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「北東アジア共同の家」に対する大きな違和感
戦後民主主義の虚構を撃つ
「『在日』は、ある意味で戦後民主主義が『虚妄』であることを告発し続ける『生きた証人』でもあるのだ。戦後民主主義と平和憲法の輝かしい理念の誕生が、何を排除し、忘却してきたのか、それを撃つ『生きた証人』、それが『在日』ではないのか」(本書「あとがきにかえて」から)。
本書は、「在日」としての自らをこのように語る姜尚中が、「戦後民主主義を『虚妄』に終らせないために、『在日』を通じて朝鮮や中国など、アジアとの交わりに粉骨砕身する知識人」(同前)と評する闘う弁護士である内田雅敏と交わした、それぞれの個人史をめぐる往復書簡と対談、そして二人の小論から編まれている。
この数年間、日米新ガイドライン、周辺事態法、テロ対策特別措置法、有事関連三法、そして自衛隊イラク派遣法と、「戦争のできる国家体制」を形成し憲法を破壊する攻撃が、文字通り矢継ぎ早に押し進められてきた。本書が編まれた目的は、この逆流に抗して闘う側の思想的出発点を、「戦後民主主義」から排除され続けてきた「在日」という側から再確立しようとするものである。
巻頭には、姜と内田の個人史をめぐるそれぞれの書簡が置かれている。姜はこの書簡のなかで、「二人の叔父」についてのエピソードを綴っている。一人の叔父は、大日本帝国で高等教育を受けて憲兵となり、戦後一時韓国に帰国したとき朝鮮戦争が勃発したため、日本に残る妻子と生き別れになってしまった。もう一人の、血のつながりのない心優しい「叔父」は、逆に韓国に妻子を残して来日し姜の家族に身を寄せて廃品回収や養豚を手伝い、全くの「無学」のまま、一度たりとも「陽の当たる場所」に出ることもなく、一人で死んでいった。
姜はこの二人の人生を通して、日本帝国主義の朝鮮植民地支配とは何か、「在日」とは何か、そして「在日」を排除したうえに成立した「戦後民主主義」とは何だったのかということを、静かに語りかけている。
内田は中学生時代、「戦記物」の好きな「愛国少年」だった。彼は当時、ともに「戦記」を語りあっていたS君が、担任教師の名簿に「三国人」とメモされていることを発見し、「在日」であったことを知った時の複雑な思いを語っている。
さらに、彼が初めて「朝鮮問題」に出会ったというべき一九六五年の日韓条約反対闘争当時の問題意識には、日本による植民地支配の問題や日韓条約が「在日」の生活にどのような影響を及ぼすのかという重大な問題が完全に欠落していたことを語っている。「革命」を叫んでいた戦闘的左翼部分も含め、当時の日本の左翼、革新勢力の大部分が、そのような水準だったのだ。そしていま日本社会は、かつての侵略や植民地支配への根本的な反省を欠いたまま、「海外に軍隊を送って戦争をする国」に再びなろうとしている。
「戦争する国」への流れに抗して
続く本書の中心部分である対話「ふたつの個人史をめぐって」では、それぞれの手紙を出発点に、日本の戦後史や日本社会の特質など、さまざまな問題が縦横に語られている。
日本の支配体制にとっては、植民地支配の過去を「厄介払い」するものに過ぎなかった五九年の「北朝鮮帰還運動」。植民地支配への反省を欠いた六五年の日韓条約反対闘争。姜と内田のそれぞれに興味深い学生運動体験。敗戦と解放という、日本と朝鮮半島にとっての八月十五日の「二つの意味」。三韓征伐、秀吉の朝鮮出兵、征韓論、日本帝国主義の植民地支配から戦後のアカデミズムの世界にまで底流として続いてきた朝鮮蔑視論。
センチメンタルな「情の世界」を基盤として、外部には極めて暴力的となる日本ナショナリズムの特質。天皇制を軸とした「戦前」と「戦後」の一体性。アメリカの天皇制を利用した戦後統治とセットで導入された、憲法九条と沖縄の米軍支配。憲法九条が平和のために客観的に果たした大きな役割。アメリカへの従属構造と経済危機のなかで強まる、屈折した親米・反中国朝鮮ナショナリズム……。
