。もしも、ストレスが高まることで何らかの有害物質が体内に発生し、そして涙を流すことでその有害物質が排出されるのならば、フレイの仮説は正しいことになるが、そうした証拠は見つかっていない。フレイは、さらに、ストレスへの抵抗力を強化するホルモンの分泌を促す副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が、涙の分泌を促す機能も持っているということを発見したが、この発見も、「なぜストレスを低下させようとすると涙が流れるのか」に対する説明にはなっているが、「なぜ涙を流すとストレスが低下するのか」という説明にはなっていない。冒頭で、「泣く」を"cry"と"weep"の二つに分類したが、"cry"では、涙が出なくても、叫び声が出る。ストレスを解消する上で重要なことは、"cry"の場合でも、"weep"の場合でも、何を出すかではなくて、出すことそのものではないだろうか。私は、前回の160号で、人がなぜ笑うかを考察したが、感情的な涙も、笑いと同様に、生理学的にではなくて、象徴的に説明するべきだと思う。笑うことで口の中に入った異物を排除し、泣くことで眼に入った異物を涙で洗い流すというように、両者は、生理学的な生体反応を起源としているが、物理的な異物がない時も、心のごみを排除するために、物理的異物を排除する時と同じ行為が象徴的に行われると考えることができる。
「うれしくて泣く時にも、捨てるべき心のごみがあるのか」と読者は反論するかもしれない。そこで、うれしくて泣く時がどういう場合なのかを考えてみることにしよう。宝くじを引いて、たまたま当選した人は、うれしくて歓声を上げたり、小躍りしたりすることはあっても、涙を流すことはない。これに対して、長い間の努力が実って念願を果たした時、あるいは長い間無事を心配していた家族と再会できた時、それまで蓄積されてきた苦労と心配から解放されて、人は涙を流す。すなわち、うれしくて泣く時とは、棚から牡丹餅が落ちてきた時ではなくて、積もり積もった苦労と心配を洗い流す時なのだ。
では、怒って泣く時はどうだろうか。怒りとは、不等価交換で不利益を被っていると感じた時に発生する感情である。例えば、金を騙し取られた時、被害者は、投資した金額よりも少ない額しか回収できないのだから、その差額に比例して怒る。その怒りを騙した相手に向けている時、被害者は、カッカとして、泣いたりはしない。だが、怒りを自分に向け、「あんなやつに騙されるなんて、自分はなんてバカなんだろう」と嘆く時、被害者は悔し涙を流す。だから、怒って泣く時は、悲しくて泣く時と心的状態に大差がない。
悲しさ、悔しさ、心配、恐怖といった感情は、自己の存在が危うくなる時に生じる感情である。システム論的に表現するならば、自己の存在が危うくなるとは、システムのエントロピーが増大し、環境との差異が維持できなくなりそうになることである。この時、システムは、自己を維持するために、内部のエントロピーを縮減する、つまりごみを外へ捨てることを試みる。涙を流すということは、悲しさ、悔しさ、心配、恐怖といった心の中に生じてくるごみを象徴的に洗い流し、排除しようとする、システムの自己防衛反応であると解釈することができる。
この解釈に反対して、"cry"であれ、"weep"であれ、泣くことの目的は、危険の存在や自分の感情を他者に伝達するコミュニケーションにあるのではないかと考える向きもあるかもしれない。たしかに、泣くことには情報伝達の機能がある。泣くことが、進化のプロセスにおいて淘汰されなかったのは、この機能に負うところがあるのかもしれない。しかし、私たちは、周囲に誰もいなくても(というよりも、誰もいない時こそ)頻繁に泣くし、また泣くという行為は、他のコミュニケーション行為とは異なって、不随意であることが多い。だから情報伝達の機能は、あくまでも派生的な機能であって、本来の機能であると言うことはできない。
心のごみを捨てるという、笑うことと泣くことに共通する浄化作用を、アリストテレスの術語を使って、カタルシスと名付けることにしたい。アリストテレスによれば、悲劇は「憐れみ(エレオス)と恐れ(ポボス)を通じて、このような諸感情の浄化(カタルシス)を達成する」。このカタルシスをどう解釈するかをめぐっては、諸説があるが、私はもっとも伝統的な解釈である瀉出説を採りたい。瀉出説とは、悲劇の効用を、観客に自分の悲しみを瀉出させ、感情を浄化させる点に求める立場である。「悲劇を観ると悲しみはいっそう深まるだけで、悲しみが瀉出されるということはない」と言って、この解釈に反対し、悲劇の効用を、道徳的な魂の浄化に求める道徳的教訓説もある。だが、悲劇は勧善懲悪劇ではない。アリストテレスも言うように、悲劇の主人公は、観客の憐れみの対象とならないような悪人であってはいけないのであり、むしろ、平均的な観客が自己と同一化することができるようなタイプの人物でなければならない。
