それは偶然ではない。以上の如き歴史の偶然性と必然性の連鎖につながっている。そしてわれわれの世代もまた、後世に知恵と知識を引き継いでいく歴史的義務を負っていると思う。


関岡e-歴史研究所 ハウス・オブ・ウイズダム
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/History.html

◆キリスト教の謎

あらためて、キリスト教の謎に迫ろう。
キリスト教はユダヤ教から出た一神教である。
しかるにキリスト教は、信仰の根幹に「救い」という概念を持ち込んだ。
そのためキリスト教は愛の宗教となり、多くの信者の心を捉え、
世界最大の宗教となることができた。

「救い」とはなんだろうか。
原罪からの救いというのが一応の答えである。
しかし歴史を読めば、その場合の「救い」がそんな抽象的なものではないことが分かる。

歴史が物語る「救い」とは、一神教徒なら誰もが避けて通れない最後の審判の際、
確実に天国へ行ける保証以外のなにものでもない。

絶対神による最後の審判の結論は、天国か地獄か、二つしかない。
グレ−ゾ−ンはないのだ。
誰もが天国へ行きたいと考えるのは、人間心理から当然である。
とくに天国へ行きたいわけではないと考える、ひねくれ者でさえ、
地獄へだけは落ちたくないだろう。
地獄へ落とされないためには、どうしたらよいのか。
この問題でキリスト教は、他の一神教と決定的に決別する。

ユダヤ教やイスラムの場合、地獄へ行かないで済む唯一の選択肢は、
神の命令どおり生きることである。
しかし一般の人間は、その肝心の神の命令を直接聞くことができない。
そこで、預言者が神の命令(言葉)を記録したとされる聖書が尊重されているのである。

そんな状況下、キリスト教だけは、キリストを信じれば地獄へ行かなくて済む、
という便法を考え出したのだ。

長い一生を、常に神の命令どおり生きているかどうか心配しながら送るよりも、
キリストを信じる方が遥かに生き方としては楽だろう。
キリスト教が急膨張したことも自然の成り行きであった。
しかし「救い」という概念は一神教の教義と相容れない。

キリストが、最後の審判より遥か以前に、
人間に天国行きを保証したとすると、
最後の審判者、絶対神の立場は奇妙なものとなる。
絶対神がキリストの決定に拘束されるのだとすると、
もはや絶対神ではなくなってしまう。
反対に、拘束されないとすれば、キリストは人間を騙したことになってしまう。

2世紀の原始キリスト教会は、この論理的絶対矛盾に悩むことになった。
このキリスト教最大のピンチを救ったのが三位一体説である。
絶対神を父、キリストを子とし、それに聖霊という神秘的要素を加味して、
それぞれは位格としては三つだが、存在としては一つとする教義である。

この、普通の論理では到底理解できない学説が生まれた背景には、
新プラトン主義という「哲学」があった。
簡単に言えば、人間の論理を超えた超越的な論理があるというのである。
新プラトン主義は、プラトンのイデア思想にオリエントの神秘主義が混入された思想である。
しかし三位一体説が、すべての人々を納得させたわけではなかった。

300年頃、アリウスが、キリストが神だとしても
絶対神と同格などといったことはありえないと、
もっともなことを指摘したが、異端として葬られた。
400年頃、ネストリウスが現れて、マリアの「神の母」という称号に疑問を呈した。
絶対神は、この世のすべてのものの創造神なのだ。
自らは、創造を超越している。
その絶対神と同格のキリストが、マリアから創造されたとしたら、
奇妙なことになってしまう。

再び、論理矛盾が露呈しかけたが、
キリスト教会は、ネストリウスを異端と断ずることによって危機を免れる。
ヨ−ロッパにマリア信仰が生れるのは、これ以降である。

4世紀末、アウグスティヌスが現れて、
新プラトン主義を基礎にキリスト教神学を確立した。
三位一体説擁護の立場である。
以後、キリスト教の中核に神学が座ることになった。

とても興味深い。キリスト教の根幹に哲学が居座っているのだ。
もちろん、ユダヤ教やイスラムなど、他の中東の一神教にも学問体系は存在する。
しかしそれは解釈学である。
できるだけ人間の考えを排し、神の真意を探る学問である。
しかしキリスト教だけは違う。新プラトン主義はギリシア哲学に行き着く。
ギリシア哲学は明らかに人間の思想である。
その意味でキリスト教は、一神教に人間的要素を加えたことになった。

アウグスティヌス後、キリスト教神学は修道院によって守られた。
9世紀にシャルル・マ−ニュによってカロリンガ・ルネッサンスが始まると、
キリスト教神学はスコラ哲学という形を取った。

ところが12世紀にアラブの世界から
先進的な学問体系がヨ−ロッパに入ってくると(12世紀のルネッサンス)、
長らくスコラ哲学として凍結されてきた学問ないし思想体系が、大きく揺らぐ。

