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(回答先: >セム系思想を乗り越えること 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 13 日 01:15:13)
マルハナバチさん、こんばんわ。
マルハナバチさんの「今抱えている問題は、『セム系宗教(思想)の身体性はどのように規制・条件付けされ、形を与えられているのか』という事」にとうてい応えきれるとは思いません。
マルハナバチさんや愚民党さんそして如往さんの身体性の把握と理解に学んでいるところです。
マルハナバチさんにはその必要がないと思っていますが、先立ってエクスキューズをしておきます。
これまでもセム系など人種名であれこれ説明していますが、それは血としての人種ではなく、生れ落ちて後に他者関係的な活動のなかで醸成され本人も形成の一翼を担う歴史継承的同一性の簡潔表現だとご理解いただきたいと思っています。
端的には、セム系として生まれるのではなく、セム系になるということです。
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■ 身体性と肉体性
マルハナバチさんが『身体と地球そして宇宙』( http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/497.html )で示された身体性と肉体性の差異を明確にすることは、今回の課題にとってもきわめて重要な視点だと思います。
死に至った身体を肉体性の象徴とします。
(霊魂は死と同時に肉体から離脱するという考えに基づけば、唯物論者でなくとも死体の肉体性はひとまず受け入れてもらえるでしょう)
であれば、身体性は生とともにあるものです。
先走れば、生きることとは身体性の発現ということになります。
死によって失うものは、肉体や霊魂といった部分ではなく、身体性そのものなのです。
であれば、身体性は、肉体と霊魂(精神)に腑分けできない合一動態概念ということになります。
しかし、肉体と霊魂の二元論は、キリスト教的世界観の波及とともに、また、唯物論的世界観へのアンチテーゼとして、それなりに受容されています。
肉体性(物質性)への嫌悪ないし抑圧は、一部のグノーシスのように霊魂一元論に行き着き、肉体は、仮の宿どころか牢獄として見られるようにもなります。
唯物論は、精神を人間的肉体機能の成果として捉え、人間的肉体の滅びである死をもって精神(霊魂)も同時に消滅するという見方です。
唯物論も、身体の不可分合一の動態性を見失い、思考操作としては区分する意味がある肉体と精神を実在論的に区分する誤りを犯しています。
近代科学は、唯物論そのものではなく、霊魂(精神)の存在を極力排除し、物質的運動として事象を捉えようとするものです。
(科学者は、神の実在性を肯定も否定もする必要がなく、霊魂の不滅を信じようが信じまいがかまわない存在です)
とり上げた「肉体と霊魂の二元論」・「霊魂一元論」・「唯物論」は、セム系人間観(身体論)に由来すると考えています。
また、主観−客観・主体−客体という認識論的構成も、それらと同根であり、セム系世界観に由来すると思っています。
こういってしまえば実も蓋もないのですが、身体という不可分合一動態性を観念的に切り刻み、身体(人間)を肉体と霊魂(精神)の“合わせもの”にしてしまった人間観です。
■ 「受苦思想」と身体性
「旧約聖書」の創世記を読むと、ユダヤ支配層(祭祀階級)が労働を疎ましいものと考えていたことがわかります。
楽園追放はイコール労働の重荷を背負うことです。
創世記には、地べたをはいつくばって働くことへの嫌悪がにじみ出ています。
働くことなく園のなりものをもぎ取るだけで生きていける楽園からの追放は、労働という「受苦」の始まりを示唆しています。
創世記そのものはバビロニア起源と言われていますから、バビロニアの支配層も同じような価値観を持っていたことが推測でき、バール神信仰などセム系宗教全般に通底するものだろうと思われます。
セム系宗教(思想)に共通しているのは、商人的というか貨幣的価値観の表出ということです。
貨幣の観念昇華が超越神(一神教)だと思っています。