「対話」はこのように多様な論点で、「戦争をする国」に突入しようとする日本の政治の流れに抗う運動が持たねばならない意識、あるいは認識を、多面的に浮き彫りにしている。
韓学同と私の「国際主義」
対話のなかで私が一番興味深かったのは、姜が学生時代に所属していた韓国学生同盟(韓学同)時代の体験談だった。韓学同は韓青同とともに、朴軍事独裁政権の出先機関化していた民団(在日韓国居留民団)の傘下団体であった。韓青同と韓学同は民団内民主化闘争を闘い、より先鋭に闘った韓青同は民団から敵性団体処分を受け、韓学同も数年遅れて結局、敵性団体処分を受けることになる。
韓青同が処分されたことを受け、姜が所属していた韓学同は「組織の外でラディカルにやるか、枠内にとどまって民団内民主化闘争を続けるか」で激しい論争の末、民団内に残って闘う方針を決定する。姜はこの判断について、次のように語っている。
「韓国をとにかく民主化しなくちゃいけない。民主化することが必然的に将来の統一につながっていく。だから、絶対に『韓国的なカテゴリー』から逸脱してはいけないと考えていました。……『反共』という巨大なハンディを背負った社会のなかで民主化をやらざるを得ない、……いかに遵法(じゅんぽう)闘争をやるか、いかに遵法闘争のなかで自分たちの主張というものを在日の社会に投げかけていくか、この問題意識がギリギリのかたちで、絶えずありました」。
私が当時加盟していた学生インター(第四インターナショナル日本支部に連携する学生組織)は、「安保体制の強化で日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」という主張に象徴されるような、当時の平和運動や新左翼諸派を含む左翼運動を、「国民平和主義」として強く批判していた。
戦後平和運動は、沖縄と韓国を軍事植民地とするアメリカ帝国主義の軍事力でアジア革命の激動から切り離されたことによって成立した「一国的平和」を守ろうとするものに過ぎず、日本の労働者人民はそのような政治的意識の延長線上で革命の主体となることはできない。日本の労働者人民は、米軍政と対決する沖縄人民の闘い、朴軍事独裁政権と対決する韓国人民の闘い、アジア革命の最先頭でアメリカ帝国主義と対決するベトナム人民の闘いに主体的に「獲得され」なければならない。これが当時のわれわれの主張だった。
したがって、朴軍事独裁政権と対決する韓国民主化闘争との連帯や、戦後平和主義の虚構性を告発する「在日」との連帯は、ベトナム革命連帯闘争と並んで、われわれの最大の闘争課題の一つだった。
当時われわれは、朴独裁政権と対決する民主化闘争に連帯し、韓国で政治犯として逮捕された在日韓国人学生・徐勝君兄弟の釈放を求める運動や民団自主守護闘争防衛の闘い、韓国人被爆者・孫振斗さんに「直ちに被爆者手帳を」と要求する運動などに精力的に取り組んでいた。
われわれは民団から「敵性団体」とされた韓青同と連帯して運動していた。当時私の在籍していた大学に、韓学同に所属していた学友がいた。学生インターに所属してはいても朝鮮連帯闘争を直接担当していたわけではなかった私には、韓学同と韓青同との区別もほとんどつかず、彼をわれわれが韓青同などと連帯して取り組む行動に誘ってもはかばかしい返事をもらえず、「韓学同というのは、どうも行動的でない。一体どうなっているんだ」と不信感を抱いた記憶がある。