中でもアラブから入ってきたアリストテレスの思想は、
プラトンのイデア思想とは対立するものだったが故に、
新プラトン主義で固められたスコラ哲学にひびを入らせる。

13世紀の初め相次いで、二つの托鉢修道会が誕生した。
フランシスコ会とドミニコ会である。
二つの修道会は、相対立する立場を取った。

前者はプラトン・アウグスティヌス主義、
後者はアリストテレス哲学に立脚したのである。
13世紀以降、この二つの修道会が西欧の哲学的・神学的二大傾向となった。

ドミニコ会からは、ヨ−ロッパ中世後期の思想界の大立て者、トマス・アクィナスが出た。
トマスのアリストテレス主義に対して、14世紀初めペトラルカが反論する。
以後、約200年間続いたプラトン派とアリストテレス派の論争が起きる。
それがヒュ−マニズム論争で、ルネッサンスや宗教改革の思想的母体となった。


関岡e-歴史研究所 キリスト教の謎
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/History/History.html

(私のコメント)
アメリカ十字軍による今回のイラク侵攻は、中世ヨーロッパの十字軍遠征と性格はよく似ている。中世ヨーロッパの十字軍はキリスト教の聖地奪回のために行われましたが、停滞したキリスト教会支配に対する不満を海外への遠征でそらそうとしたのだ。キリスト教会が特に敵視したのは中東から入ってきたアリストテレスの思想が敵意を呼んだのだろう。

合理主義的な古代ギリシャ思想は古代キリスト教とは相容れない要素を持っている。絶対神とイエス・キリストと精霊とはいかなる関係なのか、合理主義で突き詰めればキリスト教の教義は破綻する。三位一体だと説明されても一般の信徒にとっては理解しがたいものだ。古代ローマ帝国が一千年もの長きに栄えたにもかかわらず、キリスト教がローマ社会に広がるにつけ帝国のたがが緩み始め、ゲルマンの野蛮民族に侵入で滅び去った。

ローマ帝国が滅び去った以降、ヨーロッパは文化や文明は停滞するか滅び去ってしまった。キリスト教という新興宗教がギリシャ・ローマ文明を葬り去ってしまったのだ。キリスト教徒でありさえすれば天国へ行けるとする宗教は当時のヨーロッパ人の心を捉え全ヨーロッパへ広まっていった。それ以降キリスト教会が支配するようになり14世紀のルネッサンスまでヨーロッパは暗黒時代をむかえていた。

その間の古代ギリシャ文化は滅び去ったしまったわけではなく、中東へ伝えられた。古代の合理的な思想はキリスト教にとってもイスラム教にとっても目障りな存在であったが、イスラムのカリフは「神の啓示とギリシャの理性との間には矛盾はない」として熱心にギリシャ文化を翻訳し奨励した。現在のイスラムのようにいつから外国の文化に対して排他的になってしまったかはよくわからないが、当時はバクダッドが文化と文明の中心地となった。

中東に対するヨーロッパの文化の立ち遅れは決定的になり、スペインにまでイスラム帝国が建設されるまでになった。それに対するキリスト教会側の反撃が十字軍遠征になりましたが、ゲルマン民族は武勇に優れてはいるが野蛮な戦闘的な民族であった。フランク王国の王様なども自分の名前も書けないほどだった。しかしその遠征が祟りキリスト教の権力は弱まり、スペインのイスラム帝国から文化を吸収するようになった。

だから現在の西欧文明は古代ギリシャ文明の直接の継承者ではない。古代ギリシャ文明はビザンチンからバクダッドを経てスペインへ渡りヨーロッパに広まったのだ。しかしこれ以降もオスマン・トルコ帝国まで、中東のヨーロッパへの優位は続き、西欧文明が世界を席巻するようになったのは400年ぐらい前からだ。

しかしながらキリスト教の基本的な問題は解決したわけではなく、アリストテレスの思想との確執はいまだに続いている。ヨーロッパのキリスト教は一応世俗化され合理的な思想を受け入れるようになったが、現代のアメリカのキリスト教は原理主義に立ち返り、聖書を絶対視して合理的な思想を排斥するキリスト教が復活している。以前は一宗派に過ぎませんでしたが、今では大統領を選ぶまでの勢力になっている。

アメリカといえば月に人類を送るまで進歩した科学技術大国ですが、その反動がキリスト教原理主義の復活となって表れている。この動きは古代ローマ帝国にキリスト教が広まり始めた現象とよく似ている。合理的な思想を持ったローマ皇帝からキリスト教徒の皇帝が現れるようになってローマは滅んだ。アメリカも近代的な軍事帝国にキリスト教原理主義を信ずる大統領が現れた。それがブッシュ大統領だ。

だからブッシュがイラクへ十字軍を派遣するのも偶然ではなく、必然なのだ。やがてはエルサレムの奪回を目指してアメリカ十字軍を進撃させるのだろう。そのことがアメリカの国力の衰退と精神的退廃を招き、ローマ帝国が滅んだごとく、キリスト教原理主義がアメリカ帝国を滅ぼすもとになるだろう。

日本人ならイエス・キリストが人間なのか神なのかを悩む心配はない。最近では明治天皇や東郷元帥が神社に神として祭られている。だから日本にあるキリスト教会はキリスト神社に過ぎない。ところが一神教であるキリスト教は、イエス・キリストが人間なのか神なのか、また天地を創造した絶対神とどう違うのか教義が混乱している。三位一体といっても私には理解できない。
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