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GLA・パクリ教義の証拠。恥ずべき父娘・高橋信次&高橋佳子
もくじ
◆「神理」のネタ元1『天と地を結ぶ電話』
◆「神理」のネタ元2『宝瓶宮福音書』
◆「神理」のネタ元3『創価学会(日蓮正宗)』
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◆「神理」のネタ元1『天と地を結ぶ電話』
私はここに、高橋信次が語った「神理」の元ネタとなったと思われる著書をご紹介しま
す。
どこがどのように、元ネタとなったか、これから信次の著作と比較しながら検討してゆ
きましょう。これを見たあと「高橋信次の神理は彼独自のオリジナルである」とはだれも
信じなくなるかもしれません。
信次がそれらを元ネタにして「神理」をでっちあげ、「指導霊123=モーゼと守護霊
フワイ=キリスト」の「霊示による講釈」から「神理」が構築されたものではないことを、
はっきり証明できるはずです。
ご紹介する本は日本では、昭和三十年に初版が発行されています。高橋信次が、すでに
その当時、当該の本を熟読して、のちの「神理」の元ネタにした可能性が高いと、私は判
断しており、その証拠が以下に記す各引用です。
なお信次の著作は代表作の『心の原点』『心の発見』より引用します。引用元の書名に
ついては『原点』『発見(神理)』などと略して表記。梅仙人のコメントについては
(注)という形で付記。
「神理」の元ネタとなった可能性の高い本は次のものです。
『天と地を結ぶ電話・まさに来たらんとする時代の予言(谷口清超宗教論集4)』
J.クレンショー・谷口清超訳・日本教文社・昭和46年(以下『電話』と略す)
(実際は生長の家幹部の一人だった当時、後の信次の高弟・園頭広周氏が訳したもの)
『電話』訳者序(P1〜2)
「(この本は)霊媒リチャード・ゼナーを通して語られるさまざまな霊界の消息と、驚く
べき予言と、最後にこの霊媒の指導霊であるアガシャという霊人の語る真理の言葉とであ
る・・・最後に発音等についての原著者の親切な助言に感謝をささげ・・・本書は、昭和
三十年に初版が発行されたが、今回、再び宗教論集第四巻に加えられることになった」
『電話』目次
1媒介者 2霊界通信霊 3あの世とはどんな世界か 4霊界通信の種種相
5霊人を試みる 6補助霊・異言・懐疑論者 7指導霊とは誰か 8アガシャの哲学
9汝は汝の考えるごとき者である 10運命の力 11予知さるべき事件
12暗黒の日々と明るき未来 13希望の言葉 14アガシャの言葉
1<基本概念>編
『電話』緒論 P7
「われわれはアガシャによってアインシュタインの発見をわかりやすく解説してもらい、
空間の相関性と空間の固有な特性として時間概念との相対性などについても説明してもら
うことができるのである」(注:信次の著書では「アガシャー」。「心の発見・現証編」
P74には「アインシュタイン博士の霊」が「神理の解説」をしたとあります)
『電話』12・14P
「リチャード・ゼナー師は、ロスアンジェルスの「アガシャ教学院(The Agash
a Temple of Wisdom)の要員であるが、このような「心霊的媒介者」
すなわち霊媒なのである・・・彼は(子供時代から)周知の霊界通信のみならず他の色々
の心霊現象、たとえば物質化現象、物体浮遊現象、幽霊現象等の実演を次々とおこなった
と母親はのべている」
『電話』P28
「霊界と肉体との間の連絡は「銀線」(Silver Cord・・霊線ともいう)と呼
ばれるものによって維持されている」(注:信次は、これを「霊子線」と書いています)
『電話』P40
「すべての人格のよい人々は常に「守護霊」によって守られていて、これらの守護霊たち
はわれわれの意識(こころ)の発達程度にしたがってわれわれに引きつけられてきた友人
や親族などの霊が「守護霊」となっている」(注:「守護霊」という語彙は信次も多用)
『電話』P43
「霊界における使者、補助者、指導者としての能力が一般の者より一層大であるような霊
界人のグループ・・・これらのうちのある者は昔の言葉でいえば「光の天使」であって」
(注:「光の大指導霊」「実在界の光の天使達」などと「心の原点」P63-65の見だし
