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台湾は誰のもの?
レルネット主幹 三宅善信
▼先住民ではなくて原住民
10月24日(日本時間)、中国近代史の中で数奇な運命を辿った(近代史を翻弄した?)故蒋介石中華民国総統夫人の宋美齢女史が「終の棲家」のニューヨークで逝去した。なんと享年105。ここまで来たら、執念としか言いようがない。浙江財閥「宋家の三姉妹」の内、長女の宋靄齢は国民政府財政部長の孔祥煕夫人、次女の宋慶齢は「中国革命の父」孫文中国名誉国家主席夫人、そして三女がこの宋美齢であることはよく知られている。「宋家の三姉妹」は、日本の安土桃山時代に、織田・豊臣・徳川三政権の中で数奇な運命を辿った「浅井長政の三姉妹」(註:長女の茶々は豊臣秀吉に、次女の初は京極高次に、三女の江は徳川秀忠に嫁いだ)にも匹敵する玉である。先月、初めて台湾に行ったので、ちょうど、台湾について書こうと思っていたところである。これこそ「数奇なタイミング」と言えよう。
9月25日から28日までの日程で、国連経済社会理事会の諮問を受ける数少ない国際NGOのひとつIARF(International Association for Religious Freedom=国際自由宗教連盟)の評議員として私は、IARF日本連絡協議会(JLC)のメンバーと共に台湾(中華民国)を訪問し、現地の原住民(註:日本では「言葉狩り」という馬鹿げた慣行のせいで、少しでもネガティブな響きを感じさせるこれまで「土着民」や「原住民」という言葉で知られていた概念は、のべつまくらつ「先住民」というふうに書き改められることになったが、台湾では、中華民国政府の公式の文書でも「原住民」という言葉が使われている。現地の人に「なぜ先住民という言葉を使わないのか?」と尋ねたら、「先住民とは、もう既に死んで亡くなった人のことです」と言われた。確かにそのとおりである。日本語でも「先亡者」と書けば、既に亡くなって供養の対象となる人々のことを指すのである。「元から居る人」という意味なら「原住民」が正解である。したがって、本論では現地での呼称を尊重して「原住民」という言葉を用いることにする)の生活状況や、中華民国政府の対原住民施策の視察および原住民との意見交換を行なってきた。
▼三位一体論と21世紀のバベルの塔
世界各地のマイノリティ(宗教的少数派や民族的少数派)の人権を擁護するために、ユニテリアン(註:キリスト教世界では4世紀以来、広く一般的に信じられている「トリニティ(三位一体論:神格として父(神)=子(イエス)=聖霊が一体のものであるとする基本教義)」の教説を否定し、「子なるイエス」は、あくまで「優れた人」であって、「父なる神」とは別物であるという意味の「キリスト単性説(Unitarism)」を信奉する人々。彼らは長年にわたって、キリスト教世界において三位一体説(Trinitarism)を奉じる多数派から迫害され続けた歴史を持つ)を中心に、1900年に米国のボストンで設立されたIARFは、この分野では「世界最古のNGO」と言ってもよい団体である。現在、その国際事務局を英国のオックスフォードに置いているが、私はその団体に二十数年間にわたって関わり(註:春秋に欧州で開催される役員会には、ほぼ毎回出席している)、昨年からは、世界で17人しかいない国際評議員の一人を務めている。
そのIARFが、東アジア地域の先住少数民族についての調査を行なうため、2001年には北海道各地のアイヌを、また2002年には琉球列島南西端の竹富島で土着の風習について、それぞれフィールドワークを行なったが、今年は、台湾の原住民を調査することになった。私は、本業である彼岸関連の一連の祭事を終えた9月25日夜、台北経由の便で台湾島南端にある高雄(Kaohsiung)に入った。台北は東京やニューヨークと同様に、国際的な大都市(註:超高層ビルと言えば、誰でもマンハッタンの摩天楼をイメージするが、現在では、高いほうから数えて世界で10番目までの超々高層ビルは、すべて東(南)アジア地域に建っているのである。因みに、竣工間近なTAIPEI101は、高さ508mという現代のバベルの塔である)であるが、高雄はもっとローカルな感じ(それでも、高雄一高いビルは85階建ての超々高層である)がして、台北のように取って付けたような大仰な国家的モニュメントがない分だけ、大阪人の私には馴染めるものがある。
