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グレアム・アッシャー(Graham Usher)
ジャーナリスト
訳・ジャヤラット好子、斎藤かぐみ
2003年6月4日ヨルダンのアカバで、パレスチナのアッバス首相(通称アブ・マゼン)はイスラエルのシャロン首相も交えた会談の際、米国のブッシュ大統領から叙任された。彼はパレスチナ民族主義の「顔として許せる」という意味だ。このシーンは、アッバスとパレスチナ指導部の一部が1年以上前から主張してきた政策の成果だった。彼らにとって、パレスチナ自治政府を救い、再占領された地域からイスラエル軍を撤退させ、ブッシュ政権を和平交渉に引き込むためには、武装インティファーダを終結させることが不可欠となっていた。有り体にいえば、彼らは3000人近いパレスチナ人の命を犠牲にした民族蜂起が完全に敗北に終わり、2002年12月20日に(米国、ロシア、欧州連合、国連の)カルテットによって取り決められた「ロードマップ」の中身が降伏条件であることを認めたわけだ(1)。
オスロ合意の内容はどんなに高い代償を払っても見直しと修正が必要であり、そのためにはオスロ合意の交渉に当たった指導者たちの交代も避けられないだろうという漠然とした民族主義的な意識があるだけで 目的も戦略も持たない蜂起が敗北に終わることは予想可能だった。とはいえ、インティファーダの末路がはっきりと確定するのは2002年3月のことだ。その1カ月の間に殺害されたパレスチナ人は275人、イスラエル人は105人に達する。ベイルートでアラブ首脳会議の中東和平案が採択された3月27日の夜にも、ネタニヤのホテルでユダヤ教の過ぎ越しの祭りを祝っていた30人が殺された。この凄まじい惨劇は、アラファト議長と自治政府、そしてオスロ合意の約束を呼び起こす要因すべての粉砕を求めてやまないシャロンに「対テロ戦争」推進の機会を与えてしまうことになる。
2002年3月29日から4月4日にかけ、イスラエル軍は念入りに計画された大規模作戦「防御の壁」を実行してヨルダン川西岸へ侵攻し、ヘブロンとエリコを除くパレスチナ自治区の主要な町を再占領した。その結果、250人のパレスチナ人が死に、数千人が負傷者し、さらに8000人が一網打尽に拘束された。シャロンは形ばかりのパレスチナの自治を抹消し、あらゆる町や村、難民キャンプに再びイスラエルの軍政を敷いた。これは1993年9月のオスロ合意以前への逆行であり、この右派の首領が前々から追い求めてきた目標にほかならない。その根幹は、パレスチナ自治政府の統治機構を破壊すること、そしてヨルダン川西岸の地図を新たに引き直し、ユダヤ人入植地やイスラエル軍の管理する緩衝ゾーンによって相互に隔てられた八つのゾーンに分割することにある。
パレスチナ人とアラブ諸国は、オスロ合意が立ちゆかなくなれば国際社会があわてて助け船を出してくれるだろうという期待を捨てていなかったが、それはすぐに打ち砕かれることになる。シャロン首相は、再占領した町から「もっと速やかに」部隊を撤退させるようにというブッシュ大統領の勧告を歯牙にもかけなかった。それに引き換え、パウエル国務長官は、8日かけてラバト、リヤド、カイロ、アンマン、マドリッドを経由してからエルサレム入りした。とはいえ、到着したところで停戦を促すわけでも部隊の撤退を強要するわけでもなく、イスラエル軍が4月21日までに西岸地区のいくつかの町から撤退するという不明瞭な日程を交渉してみせただけだった。アラブの感情に譲歩した唯一の行動は、瓦礫と化したラマラの議長府にアラファトを訪れたことだった。
パレスチナ人にとって(またイスラエル人にとっても)、この会談の意味するところは一つである。それは米国がまだ、1996年に民主的に選出されたアラファト議長に見切りをつけてはいないということであり、さらに正確にいえば、彼に代わる解決策を準備できていないということだった。イスラエルがジェニンの難民キャンプで犯した戦争犯罪を国連が不問にしたのと引き換えに、シャロンは2002年5月2日、アラファトがラマラの外に出ることを渋々認めた。
