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拝啓 小泉首相殿 22 昔、インドの苦しみを知る(白蓮)
Date: Wed, 24 Dec 2003 20:01:53 +0900
Seq: 37162
拝啓 小泉首相殿 22 昔、インドの苦しみを知る(白蓮)
日本アラブ通信 編集長
日本ペンクラブ国際委員
阿部政雄
masao-abe@hi-ho.ne.jp
インディアン・エクスプレスの報道として、インド人米兵で初犠牲者となったパン
ジャブ州出身のウダイ・シンさん(21)が家族にあてた最後の手紙で「父さん、だ
れが敵なのか分からない」「毎日少なくとも20回から30回襲撃されている」と書
いていたと知りました。2000年にシカゴに移り米陸軍に入隊し、9月以降イラク
に駐留し、来年1月に米国籍を取得できる見込だったそうです。「ブッシュ戦争でイ
ンド人家族が息子を失った」と一面でインドの英字に報じられたこのニュース、米国
籍欲しさとはいえ、痛ましい犠牲です。
インド政府は現情勢ではイラク派兵決定への国民の支持を得にくいと判断、「イラ
ク暫定政権が樹立され、その正式な要請を待って派遣する」と米側に説明し、パジパ
イ首相もインドが派兵しなかったのはよかった語っているといわれています。
毅然としたインドの態度と比べ、「血を流せ、カネもよこせ」のブッシュ政権に唯
唯諾諾と従う貴方の政権が、これが「本当に日本の政府」かと腹立たしい限りです。
「おい、コイズミ、手前(てめい)出番がやっと来たぜ。その働きぶりをみせてく
れ」「親分、合点だ。伊達に別荘で盃は頂いちゃいませんぜ。生きのいい若いもんに
重装備させて送り込みますから、安心して見てておくンなせい」とかなんとか、ゴッ
ドファーザーと三下子分のやり取りを毎日大型画面で見せられているような感じです
です。こんな安手の「三文オペラ」に出演していると、日本に高いツケがだんだん回っ
て来る不吉な予感がします。
さて、インドのイラク派兵反対の態度に感銘したことを書きましたが、小生、イン
ドが奇縁で、一度だけ宮崎白蓮先生にお会いする機会があリました。もう44年以上
の昔のことです。そのとき頂いた20ページほどの短歌の雑誌に次の一首が載ってい
ました。
民族の悲しみは 今に 我にきて
昔 インドの苦しみを知る
正直いって、当時小生は、白蓮先生は大正時代の大歌人で、美貌なるがため没落華
族を救うべく大炭坑主に娶られたが、愛なき結婚に絶縁状を突き付けて家を出て、当
時東大の新人会(マルキシズム研究会)の7才年下の宮崎竜介氏と駆落ちし、苦難に
めげず愛を貫いた人という程度のことは聞いていました。
1959年初夏、当時、平凡社の創立者下中弥三郎先生の下で「インド友の会」の
事務局をしていました小生が先生の部屋に挨拶に入った時「阿部君、悪いけど明日の
午後3時頃から、神田の如水会館で今度私が訪問するインドで、大統領に寄贈するこ
とになった日本の邦楽の名曲レコードの試聴会をするので、君は目白の宮崎白蓮先生
のお宅にお伺いして、ご高齢で脚も弱っていらっしゃる先生を御案内してくれないか」
と申し付けられました。
翌日の午後、目白のご自宅にお伺いし、白蓮先生の入れて頂いたお茶を頂きながら、
庭に面した縁側でインドのことなど20分ほど、お話をさせて頂きました。竜介先生
もニコニコしながら聞いていらっしゃいました。
「阿部さんはお若いのに、何故インドに関心がおありなの」と白蓮先生に聞かれた
小生は、「インド友の会」でいくつかのインドとの交流の仕事を手がけていたので、
タゴールのこと、インド舞踊団の初来日と全国公演、1959年初頭カイロで開かれ
たアジア・アフリカ青年会議の帰路に立ち寄ったニューデリー、カルカッタでの経験、
スバスチャンドラボーズ、ネルー、ガンジー、とりわけガンジーの哲学が好きで、
「目的の正しさを手段の正しさで証明する」というガンジーの教えは一生の教えにな
りましたなどを熱心に語りました。小生が戦後、アジア、アフリカとの連帯の仕事を
終生の仕事にしたいと思ったのも、戦時中信じ込まされていた「大東亜共栄圏」なる
ものが虚構であったことが判った悔しさからですなどとも申しました。
「まあ、阿部さんはアジアにそんなに熱心なの。実は私も一人息子をインドで戦死
