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Re: 音読み
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投稿者 愚民党 日時 2003 年 12 月 06 日 11:03:46:ogcGl0q1DMbpk

(回答先: 本を投げたのはお行儀が悪かったです 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 12 月 05 日 18:37:55)

すみちゃん、おはようございます。

1、

(「ウツ−ワ」というのは不思議な言葉だと感じます。
「ウツ」は空虚。カラッポ。 しかし、とそこには「ワ」が充満している。
それは「和」であり、「環」であり、「輪」であり、「円」であり、「弦」である何物か。
自らの形を見いだす以前の空間に渦巻くエネルギーのごときものか。
エネルギーは固有の振動を有し、
自らの形態をこの世に表そうと渦巻いている。)すみちゃん

 この言葉で、彫刻家の言っていることが、はじめて理解できました。
 さすが、すみちゃんだと感銘しました。
 彫刻家はよく木とか石をみて、そこにある「カタチ」を彫り出していくと、どこかで
 読んだ記憶があります。
 「エネルギーは固有の振動を有し、自らの形態をこの世に表そうと渦巻いている」
 それを感受し、彫っていくのが彫刻家であると、実感しました。
 
 小説家も「なにか大きな存在に書かされている」と、何処かで読んだ記憶があります。
 

2、

(「カタ−チ」という言葉も意味がありそうです(これも縄文語か?)。
「カタチ」は形式ではなく、
正式の後ろに渦巻いている、人間にとって絶対に必要な最も大事なモノを表しているように思えます。
チは「血」であり、「父」であるような何者か。
それを型とっていく所作)すみちゃん。

 これは本質だと思います。
 すみちゃんの解析には、日本語の分節をとおして、再度、日本語を再生させていく力を感じます。
 去年まで教えていただいた演出家の白石征さんも、「読み」といいましてせりふの稽古のときは
 「かたち」なら「か・た・ち」と分解して、出せと厳しく俳優を叱っておりました。
 「かたち」と言ってしまうと、せりふが流れてしまい、お客様の身体には届かないというわけです。
 俳優はせりふの意味をお客様に伝えるのではなく、せりふの言霊をお客様に波動させることにより
 「父」と「母」につながる系譜の遺伝子を、お客様身体から振動共振させていくことであたっと思います。
 
 すみちゃんの解析は「音読み」の根源を感じてしまいます。
 
3、

(この人にとって戦後世界って、無きに等しい幻影だったのではないでしょうか?
その幻影の感覚も、小説的唯識論とぴったり合致しています。
ある意味で見事な表現になっていると思います。)すみちゃん。

 三島由紀夫にとって「戦後世界が幻影」だった。自分もそうだと思いました。
 「終わり方がメチャクチャ」なのは、三島由紀夫は結末の一節を書いて決定してから、小説を書き始めると
 何処かで書いておりましたが、物語はそれ自身「カタ-チ」をもって、渦巻くエネルギーを振動させていきますので
 最初から、(終わり)を決定してしまうと、エネルギーを殺すということになり、破綻してしまうのかもしれません。
 三島由紀夫の実人生もおのれを殺すという結末になってしまいました。
 
 三島由紀夫にとって、70年代とはすでに見えてしまったのでしょうか・・・
 「見るべきものは、見る」で、生涯を送ることができなかったのか、と、思うのですが・・・・
 「美しい星」はまだ読んだことがありません。
 
 詩人は演劇をめざす、これが戯曲ですから、読んでもおもしろいと思います。
 せりふに詩的要素が圧縮されているようなものが戯曲にはあるのではないでしょうか。
 三島由紀夫の「近代能楽集」は、かならず若手演出家が挑戦しているようです。
 はずかしながら自分はまだ三島由紀夫の戯曲を読んでおりません。
 シュークスピアはフリーメーソンと言われておりますが、シュークスピアの「マクベス」などは
 せりふのリズムといいますか、読んでも引きこまれます。
 平家物語をあつかった木下順次の戯曲「子午線のまつり」も自分は好きです。
 
----------------
PS、自分は芸術家ではなく「しろうと」なのですが、
   ただ、民衆芸能が成立する場所と過程に関心があります。
   舞台表現が芸術となったときは、制度に回収されたときですから、
   そこではすでに「渦巻くエネルギー」は抜き取られていると思います。
   年1回か2回の公演で、ひとりの表現者として舞台に立たせてもらえることは幸せです。
   自分を舞台市場にさらすことができるからです。
   市場は厳しいですから、いろいろと言われます。言われることは幸福です。
   言われなくなった舞踏は、もう市場にとって関心がないということです。
   
   阿修羅サイトの投稿者は表現者であると思っています。
   阿修羅サイトは読者の応答関係によって、社会関係性を形成しています。
   言葉を社会にさらすことができるのは、表現者の特質です。
   
   三島由紀夫がいまなお、ここ阿修羅サイトで論議されているのは
   三島由紀夫が市場にとって現在進行形だからだと思います。
   それは三島由紀夫が、いまだに制度と批評に回収されていないからであると思います。
   三島由紀夫は市場において謎のエネルギーを有しているのでしょう。
 
   「現在進行形の絵画は投資の対象になる」と書きましたのは
   ゴッホの絵画でもピカソの絵画でも印象派の絵画でも、市場では現在進行形です。
   市場とは応答関係にあります。
   
   阿修羅サイトは応答関係において市場性を有していると思います。
   
   すみちゃん。ありがとうございました。
   

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