姜は本書で、先に引用した部分に続き、当時の気持ちを次のように語っている。「正直言って、日本の新左翼の学生たちをうらやましいと思っていたことも事実です。とにかく、在日の場合、手かせ足かせでがんじがらめだった。『世界革命』まで飛べない。縛られてるから、地を這うような活動しかできなかった。その意味でも逆に自由の跳躍があるという、日本の若者にある種のうらやましさがありましたね。……自分たちは縛られて、ここでしか動けない。祖国にも帰れない。ここでとどまってみみっちく何かやるしかないじゃないかと」。
私が行動に誘った在日の学友は、しばしば「学同(韓学同のことをそう呼んでいた)の会議がある」と言って早大に出かけていった。彼は当時早大の学生だった姜らと討論していたのだろう。われわれは社共や新左翼を「国民平和主義」と批判し、自分たちこそ真の国際主義者であると自負していた。しかし、少なくとも、学生インターに結集してまもない私の「朴独裁打倒闘争連帯」や「世界革命」は、姜らの在日としての苦悩を全く理解しない、表面的なものに過ぎなかったのだ。
西欧帝国主義の美化ではないか
「対話」と小論では共感するところも多かったが、違和感を持った点をいくつか指摘しておきたい。一つは、日本の植民地支配への反省のなさを告発するあまり、西欧帝国主義の植民地支配を美化してしまっていると思える点である。
内田は言う。「同じ帝国主義国家でも、フランス、イギリスには、日本と別のつき合い方があるわけでしょう。誤解を恐れずに言えば、いわば『宗主国』としての責任を持ったつき合いといいますか」。
姜が応えて言う。「根本的に違うのは、フランスやイギリスは相手をはっきり異質なものと認めていることでしょう。フランスの場合はインドシナを文明化することは『白人の使命』になる。ところが、日本の場合は日鮮同祖論がある。相手を文明化するのは同じでも、相手は異民族じゃないという同祖論。そこのところが違う面があると思います」。
しかしイギリスもフランスも、そしてアメリカも、過酷を極めた植民地支配と独立運動へのすさまじい弾圧を公式には一切反省も謝罪もしていないし、「戦後補償」もしていない。アルジェリアはフランスからの独立闘争の過程で、人口の九分の一に当たる百万人以上を殺害された。ベトナムも、フランスからの独立闘争を引き継ぐアメリカ帝国主義との闘いで、三百万人以上を殺害された。アメリカの植民地だったフィリピンでは、米軍はかつての「インディアン狩り」と同様、殺害した独立運動の戦士の遺体から耳を切り取って死体の数を数えていた。「異質」だからこそ、同じ人間とは考えていなかったからこそ、すさまじい残虐行為が平然と行われたのだ。
「日鮮同祖論」も「白人の使命としての未開民族の文明化」も過酷な植民地支配を正当化するために作られた帝国主義の論理であって、どちらがましか比べるようなものではない。暴力的で、残虐で、過酷で、しかもそれを反省しようとしない点については、何の変わりもないのである。
「北東アジア共同の家」の論理
最大の違和感は、姜が提唱し内田が強く賛同する「北東アジア共同の家」構想に対するものである。「北東アジア共同の家」構想とは、「性急なレジーム・チェンジ論(金正日体制の打倒)」に反対し(姜)、ありのままの北朝鮮を含む日韓・日朝・日中の政治経済共同体を作ろうというものだ。
来日した韓国ノムヒョン大統領は国会演説で、北朝鮮の問題については「対話を通じて平和的解決すべきだ」とし、日本が勇気を持って過去の問題を反省することで韓日両国が「歴史問題」から解き放たれ、自由な交流の時代を作ることができると呼びかけた。内田はノムヒョン演説のこの部分と、それに続く「欧州は単一市場、単一通貨まで実現し、国民の間の心の障壁は崩れ落ちた。韓日両国が意志をともにすれば、北東アジアでもこうした協力の未来を切り開くことは可能だ」という一節を引いて言う。
「全く同感である。差別思想にもとづき北朝鮮を『犯罪国家』と位置づけ、米国をバックとして『アメとムチ』とりわけ『ムチ』で北朝鮮に対処せよと声高に語る人々がいる。このような敵対思想からは『北東アジア共同の家』を作り出すことができない」。
