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(回答先: 閻魔像が造られ始めたのは平安末期から鎌倉時代ではないかと... 投稿者 あっしら 日時 2003 年 10 月 15 日 20:35:19)
あっしらさん、鋭いご指摘のレスありがとうございます。
シジミさん、参考情報(関連ページ)のご紹介ありがとうございます。
返事の投稿を書いているうちにパソコンの調子が悪くなって、投稿が
遅くなりましたが、ご容赦下さい。
#【註=私は中国仏教については意識的にシナ仏教と書いていますが、
# これは差別的な意図からではなく、混乱を避けるためです。
# かつて、シナでは、サンスクリット語の「マディヤ・デーシャ」を
# 「中国」と漢訳しました。これはシナ人が自国の固有名を「中国」
# とは考えていなかったことを意味します。
# 「中国(マディヤ・デーシャ)」とは「ガンジス河の中流域地方」を
# さす言葉です。それは仏陀が布教した地域、つまり仏教の中心地で
# した。だからシナ仏教で「中国」といえば、第一義的には「インド
# 仏教の中心地たるガンジス河中央地域」を意味していたのです。
# 従来、シナには様々な王朝名はあっても、全時代を貫通する国名は
# ありませんでした(中国という語で自国をさす例もありましたが、
# その場合の中国は、世界の中心国という意味の普通名詞です)。
# 現在のシナ人は、自国の固有名を中国と呼ぶようになりましたが、
# 仏教に関しては「中国」=「インド仏教の中央地域」に第一義的な
# 優先権があるため、混乱を招かないためには中国とシナを区別する
# 必要があります。本来、中国仏教とシナ仏教は別物を意味するので
# すから。先年逝去したインド学・仏教学の泰斗、中村元氏も、おそ
# らくそうした理由から、生涯シナという用語を使ったのでしょう。
# ついでにいえば、清帝国末期の漢族の人々、とくに満州族の清王朝
# の打倒と近代化を志した知識人たちは、自国を清とは呼ばず、みず
# から「支那」と呼びました。彼らは日本の明治維新に学んで、日本
# から大量の漢語(欧米語の翻訳語)を逆輸入しました。そのシナ近
# 代化の先覚者たちが自国を「支那」と自称したのです。このように
# シナ(支那)は本来、差別語ではありません。私の場合は上述の理由
# で仏教に関してのみシナという用語を使っています。ご了解下さい】
あっしらさんのご指摘:
> いわゆる十王信仰は平安時代末に日本に入り、閻魔像などが造られ
> たのは鎌倉時代だと記憶していますがいかかでしょうか?
>
> 一般的にイメージされている閻魔大王(道服に冠)は、宋時代に始
> まった様式のはずです。
たしかに十王信仰は、唐から宋の時代に盛んになりました(※日本に
ついては後述します)が、冥界の主宰者としての閻魔王は、それ以前
から広く一般に知られていました。
六朝時代(三国の呉、晋、南朝の宋・斉・梁・陳)以後の説話や唐時
代後期の地獄図などから、閻魔が法官の姿で描写されていたことが、
学者により指摘されています。つまり一般庶民も、あの世には閻魔王
という厳格無比なイメージの審判者が存在するということを、仏教僧
から説話などで教えられていたわけです。
ただし(ここが重要なのですが)他の仏像と違って、審判者としての
閻魔は、インドから渡来した仏像の中にはありませんでした(男女の
兄妹双神であるヤマ王の像はありましたが、これは審判者というイメ
ージではありません)。したがって、六朝以降の説話や唐の地獄図に
描かれた閻魔像は、シナ仏教僧の“想像”によって描かれたものとな
りました。閻魔が、当時のシナの法官姿をしているのはそのためです。
法官姿の閻魔は、僧が庶民に仏教的な勧善懲悪を教えるのに好都合だ
ったに違いありません。現実に知っている法官をもとに、閻魔はその
何万倍も怖い審判官だと説明すれば、イメージしやすいからです。
