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文体は目的を表わす
最近、わたしは当掲示板の投稿者であるブルドック氏に「ここは説教板ではない」と噛み付いた。説教や投稿者評価をするなら雑談板へでもいってくれと。
理由は、かれがこの板に議論をしに来ているのでないことが文体から明らかだったからだ。
かれは投稿にさいして「話体」を使用している。
断っておくが、わたしはここで「投稿文や作文に口語を使ってはいけない」といおうとしているのではない。
たとえば学術論文を青森弁の話体で書く人がいないのと同じように、日常会話を文語体で交わす人もいないという、あたりまえのことをいおうとしているだけだ。
議論というのは、述べられた意見の論理的整合性を互いに極力交通可能な簡潔な言語によって検討することであり、その目的に応じてことばの体裁も選ばれる。
議論の場は漫才や演劇の場でもなければパフォーマンスの場でもない。かりに数学や物理学の分野での科学的な検討をインターネットを通して三人の学者がそれぞれ青森弁、大阪弁、沖縄弁で書きあっているシーンを想像してみれば、ことのおかしさを十分想像できるはずだ。(もちろん、吉本興行の演目としてはとても面白いが)。
掲示板上で交通するとき、ブルドック氏のような関西弁の話体が使われる場合、そこには必ず意図的な演技性があると考えて間違いない。
話体が自然である日常生活で文語体の会話をすることがありえないのと同じように、文語体が自然である世界で話体が自然に出てくることがありえない。もしだれかが、そのような意図的な会話をするときには、そこになんらかの目的があると考えてよい。(自分ではその意図目的が意識されていない場合もまれにあるかもしれないが)
わたしがブルドック氏に「説教はやめなさい」と噛み付いたのは、かれの関西弁の話体が議論向きではなく、基本的に投稿者評価しか出来ない(あるいは意識的にせよ無意識にせよ投稿者評価が目的の)文体だったからだ。
○○さんはなかなかものがわかっている。××くんはダメだ。■■氏の投稿はだれだれの資料をそっくり写しているがそんなやり方は云々。etc....。
わたしが危惧するのはこのような「説教」が掲示板の雰囲気をある方向にもっていきかねない、ということだ。
現に、「こんなことを書くとブルドックさんにまた怒られるかもしれない」云々などと、気を使いながら書き込みをしている者も出ている。
こんなことでは、ある人々の好みに合わない者は、なんとなく投稿を遠慮するようになり、このような掲示板の生命であるオープンで自由闊達な雰囲気が枯れてしまうだろう。
ブルドック氏は議論とは「説教のやりあい」だというが冗談ではない。
わたしは「戦争板」でロムし、自分なりに資料として活用させていただいている。たまに自分の受け取り方を議論の場で確認したいと思うこともある。
そんなとき、簡潔な批判をされることは利益になって嬉しいが、態度や頭の良し悪しなどの個人的な評価をいちいちされてはたまらない。
また、ブルドック氏の文体では、その文体自らが投稿者評価しかできない文体なのだ。
かりにそのような文体でどのようにして簡潔な論議ができるのか。
また、論議になったとしても関西弁特有の押しの強さが演技的に付け足されるという非常に不純な、パフォーマンスの高いものになる。
わたしたちは漫才をしているのではないのだ。
以上ブルドック氏をたとえとして出したがこれはあくまでもたとえにすぎない。
「ブルドック氏一般」のみなさまに猛省を促したい。
*なを「説教」への反論はやむを得ず「説教」調になることをご容赦願いたい。