≪9.光の天使・諸天善神≫などをはじめ、著書全般に書いています)
『電話』P56
「(ある種の神学者の独断と教義でさえも)一般には実在界のことを主として述べている
ことが多い」(注:「実在界」という語彙も、信次の著書に頻出)
『電話』P58・59・60・61
「地球は無数の人間が住んでいる居住遊星のひとつにすぎない・・・その遊星のもっとも
粗雑なそしてもっとも固体的な部分が「物質界」といわれ・・・」(注:「物質界」も
「実在界」と対で信次の著書に多用されています)
「われわれはすべて想念の力の放送者であり、その念波は電磁波動に比較されるような波
動性をもっている」
「死後の世界では肉体を去った人間は地上で望んでいたものを得ると同時に、彼がそれを
受けるにふさわしいものを受け取るのである・・・これが霊界における「類は友を呼ぶ法
則」であり、地上やあらゆる宇宙にも同様の法則があると指導霊たちはいうのである」
(注:「想念」を電磁波にたとえる記述も「心の原点」P174やP290≪4.一念三千≫
はじめ、著書全般に繰り返し記述があります)
2<アガシャー>編
「地球を指導する大指導霊は、アガシャー系で神より全権を委任されている」
(『原点』P26)
「私は、紀元前七千年ごろ、アトランティス帝国で生まれ、名前はフォロリヤーと
いう女性でございました・・・・アガシャー大王様の下で神の教えを学び」
(『発見・神理』P48)
「今から1万2千年前、アトランティス時代には、フェロリアという女性で、アガ
シャー大王のもとで神に仕えた人であった」(『発見・神理』P82)
「この現象界の心の指導者は、アガシャー系グループによって構成されている」
(『発見・科学』P204)
「太陽系には、ほとんどアガシャー系グループの者達が多い」
(『発見・現証』P282)
(注:だれが見ても、この「アガシャー」という人名は、『電話』からヒントを
得てパクったとしか思えません。上記の文を比較すればわかりますが、アガシャー
の担当範囲は、著書によって「アトランティスの過去の大王」「地球」「現象界」
「太陽系」と、だんだんスケールアップしています。ということは、最初から一つ
の真実を告げていたのではなく、「ウソの嵩上げ・誇張の拡大」をしていたと
見られても仕方がないでしょう。
最初から、「地球」なら地球で固定して一貫していればいいものを、「現象界」
だの、果ては太陽系だのと、風呂敷を広げるからウソだとばれてしまうのです。
信次のいう「アガシャー大王」「アガシャー系グループ」など、そんなものは
いはしないのです。『電話』では、そのような大げさなことは書かれていません)
3<クラリオ>編
『電話』P145-146
「霊的指導者の中には・・・クライオ(Krai-o)と呼ばれる者がいたと
アガシャは述べている。アガシャの言明するところによれば、クライオという
人は、それから5千年後にイエスと呼ばれる偉大なる大指導者として、パレス
チナ、エジプト地方に再び生まれ替ってきて、地上最後の生活を完成した」
(注)「クライオ」と「クラリオ」。よく似た名前です。エジプトで7千年前
に生まれたイエスの前身というのも、どこかで見た設定ですね。
では、どこで見たのか、確かめましょう。
「この方は、紀元1世紀にお生まれになったイエス様の前の生命で、クラリオと
呼ばれたお方でありました」(『発見・神理』P49)
「私(信次)の前に、古代エジプトのスタイルをしたクラリオと呼ばれる光の天使
が立った。そのとき妹は「ああ、なつかしいクラリオ様。私は村娘アシカ・ミヨター
でございます・・・」と、いつのまにか古代エジプト語で・・・BC4千年も前の
過去世を思いだし・・・」(『発見・現証』P81)
「この方は、今から4千年ほど前に・・・多くの人に神を道を教え救済したクラリオ
と呼ばれた・・・光の大指導霊」(『発見・現証』P99)
(注)「クラリオ」という名前が、この「クライオ」の名前と想定をパクったもの
である可能性は高いでしょう。ただし、信次の方は、6千年前とか4千年前とか、
設定が一貫せず、ニセモノの腰の落ちつきのなさを露呈していますが。
4<アモン>編
『電話』P145
「これら霊的指導者達の中にはアモンと呼ばれる偉大な先達の霊もいるので
あるが、このアモンを神として礼拝する信仰がエジプトの哲学の頽廃期に非常
