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(回答先: Re: 「敗戦責任」とは何か 投稿者 三保平静 日時 2003 年 10 月 26 日 17:53:25)
三保平静さん、レスありがとうございます。
なかで書いているように、「敗戦責任」論を持ち出しているのは、誰某に責任があるかを明らかにしその人を鞭打つためではありません。
(どちらにしても、60年ほど昔の国策に関することであり、その決定及び遂行指揮の頂点にあった人たちは亡くなっている問題です)
戦前もそうだったのでしょうが、戦後の日本においても、稚拙な言い逃れや問題視されない画策することで、国策の誤りが責任論として問われることなく見過ごされてしまうという状況が目立ちます。
北朝鮮の拉致問題もそうですが、バブル形成→バブル崩壊→現在に至る長期不況という戦後最大の国家災厄についてさえ、「国民みんながバブルに踊っていた」とか、「あんな結末になると見通せた人はいなかった」とか、「無謀な不動産融資にのめりこんだ銀行が悪い」といったレベルの説明しかなく、政府及び国会の責任問題そしてあのような経緯になった論理(政策の誤り)は不問という状態が続いています。
このような無責任構造が許されている背景には、日本の歴史を考えたことがある者ならだれもが最大の悲劇と考える「大東亜戦争」とその結果である敗戦と被占領支配に対する責任問題を、極東軍事裁判という戦勝国側の処罰を別にすれば、国家として問うことをしなかったことにあると考えています。
諸外国に与えた災厄もさることながら、国策とした戦争のなかで300万もの国民が犠牲になりながら敗戦という結末を迎え、その結果として、国家統治を6年以上も外国に奪われるとともに国家社会形態の変更を強いられ、外地に在った民間資産も放棄することになったにも関わらず、そのような国策を決定し戦争遂行を指導した国家支配層の責任を国家として問うことをしなかったのですから、敗戦に較べればそれほどではない国策の誤りをしでかしたとしても、それに責任を感じることもない政治指導層が横行し、そのような政治指導層の責任を問う声が大きくならないのも当然だと思われます。
政治的支配層は、政策的に誤りに自らの責任を負うことなく、その結果生じた問題状況への対処として「痛みに耐える」ことや「自己責任や自助」こそが重要だと国民に呼びかけています。
そして、そのようなふざけた倒錯的言動がそれなりの支持を集めているのが日本の現状です。
国家総力戦→敗戦→占領支配という国策過程を指導してきた政治支配層が国家国民に対してその責任をとらずに済んだ、逆に言えば、国家国民がその責任を問うことをしなかったという歴史的ツケが現在にまで及んでいるのです。
>「敗戦責任」とは 「敗戦」シた、コトの 「責任追及」で 「戦勝」スレば 「責
>任」ナド トワレズ 「賞賛」サレます。カッて、イレば モンダイ、ナド オキ、
>ヨウが ナク ソレで イイのでしょうか。
国策を完遂するかたちで戦勝していれば、作戦の巧拙や戦争遂行上で起こした法規違反は問われるとしても、支配層ぐるみの責任問題は生じません。
戦勝後の対中国関係などで新たな問題が起きれば、戦争の課題としていた対中国国策が理に叶ったものかどうかは問い直されるはずです。
もちろん、政治的立場や価値観の違いで、国策に異を唱える人たちはいた(いる)わけですから、そのような人たちが責任を問うことは認めますが、国家として責任を問う義務は生じません。
>「柳条溝事件」と「盧溝橋事件」とは マッタク 「性格」を 「異」にシます。
>「前者」は 「関東軍」の 「陰謀」ですが 「後者」は 「八路共産軍」の 「陰
>謀」です。「橋」を ハサンで 「対峙」スル 「日本軍」と 「支那蒋介石軍」の