もちろん姜も内田も、金正日支配体制が過酷な独裁支配体制であるというということを前提にして論を立ててはいる。しかしこの「北東アジア共同の家」という構想では、一かけらの民主主義もない「強制収容所国家」のなかで日常的な飢餓と絶望と死に追い込まれている北朝鮮民衆にどのようにいま手を差し伸べるかという問題意識は、完全に後景に退いている。
確かに、朝鮮半島を分断に追い込み、結果として金日成│金正日専制支配を生み出すことになった責任は日本帝国主義の植民地支配にあり、しかもその過去の清算も終わっていない。それは日本のわれわれにとって解決しなければならない重い負債である。
しかしだからといって、かつてのカンボジア・ポルポト体制に比肩するようなすさまじい専制支配体制への断固たる批判を回避しなければならない理由はないし、その専制支配体制から逃れようとする民衆を支援しようという呼びかけを差し控えなければならない理由はない。北朝鮮の民衆にとって、金正日体制は一日でも早くなくなった方がよい存在であることは、動かしようのない事実なのである。
新自由主義との闘いの欠落
もう一つの違和感は、この「北東アジア共同の家」という発想には、世界の、そしてアジアの労働者人民に過酷な「底辺への競争」を強制する新自由主義グローバリゼーションとの闘いという問題意識が欠落しているのではないかということである。
ノムヒョン政権は、「北東アジア経済中心国家建設」のスローガンのもと、新自由主義グローバル化の先兵となって韓中日FTA(自由貿易協定)を押し進めている。そしてそのもとで韓国では、本紙でもさまざまに報じているように、ノムヒョン政権と資本の激しい弾圧に抗して、民主労総に結集する労働者が連続的「焼身抗議」など文字通り血を流し命を賭した激烈な闘いを続けている。
民主労総は韓日自由貿易協定阻止を掲げ、日本の左派労働運動と連帯して闘っている。内田が「全く同感である」として引用したノムヒョン国会演説の後半部分は、この韓中日FTAに向けた呼びかけであり、決意表明でもあるのだ。
中国・胡錦涛政権と韓国・ノムヒョン政権は、金正日体制の一挙的崩壊による巨大な経済的・政治的負担を恐れている。そのため両政権は、金正日体制の一挙的崩壊を回避しながら、中韓の市場経済体制のなかに軟着陸させようとしているのである。
しかし金正日体制は、自壊するにせよ軟着陸するにせよ近い将来、韓国への吸収合併を避けることはできない。金正日支配体制がなくなってしまえば、「北東アジア共同の家」に残るのは「日中韓FTA」という多国籍資本が思うままに振る舞うことができる政治的経済的枠組みだけになってしまうのではないだろうか。
多国籍資本はEUという「ヨーロッパ共同の家」のなかで、国境を超えた生産移転で労働者を脅迫し、「底辺への競争」に追い込んで賃金と労働条件を切り下げ、政府には法人税や社会保障企業負担の切り下げ競争をさせている。労働者はドイツでもフランスでもイタリアでもイギリスでもこのような多国籍資本の攻撃と対決し、国境を超えて連帯しつつ大規模なストライキやデモで闘い抜いているのである。
ノムヒョン政権がめざしているのは、北東アジアにおけるこのような「共同の家」にほかならない。韓中日労働者人民は、多国籍資本のためのこのような「共同の家」にいかなる幻想も持つことはできないし、持つべきではないのである。
崩壊に向かう金正日専制支配
金正日官僚専制支配体制は、三百万人以上の餓死者を出した九五年│九七年の危機以降、中国、韓国、そして日本やアメリカなどからの年間百万トン以上の食糧や燃料や肥料をはじめとする大量の無償援助がなければ、すぐにも崩壊してしまうという体制的危機の最終局面に入っている。その現実については本紙(4月7日号)でも詳しく指摘した。
