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コレット・ブラークマン特派員(Colette Braeckman)
ル・ソワール紙記者、ブリュッセル
訳・北浦春香
南アフリカではアパルトヘイト時代の不公平そのままに、今なお土地は白人に押さえられている。貧困化する黒人家庭は恨みを募らせ、社会的な緊張が高まりつつある。白人農場主から没収した土地を強権的に再分配してきたジンバブエとは対照的に、南アフリカは「市場に支えられた」農地改革という手法を選択した。しかし、この政治的妥協に基づいた手法はほとんど効果をあげず、既に社会的に安定した少数の黒人を優遇するだけのものになっている。[フランス語版編集部]
3つの円形の小屋と1軒の小さな煉瓦造りの家が、30平方メートルばかりの乾いた土地に建っている。水道も電気もない。ここは南アフリカのクワズールー・ナタール州、ンツリの一家がここで暮らし始めてから15年になる。家族は20人ほどで女性が多く、それに汚れた服をまとった子供たちや、10代の少年少女たちがいる。家族全員の命綱は、祖母サラが政府から受け取る月650ランド(約1万円)の疾病給付金だ。
元気な男たち4人は、一番近いニューカッスルの町で仕事を探している。幹線道路をまたぐ陸橋の向こうには、広大なとうもろこし畑が広がり、近代的な灌漑設備によって常に水がまかれている。その一方でンツリの一家は、道路の下にあるせいで汚れにまみれた川で、空き缶に水を汲まなければならない生活だ。あたりを見回せば囲いや有刺鉄線がそこかしこにある。サラは遠くの山の稜線上に見える小さな土墳を指さしながら言った。「私らの先祖はあそこに眠っているんだが、訪ねて行くことはできないのさ。農場主が通してくれないからね」
老婦人は辛抱強い眼差しで、こんなことを話してくれた。「昔はシリアーズ家の農場で働いていたよ。賃金なんてのはなかったけど、ここに住んでてかまわなかった。家の周りで家畜に草を食べさせることもできた。農場主が月に150ランド(約2300円)くれることもたまにあった。でももう昔の話さ。白人の農場で働く農民に月650ランド払えって政府のお達しが出てからは、ご主人は私らを追い出すことに決めたんだ。お金が払えないんだとさ。3頭いた牛は取り上げられて売られたよ。本当は、川に水を汲みに行くのも禁止なんだ」
彼らの質素な掘建て小屋から、農場主のトラックや州の幹線バスが走る道路までは50メートルもない。しかし、そこまで茂みを縫っていくこの小道を少年たちが自転車やバイクで通り抜けることはできない。私有地だからである。
いかにも、私たちが道路まで戻ると、一人の女性が待ち伏せしていた。携帯電話を手にしており、既に夫や息子や警察に電話をしたようだ。そして、「私の土地で何をしているの。誰に許可されたっていうの」と浴びせかける。ンツリの家を訪ねていくことも禁止だというのだろうか。彼らには自分の客に応接する自由すらないのだろうか。このとき、創設されたばかりの土地なし農民運動(MPST)の全国責任者であるマンガリソ・クベカ氏が、とうとう堪忍袋の緒を切らした。「この土地は確かにあんたのものかもしれないが、ここの住人はあんたの所有物じゃない。あの人たちは新生南アフリカの市民で、彼らには権利があるんだ」。そして、思わず胸の内を漏らした。「それに、あんたらがヨーロッパからやって来たとき、この土地を持って来たわけではなかろうに」
あたり一帯で、同じようなことが起こっている。ほとんどが女性と子供からなる黒人の家族は、広大な私有地のはざまの狭い土地で暮らしており、至るところで白人の農場主との関係が悪化している。ここ数カ月のうちに何人もの農場主が殺され、家畜も盗まれている。クベカ氏によれば、こうした出来事はまだ野盗の域を出ないものの、緊張の高まりを示しているという。「白人の農場主は、土地に住んでいた農民を何十年もの間ほとんどタダ働きさせて、今度は賃金を払えないというわけです。それで家族ごと追い払って、必要なときだけ季節労働者を雇うようになった」
南アフリカではどこでもそうだが、クワズールー・ナタール州にも「狩猟区」や「サファリパーク」がたくさんできている。農民を追い払ったあとで、かわりにワニやサイや象を住まわせ、観光客向けのテーマパークを開く農場主が多いのだ。
20世紀最大の所有権剥奪の歴史