シャロンはすぐに、戦場での勝利に加え、この「自制」によって外交的勝利という配当を手にすることになる。彼と密接に協議を重ねたブッシュ大統領が6月24日の演説で、「イスラエルの隣で平和と安全の下に」生きてゆくパレスチナという「展望」に肉付けしてみせたのだ。そこで条件とされるのは「パレスチナ指導部の一新」である。求められているのは「真の改革」であり、「民主主義と市場経済、テロ対策を基盤とした政治経済機構の全面的な刷新が必要とされる」という。これらの条件が米国とイスラエルの満足するようなかたちで実現されれば、イスラエルによって決められた国境を持つパレスチナ国家の「暫定政府」樹立を宣言してもよいという。その後に、エルサレムの地位、ユダヤ人入植地、パレスチナ難民、国境線の確定についての最終合意を「3年後に結ぶことが目指される」という筋書きだ。これらの条件が「ロードマップ」の基本要素となっていった。
パレスチナ人は自分たちの敗北の重みをほどなく実感した。それはとりわけ、民族蜂起を現場で主導した勢力、つまりアラファト議長の率いるファタハを母体とする民兵組織タンジームで顕著だった。タンジームの幹部たちは武装インティファーダの戦略が、特にイスラエル国内を狙った自爆テロが、パレスチナの大義にとって惨憺たる結果をもたらしてきたことに気がついた。武装インティファーダの結果、シャロンはイスラエルの有権者と米国から、ヨルダン川西岸の入植を進めるという野心の追求に必要な白紙手形を手に入れた。また、パレスチナ人がとりわけ欧州で得ていた外交レベルと大衆レベルの同情は涸れてしまった。さらに、パレスチナの指導権をとるというタンジームの狙いも危うくなった。
西岸地区の再征服の過程でイスラエルによって拘束されたパレスチナの活動家6000人の中には、タンジームの政治部門と軍事部門を担っていた中堅幹部が数多く含まれている。なかでも最大の捕り物は、2002年4月15日、カリスマ的存在であったファタハの西岸地区事務局長マルワン・バルグーティの、テレビでも放映された逮捕劇だった。他にも数十人ものファタハの指導者が戦死したり、暗殺されたりしている。彼らの後任となった新しい幹部は、どちらかといえば「軍閥」に近い。若く未熟で、徒党を組んで行動し、中央の指導部に対してよりも自分たちの仲間や地域や共同体に忠誠心を向けている。そのために抵抗運動はだらしなく混乱したものとなり、軍事部門と政治部門の間だけでなく、それぞれの内部でも溝が深まっていった。
タンジームの主張
タンジームの指導部は(獄中にある者も含めて)、現在の流れを変えるために、三つの点で変革を行なうことを呼びかけている。一つ目は、パレスチナ解放機構(PLO)には、今後の戦略やイスラエルとの交渉に責任を持てるような「有事」指導部の刷新とてこ入れが必要だということだ。二つ目は、自治政府には、業務の効率化のみを任務とし、民衆に対して責任を負うような小規模の専門家からなる改造内閣が必要だということだ。三つ目は、「抵抗の手段と舞台」に関してパレスチナの全勢力(とりわけファタハの最大のライバルであるハマス)を拘束するような合意を作り上げなければならないということだ。
これらの民主的な変革が実現されれば、イスラエルの再占領による損失を取り戻すだけでなく、ファタハと自治政府の指導者の交代を促進することもできる、とタンジームは考えていた。ある幹部は「この2年間にわたる彼らの戦略ミスによって、パレスチナ人は現在の危機に陥った」と言う。現行の指導部は、予想されるとおり、こうした「革命の中の革命」をつぶそうとする策に出た。
アッバスなどのファタハの歴史的指導者たちは以前から、インティファーダの「軍事化」が自治政府と彼らの指導的役割の死を招くことになると考えていた。とはいえ、パレスチナ人が民族蜂起のために莫大な代償を払ってきた以上、アッバスにせよ他のリーダーにせよ、それを公然と放棄することなどできるわけがない。逃げ道として選択されたのは、抵抗運動のことには触れないまま新たな「改革主義」路線を打ち出すことだった。この方策は、カルテットによる国際的な外交努力と完全に符合した。同じ頃、カルテットはブッシュ大統領の演説から、インティファーダに終止符を打つような外交プランを引き出そうとしていたのだ。こうしたカルテットとアッバスの姿勢が一つになって「ロードマップ」を誕生させた。そこに見られるのは、タンジームが主張するような民主的な変革ではなく、上からの改革を強要するという発想だ。