に流行したとアガシャは述べている。同じようにしてこのグループと関連して
クライオと呼ばれる者がいたとアガシャは述べている」
『人間・釈迦 第1巻』P178(以後『釈迦1』と記述)
「黄金色の光明の中に、バフラマン(梵天)が立っているではないか。アモン
と呼ばれているバフラマンである・・・その両脇にもう二人(のバフラマンが)
いた。その一人はクラリオと呼ばれていた。三人は優しいまなざしで、ゴーダ
マを見下ろしているのである」
『釈迦1』P181-182
「『私はあなたの友、アモンという者です・・・』アモンはこういうと、光明
の中でにっこりと笑った」
『釈迦1』P183
「クラリオ、アモンの二人の目は真っ赤にはれていた。もう一人のバフラマン
は、モーゼであった」
(注)「アモン」単独ならば、「エジプトの太陽神の名」ということもいえる
のですが「クラリオ」とセットで「バフラマン=光の大指導霊」として出現す
るところが、もろに描かれています。
5の1<作用・反作用>編A(『電話』より)
『電話』P153
「物理学におけるがごとく、自然界全般には次のような根本法則が存在している
のである。
『すべての作用には、大きさが等しく方向が反対なる反作用がともなう』
これが「償いの法則」、物質と精神の非人格的支配力、自己発掘と自覚を与え
る業の法則に他ならないのである」
『電話』P159
「反作用の法則を理解するためには、大宇宙の中の悩みや苦しみはどこから来る
かという問題に関する、すべての哲学論文を検討する必要はない」
『電話』P207
「作用と反作用との関係は、ユダヤ教法師の『目には目を』という法則として
現われているが・・・個人でも集団でも、それらの人々の想念や行動は、潜在的
な形で『業(カルマ)』と呼ばれる反作用を生じるのである」
『電話』P213
「体験というものは、作用と反作用の法則、原因結果の法則、カルマの法則と、
償いの法則という峻厳な法則によって、自然に組み立てられている」
5の2<作用・反作用>編B(『心の発見』より)
『発見・神理』P229
「私は質問してみた。原因と結果、作用と反作用について、あなたは人生体験
の中からどう考えているのかね」
『発見・科学』P18
「作用と反作用の法則は人生の神理であり、厳然として生きているということ
だ」
『発見・科学』P104
「原因結果、作用反作用の法則は、大自然界の神理であって、私たちの肉体
はおろか、意識にも作用することを忘れてはならない」
『発見・科学』P129
「私たちの人生航路における苦楽は、原因と結果によって造り出されている。
つまり、作用が与えられたから反作用が起こったのである」
『発見・科学』P131
「原因と結果の法則、ニュートンの法則と、全く同様な結果は私たちの人生
航路にも出るという事実を、だれも否定することはできない」
『発見・現証』P149
「原因と結果は輪廻しているのです。作用を与えるから反作用が返ってくる」
『発見・現証』P158
「作用と反作用の法則は、好むと好まざるとにかかわらず、私たちの心の中
にも生活にも襲ってくるものなのだ」
『発見・現証』P195
「作用と反作用、原因と結果、法則を知らない者は、何をするかわからない
偽善者たちなのである」
(注)ここまであからさまであれば、いまさらどこをどうパクッたか、など
いちいち指摘するまでもないでしょう。まるごと模倣といってもよい程。
6の1<類は友を呼ぶ>編A
『電話』P61
「・・・これが幽界における『類は友を呼ぶ』法則であり、地上やあらゆる
宇宙にも同様の法則があると指導霊たちはいうのである」
『電話』P185
「『類をもって集る』効果はそれで終わりになるものではない」
『電話』P252
「心の乱れた性質の波を放射している霊魂は、不調和な考えをもっている
雰囲気の人々にのみ感応し、その双方が『類をもって集る』法則によって
その影響を倍化してゆくのである。」
『電話』P297
「世の中には類をもって集るという牽引の法則と償いの法則がある」
6の2<類は友を呼ぶ>編B
『発見・神理』P224
「類は類を呼ぶ法則に従って、私達の心は一念三千、善悪いずれの世界にも
通じてしまう」
『発見・科学』P60
「自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないということは、神理であり、