9年間の猶予期間の果て、南アフリカの農村住民の我慢もそろそろ限界にきている。クベカ氏が2002年に立ち上げたMPSTに加わる人も増えている。クベカ氏はブラジルで同様の運動を行っている組織MSTと連絡を取り合って以降、それまでよりも直接的な行動を奨励するようになった。「ジンバブエの方式はいけません(1)。あそこでは再分配された土地は役人や党員が自分のものにしています。でも私たちも、結局は占拠という手段に訴えることになるでしょう。既に、土地なし農民部隊を組織しようという話になっています。攻撃のためではなく、警備会社から身を守るためです。農場主に雇われた突撃隊が、農民にいやがらせをするんです。何十年も暮らしてきた土地に、亡くなった家族の遺骸を葬ることすら妨害されます」
農場主がこうした埋葬の権利を認めないのは、いったん認めてしまえばそれを盾に、「先祖代々の土地」に戻ってくる権利や留まる権利を主張されることを知っているからだ。
新生南アフリカでは現在、もっと他の問題が世間の関心を集めている。成人の5人に1人が感染者というエイズの広がり(2)、ムベキ大統領がもって任ずる地域大国としての役割、アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)の立ち上げなどだ。しかしながら、政治的な代弁者を持たない農民たちの重みが以前よりも増したわけではないにしろ、土地問題がアパルトヘイトの最大の負の遺産であることに変わりはない
念入りに囲い込まれ、牧草地として使われる広大な土地や、素晴らしく整備された道路が縦横に走る商業農地のかたわらで、黒人の家族は微々たる土地で掘建て小屋に暮らす。国中で見受けられるこうした対比は衝撃的だ。踏み分け道をたどっていけば、かつての「ホームランド」が何を残したかを目にすることができる。使い荒らされ、浸食が進み、伝統的首長にとりしきられた土地だ。元気な男たちはここを見捨てて町に出ていってしまった。
アパルトヘイトは、20世紀最大の組織的な人口移動と所有権剥奪を行った。1960年から80年の間に350万人以上もの黒人が土地を追われ、「ホームランド」と呼ばれる部族別居住地、あるいは大都市のはずれのタウンシップ(黒人居住区)に押し込められた。こうして土地を剥奪された黒人は、もはや白人農場主の地位を脅かすおそれのない存在となり、農場や鉱山や工場で働く安価な労働力の宝庫となった。1994年に政権に就いたアフリカ民族会議(ANC)は、耕作可能な土地の87%を6万人の白人農場主が所有している一方で、何百万人の黒人たちが残り13%を分け合っている状況の改善を目指した。こんなふうに先祖代々の土地から何の弁償も補償もなく追われた黒人の所有権剥奪という事態が、植民地支配やボーア戦争の結果というだけでなく、1913年(土地法の公布)から断行されてきた政策の結果であることは黙殺できない。1948年にアフリカーナー(南アフリカ生まれのオランダ白人)が政権に就いてからホームランドが創設され、この人種差別国家が19世紀に始まる強制移住をさらに推し進めたのだった。
だから、黒人が与党となった新生南アフリカが、過去の不公平を解消することに積極的に取り組むだろうと期待するのは当然のことだった。しかし、あまり急速に事を進めるわけにはいかなかった。というのも、ANCとデクラーク政権との間で交わされた妥協の骨子の一つが、農場主をはじめとする白人を疎外しないというものだったからだ。当時のハネコム農業大臣が優先事項として掲げた農地改革が、その目指すところは野心的でも、実施となると生ぬるいものになったのも驚くにはあたらない。この農地改革は、土地返還(1994年の地権返還法)、小作人の保護を強化する土地保有改革(1996年の共有地財産組織法)、そして狭義の農地改革(1996年の労働小作人法と1997年の土地保有保護拡大法)という3つの柱からなっていた。
土地の再分配は、最も不利な立場に置かれた集団が土地を手にできることを目的としなければならない。この点に関していえば、かつては土地を没収する機関だった国家は、その特権を放棄して、強権的な是正は行わないという道を選んだ。いわゆる「市場に支えられた」農地改革、つまり当事者の自由意思原則に基づいた農地改革を優先させたのだ。土地の取得を望む黒人農民は、資金があれば個人企業を興すか、でなければ買収グループを結成すれば、政府が約束した一件当たり最高1万6000ランド(約25万円)の補助金を申請できるという仕組みである。そこでは、関係者間にもともと不公平があるにもかかわらず、土地を売り買いする両者の自由と私有財産の尊重が基本原則ということになる。
ANC政権が打ち出した施策