こうして「改革」は、国際通貨基金(IMF)と米中央情報局(CIA)の命令に従って、財務機構とほぼ全面的に破壊された治安機構を再編することを意味するようになった。アッバスが提唱したのは首尾一貫した抵抗戦略ではない。全勢力の合意により一方的に停戦を宣言し、ゾーンごとにイスラエル軍が段階的に撤退した後、取り戻した領土の管理をパレスチナ警察が回復するという筋書きだ。彼はまた、ファタハ中央委員会の支持の下に、「パレスチナの民衆を守る」のは自治政府の部隊の専権であることを強調して、「民兵の蔓延」に終止符を打つと約束した。
「防御の壁」作戦のときに多数の将校が逃げ出したこともあって、人々が自治政府の部隊に対して大きく失望していることに気づいたアッバスは、「何もかも徹底的に改革すること」を約束した。しかし彼が提案したのは、新たに選挙を行なうこと、またアラファト議長の実権を減らすために新たに首相職を設けることにとどまった。彼はこの提案により、ブッシュとシャロンが新たな政治プロセスの前提として突きつけた「パレスチナ指導部の一新」という条件を満足させたような印象を与えた。
多くのタンジームのメンバーにとって、このやり方は彼らの民主化要求をゆがめるものだった。それは米国とイスラエルが命じ、死に体の指導部が自らの正統性を維持する方策として受け入れた「体制の変革」を準備するものでしかなかった。とはいえタンジームは、アラファトと縁を切ろうとする米国とイスラエルの執念からして、自分たちの呼びかける改革がパレスチナの民衆に聞き入れられる可能性がゼロであることもわかっていた。
2002年9月19日、イスラエルで7人の市民が犠牲となった2件の自爆テロを受けて、イスラエル軍はラマラにあるアラファトの議長府を再び統制下に置いた。ヨルダン川西岸とガザのパレスチナ住民たちは、イスラエル側の行動がアラファトの強制退去、あるいはさらに悪い事態を意味するのではないかと恐れ、高齢のパレスチナ指導者を守ろうとして団結した。アラファトは、この自然発生的に広がった示威運動が自分の指導権を支持する「住民投票」であるとして、首相の任命は「パレスチナ国家の創設後」に延ばすべきだとパレスチナ評議会に圧力をかけた。彼は巧妙に、自分の指導権に対する民主的な統制の要求などというのは、要するに彼の失脚を狙ってイスラエルと米国が企てた陰謀にすぎないと言い立て、多少なりとも改革を志す者たちにも、ファタハの活動家を動員して彼流の現状解釈を吹き込もうとした。
アラファトは、内部から出てきた改革の動きを芽のうちにつぶした。しかし、そうした後ずさりの姿勢は真空状態を生み、すぐさまカルテットによる外交攻勢を呼び起こした。まず米国が、ロードマップを公式に発表するためには、彼らの監督下で自治政府の治安機構と財務機構を再編し、議長と政治路線を異にする首相を置くことが必要だと注文をつけた。そしてアラファトに対し、権限の縮小を受け入れるようにと恫喝した。
ハマスの主張
2002年12月、イスラエル政府内では、対イラク戦争に乗じてアラファトをお払い箱にしようという声が確実に高まっていた。カルテットはアラファトに、実権を備えた首相の任命を受け入れることしか延命の道はないと説いた。すさまじい圧力にさらされた議長は、首相を置くという発想とその人選をのまざるを得なかった。米国にもファタハにも受け入れられるような候補者はマフムード・アッバスだけだった。それから4カ月後の2003年3月9日、新設の首相職に付与する権限の逐一についてアラファト議長と延々とやり合ったあげく、パレスチナ評議会はアッバスを首相に選出した。ブッシュ大統領は、彼こそが「パレスチナ自治政府の新しいリーダー」だと持ち上げた。
アッバス新首相の仕事は、ロードマップの用語に従えば、単純かつ遠大である。パレスチナ現体制の存続を米国が「約束」するのと引き換えに、自治政府は占領地内を含めた「あらゆる場所でイスラエル人に対する暴力行為を終わらせる」義務を負う。イスラエルは、そのためにはパレスチナが内戦という代価を払うべきだと考えていた。しかしアッバスは、段階的な取り組みの姿勢を示した。第一に、パレスチナの全勢力に停戦を受け入れさせる。第二に、できれば穏便に、それが無理なら強制的に、民兵組織の解体と武装解除を実施するという段取りだ。