▼ マダガスカルからイースター島まで
26日、私は高雄市政府の原住民事務委員会を訪れ、まず主任委員のササラ・タイバン(Sasala Taiban)氏と意見交換を行なった。ササラ氏は、その名が示すとおり、漢民族ではなく原住民であるが、高雄市という地方自治体の職員として、原住民の人権の擁護や経済生活の向上のために働いている。ここで、台湾に暮らす原住民族(複数)について概観しておく。ササラ氏によると、台湾島に住む原住民族(註:日本統治時代には「高砂族」と総称された原住民は、実は多くの異なった部族に分かれている。因みに、「高砂族」と命名したのは、大正時代にチベットやシルクロード探検で有名な西本願寺第22世門主の大谷光瑞である。中華民国では、日本の命名を嫌い、「高山族」と呼んだ。もちろん、「高砂族」は蔑称どころが、大変な雅称である。ただ、「日本人が命名した」ということが気に入らないらしい)の起源は古く、現在では、Saisiat(賽夏)族、Bunun(布農)族、Thao(邵)族、Tsou(鄒)族、Rukai(魯凱)族、Paiwan(排湾)族、Yami(雅美)族、Puyuma(卑南)族、Amis(阿美)族、Atayal(泰雅)族と十部族の山岳原住民族(高山族)が残っている(註:それ以外にも、平地で暮らしているうちに漢人と混血が進んだ「平埔族」と呼ばれる十数部族存在している)が、この小さい島(ほぼ九州と同じ面積)にもかかわらず、それぞれの原住民族の間には、人類学的・言語学的に相当な「隔たり」があるそうだ。
それぞれの部族と共通の先祖を有する人々は、西はアフリカ大陸と目と鼻の先のマダガスカル島、南は南極に近いニュージーランド、東は南米チリ領のイースター島に暮らす人々と、それぞれ共通の先祖を持っていると言われている (註:科学的根拠がどこまであるか私には判らないが、少なくとも、現地で刊行されている解説書には、そう書いてある) 。このことだけでも、台湾に暮らす原住民族は、地球的な広がりを持った人々と言える。確かに、実際彼らに会ってつぶさに観察してみると、顔の人類学的特徴が相当多岐にわたっていることだけは確かだ (註:私は、オーストロネシア語に関しては、全く知識がないので、彼ら同士の会話から言語学的特徴について云々することはできない) 。
しかし、ただひとつ確実に言えることは、これほど、それぞれの部族の多様性を残したまま、多くの原住民族が、21世紀の今日に至るまで「絶滅する」ことなくこの島に残ったこと自体「ひとつの奇跡」とも言うことができよう。(註:20世紀の中頃まで、世界中で約6,000の言語が確認されていたが、このままでは、21世紀の中頃には、100の言語しか残らないという推計がある一方で、20世紀の中頃には、約50しかなかった独立国が21世紀の初頭には約200と4倍増している現象をいかに解釈すべきであろうか)もし、この島の原住民が言うように、西はマダガスカル島、南はニュージーランド、東はイースター島に暮らすそれぞれの人々がすべてこの島から拡がっていったとしたら、まるで台湾が「エデンの園」(註:アダムとイブの長男「カイン(弟アベルを殺して、最初の殺人者となった)の3人息子セム・ハム・ヤペテが諸民族の父祖となった」というお伽噺)である。しかし、実際に、世界中の各地に見られる諸原住民族同様、近代になって実に多くの原住民が存亡の危機に瀕しているのである。市場経済の世界において、大規模小売店が進出することによって、零細な個人商店が駆逐されるのと同じ構造である。
▼台湾はもともと日本領?