あらゆるものの価値をはかる基準であり、あらゆるものと交換ができ、その蓄積が人々をも支配できる力となる貨幣、それ故に人々(商人や銀行家)を駆り立てる貨幣、そのような貨幣に深く染まった人たちが超越神宗教を生み出したはずです。
古代ユダヤ教は、商人的価値観の表出というより現在の日本で悪意を持って語られる“新興宗教”だと思っています。
端的には、楽して効率的に貨幣を吸い上げるために、それをそのような不埒な行為だと思わせないための正当化理論が古代ユダヤ教です。
「旧約聖書」のモーセ五書を読んでそう思わない人は、“新興宗教”に身ぐるみ剥がれても仕方がないでしょう。
ユダヤ祭祀階級は、必死に稼いだ商人の上前をはねる存在であり、頂点に立つ銀行家です。(下層銀行家の上前もはねていたでしょう)
この問題には深入りしないで身体性の問題に戻り、商人や銀行家の身体性を考えて見ます。
商人は移動と駆け引きという身体活動をし、銀行家は駆け引きという身体活動をすると考えることができます。
(飯を食ったりセックスしたり遊んだりも当然しますが、そのための条件を得る活動という面で見たときの表現です)
商人が扱う財は、地べたをはいつくばって収穫した農産物や職人が汗をぬぐいながら造った産品です。
交換が不可欠という経済条件だとすれば、農民や職人の販売活動を代行していると捉えることができます。
銀行家となれば、扱う財はずばり貨幣です。貨幣で貨幣を稼ぐのが銀行家です。
貨幣は人間(社会)がつくり出した“観念的産物”であり、自然的要素や人的活動過程が見事なまでに捨象されたものです。
(金貨であっても、金の自然的特性を活かして消費すれば貨幣ではなくなります。消費しないものが貨幣です)
そして、貨幣で貨幣を稼ぐ行為は、地べたをはいつくばって働いたり、火の側で汗水垂らして働くこととは比較できないほどの富をもたらし、それによって思うがままにそれらの成果物を手に入れることができるものです。
祭祀階級であれば、さらに進んで、金銀をはじめ食糧に至るまで、貢物としてタダで手に入れることができます。
それで得た金銀を貸し出しで増殖させます。
ただ、自分たちは全知全能の神に仕える者たちであるという“理論”でそれが実現できるのです。
商人→銀行家→祭祀階級の順に、身体性のなかの精神的活動により高い価値を見出すということができます。
ここまでくれば、創世記に見られる、地べたをはいつくばって働くことを嫌悪するいわれも理解でき、創世記ではなく現世記すなわち記述当時の価値観の歴史的遡及であったことがわかります。
(日本書紀も、この観点で見ればいろいろなことが読み取れます。最初の記述が“現在”なのです)
身体性のなかの精神的活動により高い価値を見出す意識は、セム系支配層に限らす、支配−被支配の関係性が存在する文明社会の支配層に共通するものとも言えます。
そして、学者階層やメディア従事者そして職業政治活動家なども同じ特性を持っていると言えます。
最後に、上述の説明から、セム系宗教の一つであるイスラムを評価するわけもご理解いただけると思います。
イスラムは、商人→銀行家(金貸し)→祭祀階級のなかで商人のみを認め、祭祀階級と銀行家(金貸し)を認めない宗教です。(法学者・神学者そして為政者が祭祀階級的存在だとは言えます)
広大な砂漠とわずかなオアシスという地理的条件のアラビア半島では遊牧が基本でオアシス農業が補完するというもので、少しでも生活を向上させようと思えば商業活動に励むしかありません。
商人の宗教でありながら、家族と共同体を何より重視し、貨幣的富への執着や貨幣的富の退蔵を悪とし、喜捨を強く呼びかけています。
ムスリムがイスラムの至高性を強く信じているのもそれゆえです。
ユダヤ教も、古代イスラエルの崩壊をもって祭祀階級は消滅しています。
キリスト教も、祭祀階級が支配するカソリックも現存しているとはいえ、それを否定したプロテスタント(英国国教会は擬似カソリックであり別)の信仰者が増えています。
金貸しを放逐すれば(利息制度をなくせば)、身体性のなかの精神的活動により高い価値を見出すことで肉体と精神の分裂意識に陥りやすい銀行家が消滅することになります。
その後、政治家や学者などを含む祭祀階級の役割を無化すれば、類としての身体性が復活すると考えています。
※ 参考資料をとのことですが、セム系思想の普遍化状況にある現実が大いなる参考資料であり、「旧約聖書」から近代哲学・諸科学までのオーソライズされた書籍を身体性論の立場から読み解いていけばいいかと思われます。