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>>日々通信 いまを生きる 第83号 2003年12月12日<<
62年前の12月8日、その朝、私は軍事教練の服装をして、赤羽に近い荒川の河川敷
にいた。私は中学3年だったから、銃は持っていなかったかも知れない。寒い朝だっ
た。
その頃は年に一度、軍の査閲というものがあって、それは軍事教練にとって大変大
事な行事だった。その予行演習のために全学生が集合していたのだ。
日本が西太平洋上で米英と交戦状態にはいったと聞いたのは、その全員集合の隊列
のなかでのことだった。
朝のニュースを聞かずに家を出たものが多く、その情報は口から口へとささやくよ
うに伝えられて行った。
西太平洋とはどこなのか、交戦状態に入ったというのはどういうことかと、私たち
は低い声で話し合った。それがあんな大きな戦争だとは誰も知らなかった。
日中戦争がはじまった時のことを思い出し、あるいは偶発的な小競り合いかも知れ
ないと、私は言った。
先生たちも落ちつかなかったのだろう。その日は野外教練は中止され、私たちは、
三々五々、帰宅の途についた。
帰り道で、少しずつ様子がわかった。歩きながら、店先から聞こえてくるラジオを
聞いたのだ。
家に帰ったころ、宣戦の詔勅が放送された。
重々しい、威圧するような声だったと思う。
アナウンサーも興奮していたが、町の様子は日頃と変わらなかったと思う。
勅語のあとで、「君が代」と「海行かば」が歌われたのではなかったかと思うが、
このことについての記憶はたしかでない。
伊藤整の「太平洋戦争日記」は、午後になるとラジオが日米の戦争、ハワイの軍港
へ決死的大空襲をしたこと、タイに進駐した事等を報じ、「敵は幾万ありとても」な
どが放送されていたと記している。
私が中止された教練からの帰り道で聞いたのは、こんなニュースであったろう。
伊藤はまわりの様子があまりいつもとかわらないので変な気がしたと書いている。
私にはなにか魂の抜けた非現実的な世界を歩くような気がしていた記憶がある。
夜の9時のニュースで、ハワイ空襲の大戦果が伝えられた。「戦カン二沈没、四隻
大破、大形巡四隻大破、航空母一隻沈の由。立派なり。日本のやり方日露戦と同様に
てすばらしい」と伊藤の日記は記している。
相次ぐ戦果の発表で異常な興奮がひき起こされたが、なにか現実感に乏しいふわふ
わした感じだった。
電燈は暗くしたが、すべては昨日までと変わらない。それなのにアナウンサーは興
奮して、大戦果を伝えている。
戦争を生きるとは、このような奇妙な落差を生きることなのだろう。
いまこの時何がおこっているかを私たちは知らなかった。
いまこの時がどこへつづくのかも知らなかった。
野村大使が派遣されて、ハル国務長官と交渉しているということは、中学3年の私
でも新聞紙上で知っていて、なんとか打開の道が開かれるのだろうと思っていた。
だから、日米開戦のニュースに驚き、それを理解することができなかったのだ。
しかし、野村ハル会談が行われているあいだに、日本の連合艦隊はハワイ進攻のた
めに太平洋を東進していたのであり、フィリッピンその他各戦線では奇襲攻撃の準備
が進められていたのであった。
それぞれの場所で、国民の一人一人は自分の知っていることだけを知って、全体の
展望を持たずに生きている。
新聞はその全体の展望を得るための唯一の情報源だった。
もちろん当時はテレヴィはなかった。インターネットもなかった。
ラジオは、次々と大本営発表のニュースを流し、国民を煽動したが、国民に戦争の
現実についての認識をあたえるためのものではなかった。
しかし、新聞も検閲や時代におもねる編集方針のために、ひたすら戦争を美化し、
正当化し、国民を戦争に駆り立てる道具になって、現実の真相に迫るための情報を提
供するものではなかった。
しかし、私たちはあたえられた情報を通してしか現実を知ることはできない。
伊藤整が「得能五郎の生活と意見」新聞読みに熱中する得能五郎の姿を描き出した
のは、当時の知識人の一般的な姿をあらわしたのであったろう。
たしかに、新聞なしには現実を知ることができない。
しかし、いくら新聞を読んでも、真実はわからない。むしろ、新聞を熱心に読めば
読むほど、間違った認識に導かれるということがあるのではないか。
それは、昔のことだというのだろうか。いまは大丈夫だというのであろうか。
いまは、テレヴィという文明の利器があって、朝から晩まで情報を流している。深
夜の2時3時から夜明けまで、つまり24時間、それも衛星放送で海外のニュースがその
まま流される。
しかし、テレヴィを見ているから世界がわかるとは言えない。
まして、意図的に国民を煽動することを目指す情報が、連続的に、多重的に、くり
かえしくりかえし流されている。これが、国民の意識を操作する役割を担っているの
だからおそろしい。
いまではインターネットというものがあって、ここではもうほとんど無数といって
いい程の情報が日夜流れている。
それを一生懸命に追いかけていれば、ほとんど何も手につかなくなるほどで、あま
りに多い、多様な情報に訳がわからなくなってしまうほどだ。
しかも、私たちには一番大事な情報はあたえられていないように思われる。