六朝時代はまた、北朝の北魏において寇謙之(こうけんし)が道教を大
成した時期でもあります(5世紀初め)。北魏では太武帝のもとで道教
が国教化されました。この道教は、初期においてはまだ仏教のような
雄大にして残虐無比な地獄観を確立していたわけではなかったようで
すが、やがて仏教の宇宙的世界観を取り入れ、とりわけ冥界観(地獄
観)を拡張整備してゆきました。もともと外来思想や外来技術を低く
見て、受け入れることのなかった“中華”帝国の王侯貴族が、仏教思
想だけは受け入れたというのは、それほど仏教的な世界観がシナ人の
想像を絶する壮大さを具えていたからでしょう。自前の思想である道
教も、冥界観だけは仏教から多くを学んだのです。
この冥界観における仏教と道教の融合が、やがて唐時代末期から宋時
代に盛行した十王信仰へとつながってゆくのです。
死者が、死後10回も冥府の審判官(十人の王)の裁きを受けるという
考え方がどこから発生したかについては、まだ定説がありません。冥
界には多数の冥官がいて、人間(生者)の寿命を司ったり、亡者(死
者)の処遇を決めたりするという考え方は、おそらく道教に由来する
ものと思われますが、十王による審判という発想は、本来の仏教とも
道教とも異なっており、これは両者の融合の結果ではないかといわれ
ています。
ちなみに、十王の名前を挙げると、
(A) (B) (C)
(1)初七日=7日目 秦広王 秦広大王 不動明王
(2)二七日=14日目 初江王 初江大王 釈迦如来
(3)三七日=21日目 宋帝王 宋帝大王 文殊菩薩
(4)四七日=28日目 五官王 五官大王 普賢菩薩
(5)五七日=35日目 閻羅王 閻羅大王 地蔵菩薩
(6)六七日=42日目 変成王 変成大王 弥勒菩薩
(7)七七日=49日目 太山王 泰山府君 薬師如来
(8)百ヶ日=100日目 平等王 平等大王 観音菩薩
(9)一周忌=1年目 都市王 都市大王 勢至菩薩
(10)三回忌=3年目 五道転輪王 転輪大王 阿弥陀如来
*(A)はシナ仏教経典『預修十王経』での名称
(B)は道教経典『地府十王抜度儀』での名称
(C)は日本の『地蔵十王経』で(A)とともに
挙げられている「本地仏」の名称
インドには(もちろん大乗仏教にも)人は死後7×7=49日の間は中
有(ちゅうう=中陰ともいう)にさまよい、その後、生まれ変わる=
転生する、という信仰がありました。しかし、シナ仏教や道教におけ
る十王信仰では、49日までは7日ごと、次の8番目は100日目、9番目
は1周年、10番目は3周年に、合計10人の審判官から裁きを受けるこ
とになっています。そのうち閻魔王は5番目、五七日=35日目に出会
う裁判官です。(閻羅王は閻魔王に同じ。閻魔羅闍から。)これはイ
ンド仏教には見られない発想です。
この冥府十王の教義を述べた仏教経典を『預修十王経』(略称)、また
は単に『十王経』といいますが、これは蔵川というシナ仏教僧が作っ
た偽経とされています(仏教ではインド以外で作られた経典はすべて
偽経とよばれます)。正確な作成年代は判明していませんが、いくつ
かの関連情報から9世紀〜10世紀(唐時代末期頃)のものと推定され
ています。
そして、十王の名前も順序もまったく同じ経典が、道教にも数種類あ
ります。ということは、インド発祥の冥府の王・閻魔がすでにシナの
道教の神として取り込まれていたということですが、これらの道教経
典の作成年代は、仏教の『預修十王経』よりもっと曖昧で年代決定の
手がかりがなく、そのため十王経典の成立に関しては仏教と道教のど
ちらが先か不明です。しかし、いずれにしても9世紀〜10世紀の唐時
代末期以降には成立したものと思われます。道教は唐時代には宮廷の
保護を受けて国教化し、たいへん盛んでした。
そして、唐時代の勢いにのって道教的な十王信仰が広く普及したのが、
次の五代〜宋時代です。そのため、宋時代の十王信仰に基づいて作ら
れた地獄図や仏像に見る閻魔は、あっしらさんが指摘されたように、