インティファーダが戦略的に行き詰まった現状から、パレスチナ人の多くは第一の目標については達成できると見ている。だが、パレスチナの「武装抵抗運動」の、とりわけ殺人行為を繰り返してきたイスラム主義組織ハマスの勢力と活力からして、第二の目標が実現可能だと信じる者はほとんどいない。
2002年末の占領地で、イスラエル軍に打ち負かされたタンジームに代わり、ハマスはますます独立性を強める主要勢力となっていた。世論調査によれば支持率はファタハと互角である。ハマスが人気を集める要因としては、イスラエルの侵攻に対する活動家の抵抗運動、自治政府の警察部隊の瓦解、タンジームとの軍事的、時として政治的な提携、イスラエル国内での自爆作戦への支持などが挙げられる。
もう一つ大きな要因は、ハマスの規律の高さと社会活動の充実だ。ハマスが幅広い分野で提供する福祉サービスは、崩壊状態の自治政府の無策と好対照をなしている。しかも自治政府は、まさにパレスチナの体制の孤立と破壊を狙ったイスラエルの集団制裁政策に揺さぶられている。パレスチナのイスラム主義運動をよく知るアブ・アムル文化大臣によれば、ハマスは自治政府とその政策に対する反体制運動から「パレスチナの現行秩序に代わる政治的、社会的、軍事的、思想的な選択肢」へと成長を遂げた。
この新たな力関係がまざまざと目に見えるようになったのは、インティファーダに関する「共通政策」をまとめ上げようとするタンジームの試みをハマスが阻止したときだ。2002年8月にガザ、2003年2月にカイロで開かれたパレスチナ各派の会議の際、ファタハは二つのことを要請した。民族闘争の目的がガザおよびヨルダン川西岸におけるパレスチナ国家の樹立にあるという点を各派が認めること、民衆の武装抵抗運動を両地区に限ること。さらにハマスに対しては、次の選挙まで挙国一致政府に加わることも呼びかけた。ハマスとしてはこれら三つの要請をまったく相手にしなかったと、幹部の一人アブドルアジズ・ランティシは説明する。ハマスはイスラエルも含めた「パレスチナ全土」での抵抗権を主張し、挙国一致政府への参加は「インティファーダと抵抗運動への支持」が基本となる場合に限られるとする。そして「ファタハとハマスの間に共通政策など存在しない」という理由により、共通政策への合流を拒絶した。
両者の不一致の根本は、最終目標の違いにある。ハマスは、パレスチナ人の当面の目標が1967年以来の占領の終結にあることを認めつつも、今日のイスラエルの一部を含めた往時のパレスチナ委任統治領の全域に対する民族的、宗教的な権利主張を取り下げようとはしない。「インティファーダの目的はイスラエルを1967年の占領地から撤退させることにあるが、それでイスラエルとアラブの紛争が終わるわけではない」とランティシは明言する。
イスラム主義勢力にとって受け入れ可能な最大の妥協は、条件付きの一時的な停戦にとどまる。その条件とは、イスラエルが2002年に再占領したパレスチナ地域から撤退し、拘束した者を所属組織にかかわらず解放し、政治幹部や軍事幹部の狙い撃ち作戦をやめることだ。数カ月にわたる駆け引きの後、ハマス、イスラム聖戦、ファタハは2003年6月29日に、これらの条件を掲げて停戦を宣言した。が、それは長続きしなかった。同年8月19日、イスラム主義勢力はエルサレムで超正統派ユダヤ人を乗せたバスを標的としたテロを実行し、停戦に終止符を打つことになる。
袋小路を脱する道は
2000年9月末に第二次インティファーダが勃発するまで、パレスチナの民族運動は不充分ながらも単一の指導勢力の下で苦境を忍んでいた。それが今では三つの指導勢力が並び立っている。
一つ目は、自治政府という体裁をとった旧体制だ。これは二つのグループに分かれている。一方にはアッバスのように、国際社会にパレスチナの大義を認めてもらう唯一の方策として、つべこべ言わずに米国の計画をのもうとするグループがある。他方には、イスラエルと米国がアラファトを疎外すれば、自分たちも立つ瀬を失い、自決権やイスラエル軍の撤退、帰還権といったパレスチナ民族主義の「根本」も崩れてしまうと危ぶむグループがある。とはいえ両者とも、ロードマップを受け入れ、「テロリズム」を放棄するという点では一致を見せている。