あの9・11を私たちは予知することが出来なかった。
それからの展開も私たちの予測を越えている。そして、これからどうなるかという
ことになれば、分かっているようではあっても、やはり、わからない。
こうして私たちは歴史の大波に押し流されていくのであろうか。
12月8日のことを考えるとき、12月9日に金子健太、宮本百合子、守屋典郎ら396人
が一斉に検挙されたことを忘れることはできない。12月中には約1000人が検挙された
という。歌人の渡辺順三も、この時検挙され、すぐれた獄中吟を残した。
戦争をはじめる前には、戦争に反対する思想や運動に対する弾圧が行われるが、い
よいよ戦争がはじまると、いっそうそれがきびしくなり、現になにかをやったという
のではなく、なにかをやる危険がある、可能性があるということで拘留されたのであ
る。治安維持法の予防拘禁といわれるものである。
日本ではある思想をもっているというだけで治安維持法によって犯罪になった。思
想犯という言葉は私たちが子供のときからよく聞いた言葉で、私の両親などはそれを
もっとも恐れていた。日本の文学が思想性や社会性を失い、身辺雑記に傾いたのはこ
のためだという面もあるだろう。
左翼思想が弾圧されてからは、世の中に氾濫する思想というものは、右翼的な、あ
るいは戦争肯定的な思想ばかりであった。考えてみれば、1920年代の後半、昭和とよ
ばれる時代の初年代は左翼思想の花盛りだったのだが、1931年の満州事変に突入した
ころから、左翼の言論に対する弾圧が強まった。
前号でふれたように小林多喜二が殺され、滝川事件を契機とする大弾圧で言論思想
界は一変する。プロレタリア作家同盟をはじめとする文化団体が次々に解体され、大
学もまた国家主義適言論が支配して、左翼的、民主的、自由主義的教授たちは次々に
大学を追われた。
左翼から右翼へ転向した知識人も多かった。青白きインテリという言葉が流行し、
インテリの弱さが嘲笑され、行動力が讃美された。共産主義とか社会主義、自由主義
などは観念的な西洋の思想であるとして排撃され、民族への回帰が時代の趨勢になっ
た。その背後にはドイツにおけるナチスの勝利というものがあったと思う。
ドイツは、世界恐慌で日本を含む世界経済が、失業者が続出し、破滅の底に転落し
ていったとき、驚くべき活力で復活をとげ、異常な発展を遂げたのだ。
西洋を非難する人々がヒトラーには心酔した。1936年のベルリンオリンピックは、
民族の祭典、美の祭典として、日本人の心をも強くとらえた。
思想を排撃し、西洋を非難する人々がナチスの思想に拝跪したのは不思議なこと
だ。なるほどそれは知識人を排撃し、肉体と行動を讃美した。懐疑を嘲笑し信仰と服
従を強調した。しかし、彼等の讃美する民族は西洋の民族ではなかったか。黄色人種
の日本人に対する嫌悪と侮蔑を、彼らは隠そうともしなかったのではないか。
しかし、ナチスは西欧を席捲した。美と文化の国フランスは、このドイツに敗れ、
英国もその空襲の恐怖におののいていた。
日本はこのナチスの勝利に鼓舞されたのだ。ドイツの勝利に便乗して、<仏印>、
ヴェトナム、カンボジアに平和進駐し、フランスの権益を奪い取った。
いま、日本のイラク出兵に際し、日本の歴史がさまざまに思われる。
国際強調とか、イラクの復興とか、平和とか民主主義とか、憲法の前文までも引用
し、コイズミ代官は美辞麗句を並べ立てる。
あの戦争のときも、開戦の勅語をはじめ新聞に大活字で伝えられる東条その他の軍
人たち、また、国粋的思想家たちの言葉は、東洋永遠の平和とか、アジアの復興、共
存共栄などという美辞麗句に飾りたてられていた。
思想とは美辞麗句のことであろうか。内容のない美辞麗句の氾濫は無意味であるだ
けでなく、危険である。
コイズミ代官の構造改革はいったい何であったのか。
そうして、私はいま私が取り組んでいる横浜市大改革について思うのである。
それもまた、<市大よ生まれ変われ>をスローガンに<魅力ある大学>をつくれと
か美辞麗句に飾られているが、それはまったく無内容な空中楼閣に過ぎない。なんの
ための改革か。言葉はあるが内容はない。改革というものはどんな改革でも未来の夢
を触発する要素をはらんでいるものだが、この改革にはそれがない。
これはなぜなのだろう。
私は市大改革について書くつもりだったが、例によってあてのない脱線の連続で、
本論にはいることが出来なかった。
来週、私たちは記者会見をおこなう予定になっていて、その準備で心が落ちつか
ず、この通信も遅れてしまった。
もう一つ、11月30日に多喜二ライブラリー主催のシンポジウムが行われ、私も、私
なりに納得のいく報告をおこなうことができたことをお伝えしておきたい。
この報告の草稿と大学問題については、いずれも、ホームページにおさめておいた。
関心のある方はご一読ください。
いよいよ、12月も半ばになろうとしている。
皆さん、風邪をひかぬよう、この一年の最後の日々をお元気にお過ごしください。
伊豆利彦のホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
ところで、故障でインターネットに接続できないため、この通信の発送はいつになる
かわからない。
半身不随に陥った気分である。