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上流の堰(手前)で流れをいったん緩め、下流の堰が流れを用水路(右上)に引き込んだ=伊丹市岩屋
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/031220ke5210.html
兵庫県教委埋蔵文化財調査事務所は十九日、伊丹市岩屋の岩屋遺跡から、杭(くい)を約百本ずつ打ち込んだ三つの堰(せき)と用水路など弥生時代前期(紀元前四世紀)の大規模な灌漑(かんがい)施設がほぼ完全な形で見つかった、と発表した。
水稲耕作の初期にあたるこの時期の堰は全国で十数例あるが、用水路とともに出土し、水の勢いや流れを変える仕組みが確認できたのは初めて。
大阪空港周辺緑地整備事業に伴い、同事務所が九月から約千四百平方メートルを調査、発掘した。
三つの堰は幅約二十メートルの河川跡から十五―二十メートル間隔で見つかった。
最下流の堰は、水流を用水路方向に変えていたとみられる。流れに直角に丸太を置き、真上や斜めから複雑に杭を打ち込んだ上、アシなど草の束で補強。水流から堰を守るため頑丈にしていた。中央の堰は他の二つより杭が約一メートル高い。水の流れをいったん緩やかにし、用水路に流れやすくしたとみられる。
杭はクヌギなどの広葉樹で、丸太の先をとがらせて刺すなどしていた。用水路(幅約二メートル、深さ約一メートル)は、この時期としては極めて珍しいV字断面が確認された。
約一キロ離れた田能遺跡(尼崎市)や勝部遺跡(豊中市)など、猪名川下流域の集落が共同で整備し、水を引いた可能性が高いという。農業史に詳しい大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長(64)は「水稲が始まった時期に高度な技術があったことに驚いた。朝鮮半島や中国でも大規模な灌漑施設の出土例はなく、第一級の史料」と話している。
現地説明会は二十一日午後一時半―三時。同遺跡事務所TEL072・784・0080
★この遺跡を弥生時代で紀元前四世紀としているが、以前であれば縄文時代とされた時期である。下の投稿記事http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/496.htmlのように弥生開始期を炭素年代法により紀元前10世紀まで遡るという新説が提起されている。今回発掘された遺跡がどのような方法により年代が決定されたかについて記事は触れていない。今後長期に渡って縄文〜古墳時代の年代は洗い直されることになり、その間はこうした古代史の記事・論文における年代記載は方法を付記すべきであろう。