償いの法則だからである」
『発見・科学』P155
「集ってくる人々は・・・自然に集合してくるように、類は類を呼ぶ法則は
こうしたときにも生きている」
『発見・科学』P156
「類は類を呼び、友は友を呼ぶ法則は、私達人類のみにあてはまるものでは
ない」
『発見・科学』P157
「また魂のグループも、類は類を呼び、友は友を呼ぶ法則にしたがっている
のである」
『発見・現証』P206
「動物霊に支配されているということは・・・類は友を呼ぶ法則に従って、
自らの心と行いが蒔いた種だからである」
(注:「類は友を呼ぶ法則」「償いの法則」も、そっくりそのまま使ってい
ます)
7<幼い者が法を説く>編
娘の高橋佳子の『真創世記』地獄編P95にはこんなことが書かれています。
「一昨年(昭和五十年)の暮れ、父は年内に帰るかもしれないと言い出しま
した。(中略)父は以前から、講演のたびごとに力をこめていう言葉があり
ました。
「必ず幼い者が、大人に法を説く日がくる」
若者が『法』の後継者として立ち現れる。その若者が父を救う。そういう
意味なのです」
この「幼い者が、大人に法を説く日がくる」というのは、信次のオリジナ
ルではありません。『天と地を結ぶ電話』にパクリ元とおぼしい
文言があります。
『天と地を結ぶ電話』P266-267
「子供や青年もまた、世界中にわたって、大きな力をもつようになり、多数
の者がすぐれた心霊能力を示すであろう。この変革と進歩の時代に生まれ合
わせた人々は、非常に幼少でありながら、すみやかに深い真理、人生の意義
を把握するようになるであろう。・・・・光の指導霊はいうのである。即ち
非常に若い人々も深い意味の質問を発し・・・年長者以上に賢明であるのみ
ならず、彼らの年代以上に賢明となるであろう・・・そうしてその時、長い
年月の昔に言われた言葉、
『幼な児は彼らを導かん!』
という言葉を思い出すにちがいないのである。」
ちなみに佳子は信次が「以前から、講演のたびごとに力をこめていう言葉」
として「幼い者が、大人に法を説く日がくる」とあげていますが、おかしな
ことに晩年近くの1975年(昭和五十年)、1976年のどの講演会の記録にも、
そんな言葉を語ったという事実を見出すことができません。
「講演会のたびごとに」ということであれば、記録に残っているはずですが、
全く見当たりません。つまり、信次がそのような言葉を語り、毎回力説して
いたという事実はないようです。
この『真創世記』の記述も、佳子が父親から受け継いだ得意技の「詐話」
でしょう。なんたるウソつき父娘でしょうか。
◆「神理」のネタ元2『宝瓶宮福音書』
実は、信次のパクリのネタ本は『天と地を結ぶ電話』だけではないようです。
ここに、『宝瓶宮福音書』という「初版」が昭和45年3月の書物があります。
下記の信次の講演会の「弦の音」のたとえは、どうもそれから取られた節がある
ようです。
『心の発見』3部作や、『心の原点』などの著作は、昭和48年までに出版され
ていますが、その中には「弦の音で中道を悟った」という記述は見られません。
昭和48年初版の「心の原点」でも「中道の大切さ」が強く打ち出されているに
もかかわらず、この「弦の音色」のエピソードは書かれていないのです。
『宝瓶宮福音書』は「リバイ・ドーリング:著・栗原基:訳/霞ヶ関書房」。
さて、この書籍からのパクリの可能性を指摘する前に、次の「高橋信次講演」
からの引用をお読みください。
「釈迦牟尼仏が、その苦しみから解脱するためには、どうしたらいいだろう。
結局、彼は、ついに、チュダリア・チュダータといわれる方から
『弦の音は、強く締めれば切れてしまう。 弦の音は、弱くては音色が悪い。
弦の音は、中程締めて音色が良い。 弦に合わせて、歌えや歌え。
弦に合わせて、踊れや踊れ』
この民謡を聞いて、悟ってしまったわけです。
あの弦と同じように、あの弦の締め具合によって、 調和された音色という
もの、あの弦と同じように、考え方を修正しない限り、こりゃ悟れない」
(講演「心の中に内在された英智」1976.4.11より)
「ゴーダマ・ブッタは、苦しみや悲しみから解脱するためには、どのように
したらいいのか。 ネランジャラ川のほとりにおいて、朝まだ来、霧の中から、
