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(回答先: 今後の世界と日本 − 補足1 − [如往さんへ] 投稿者 あっしら 日時 2003 年 12 月 11 日 22:07:49)
あっしらさん、こんにちは。レス有り難うござます。
また、早速の丁寧なレスをいただきながら、返事が遅れましたことをお詫びいたします。
さて、『■ 経済理論 』と『■ 合作論』によって、氏の認識の有様が再確認できたことにたいし謝意を表したいと思います。内容の逐語的な検討はこれまでの展開を焼き直しする愚挙に及ぶことになりかねませんので、回避したいと考えますが、改めて語るまでもなく、総体的には90%以上が首肯できるものです。
さらに、今回私が共同体論を持ち出した意図もご理解いただけていると思っています。しかし、本音を申し上げれば、問題提起がやや時期尚早であったのかなと感じてもいます。それは、共同体論の末尾において妙に教科書的な回答をされていることからも看取することが可能だと想います。これは決して皮肉でも非難の意味でもありません、しかし前段が非常に明晰かつ啓蒙的であるのに反して、後段に来てあっしら流“快楽”主義に撞着してしまうのは何故かと、つい疑念を懐いてしまうのであります。
>■ 共同体論
いままでのあっしらさんの特に経済理論の展開が内包するものに氏の当事者意識の方行を穿つことが可能だとしたら、何らかの共同体論に帰着するものと推察していました。その点からは“あっしら流経済原理”の進展は共同体論に決して関係がないのではなく、少なくとも共同体を取り巻く情況を把捉し新たな共同体論の形象を展望していく上でそれこそ不即不離の関係にあると考えています。共同体論を追究している身にとっては非常に有益な理論であることに間違いありません。
>奴隷が別に悪いわけではありません。奴隷であるという自覚がないことが、悪であると同時に救いなのです。
(生存維持手段を持たない者は奴隷なのです。そして、一般的には、活動力の対価として生存に必要な物を供与してもらえる者が奴隷だと思われ、活動力の対価として貨幣を供与してもらえる者はそうでないと言われているだけの話です)
確かにこの認識が先ずは奴隷状態を克服しようとするか否かの当事者意識の此岸と彼岸を別つと想われます。しかし、同時にここにあっしらさん特有の快楽主義に繋がるある種の諦念が表出していると見ています。“快楽”を救いとするのでは奴隷状態から脱出の駆動にたいしブレーキにもなる負の力として働いてしまうでしょうし、それは隷属状態に甘んじさせるための麻酔薬として今まさにエンタテイメントの氾濫となって現出してもいます。ここで少しばかり綺麗事を言わしていただければ、究極的には互いの当事者意識が響合い同調していかなければ、個々に分断されたまま寄生されている存在様態から脱することはできないのではないでしょうか。私はそれが何らかの共同体に結実しないと抵抗力としての現実性を帯びないと考えています。
>“近代的自我から共同体性を捉え直す道”と“非近代的自我(共同体依存的意識状況)から自我を捉え直す道”があると思っています。
おそらく、あっしら氏が前者を批判的に採取しながら一貫して探っているのは後者であるのでしょう。そこでは、新たな共同体論の擁立がアジェンダとして立ち顕われてくるのは必然でしょうし、また、準備して置かねばならない時期にも来ているのではないでしょうか。そう遠くない時節にあっしら氏のそれを伺いたく期待しています。(すでに、土台はできていると想うのですが、如何でしょう。)
また、会いましょう。