北朝鮮の子どもたちへの食糧援助に取り組んできた大阪中央地域日朝共闘が公表されたデータをもとに作成した資料(02年7月)は、八〇年に五百四十万トンだった銑鉄生産量が九九年にはわずか二十五万トンに激減した表を示して次のように述べている。「銑鉄とは製鉄の最も基本的な工程で高炉を用いて生産されるものである。これを見ると、まるで高炉が次々と倒れているような激減ぶりである。製造業の基礎である製鉄でこのような状況であれば、近代工業は壊滅していると考えてよい」。
人民が飢餓に直面し続けているだけではない。「近代工業が壊滅」し、ほとんどの工場が止まっているだけではない。軍が演習する燃料にも事欠いているだけではない。韓国・統一研究院は、金正日の「先軍政治」で最も優遇されてきたはずの軍隊から食糧不足などで脱走する兵士が、〇一年から〇二年の一年あまりで一万五千人に達したと発表した。野盗化した軍の一部が中国に侵入して強盗を働き、中国政府を激昂させている。
中朝国境では、ヤミ経済でマフィア資本主義化した官僚の金正日支配体制からの部分的「自立」と、中国のヤミ経済との結合が始まっている。金正日を現人神とする「唯一指導体制」の統制力は、あらゆる面で瓦解し始めている。「北東アジア共同の家」は、このような現実にどのように対応するのだろうか。
金正日体制を打倒しようとする意識的主体と運動が北朝鮮人民のなかに存在し、それが世界に呼びかけるものでない限り、経済制裁は絶対にとるべき措置ではない。それはイラク・フセイン体制に対する国連の経済制裁が百万人以上の犠牲者を出したように、最も弱く最も救援を必要とする部分に打撃を集中することになるからだ。
植民地支配の清算をかけてわれわれが訴えるべきなのは、「日本政府は無条件に北朝鮮難民を受け入れよ」ということではないだろうか。同時に、中国政府と韓国政府に対しても、「国境を開き、脱北者を受け入れよ」と要求しなければならない。国境が開かれれば、すでに自壊し始めている金正日専制支配体制は、瞬く間に崩壊するだろう。
戦争の危機は現実的なのか
「北東アジア共同の家」を提起する姜と内田の強い問題意識は、ブッシュ政権が北朝鮮金正日体制の武力による打倒をめざしており、それによって発動される朝鮮半島の悲惨な戦争を何とかして食い止めなければならないというものである。
もちろんブッシュ政権は武力行使という最後のオプションを残してはいる。しかしその可能性はほとんどない。その理由は、金正日専制支配体制はアメリカ帝国主義にとって軍事的「脅威」となるような力を持っているわけではなく、しかも打倒すればイラクのように周辺地域一帯の戦略配置をアメリカに有利な方向へ激変させ得る可能性もなく、そのうえイラクのように石油資源を持っているわけではなく、さらに言えばすでに現実に崩壊的危機に陥っているからである。
もし武力行使して、金正日の最後の反撃で「ソウル火の海」が現実化し韓国経済が瓦解したりすれば、アメリカ帝国主義にとってはむしろ損失の方がはるかに大きくなってしまうだろう。「悪の枢軸」に北朝鮮が入れられたのは、「イスラムとの対決」の構図を回避するためだったことを、ブッシュのスピーチライターが告白している。
「北東アジア共同の家」は、可能性のほとんどない「戦争の危機」を過大評価するあまり、崩壊に直面する金正日体制下でいまも続くすさまじい人権侵害に苦しむ北朝鮮民衆との連帯を後景に退かせてしまったものなのではないだろうか。また付言すれば、「グローバル戦争」は、新自由主義グローバル化の政治的表現である。新自由主義グローバル化との闘いという観点を欠いた反戦運動は抽象的「平和主義」に陥ってしまうことを、「北東アジア共同の家」構想は示している。
暴言多謝。(11月16日 高島義一)
http://www.jrcl.net/web/frame031124a.html