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(回答先: 実は武士階層内部がさらに3階層に別れ、武士階層間で激しい差別構造があった。美意識を理由としては武士階層を弁護できない。 投稿者 4958 日時 2003 年 11 月 05 日 02:46:12)
「切捨て御免」いわゆる無礼打ちにたいして、私はいまの人が思っているほど、
当時では武士の強権というわけではなかったように思っておりました。
寛文3年(1663)に、会津藩の武士が無礼を働いた農民を切り捨てたという記録が残っていますが、藩当局はこの武士を「丸腰の農民を切り捨てるとはナニゴトか」という理由で改易に処したそうであります。
尾張藩では、町人の無礼な振舞に腹を立てた武士がこれを斬ろうとしますが、会津藩の前例を知っていたのかどうか、「丸腰の町人を斬ってはまずい」と自らの脇差を相手に渡して「立会い」の形態をとろうとし、そのまま町人に脇差を持ち逃げされるというマヌケな失態を演じています。
テレビなどの影響で「切り捨て御免」は武士階級の横暴の代名詞のようなイメージがあり、たいていの場合において「武士は無罪」とされるような錯覚を植え付けられておりますが、案外当時の町人や農民は「滅多に斬られることはない」ということをよく知っていたという認識でありました。
熊本藩のことを揚げられているようですが、件の文書には具体的な出典あるいは話が載っておるのでしょうか?新聞?「近世大名家臣団の社会構造」?どちらか教えていただければ幸いです。
妄想をまじえれば、徳川幕府最大の仮想敵「薩摩」を押える重要拠点熊本においては一種の恐怖体制をしいていたかもしれません。(天草の乱などもありましたし)
かん
私の当時(太平の江戸)に対する漠然とした認識は士・農・工・商の間においてはヒエラルキーというより棲み分けというか異文化混在的な状況があったのではなどと考えたりします。
(もちろん被差別階級も厳然とあった)
各身分における行動様式や生活規範・価値基準・信仰には相当なへだたりがあったのではないでしょうか?ただし絶対数が多く大多数の出身母体である「農」における「家制度」のヒエラルキー「農村共同体的合議制」みたいなものは各身分のなかにも浸透していたと思っております。
サムライには「家」どうしの殺し殺され改易・断絶などの怨念が歴史的にあり庶民以上に強烈な
差別構造があったとして不思議はありません(土佐の上士・下士など典型ですね)。