観客が悲劇に期待するものが、お説教でないとするならば、何なのか。それは通常、悲しみだと考えられている。しかし、もしも悲劇を観ることで悲しみがよりいっそう大きくなるとするならば、つまり苦痛が大きくなるとするならば、なぜ観客は、わざわざ貴重な時間を割いて、金を払ってまで悲劇を見に行こうとするのか。時間と金を消費してまで悲劇を観ようとするということは、観客が悲劇に期待しているものが、苦ではなくて快であるということである。
災難が我が身に降りかかることは苦だが、その悲しみを打ち消すために涙を流すこと自体は快である。悲劇の観客は、災難に遭うことを自分たちの分身である悲劇俳優に代行させて、その分身に同情し、涙を流す快だけに与る。だから、悲劇を観ることは娯楽でありうるのだ。この点、悲劇を観ることは、生贄を屠る儀式に参加することと似ている。誰も生贄にはなりたくないし、悲劇的な体験の当事者にもなりたくない。だが、大衆は、生贄を殺害して聖なる恍惚を経験することや、悲劇を観てカタルシスを経験することなら好んでするのである。これはたんなる比喩ではない。生贄の儀式と演劇は歴史的につながりがある。歌舞伎の舞台を桟敷と言うが、桟敷はもともとは犠牲の場であった。また、生贄の儀式とは少し異なるが、公開処刑なども、娯楽の少なかった過去の時代においては、大衆にとっては格好の見世物であり、気晴らしだったのである。
アリストテレスは、『政治学』で、神憑的音楽による宗教的熱狂にもカタルシス効果があると言っている。今の若者が、クラブで「エクスタシー」(忘我)とよばれるドラッグを服用し、「トランス」(恍惚)とよばれる音楽を聴きながら「アゲアゲ」になって「気晴らし」をしているのを思い浮かべるとわかりやすい。「忘我」的「恍惚」状態において、人は、魂が身体から抜け出でて「上昇」し、心が肉体的な穢れから浄化される、文字通り「気が晴れる」ような浄化の体験をする。これが、供犠執行時の神秘的体験と同じであるあることは、157号で既に指摘した。アリストテレスは、『政治学』で、カタルシスについては、『詩学』で詳しく論じると約束しているが、現存の『詩学』第一巻では、カタルシスという言葉が悲劇の定義に使われているだけで、カタルシスとは何かについて詳しくは論じられていない。『詩学』は、第一巻で悲劇を、第二巻で喜劇を論じることになっていたので、アリストテレスは、失われて読むことのできない第二巻で、カタルシスについて詳しく論じていたと推測することができる。パリ国立図書館所蔵のコワスラン文庫120番と名付けられた、アリストテレスなどの著作からの抜粋集には、「喜劇は、滑稽にして、大いさを欠くが、まとまった行為の描写であり、作品のそれぞれの部分ごとに、その種類に応じて、行動や報告によって描写を行い、快と笑いを通じて、このような感情のカタルシスを成し遂げる」という一文がある。この文が、『詩学』第二巻の中の一文なのかどうかは極めて疑わしいが、アリストテレスが、カタルシスを喜劇の効用と認識していた可能性は高いと私は考えている。
160号で、私は、笑いを、現実が期待以下であることによって増大するエントロピーを縮減する防御反応と位置付けた。現実が期待以下である、つまり失敗は、それ自体は苦だが、その失敗を笑い飛ばすことは快である。喜劇の観客は、失敗することを喜劇俳優に代行させて、その失敗を笑い飛ばす快だけに与る。だから、喜劇を観ることは娯楽でありうるのだ。このように、笑うことと泣くこと、喜劇と悲劇は、通常考えられているほど対立的ではなく、カタルシスという点で共通点が多い。
「カタルシス」という言葉は、今日、精神療法の用語として使われている。カタルシスに象徴的意味しかなく、生理学的根拠がないからといって、なんらの医学的な効用もないとは言えない。私たちは象徴的世界で生きている存在であり、「病は気から」なのである。道化師が病院で患者を大いに笑わせ、現代医学では治療不可能とされている難病を治したといった類の話はたくさんある。泣きたい時に、涙を流して思いっきり泣くことも、ストレスを発散させるので、健康にとって好ましい。男性の平均寿命が女性の平均寿命よりも短いのは、男性は、幼少時から「男のくせにめそめそ泣くな」などと言われて育ち、泣くことを抑制しているため、ストレスを溜め込みやすいからだという説すらある。