道教の道士が着る「道服」に「冠」という姿で描かれ造像されるよう
になりました。これが現在も残る最もポピュラーな閻魔像となってい
ます。図像的には、閻魔像は道教でも仏教でも大差はないようです。
一方、日本ですが、『預修十王経』はおそらく入唐僧らが持ち帰った
ものと思われます。あっしらさんご指摘のように平安時代後期です。
しかし、十王信仰は日本では違った展開を見せました。
日本の十王経は地蔵菩薩と深く結びついており、日本では独自に『地
蔵十王経』(略称)と呼ばれる経典が作られました。これも名目上は唐
の「蔵川」述となっていますが、実際には日本製の偽経であるという
のが定説です(それを最初に指摘したのは本居宣長でした)。この経典
によれば、閻魔王とは、じつは地蔵菩薩の変身した姿のひとつである
とされているのです。シナ仏教の『預修十王経』と比べると、この経
典は十王それぞれに本地仏を関連づけた点に特色があり(上表参照)、
それによって冥界における審判は、仏菩薩が衆生を導く方便であると
のメッセージを発していると解釈することができます。また本地垂迹
という日本独特の神仏習合観が生かされています。
ただし『地蔵十王経』の内容を見ると、十王とはいえ、閻魔の庁での
裁きに紙幅の大半が割かれており、閻魔王中心の内容になっています。
この閻魔王の裁きに苦しむ亡者(死者)を救済するのが地蔵菩薩です。
じつは閻魔王そのものも、本地仏=地蔵菩薩の仮の姿にほかならない
ため、地蔵菩薩に帰依して深く信仰すれば、現世でも冥界でも罪障か
ら救われる、というのが経の趣旨です。
話はさかのぼりますが──
この「閻魔=地蔵」という考え方は、日本独自のものではなく、もと
もとインドの『地蔵十輪経』(略称)に見られるもので、このインド仏
教経典が最初に漢訳されたのは5世紀です。のちに玄奘も、同経典を
7世紀半ばに再度漢訳しました。この7世紀半ば以降、シナでは浄土
(阿弥陀)信仰とともに地蔵信仰が普及し始めます。そして、この地
蔵経典とともに地蔵像が日本に伝来したのは、8世紀の奈良時代でし
た。
そのため、9世紀初頭に最終成立したといわれる仏教説話集『日本霊
異記(りょういき)』の中にも、閻魔が「我は閻魔王、汝が国に地蔵菩
薩といふ是れなり」と述べる場面が出てきます。このように日本では、
すでにインド撰述の『地蔵十輪経』によって、閻魔王=地蔵菩薩とい
う認識が成立していたわけです。しかし、この段階では、まだ十王信
仰はありません。
『日本霊異記』は私度僧(官許によらない出家僧)であった行基など
私度僧団を賞揚する内容が多いことから見て、また行基は7世紀末〜
8世紀前半に難民救済や架橋・池溝修築などの社会的な作善事業に尽
力したことからしても、ここには一般庶民に仏教思想を普及させる最
前線の人々が説いた説話が多く含まれていると思われます(なかには
シナの冥界説話の翻案ものもありますが)。その中に、閻魔王という
恐るべき審判者もじつは地蔵菩薩が衆生を済度(救済)するための仮の
姿であるという話が含まれていることは示唆的です。
こうしたことから、閻魔が冥界において罪人を裁く法官であるという
認識が(そして閻魔の本地が地蔵菩薩であるという認識が)すでに8
世紀から9世紀にかけての平安初期の日本にはあったことがわかりま
す。ただし問題は、その時代に峻厳な裁判官としての「閻魔の像」が
造られていたかどうか、ということです。
私は仏教思想については多少の知識がありますが、図像についてはま
ったくの素人ですので、今回島根から出土した木像が「閻魔の神像」
ではないかと考えたのは憶測にすぎません。
しかし、ネットを探索してみたら、以下のような閻魔大王像に出くわ
しました。
http://www2.wbs.ne.jp/~m-asai/enma/enma.htm
これは、藤沢市の花応院というお寺にある木造の閻魔大王坐像と、そ
の胎内にあった閻魔の石像です。この胎内像すなわち石の閻魔像は、