> 「両者」に ムカッて 「夜陰」に マギレ 「発砲」シ 「両者」を 「意図的
>に 「軍事衝突」サセた モノです。
事変の発端になった事件や衝突そのものはそれほど重要視していません。
陰謀を含めそのような事件や衝突が企図されたり起きるのは、もっと大枠の政策を実現するためであったり、危うい対抗状況が継続していたことに由来しているからです。
「盧溝橋事件」は、日本軍からの発砲だった可能性は低いと思っていますが、中共軍の発砲という決め付けはできないと思っています。
北京郊外に存在した中国部隊の軍司令官レベルは、日本との融和や国民党の指示遵守を心がけているものが多数派でしたが、若い指揮官レベルは抗日に燃えていました。中共軍ではなくとも、小隊や中隊で日本軍を挑発する可能性は大きかったのです。
(北支問題を解決するために軍を動かしたいと考えていた現地日本軍の参謀が“有能”だったら、「盧溝橋」で夜戦訓練を行えば発砲事件が起きる蓋然性が高いと判断し、そのような訓練を具申したかもしれません)
日本軍は北支問題を有利に解決したいという考えを持ち、駐屯地を北京に近づける動きを見せ(豊島砲台まで進出)、北京から10数キロの「盧溝橋」で夜戦訓練を行うようなことをやっていれば、何かをきっかけに反日感情が高まっていた中国軍及び武装勢力と衝突してもおかしくありません。
また、「盧溝橋」での発砲騒ぎは、中国での戦線を拡大しないという構えで臨むのなら、日本軍の面子が立つかたちでいかようにも解決できるものでした。(地元中国司令官も蒋介石も、軍事的衝突の拡大を望んではいませんでしたし、責任者の処罰にも言及しています)
日本の軍及び政府が、これを機に「侮日・排日の中国を懲らしめる」とか「北支での経済権益を拡大する」といった構えをもっていたからこそ、北支事変がシナ事変まで拡大していくことになったのです。
「盧溝橋事件」は1937年7月7日に起きたましたが、東京の陸軍参謀本部においてさえ、「北支で7月7日に何か不穏なことが起きる」という噂が流れ、ことの真意を確かめようとしたということもありました。
「盧溝橋事件」は象徴的な扱いをされていますが、当時の日本の国策と中国の実情を考えたとき、シナ事変まで拡大するきっかけになる“事件”はいつかどこかで起きただろうと推測せざるを得ません。
>「天皇」の 「大権」とは タテマエに スギズ 「天皇」の 「戦争責任追及」ナ
>ドムリでしょう。「御前会議」とは キマッた、コトを 「確認」スル 「儀式」に
> スギません。
>「天皇」は セイゼイ 「質問」スル、クライしか ミトメラレて
>イナかった。
昭和天皇に「敗戦責任」を認めても「戦争責任」を認めることはありません。
「戦争責任」を「敗戦責任」に置き換えさせてもらうと、天皇の責任を追及できないのなら、国家指導層の責任も追及することができないということになります。
なぜなら、大臣や統帥部で輔弼の任にあったり輔翼を努めていた彼らは、天皇に対してのみ責任を負う存在だからです。
建前であろうか実質であろうが、憲法で統治権の総覧者であり統帥大権保持者であることが規定されている天皇に「敗戦責任」がないという考えは、昭和天皇を冒涜するものだと思っています。
昭和天皇は、立憲君主として、国家に対する自分の責務を全うしようとした人です。
それは、昭和史資料をめくれば随所に現れています。
(天皇による絶対政治や専制政治という見方は、建前としても実質としても誤りです)
昭和天皇が敗戦を受け止めた後に皇祖の栄光と徳を地に貶めた責任を自覚していないとしたら、それこそ日本帝国天皇として万死に値する罪です。
昭和天皇は自分の責任を痛感していたからこそ、戦後、側近が指導者の処罰を助言したとき、昨日まで自分のために尽くしてくれた者たちの罪を問うことはできないと拒否したと思っています。