台湾島に最初に進出した「大型店」は、意外なことに近隣の中国ではなく、はるか西洋のオランダである。17世紀初頭、日本や中国大陸進出を図るオランダが、この島に軍事的拠点を設置するために、この島を占拠した。もちろん、当時すでに、対岸の福建省辺りから民間レベル(海賊や貿易商あるいは「難民」として)で渡ってきていた漢人(明人)たちは相当数いたのであるが、これらの人々は、この島に独自の「政権」を形成することがなかった。このオランダによる台湾島の武力占領については、意外なことに、当時の中国政府(明朝)は、「この島は日本領(あるいは琉球領)だ」と思っていたので、オランダ政府に積極的に抗議することはなかったそうだ。案外、知られていないが、大明帝国は中国史上で最も海軍力の充実した帝国で、15世紀初頭の第三代皇帝世祖永楽帝の時代には、イスラム教徒の鄭和提督の率いる大艦隊(註:1艘の大きさが、なんと全長130mX幅55mX排水量500t三階建ての巨大戦艦62艘で編成。総乗組員数は28,000人! 15世紀末のコロンブスの艦隊が250tの戦艦3艘総乗組員88名だったことと比較するとその圧倒的な規模がよく判る)が、7回にわたる大遠征を行い、アラビア半島からアフリカ大陸東岸まで進出し、珍しい交易品を帝都までもたらしていた。
ところが、中国大陸において、新たに東北の辺境満州から勃興した女真(ジュルチン)族の後金(後の清朝)によって、漢人の王朝である明朝が滅ぼされたことによって、日本でも『国姓爺合戦』(註:本件に関する解説は、『新国姓爺合戦:大陸と台湾どちらと組む?』を参照されたい)でお馴染みの明の商人と日本人女性とのハーフである英雄、鄭成功将軍率いる明の残存勢力が大量にこの島に渡ってきて、台湾島の状況が一変した。鄭成功は、「明朝復興(大陸奪還)」をスローガンに、この島を占領していた少数のオランダ人を駆逐し、ここに「復明」の亡命政権を築いた。しばらくの期間は、清朝も大陸の経営に精一杯で、台湾の亡命政権を黙認していたが、鄭成功の死後は勢力が衰え、ついには清朝の軍門に下った。
ただし、もともと満州の馬賊(満州八旗)出身の騎馬軍団国家である清朝は、積極的に台湾島を経営することはなかったので、相変らずこの島には、いわゆる「お尋ね者」のような連中が大量にこの島を根城にし、それぞれ海賊行為(註:いわゆる「倭寇」は、必ずしも日本人という訳ではなく、東アジア地域において国家統治の外側にいる人たちのことであった)などを行なっていたが、これを取締まる意志も能力もなかった清朝では、たびたび台湾島への渡航禁止令(註:もちろん、原因と結果が逆)などを出したりしていた。その際、もともと農耕に適したこの島の西半分(中国大陸側)の平野部にいた原住民たちは、すっかりこの島の東半分(太平洋側)の急峻な山岳地帯へと追いやられてしまっていた。もちろん、中国文明的感覚からすれば、「中華の礼教」の及ばない周辺の諸民族は、日本を含めてすべて「蕃(蛮)族」という括りになり、ひとつひとつ異なる諸蕃の文化など、動物の生態と同じようなもので、華人にとっては、そもそも知的な関心の埒外であった。
▼日本が「発見」した原住民
このような、数奇な台湾の歴史的変遷の結果、皮肉なことに、台湾の原住民の存在が国際社会に紹介されるようになったのは、1895年の大日本帝国による台湾の併合によってである。日清戦争の結果、台湾(それ以外に、遼東半島と澎湖諸島も)を国際法的にも正統な手続き(『下関条約』)によって清国から割譲された日本は、本格的にこの島の経営に当たることになるが、この島の山奥に中華の民とは言語や習俗を全く異にする多数(註:当時の分類基準によると、45の「原住民族がいた」と紹介されている)の原住民族がいることを「発見した」日本は、学問それ自体まだその草創期にあった文化人類学(民族学)の研究者たちをこの島に派遣し、この島の原住民族の文化をはじめて科学的な手法によって調査した。