二つ目の勢力は、今日では弱体化しているが、タンジームに代表される新世代の指導者だ。彼らの民族的政策、ことに1967年に占領された土地にパレスチナ国家を樹立することが闘争の目的だという彼らの主張は、今なお西岸とガザのパレスチナ人に大きく支持されている。しかしながら、イスラエルの再占領によって多大な犠牲を被ったタンジームは、武装インティファーダがパレスチナ解放の戦略として正しいのかどうかと自問せざるを得なくなった。停戦やロードマップ、アッバス首相といったことを戦術的に支持していけば、幹部の解放や選挙の開催につながることになるというのが多数派の見解だ。政治学者ハリル・シカキの予想を信じるなら、選挙のあかつきには「ファタハ内部の新興勢力が古参勢力を追い払って指導権を握ろうとする」ことになるだろう。
三つ目の指導勢力は、ハマスの急進派とアル・アクサ殉教者団や人民抵抗委員会のようなファタハの反主流派に率いられた武装「抵抗運動」だ。きわめて強力なイスラム主義思想に突き動かされ、アラブ・ムスリム世界各地の民族主義勢力との結束を深めており、旧来の民族運動の瓦礫の上に新たな民族運動を築くことをもくろんでいる。この勢力の戦略は、レバノン南部でイスラエル軍を撤退させることに成功したヒズボラのそれ、すなわち「抵抗あるのみ」だ。彼らに中期的な目標があるとすれば、それは和平ではなく、イスラエル軍に撤退を余儀なくさせること、さもなくば占領地のほぼ全域にわたる「一方的な分離」を実現することだ。
こうした政策、思想、組織上の不協和音は、インティファーダがもたらした苦い果実である。タンジームでは、蜂起が占領の終結を早め、オスロ合意中の最悪の点を改善に導くとともに、パレスチナの体制の民主化を促し、自分たちに政権獲得の道を開くことになると見る者が多かった。それから3年後、目標は何一つ達成されず、相変わらず指導権はアッバスやアラファトのように信用を失った人物が担い、抵抗運動はハマスやその軍事路線に賛同するグループが担うという状況が続いている。その結果、パレスチナの運動は相互に排他的な二つ、さらには三つの勢力の間で引き裂かれるようになった。この現実は解決に向かうどころか、停戦その他の暫定的な合意によって覆い隠されてしまっている。
パレスチナの多くの専門家によれば、現在の袋小路を脱する道は一つしかない。ガザとカイロの会議で各派が模索したように、パレスチナ民族として、オスロ合意に代わって全当事者を拘束するような共通の解放戦略を作り上げていくことだ。その戦略は、地方選挙、評議会選挙、議長選挙を通じて民衆が下す判断に即したものでなければならない。様々な民族運動を一致団結させ、民族闘争の今後の方針を民主的に、それゆえ正統性をもって決定できる場は、民族規模の選挙のほかにないだろう。
バルグーティはイスラエルの獄中から、選挙こそ「戦闘の決定的瞬間に自分たちの役割と責任をまっとうすること」ができなかった「自治政府の多くの官僚と幹部」に辞任を迫るための「合法的で民主的な手段」だと訴えた。ハマスの幹部は(ランティシも含め)、「オスロ合意の制約を受けない自由な選挙が行なわれるなら、そこでのパレスチナ人の多数派の決定」に従うと述べ、もし多数派が望むならば、イスラエル国内でのテロ行為の禁止を受け入れるとすら言う。とはいえ、パレスチナ人が投票を通じて、兵士や入植者に対する占領地での武力行動の禁止に傾くようなことは考えられない。
民衆による投票を実現するには、イスラエルや米国と激しくやり合わなければならないだろう。アラファト議長の任期を引き延ばし、内閣や行政組織でハマスに重要な役割を与えることになるような選挙は阻止という構えでいるからだ。だが、パレスチナの多くの専門家の見解では、この方向への実質的な改革が進まない限り、インティファーダはすでにはまった泥沼にますます沈み込んでいくことになる。そこで繰り広げられるのは占領に抗する民族闘争よりも、運動の指導権をめぐる派閥間の消耗戦、収まりがつかず結局のところ自滅的な戦いでしかない。
(1) ナディーヌ・ピコードゥー「パレスチナ国造りの内的困難」(ル・モンド・ディプロマティーク2001年3月号)参照。
(2003年9月号)
All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi
http://www.diplo.jp/articles03/0309.html