(昭和天皇は、法理論的には彼しか責任を問うことができなかった軍幕僚・政府を処罰すべきだったのです。それは、法論理から、同時に自らの責任を認めることにもなります)
GHQ及び占領下日本支配層は、天皇に責任を全うさせないという大罪まで犯しているのです。
(昭和天皇は、自己の役割認識を切り替えることで戦後も地位を継続しましたが、それでも忸怩たるものがあったと推察しています)
GHQがスムーズな占領支配と将来の関係性を考慮して天皇の責任を不問にし、日本の支配層は、天皇の責任が明確になれば当然のように自分たちの責任まで問われることになることを恐れていたのです。
天皇の「ご下問」は、極めて重いものです。
天皇を輔弼したり天皇の輔翼を努める臣下は、「ご下問」のなかに天皇の真意を探り、自分の内奏が天皇の意に沿わないものだと判断すれば、それをあきらめ別の内奏を行うという過程を踏んでいます。
「ご下問」には、内奏などに対し、念を押す目的と反対する目的があったのです。
>「戦争責任」なら 「米、英」戦勝国の ホウでしょう。カレラは 「日本」を ワ
>ナに ハメて 「戦争」へ モッていった。「戦前」 「東京」の 「目の前」で
>「日本」の ホコル 「豪華客船」が 「英国海軍」により 「拿捕臨検」サレた。
>コレは スデに 「米、英」で ハナシが デキていて シメシ、アワセて 「日
>本」に ケンカを ウッてきたとしか イイヨウが アリません。
「戦争責任」は持ち出さない考えですし、はめられたほうが愚かで悪いと思っていますから、事実認識はともかく、米英のやり方を非難する気にはなりません。
満州で様々な陰謀をめぐらせて満州国建国までもっていったように、米英も、自分たちの国策を達成するために様々な陰謀をめぐらすのは当然です。
戦前の国策決定過程を調べて驚くのは、対米戦近しという時点でさえ、英米とりわけ米国の対日意図について、国家指導層のなかで決定的とも言える分裂があることです。
陸軍や松岡洋右外相は、日本が現状の国策を是とする限り米国は対日戦に進むという見方をしていましたが、近衛首相や海軍そして天皇側近は、国策の基本を変更する意志もないまま少々の妥協でなんとか米国と協調が図れるのではないかと考えていました。
そして、最大の誤判断は、米国に戦争を避ける意志がないことがわかった途端、日本から米国に戦争を仕掛けるという決定を下したことです。
あの時点の自存自衛=資源問題において英国やオランダとぶつかることはあっても、米国とぶつかるわけではありませんでした。
英国とオランダに対して戦争を始めたからと言って、米国が必ず参戦してくるわけでもありません。それは、欧州戦争に米国が協力しても参戦はしなかったことでもわかります。
アジアで国策を遂行しても米国が軍事的手段で対抗してこないようにと、前年日独伊三国同盟を締結したのです。(米国が先に日本に戦争を仕掛ければ、ドイツとイタリアは米国に宣戦布告する義務を負います)
>イマ マタ イラクで オナジ、コトを ヤッている。コリナイ モノよ。
米英が、撤退というかたちを除けば、敗戦という歴史を持っていないことが一つの要因かもしれません。
三保平静さんが書かれている「「敗戦責任」とは 「敗戦」シた、コトの 「責任追及」で 「戦勝」スレば 「責任」ナド トワレズ 「賞賛」サレます」が、第一次世界大戦そして第二次世界大戦を通じて戦勝国であり続けた米英には通用しています。
第二次世界大戦戦勝国に対する「賞賛」は、戦勝国側からだけではなく、日本やドイツを含む敗戦国でも共有されているといっても過言ではありません。
アフガニスタンやイラクでも、国策を完遂できないまま撤退ということはあっても、敗戦という認識がもたれるような負け方ではないはずです。
敗戦を知らない米英国民に歴史の見直し機会を提供するためにも、日本の「敗戦責任」問題を通じた近代史再考が有効だと思っています。