しかも、欧米帝国主義的な意味での植民地化政策(註:植民地化した地域に棲む人々を「同じ人間」とは見なさず、奴隷化も含めて、単なる経済的簒奪の対象としか見ていないのが、欧米的な意味での植民地化政策。歴史上、アフリカや南米等で行われたことを見ればよく判る)の何たるかを知らなかった(この点については、『反日:日本帝国主義は存在しなかった』に詳しく紹介)日本政府は、朝鮮半島同様、この島の人々も内地の人々(日本の人民)同様に「皇民化」することを本気で考え、日本式の神社(註:日本国内で実施された「国家神道」自体、伝統的な教養や神仏習合の宗教文化とは何の関係もない薩長の足軽出身の「官僚」たちによってデッチ上げられた代物であり、当の日本人自身が大いに迷惑したことは言うまでもない)を建て、日本の内地と同じように小学校(もちろん、授業料はタダである)をたくさん開校し、ご丁寧にも台北には帝国大学まで創り、既に200年以上にわたって、この島の多数派になっていた漢民族はもとより、それまでは学校教育どころか独自の文字文化すら持たなかった原住民たちにまで、日本語による識字教育を行なったのである(註:そのことが、朝鮮半島などでは、後々まで日本が逆恨みされる原因になるのだから、世の中、何が災いするか判ったものではない)。
もともとシナ・チベット語族とは言語学的には起源が全く異なり、むしろ日本人と共通の先祖を持つと考えられているポリネシア系(本件については『ヤポネシア:日本人はどこから来たのか』参照)の原住民たちの話す言葉を表記するシステムとしては、表意文字の漢字よりも表音文字の仮名のほうが便利だったので、それまでお互いに言葉の通じなかった原住民諸部族同士が、日本語を共通語として相互に意思疎通ができるという奇妙な現象まで生じさせた。
▼中華民国の三十三回忌
日本の太平洋戦争敗戦は、北東アジアに平和と安定どころか、新たな内戦(国共内戦や朝鮮戦争)をもたらせた(註:そもそも人間存在そのものが、殺し合いをする存在(カインの末裔)なのだから、単純に「殺人を悪」とするのは、人間存在に対する正しい洞察とは言えない。むしろ、死者の数がより少ない政治こそが「善」と是認させるべきである。その点からすれば、北東アジアのいくつかの共産主義政権は、すでに二千数百万人の自国の人民を殺していることを忘れてはならない)。その結末として、1949年10月1日、北京の天安門で毛沢東主席による中華人民共和国の建国が声高らかに宣言されたが、中国大陸における内戦に敗れた蒋介石総統率いる国民党が、日本がいなくなって政治的には真空地帯になっていた台湾島を占領し、中華民国の首都を実質的に南京から台北へと遷した。
「歴史は繰り返す」と言うが、明末清初の鄭成功の時と同じである。このことによって、五度、この島の原住民は「民族自決」の権利が奪われることとなった。「大陸奪還」を国是とする国民党は、台湾の独自性を認めることは、すなわち、国民党による中国大陸の支配権の正統性を放棄することになり、一貫して大陸と台湾との一体性を強調した。その点では、広大な中国大陸と億兆の人民を実効支配し、それどころか「台湾侵攻」を国際的にも標榜している政策を国是とする中国共産党と、国民党との利害は奇妙に一致した。
その後、国民党の領袖は、蒋介石から長男の蒋経国へと世襲されたが、依然として「大陸奪還」政策には変化はなく、長年にわたって原住民の基本的人権は看過されることになった。(註:因みに、国民党にとっては、形式上「国共内戦」は継続しており、実際には、極めて平和であったにもかかわらず、戦時下で発動された「戒厳令」が施行されたままという異常事態が長年にわたって継続するうちに、選挙も行なわれなかったので、政権の正当性が担保されずに、ついに、国連からも「追放」されるという憂き目を見ることになるのである)その後、同じ国民党の政権ではあるが、台湾島出身の李登輝氏が初の国民の自由選挙によって中華民国第9代総統(大統領)に選出されてからは、雰囲気が一変した。お題目の上では、まだ「大陸奪還」を党是とする国民党ではあったが、蒋一族時代の堅苦しい雰囲気もなくなり、空前の経済的繁栄がもたらされ、反対政党もでき(民主化の促進)、さらに台湾島出身(本省人)の李登輝が総統氏になったことによって、一挙に「台湾」というアイデンティティが強調されるようになった。