カタルシスは、最もプリミティブな治療方法である。読者の中にも、子供の頃、痛くて泣いている時に、母親の「痛いの痛いの飛んでいけ」というおまじないで癒された人がいるに違いない。未開社会の医師である呪術師が行う治療も、これと同レベルなのだが、もっと手の込んだ手法が用いられることがある。カナダのクワキウトル族のあるシャーマンは、患者から病原体を吸い取り、それを患者の目の前で吐き出すことで病気を治した。もっとも、シャーマンが吐き出す「赤い粘々した物」は、本当の病原体ではなく、あらかじめシャーマンが口に含み、舌や歯茎から出した血で血まみれにした綿毛の小さな房なのだが。そんな療法はインチキだと読者は思うだろう。しかし、インチキであれなんであれ、それによって病気が治るとするならば、医療行為である。もちろん、インチキであることがばれてはいけない。室町時代、祈祷師たちが、足利義持の病気を狐憑きのせいにして、狐をひそかに病床に持ち込み、それを放つことで病気を治そうとしたが、事前にばれて、流罪になったという話が『看聞御記』にある。
病気が心因性のものであるならば、科学への信仰が厚い医者でも、カタルシスをインチキ扱いすることはできない。フロイトの精神分析学的な精神病の治療も、無意識へと抑圧された「病原体」を言語的な表出によって患者の意識に対自化させるのだから、一種のカタルシスと解釈することができる。
カタルシスによる精神の病の治療は、近代以前でも、宗教的な儀式として行われていた。例えば、中世ヨーロッパでは、司祭が、告解(懺悔)を聞いてやることで教区民の魂を救済した。後ろめたい思いを自分の胸の中にしまいこむよりも、他者に打ち明けて、放出した方が、健康的である。告解の後、「自分がした罪深い行為は、これですべてだ」と思えば、むしろ気が楽になる。だから、告解には、宗教的儀式としての性格以外に、医療的カタルシスとしての性格もある。
医療的カタルシスの日本での例としては、修験者(密教の祈祷師)による悪霊祓いを挙げることができる。汚い手段でライバルを蹴落とし、権力を握った者が、怨霊による復讐を恐れてストレスを溜め込み、病気になったとするならば、祈祷師に祓い清めてもらうことは、治療の方法として有効である。祈祷師は、まず、患者に憑いている(と本人が信じている)怨霊を霊媒者に降霊させ、霊媒者の口を借りて祟る理由を語らせる。その上で、祈祷師は、その霊体を供養して成仏させる。そこには、二重のカタルシスがある。怨霊に恨み辛みを吐かせることは怨霊にとってのカタルシスであり、そして、自分を苦しめていた怨霊が、カタルシスにより成仏したと想像することで、その患者は、自らのカタルシスを成し遂げる。
カタルシスは、個人の病気のみならず、社会の病気の治療にも使われる。社会という生命システムは、内部のエントロピーが増大すると、それを縮減するために、内部の異物をスケープゴートとして排除しようとする。社会不安が起きると、大衆迎合型の扇動屋が現れて、「悪いのはみんなコイツのせいだ」と悪者の糾弾を始めるものだ。目に見えない苦しみが、目に見えるわかりやすい「赤い粘々した物」に置き換えられ、それが排除されるのを見て健康な状態に戻るクワキウトル族の患者と同様に、大衆は、目に見えない社会不安が、目に見えるわかりやすい悪者に置き換えられ、それが排除されるのを見て、平常心を取り戻す。大衆は、スケープゴートは悪者だから排除しなければならないと思っているのだが、実際には、排除するためにスケープゴートは悪者に仕立て上げられるのである。
スケープゴートに、本当に責任があるかどうかということは、社会的カタルシスが効果を表す上でどうでもよいことである。同様に、苦しい時に排出される涙に、苦しみをもたらす有害物質が含まれているかどうかということは、泣くことがカタルシス効果を表す上でどうでもよいことである。排出それ自体に意味があるのだから、感情的な原因で涙を流したり、叫び声を上げたりすることに、物質的な根拠は不要である。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0161.htm
人はなぜ笑うのか 永井俊哉
http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/623.html
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