『弦の音は強く締めれば切れてしまう。 弦の音は弱くては音色が弱い。
弦の音は中程に締めて音色がよい。 弦に合わせて歌えや歌え。
弦に合わせて踊れや踊れ』という、 ただ、その民謡の中から、6年間の苦悩
が、 一挙に解決への道へと進んでいったのです。
皆さんが、ギターを弾くときに、ギターのあの弦を、 締めすぎても音色が
悪いはずです。音楽にはなりません。 逆に、弱く締めたならば、なお、音楽
にはなりません。
調和された中程にこそ、真実の道が、真実のメロディーが 奏でられるはず
です。
(講演「正法の流転」1976.5.2〜4より)
「弁天様、彼女が奏でているところの、あの弦というのは、弁財天の中道の道、
強く締めても、弱く締めても、弦というものは、音色が悪い。偏らない中道、
弦の音というものを中心として、あの琵琶を持たしているのです」
(講演「心と肉体の法則」より)
それでは「弦楽器のたとえ」のネタ元と思われる箇所を『宝瓶宮福音書』
から引用させていただきましょう。
○第6部 インドでのイエスの生活と行動 第23章 P101〜103
「イエスはインドの医術を研究しようと志し、(ガンジス河畔で)インドの医師の第一人者
ウドラカの弟子となった。彼(ウドラカ)は言う。
『自然の法則は健康の法則です。この法則に従って生活すれば決して病気にならない。
この法則に反することは罪で、罪を犯せば病気になります。この法則に従えば、身体各部の均衡
を保ち、これによって、真の調和を保証します。調和は健康、不調和は病気。人間の身体各部の
調和をつくるものは医薬であり、これで健康が保証されます。』
『身体は弦楽器で、弦が張りつめたり緩みすぎれば、楽器は調子はずれとなり、人間は
病気になります・・・もし人間の弦楽器が調子はずれとなれば、自然界の広い範囲には、何か
治療の手段が見つかり、すべての肉体の疾患に対する療法があります。もちろん、人間の意志は
最上の医薬であるから、意志を強く働かせれば、弛んだ弦を張り、張り詰めた弦を弛めることに
なり、従って自分でいやすこともできます』
『・・・治療者とは信仰を起こさせる人。口は人の耳に語りはすれど、魂は魂に語る魂によって
伝達されます・・・不調和をひき起こし、人々を病気にするものは、その種類甚だ多く、弦楽器
を調整し、人を健康にするものも多種多様です』
『手や息から発するききめは、よく千人を癒すでしょうが、愛は女王です。愛に強められた思想
は神の最上の良薬です。しかし、生命の切れた弦や、いたく魂をくるしめる不調音は、多くは目
に見えぬ空中の悪霊のしわざで、人の無智に乗じて自然と神の法則を破らせます・・・しかし、
真の治療者は魂の師であって、意志の力により、これらの悪魔を抑えることができます』」
(注)この引用部分から、信次の著作にある主要な「神理」の概念と、どれだけ重なるかを考え
ると、信次がこの著作も読んでいたとしてもおかしくはないでしょう。
参考までに、『電話』にも「弦楽器のたとえ」があるので記しておきます。
『電話』P163-164
「バイオリニストはバイオリンの弦の上を弓でこすりながら音を出すが、その音は振動の法則、
すなわち作用と反作用の法則、償いの法則に従っている。しかし、その音の調和不調和は演奏者
の個性の表現であるようなものである」
講演会での『宝瓶宮福音書』のパクリだけでなく、著書についてももちろん、同様のことを
チェックしましょう。検証の対象は、この「弦楽器のたとえ」が初出の『人間・釈迦 第1巻・
偉大なる悟り』です。この本の初版は、「昭和48年4月1日発行」ですので、「昭和45年
3月」に出版された『宝瓶宮福音書』のだいぶ後。信次が読んでGLAの機関誌に連載、単行
本化する時間は、十分にありえたはずです。
『人間・釈迦 第1巻・偉大なる悟り』P89
「弦の音は 強く締めれば糸は切れ 弦の音は 弱くては音色が悪い
弦の音は 中ほどに締めて音色がよい 調子あわせて 踊ろよ 踊れ
みんな輪になり 踊ろよ 踊れ
ゴーダマはハッとした。朝もやをついて流れてくる若い澄んだ女の美声は、ゴーダマの心
をゆり動かした・・・。
『弦の音は、中ほどに締めれば音色がよい』
彼はもう一度、歌の文句を心の中で反復した」
では、信次が「過去の仏教は知と意のチリにまみれた」と一蹴した伝統的な仏教経典では、
この「弦の音についての説教」はないのでしょうか?