また、現実の問題として、「ひとつの中国」政策に固執するあまり国連を追放(註:後にも先にも、「追放された」国は、中華民国だけである。しかも、それまで中華民国は安保理の常任理事国だった。因みに、中華民国は1971年10月25日に国連を追放されたのだから、今日が「三十三回忌」ということになる)された中華民国が、大陸に進出して共産党政権を武力で転覆することはほとんど不可能となっていたことは誰の目にも明らかであったし、しかも、皮肉なことに、その国際政治的力の低下と反比例するかのように、非効率な共産主義の頸木(くびき)から無縁であった中華民国は、億兆の民を抱える大陸を差し置いて、台湾島において資本主義経済の利点を享受し続け、ついには、日本を抜いて世界最大の外貨準備高を誇る経済大国のひとつとなり、国民の希望は満たされつつあった。
▼「ひとつの中国」という幻想
しかし、この経済的繁栄にも、ひとり置いてき放りを食ったのが台湾の原住民であった。その原住民に、本当の意味での転機が訪れたのは、「台湾独立」を公約に掲げる民進党の陳水扁台北市長が、李登輝政権下で行政院長(首相に相当)を努めた国民党の連戦氏を敗って自由選挙で中華民国総統に選出されたことによってである。それまでの国民党の総統は、現実にはどうであれ、決して「台湾独立」を公然と標榜することはできなかったが、その対立軸として「台湾独立」を選挙公約に掲げて陳水扁氏は総裁に当選した(当然、国際社会も二千数百万人の民意を無視できない)のである。北京の共産党政権は、このことに脅威を感じ、総統選挙期間中もたびたび「もし、(台湾独立を掲げる)民進党候補が選挙に勝つようであれば、中国人民解放軍が軍事的に台湾を攻撃することもありうる」などという脅し文句を公言(註:実際に台湾海峡で艦隊の軍事演習まで行った)して、民進党候補の総統当選を妨げようとした(註:この点でも共産党と国民党とは、本来敵同士であるのに、利害が一致していた)のであるが、実際には、その「脅し」が、かえって台湾民衆のナショナリズムに火を点ける結果となり、現役の行政院長であった国民党の連戦氏が、台北市長の陳水扁氏に破れるということになったのである。
このような経緯をへて、2000年5月20日、陳水扁氏は中華民国第10代総統に正式に就任したが、急激な政治変革によって大陸とことを構えることは得策でないと判断し、陳水扁政権はすぐには「台湾独立」を宣言しなかった(註:2000年5月の時点での判断としては「正しかった」と思われるが、就任後3年半を経過した現時点でも「独立宣言」をしないとなると、「(独立宣言は)選挙のための単なるパフォーマンスだったのか」という意識が国民の間に広がり、次期総統選挙では、逆に苦戦を強いられるであろう)ので、その代わりの手段として、民進党の党是である「台湾は中国の一部ではない」ということを目に見える形で立証するためにも、また、そのことが「ひとつの中国」という幻想を打ち破り、国際社会に独立主権国家として台湾が復帰する唯一の現実的方法として、遙か古代から、中国大陸とは無関係に独自の文化を保ってこの島に暮らしてきた原住民の存在を台湾独立のアイデンティティとするために、中華民国政府がこれを積極的に公認することが必要となったのである。