させてしまったのよ」「これに私の歌が3首載せてあります。これを記念に差し上げ
ます」といって頂いた20ページほどの歌の雑誌(先生主宰の「ことだま」?)の中
にあった3首のうちの1首が、上記の歌でた。半世紀に近い昔に一度読んだだけで
今でも記憶しているのはこの歌の素晴らしさです。
昔イギリスがインドを植民地にした時、イギリスの東インド会社のインド人傭兵
セポイが1857年反乱をおこし、イギリスの支配に不満を持つ旧支配層や、近代的
地租制度によって没落した大土地所有者、土地を失った農民、木綿工業の不振で職を
失った商工業者など広範な階層の人々が加わり、北インド全域に及ぶ大反乱となった
のはよく知っていました。自衛隊は、明らかに、ネオコンの利益を守る占領政策のた
めのアメリカのまごうことなき傭兵です。白蓮先生が「昔、インドの苦しみを知る」
という意味を今しみじみ噛み締めています。
本来傭兵というのは、雇った方は、わずかでも金を払ったり、報酬を考えるもので
す。今回の派兵により、自衛隊員か、イラク人が鮮血で染まるかもしれません。その
時の遺族の悲嘆を小泉さんは考えたことがありますか。先月2人の外交官がなくなっ
たとき、確か「ああそうですか、それはそれは」という言葉でしたね。それが合同葬
では「2人は日本国、日本国民の誇りでもある。・・・日本政府は遺志を受け継ぎ、
国際社会と協力してイラク復興に取り組んでいく」と自衛隊派遣につないでいこうと
いう、自己中心の考え方、ご都合主義の見本みたいな弔辞を述べましたね。お二人の
遺志というのは、もうこれ以上の犠牲者を誰一人出さないということと違いますか。
白蓮先生が「一人息子をインドでなくしたのよ」とおっしゃったとき、小生は、日
本軍はビルマのインパール作戦で多くの戦死者を出していたのを知っていたので、
「エッ!インドで!」と心で思いましたが、もう目白のお宅を出る時間でしたので、
とうとう聞き損ねてしまいました。目白から神田の神保町までのバスの中でも、先生
の悲しみをかき立てるばかりではないかということや、周囲の客のこともあり、遂に
どうしてインドで亡くなられたのか聞きそこねてしまいました。
お会いした時、白蓮先生は69才頃だったと思います。旧姓柳原燒子(あきこ)、
大正天皇のいとこにあたる藤原北家の流れを汲む柳原前光(さきみつ)伯爵の次女で、
すでに白髪の気品のある美しい方でした。日本のノラ(戯曲「人形の家」の主人公)
柳原白蓮・・・それは大正時代を生きる人びとにとっては、情熱とロマンの象徴だっ
たといわれています。いつもほほえみを浮かべ、優しく、少しも偉ぶらないその人柄
は小生の心の中にラジウムのように光っています。
白蓮先生が、一人息子・香織(早大生)の戦死の公報をうけられたのは、終戦の年
だったことで、その髪の毛は一夜で白髪となったといわれています。戦後の歌人・婦
人運動家・そして戦争で子供を失った母として各方面で活躍することになられたこと
も知りました。
白蓮先生、宮崎先生そして、アジア解放の夢を生きた父親の宮崎滔天など紹介した
いことは多いのですが、最後に一つ、懐メロ好きの小生が附記したいのは、宮崎白蓮
を主人公とした映画が終戦の翌年1946年に渡辺邦男監督 脚本 八住利雄 で『麗
人』として封切られていることです。白蓮を原節子、竜介を藤田進が演じ、古賀政男
作曲でつくられた「麗人の歌」は当時大流行したそうです。(封切当時、小生は見逃
してしまいました)しかし、これは東宝系の映画をバックにしたカラオケに入ってい
るので、たまに歌うことがあります。「夢は破れて花嫁人形・・」といった古賀メロ
ディです。
バックに流れる映像から、竜介が権力の横暴反対の演説をすると立ち会いの警官が
「弁士、中止」と叫び、続いて「検束」の号令で竜介の逮捕のシーンが映され、家を
追われた2人がリヤカーで家財道具を運ぶ姿も見られます。確か、暁子は子どもを背
に負っていたような気がします。病弱の夫を支え、貧しさと戦い、母として、妻とし
て、人間として充実した日々を送った白蓮先生を永遠に忘れないでしょう。
若い人びとがもっともっと日本のことを知って欲しいと願ってやまない次第です。
(転送歓迎)
http://www1.jca.apc.org/aml/200312/37162.html