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芸能人とはいかなる存在か
永井俊哉講義録 第162号
芸能界には、美川憲一、カルーセル真紀、ピーコ、おすぎ、山咲トオルなど、男か女かよくわからない人がたくさんいる。こうした性の境界をまたぐ人は、通常の就職では差別されることが多いのにもかかわらず、なぜ少年少女が憧れる職業に就いて、テレビで活躍することができるのだろうか。
民族の境界をまたぐ芸能人も枚挙に暇がない。セイン・カミュ、デーブ・スペクター、ダニエル・カールなど、一見してわかる外人タレント以外にも、名前と外観は日本人風だが、実は在日コリアン(出身)という芸能人も多数いる。松坂慶子、和田アキ子、都はるみ、井川遥、にしきのあきら等がそうだ(と言われている)。ハーフであることは、ニューの方を含めて、芸能人になる上で、メリットになることはあっても、デメリットにはならない。
日本とアジアの文化的境界上に位置する沖縄も、日本における経済的ステータスが低いにもかかわらず、安室奈美恵、喜納昌吉、MAX、SPEED、DA PUMPなど、多くの芸能人を輩出している。フィンガー5などの過去の例を見ればわかるように、これは、沖縄アクターズスクールだけのおかげというわけではない。この他にも、例を挙げることは控えさせてもらうが、人間とは思えないような体格や頭脳の持ち主、人間と動物の境界上の両義的存在も、芸能人として活躍している。
境界上の両義的存在は、スケープゴートの特性である。スケープゴートは、システムと環境との境界を不明確にし、システムのエントロピーを増大させるがゆえに、穢れた存在と表象され、排除されるが、その排除がカタルシス効果をもたらすために、排除された後は一転して、秩序の体現者へと祭り上げられる。イエス・キリストや天皇は、そうしたスケープゴートの段階を経て、社会システムの複雑性を縮減する媒介者となった。では、境界上の両義的存在である芸能人も、同様に、スケープゴートとして、カタルシスをもたらすのだろうか。
古代の日本では、芸能人は、俳優(わざをぎ)と呼ばれた。「俳優」という漢字の「俳」は「戯れ」を、「優」は「憂い」を意味する。だから、「俳優」という漢字の語源は、観客を笑わせたり、泣かせたりする、今の俳優(はいゆう)の演技と遠く隔たってはいない。ならば、古代の日本人が、「俳優」を「わざをぎ」と訓じたのはなぜか。
白川静『字訓』によると、「わざをき」とは、隠されている神意である「わざ」を「招(を)き」求めることである。『日本書紀』では、「猿女君(さるめのきみ)の遠祖(とほつおや)天鈿女命(あめのうずめのみこと)、則ち手に茅纒(ちまき)の鉾(ほこ)を持ち、天石窟戸(あまのいはやと)の前に立たして、巧みに俳優を作す」 この時の俳優行為は、滑稽なものだったようだ。『古事記』によると、アメノウズメは、「胸乳(むなぢ)掛き出し、裳の緒を番登(ほと)に忍し垂れ」、つまりストリップ・ダンスをし、「爾くして、高天原(たかまがはら)動(とよ)みて、八百萬(やほよろず)の神、共に咲(わら)いき」とのことである。岩隠れしていたアマテラスは、神々の笑いを不審に思って、天の岩屋戸を少し開けて、様子を見ようとした。その機会をとらえて、アメノタヂカラヲノカミがアマテラスを引き出し、高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに)は、再び明るくなった 天の岩屋戸の神話が、卑弥呼の殺害と二代目卑弥呼(万幡豊秋津師比売命)の即位に対応していると解釈しよう 古代の天皇は日数み(ヒヨミ→カヨミ→コヨミ)、すなわち暦の支配を職能としていた。だから、卑弥呼の治世の末期のように、天候不順となった場合は、責任を取らされて「王殺し」となることは、未開社会の慣例として、決して珍しいことではなかった。天皇は、そのスケープゴート的起源のためなのか、歌舞伎では、怨霊と結びられることが多い。山口昌男は、天皇、歌舞伎俳優、芸者、遊女、「穢多」は、スケープゴートの候補となるアウトカーストだったと言う 歌舞伎は、「乱暴する」という意味の「かぶく」という動詞が名詞になったものである。折口信夫が言うように、「日本の芝居には、濡れ場・殺し場など言ふ、残虐な或は性欲的な場面が少なくない。[…]しかし、歌舞伎芝居にあつては、既に、其起こりが。乱暴・異風−そして、それが性欲的であつた−を取り入れた芸術なのであるから、そうしたこと−残虐的、或は、性欲的な場面−が、多分にあつたとしても、其は、必ずしも、不思議とするには当たらないのである」 ここで、芸能人とは何かについて、私なりに定義をしてみたい。