小野篁(おののたかむら=9世紀初頭の貴族)の作と伝えられています。
彼は学者で歌人でもありました。この木像と石像はともに藤沢市指定
文化財になっているそうです。
つまり、9世紀には、日本でもすでに法官姿の閻魔像が造られていた
ことになります。ということは、十王信仰の有無にかかわらず、単体
の閻魔像なら平安初期の像もあると考えていいわけです。
もちろん、だからといって、今回島根で出土した木彫りの像が閻魔だ
という証拠にはなりませんが、閻魔かもしれないという可能性は残る
わけです。──これが現時点での私の結論です。
なお、あっしらさんが指摘されたように「十王信仰は平安時代末に日
本に入り、閻魔像などが造られたのは鎌倉時代だ」というのは、おそ
らく一般的には正しいでしょう。
しかし、十王信仰ではなく、冥府王としての閻魔信仰=地蔵信仰は、
奈良時代の地蔵経典と地蔵像の伝来以降、一定の人々の間に根を下ろ
し、次第に広がっていったもののようです。とくに平安時代以降、東
国(関東)では地蔵信仰が盛んになったらしく、地蔵菩薩像の造像が
流行しました。さらに十王信仰が広まってからは、地蔵像だけでなく
閻魔像もさかんに造られました。(地蔵信仰の流れは、ずっと後世の
武士、室町幕府を開いた足利尊氏の熱心な地蔵信仰にも引き継がれて
います。尊氏は多数の地蔵像を造立しました。)
一方、京の都では、10世紀に入ると貴族社会で浄土信仰が急速に広が
り、阿弥陀信仰とともに地蔵信仰も盛んになります。地蔵像も数多く
造られました。さらに、平安時代後期に伝来した『預修十王経』に基
づいて、貴族社会では冥府冥官への信仰が盛んになりました。これは
あの世での救済を願うというより、冥官(十王や司命・司録などの冥
府官)が人間の寿命をも司るという教えから、長寿延命を願う陰陽道
的・密教的修法が流行したものです。この教えは道教的な匂いが強い
といえますが、平安貴族たちは当初、シナ伝来の十王信仰をこのよう
な形で受容したのです。泰山府君祭や閻魔天供・冥道供などはそうし
た修法のひとつでした。
9世紀の小野篁の閻魔像が、冥府王たる閻魔ひとりに対する信仰だっ
たとしたら、『十王経』受容後(12世紀以降)の貴族の泰山府君祭な
どは、組織化された冥府冥官への信仰だったといえるでしょう。
このシナ伝来の組織化された十王経の日本的焼き直しバージョンが、
平安末期から鎌倉初期にかけて偽作された『地蔵十王経』だったわけ
です。この経典は前述のように、十王とはいえ閻魔王中心の経典です
から、鎌倉時代以降、多くの閻魔像が造立される契機をつくったもの
と思われます。当然ながら、その閻魔像は、唐末から宋で流行した道
教的な姿をした審判者像でした。
以上、いささか長い説明をしてしまいましたが、島根で出土した“神
像”が閻魔像である可能性を考えるために、閻魔信仰に関連した仏教
の歴史を自分なりにたどってみました。
なお、シジミさんご紹介のサイトにあった出雲美希氏の次の言葉:
「衣冠束帯神像の造立のピークは藤原時代であり、それ以降は造形的
にも衰退にむかってゆく」
というのは、9世紀後半に衣冠束帯姿の“神像”が多数造像されたこ
とを示しています。となると、出土像が神道系の神像である可能性も
捨てきれません。しかし、出雲氏のいう神像には本地仏像(外見的に
は仏像そのもの)も含まれることから、仏教の神である閻魔王が法官
姿で造像されてもおかしくないことになります。
それと、もうひとつ、出土像が神像である可能性として、聖徳太子に
対する太子信仰があったことを忘れていました。「冠に笏」ときたら
聖徳太子が最もポピュラーですね。最近、お札から姿を消したので忘
れていましたが。。。 (^^;ゞ
聖徳太子は没後、一貫して信仰されてきましたので、出土像が太子で
ある可能性も大きいと思います。ただし、太子像もやはり鎌倉時代の
造像が最も多かったようです。(それ以前の造像についての詳細は、
私はまだ把握していません。)