よくホテルなどで、ギデオンバイブルなどとともに、そなえつけのデスク内に置いてある
のをみかける『仏教聖典』を調べましょう。仏教にくわしくない初心者でも平易に読める、
伝統的な仏教経典の大事な部分を、現代の口語日本語で分かりやすくまとめたものです。
信次は、『人間釈迦1』の中、上述したように「弦の音について」、若い娘スジャーター
の歌った「歌」で悟りの大きなヒントを得たとありますが、既存の仏典にはこの歌のことは
一切書かれていません。スジャーターは、沐浴した釈迦に「乳がゆ(または「牛乳」)」を
さしあげただけで、歌など歌っていませんし、それを釈迦が聞いて悟ったというエピソード
もありません。
『仏教聖典』の中で、釈迦が「弦の音について」語るのは、スジャーターの場面ではなく、
大悟して弟子が大勢出来て、祇園精舎、竹林精舎を寄進されてからのことです。
「弾琴のたとえ」というエピソードです。
「世尊(釈迦)の弟子シュローナは富豪の家に生まれ、生まれつき体が弱かった。世尊
にめぐり会ってその弟子となり、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を修めた
けれども、なおさとりを得ることができなかった。
世尊はシュローナを哀れんで言われた。
『シュローナよ、おまえは家にいたとき、琴を学んだことがあるであろう。糸は張ること
急であっても、また緩くても、よい音はでない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出す
ものである。さとりを得る道もこれと同じく、怠れば道を得られず、またあまり張りつめて
努力しても、決して道は得られない。だから、人はその努力についても、よくその程度を考
えなければならない』
この教えを受けて、シュローナはよく会得し、やがてさとりを得ることができた」
(『仏教聖典』P182)
この「弾琴のたとえ」は仏教家の間では有名なエピソードのようで、次のようなコン
テンツのサイトもあります。
http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/kuu5.htm
「ブッダは、ソーナという弟子がはげしい修行を行うにも拘わらず、なかなか悟れずに悩む
姿を見て、以下の弾琴の喩えによって、極端な修行方法が必ずしも悟りにはつながらない
と説いています。
『ソーナ(シュローナ)よ、なんじが家にあったころには、たいへん琴を弾くことが上手で
あった、と聞いているが、そうであるか』
『はい、いささか琴をひくことを心得ていました』
『それでは、ソーナよ、よく知っているだろう。いったい、琴をひくには、あんまり絃を
つよく張っては、よい音が出ぬのではないのか』
『さようでございます』
『といって、絃のはりかたが弱すぎたら、やはり、よい音は出ないだろう』
『そのとおりでございます』
『では、どうすれば、よい音を出すことができるか』
『それは、あまりに強からず、あまりに弱からず、調子にかなうように整えることが大事
でありまして、それでなくては、よい音を出すことはできません』
『ソーナよ、仏道の修行も、まさに、それとおなじであると承知するがよい。刻苦にすぎ
ては、心たかぶって静かなることあたわず。弛緩にすぎれば、また、懈怠におもむく。
ソーナよ、ここでも、また、なんじはその中をとらねばならない』
(増谷文雄訳「仏教百話」P81 ちくま文庫)」
ところが、信次の『人間釈迦1〜4』の中では、この「弾琴のたとえ」は、スジャーター
の場面だけで、「シュローナとの対話」という形ばかりか、そうではない場面でも、出て
こないのです。
信次は生前、自分の言葉を「釈迦として伝える」と弟子たちに放言しています。彼が
釈迦の前世意識を持っていると思わせたわけですから、当然「弾琴のたとえ」もシュローナ
との対話の形でなければなりません。
さらにいうなら、他の「釈迦の伝記(仏伝)」では、「スジャーター」は「セナーニ村
の長者の娘」とちゃんとプロフィールが書いてある。ところが、信次の講演会でも著書でも
「スジャーターは地元の長者の娘」などとはひとことも書いていません。
前世が釈迦なら、ちゃんと覚えていて書けていなければならないはずです。しかも弟子
シュローナに対する「弾琴のたとえ」を忘れて、スジャーターがそれを教えてくれたなど
という「創作」までするとは、ずいぶんと記憶力の怪しい「過去世」ではありませんか。
◆「神理」のネタ元3『創価学会(日蓮正宗)』
信次は、『心の発見』『心の原点』『心行の言魂』などの著書群の中で、「大黒天」を
「諸天善神」という「天使の一種」として重視しています。実は、現在の日本の仏教宗派で
同様にそれを重んじているのは、「日蓮正宗」「創価学会」系です。本尊の脇侍として仏壇
に大黒天をまつっており、「諸天善神」という言いかたで「仏法を護る神々=諸天(天部)」
を表現しているのも「日蓮正宗」「創価学会」系です。
「大黒天」「諸天善神」そして「正法」は日蓮正宗では当り前の用語として使われています。
また信次が考案した『心行』(『心の原点』P338)に出てくる、「大宇宙体は意識の当体」