芸能人とは、その芸能によって、不特定多数の大衆から注目を集めることでその存在が可能となる有徴な存在者である。一般の堅気の職業に就いている無徴の人たち(昔の農民や今のサラリーマン)は、職務遂行上、自分自身を大衆の好奇心の対象にする必要がない。しかし、芸能人、少なくともプロの芸能人は、自分自身を大衆の好奇心の対象にすることが仕事そのものなのである。かつて見世物小屋では、奇形児が晒しものになった。今日、さまざまな境界上の両義的存在者がテレビの画面に映し出されるのも、その異様さが、視聴者の注意を引くからである しばしば、芸能人にプライバシーはないと言われる。実際、有名芸能人は、公人(政治家など、公職に就いている者)でなくても公人扱いで、プライバシーがある程度犠牲になっても仕方がないと考えられている。これは、たとえプライベートなことであっても、世間を騒がせて注目を浴びることは、芸能人の仕事の一部であるからだ。 私の「芸能人」の定義を用いるならば、プロスポーツ選手も芸能人ということになる。芸能人として振舞うベッカムとは異なり、マスコミで騒がれることを好まない、サッカー選手の中田英寿は、サッカーとは関係のない、プライベートなことを聞く記者に嫌悪感を示し、取材を拒絶する。彼は、自分の仕事を堅気の仕事と勘違いしているようだ。 スポーツ(sports)という言葉は、もともと「遊び」「ふざけ」という意味であるが、観客が金を払うプロスポーツは、たいてい狩猟や決闘を起源としている。西洋では、見世物としての格闘技のルーツは、古代ギリシャのオリンピックで行われたレスリングやローマ帝国のコロッセオで行われたグラディエーターの闘いだが、どちらの試合でも、死者続出だった。日本の伝統的スポーツである相撲も、四世紀に成立した当初、相手が死ぬまで闘う決闘だった。スポーツとしての狩猟で獲物(game)を殺したり、決闘で敗者が死ぬの観客が見るのは、エロティシズムの快楽が目的である。サッカー選手がシュートを打ってゴールを決めたり、野球の選手がホームランを打って、ボールを観客席に入れ、観客が興奮するのは、それが射精的行為でもあるからだ。 スポーツ選手を含めて、芸能人が大衆にエロティシズムの快楽を与えるのは、本業によってのみではない。ゴシップ誌やスポーツ新聞やワイドショー番組は、「〇〇が××と結婚!」、「〇〇の愛人発覚!」、「〇〇が××と離婚!」といった、無徴の個人がしたとしても決して報道されることがない、マイナーでプライベートなネタを「電撃的スクープ」と称して、連日大々的に報道して、大衆の覗き願望を満たしている。供犠執行人が刃物で生贄を切り裂き、その内奥を暴き出すように、あるいは、興行主がストリップ・ダンサーに服を脱がせ、その裸体を観客に見せるように、イエロー・ジャーナリズムは、芸能人の私生活を公衆の面前に赤裸々に露出させ、エロティシズムの快楽を求める大衆を喜ばせる。 大衆は、エロティシズムにおいて犠牲者と一体となり、そしてこの集団的な内的体験を通して、大衆どうしが一体となる。実際、大衆たちは、共通の関心事である芸能人を話題とすることでコミュニケーションしている。だから、スケープゴートは、社会統合の原理(コミュニケーション・メディア)となるのであり、その結果、天皇のような社会統合の象徴的存在と近似した存在様態を持つのだ。そして、ここから、なぜ芸能人が容易に政治家になることができるのかをも説明することができる。 1995年に、東京都と大阪府で、タレント出身の知事が同時に誕生した。昨年は、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガーが、カリフォルニア州知事に就任して話題となった。知識人たちは、経済や法についてほとんど何も知らない俳優やスポーツ選手などの芸能人が、選挙で当選する現象を衆愚政治として非難するが、経済や法に詳しいスペシャリストなら、ブレーンとして雇えばよいのであって、それよりもむしろ、大衆がトップの資質として問題にすることは、自分たちの統合を代表象するようなカリスマ性を持っているか否かということである。指導者が、凶弾に倒れたことで、神格化され、その妻が、政治の素人であるにもかかわらず、次の指導者に担ぎ上げられることが発展途上国でよくあるが、それも同じ理由による。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0162.htm
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