現在では、中華民国政府(中央政府と地方自治体)内に、それぞれ原住民政策を専門に所管する部局が設けられ、「手厚い」保護政策が施されている。われわれは、高雄市の原住民事務委員会を訪れ、その責任者で、最近までアメリカのワシントン州立大学(註:ワシントン州最大の都市「シアトル」の名前は、アメリカ先住民のシアトル酋長の名前から取られた。州都の「オリンピア」という街の名前は、合衆国で唯一、先住民と平和裡に領土交渉がなされたことに因んで命名された)で学んだ原住民ササラ氏と意見交換を行い、同じ原住民でも、若い世代は教育等の機会均等も得ているが、特に高齢者世代は、言語(中華民国の公用語である北京語や台湾で一般に話されている福建語)や教育という点で、一般国民と比べて著しいハンディキャップを負っているので、既に市場経済化が進んだ台湾で生活を維持してゆくことは大変であり、それ故、原住民の伝統文化を尊重した形での職業訓練展示施設を開設し、そこで作られた物品を土産ものとして売ることが奨められていた。
▼難しい伝統文化の保存
原住民の各部族と実際に会ってみて、私が一番驚いたことは、服装など一見、伝統的な習俗を守っている現在の原住民たちに、彼らの宗教について尋ねたら、答えはなんと「ほとんどはクリスチャンである」ということであった。理由は、一般の人々が山奥に棲む原住民に注目しなかった蒋介石時代に、キリスト教の宣教師たちがすすんで山中に入り、彼らを「正しい宗教」へと宣教していったわけであるが、キリスト教による宣教というのは、その土地固有の伝統文化や宗教を破壊するということを意味するから、本論の初めの項に述べたように、大型店によって地元の零細商店が潰されたのと同じことである。
しかも、そこには大変、悪どい手段が使われていたのである。最初、宣教師たちは「人道的援助」と称して、中華民国政府からも顧みられなかった原住民たちに、食料や衣料品を配布したのであるが、その際、「もし、あなた方がクリスチャンになったら、この2倍の金品を与えよう」と言ったのである。これを「人道的援助」と呼べるかどうかは疑わしいかぎりである。そして、生活に困窮していた原住民のほとんどはクリスチャンになった。当然のことであるが、先祖供養や天地自然の精霊というものを否定するキリスト教の信仰を持つということは、原住民として数千年間培ってきた――特に彼らの文化は無文字文化であったので、口伝承等で伝えられてきた――貴重な宗教的文化がまさに消滅の危機に瀕しているのである。このこと自体、ゆゆしいことであると思う。ある特定の宗教が布教行為を行なうことは一向に構わない、しかし、そのことによって、その地域の伝統文化を破壊させるということがあるのなら話は別である。生命にしろ文化にしろ、多様性こそが価値の根源であるからである。
翌9月27日には、われわれは高雄市から数十キロ離れた山奥にある「原住民族文化園区(Indigenous Peoples Cultural Park)」を視察し、責任者の呉鐘秤氏から説明を受けるとともに、日本語を含む数カ国語で用意されたビデオによる学習プログラムを体験した。原住民文化園区のゲートには、中国らしい赤い紙に大きく書かれた歓迎の張り紙に私の名前が出ていたのは驚いた。また、どしゃぶりの雨の中で、出会った原住民の老人のひとりは、われわれが見ていると非常に流暢な日本語で、「私は昭和4年生まれです」と自己紹介された。私の父とほぼ同じ世代であるが、彼は、漢人と原住民を差別せずに施された大日本帝国の学校教育というものを非常にポジティブに評価したのである。
この展示文化圏区で数々の展示品や伝統舞踊を見学したが、ディズニーワールドと同様、やはりこれらはあくまで観光客のための生活文化用具の展示であったり、ショーアップされた伝統舞踊であるように思えた。このような形をとって、ショーケースの中で原住民の文化を保存するのではなく、彼らの生活に根ざした現場レベルでその伝統文化を保存しなければほとんど意味がないと原住民文化園区からの帰りの車中、沿道に並ぶ「檳榔(ビンロウ:椰子の実から作る咬み煙草に似た東南アジア特産の嗜好品)」売りのセクシーな女性と中国人独特の形をした墓を車窓から眺めながら思った。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-184.htm