1994年に公布された復興開発計画では、向こう5年間のうちに農地の30%を再分配するとされていた。黒人政権は発足と同時に、農村部での補助金や給付の拡大、移動診療所の開設、学校の開校、飲料水の普及(ただし水道事業は民営化されているのでコストは利用者が負担)といった措置をくりだした。しかし、事態はたいして改善されていない。2000年6月の時点で、6万5000件の返還請求のうち認められたのは6250件にすぎず、再分配された土地は1%だけだった(3)。8年間で所有権の移転された土地は109万8008ヘクタール、これは商業農場が占めている土地の1.2%にすぎない。
強制移住の犠牲者に限ってみると、8年間の改革によって38万6000人が返還計画の恩恵を受けている。だが実際には、その多くが4万ランド(60万円強)の手当を受け取っている都市部の人々であって、土地を持たない農民ではなかった。白人農場主の側は、農場を一つ譲渡するごとに最高300万ランド(約4650万円)を要求することができた。それでも政府は2000年6月、今後5年の間に1500万ヘクタール分の土地の所有権を黒人農民に移すという意向を改めて表明した。この約束に必要な費用は、2003年から2004年にかけて土地取得のために計上された年度予算の3倍に相当する。
この見通しをMPSTのクベカ氏は一笑に付した。「農場主には土地を売る気があると関係機関に通知して、黒人農民にはやる気があると言い添えても、回答が得られないことはしょっちゅうです。カネがないと言われるわけですが、農業省では土地の買い取り資金を使いきってさえいないのです」
農地改革を求めて20年前から闘ってきた農村振興協会(AFRA)が強調するように、政府は他のことを優先しているというのが現実だ。ダーバンの北にあるピーターマリツブルクで、この協会の広報を担当するサンジャヤ・ピレイ氏はこう説明してくれた。「政府は貧困層を優先するかわりに、もっと強い立場の人々に賭けることを選んだのです。つまり『新興農業主』と呼ばれる人々です」。言い換えれば、貸付を受けられるのは商業農場を営む黒人であり、5000ランド(80万円弱)の自己資金を用意できることが条件なのだ。
これでは明らかに、年収が1680ランド(約2万6000円)に満たず、「貧困層」とみなされている農村人口の70%は排除される。改革の実際の受益者は、起業精神に満ちあふれ、既に有力者にコネもある人々ということになる。白人が経営する6万5000の商業農場で働く700万の人々や、かつてのホームランドで暮らす1200万人の黒人たちにとっては、これといった変化はいまだに起こっていない。
AFRAはこう考えている。「新体制があげた主要な成果は、不公平から人種差別という要素をなくしたという点です。黒人農場主の中には、白人に同業者として受け入れられた者もいます。彼らの成功は大いに宣伝されていますし、白人農場主が同郷の黒人の「後見」になって教育するというモニタリングの実例もあります(4)」。とはいえ、土地を持たない農民がこれほど疎外されたことはかつてない。失業率が推定45%にも達する就職難に苦しみ、農業に戻りたいという都市住民に対しても、何ら解決策は示されていない。ピレイ氏の見るところ、改革の当初の意図が曲げられ、自由化や市場開放、水道事業の民営化といった方向へ流れることになったのは、成長・雇用・再分配戦略(GEAR)と銘打った計画のせいだという。ANCは実際には、貧困層を優遇した計画を打ち出すどころか、農村の近代化なるものに着手した。その中心に据えられるようになったのは、外貨稼ぎのための輸出と市場経済の論理である。それが「アフリカーナーでも成功しなかったにちがいない改革」なのだという。
(1) 「ムガベ再選とジンバブエの土地問題」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年5月号)参照。
(2) フィリップ・リヴィエール「南アフリカ、エイズの猛威」(ル・モンド・ディプロマティーク2002年8月号)参照。
(3) Tom Lebert, Tinkering at the Edges, Land reform in South Africa, 1994 to 2001(2001年3月19日から23日にかけてボンで開かれた土地入手に関する国際会議のための報告書)。
(4) 一種の同業組合で、監督と援助を組み合わせたものである。
(2003年9月号)
All rights reserved, 2003, Le Monde diplomatique + Kitaura Haruka + Miura Noritsune + Saito Kagumi
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