「当体・意識は不二」「当体は大神体」「当体の細胞」などと書かれている「当体」という
ことばも、日蓮上人の書いた『当体義抄』にある、ばりばりの仏教用語なのです。
『当体義抄』は、現在も「創価学会」の「教学」の書のひとつとされ、そこでは「当体の
蓮華」という難解な言葉が学ばれています。
また信次は「理証・文証、現証にしかず」と『心の発見・科学編』P172で書いている
のですが、これも日蓮宗の用語です。「文証、理証、現証」が日蓮宗用語である証拠を
ご紹介します。
「創価学会の教学では、文証・理証・現証という考え方が重要な位置を占めることは
周知の通りであるが、実際の布教活動に際しては現証という点がとりわけ強調される」
http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/pub-jap.files/pa81-nsa.htm
「日蓮は、文証・理証・現証の観点から、空海の邪義を徹底して破折し「真言は亡国の悪法」
(P173)と断じている」
http://www.1134.com/jinbutu/3japan1.html
「大聖人に踵(くびす=かかとのこと)を接して来たる数々の迫害や受難。それらの体験や
事実なくして上行菩薩応現の人は存在しないのです。理論(理証)や文献(文証)だけで
語るのは本当の宗教とは言えません。このように大聖人の実践(現証)によって、はじめ
てその教理に宗教性が満ち溢れ、ここに理証・文証・現証の三証が具足するのです」
http://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/si.html
(※ほか、「文証 理証 現証」のキイワードで検索すると数十件の同様記事あり)
「文証 理証 現証」という言葉さえ、信次は日蓮宗からもってきて、しかも「現証=霊
現象」という我流解釈の意味を付与しています。現在絶版の『心行の言魂』P110にも、
信次はこう書いています。
「真の正法はそれゆえに、文証(もんしょう・心・法)、理証(りしょう・科学)、現証
(げんしょう・霊道現証・奇蹟・物質化現象)の三つが揃ってはじめていえる言葉です」
「正法」「大黒天」「諸天善神」「当体」「文証 理証 現証」・・・
このように、信次はどうも「日蓮正宗」や「創価学会」で使われたターム(用語)を、
独自の解釈で使っていることが目立ちます。このことが、信次が『心の発見』や講演会
で述べ続けた「聖書仏典宗教書の類は一切読んだこともないし学んだこともない」という
内容と、激しく矛盾することになるのです。
一例として「神理編」P32-33にかけて、「姉夫婦が、創価学会の日蓮正宗に狂信的な
信仰をよせ、ほとんどの兄弟たちが、信者となって教学を学んでいった」とあり、「当然、
多くの信者たちは私の家にも折伏にきた」と述べています。
すると、なんらかの形で信次は、「創価学会」の教学に触れているわけです。少なくと
も30年以上も「神仏の世界ともう一人の自分」を求めてきた信次が、折伏しにきた信者
や兄弟たち(十人もいます)と「論争」しなかったわけがありません。折伏に関しては、
ただでさえ激論がつきもののようですし、兄弟じゅうからの「折伏」を跳ね返すとなると
大変な努力が必要でしょう。先述した妹の「星洋子」も10年来の熱心な「日蓮正宗」の
信徒だったとあります。
これらの「背景」と実際に信次が著書に「引用」し、「教義上の用語」として「流用」
した概念の数々を照らし合わせれば、結論はひとつです。信次が「宗教関係は何も学んだ
ことがない」というのは、虚偽であることが歴然とします。
<関係資料群>
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧1(15年6/13版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/358.html
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧2(15年7/1版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/530.html
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧3(15年8/24版)
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/542.html
GLA・高橋信次(高橋佳子)の虚言癖・詐話癖を告発する
http://www.asyura.com/0310/hasan29/msg/124.html
GLA高橋親子関係・阿修羅内/総合検索結果一覧(1度に見たい方はこちらが便利かも)
http://www.google.com/search?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=site%3Aasyura.com+GLA+%8D%82%8B%B4&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5&lr=lang_ja