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現在、人体実験の「倫理的ガイドライン」は「ニュルンベルク綱領」というものが
土台に据えられています。医療倫理を論じる人々はこれを無条件に崇拝している
に等しいのですが、この「綱領」なるものは連合国がナチス・ドイツに対して
行なった国際軍事法廷の“強引なるオマケ”としてひねり出されたものでした。
そのあたりの事情を調べていたら、ウェブ上でこんな論文を見つけました。
東京裁判の例を引くまでもなく、戦勝者による一方的な「裁判」は、戦勝支配を
継続するための一種の“軍事作戦”と呼ぶべきであり、「裁判」などと呼ぶのは
おこがましい限りです。
ニュルンベルク「エセ裁判」はドイツについての沢山の神話を生み出し、固定化
しました。おそるべき心理戦兵器として活用されたわけです。その効力は半世紀以上
を経た今もなお強力に続いており、ますます“効き目”が強まる気配なのですから、
NBC兵器よりも手ごわい……と言えるかも知れません。
こうした嘘デッチ上げによる神話は、イラクその他の「戦争」芝居でも米英などに
よって使われ続けて行くでしょう。 そうした傾向に対する警鐘として、ここに
紹介する論文は一読の価値があると思います。
そういうわけで、著者の許可を得てはいませんが、ぜひとも紹介しておくべき価値が
あると思ったので、ここに転載し、紹介しておきます。
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http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/edu/e36/e3601.pdf のHTMLバージョンです。
ニュルンベルク国際軍事法廷憲章批判
<はじめに>
ニュルンベルク国際軍事法廷(IMT)は,数回の予備審問を経たのち,1945年11月20日に開
廷された.法廷設立の法的根拠(訴訟基盤)は,開廷冒頭にローレンス裁判長が「この国際軍事
法廷は,1945年8月8日のロンドン協定,およびそれに付加された憲章にもとづいて設置された
ものである」と述べているように【1】,米英仏ソが署名した1945年8月8日の「ヨーロッパ枢軸国
の主要戦争犯罪人の訴追と処罰」に関する協定(ロンドン協定)とそれに付随した「国際軍事法
廷憲章」(Charter of the International Military Tribunal)であった.前者が短いものであり,
戦争犯罪人の処理に関する大枠の方針を定めているにすぎないのに対して,犯罪の定義,法廷の
構成,訴訟手続きと刑罰など具体的な諸規定を定めていたのは,後者であった.したがって,ニ
ュルンベルク裁判の公判審理は,この「国際軍事法廷憲章」【2】にのっとって進行したといっても
過言ではない.
ニュルンベルク裁判および東京裁判に対する批判は,さまざまな視点からなされている.本小
論は,この裁判の法的根拠とされた「国際軍事法廷憲章」の諸条文を検証して,その法的問題点
および裁判での条文運用の問題点を考察しようとするものである(以下条文の中の強調は筆者に
よる).【3】
ニュルンベルク国際軍事法廷憲章批判>
加 藤 一 郎
La Kritiko kontrau Carto de la Internacia Milita Tribunalo
KATO Iciro
Rezumo:La Internacia Milita Tribunalo en Nurnbergo lege bazis sin sur Carto de la
Internacia Milita Tribunalo“ kompostita de la venkintaj landoj. Oni kritikis
Nurnbergan Tribunalon el diversaj vidpunktoj. En tiu ?i studo mi volas ekzameni
artikolojn de Carto“ kaj rekonsideri diversajn le?ajn problemojn de la Internacia
Milita Tribunalo en Nurnbergo.
かとう いちろう 文教大学教育学部
『教育学部紀要』文教大学教育学部 第36集 2002年 加藤一郎
<「憲章」の諸条文の問題点>
[1条]
問題点@:「ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪人」だけを裁判・処罰対象とする戦争裁判は,公
平=正義にもとづいた裁判であるといえるのだろうか.
1条は,国際軍事法廷の設立目的を,「ヨーロッパ枢軸諸国の主要戦争犯罪人の公正・迅速な
審理及び処罰」と定めているが,訴追・裁判の対象をナチス・ドイツの行為だけに限定すること
によって,弁護側は,連合国側も同様の戦争犯罪を犯しているのではないかという弁明を封じら
れることになった.
例えば,ソ連検事ルデンコは,弁護側が独ソ不可侵条約の問題を取り上げようとすると,「私
たちは連合国の政策にかかわる問題を調査しているのではなく,主要ドイツ人戦争犯罪人への告
発を調査しているという事実に,法廷の関心を向けたいだけです.弁護団によるこのような質問
は,法廷の関心を,私たちが調査している問題からそらしています.だから,この種の質問は不
適切なものとして,却下されるのが適切であると考えます」【4】と論じている.
[2条]
問題点A:戦勝国だけが裁判官を任命しているのは,裁判の中立原則を侵しているのではない
だろうか.
2条は,判事団が米英仏ソの戦勝4カ国が任命する4名の裁判官および4名の予備裁判官によ
って構成されると定めているが,これは,裁判の中立原則を侵している.
例えば,ドイツとソ連は,1939年のポーランド戦役ではポーランドに侵攻したという同様の立
場にあったが,ニュルンベルク裁判では,一方は被告となり,もう一方は,検事および裁判官と
なったのである.
また,岡崎久彦氏は,東京裁判に関してであるが,「アングロ・サクソン系の法制度も,最も
悪い形で適用されました.検察官というのは,大陸系の法制度では公共の利益を考える公正な態
度が要求されますが,英米系では,弁護側と対等の立場でお互いの主張を戦わせ,中立公正な裁
判官が両者の言い分を聞いて判断を下すという形になっています.とすると,裁判官が中立国で
なく戦勝国側であるということで,すでに英米系の法制度は機能不全に陥っているわけです.こ
の点は,ウエッブ裁判長自身が偏った経歴の人物であることもあって,当初から厳しく指摘され
ています.また,英米法では,検察,弁護両側が勝手に怪しげな証拠を持ち出して素人の陪審員
を惑わすのを防ぐため,公正な裁判官による証拠の採用不採用の権限が強くなっています.その
裁判官が戦勝国側では話になりません」【5】と手厳しく批判している.
さらに,もとをたどると,ニュルンベルク裁判の法的根拠であるロンドン協定には,アメリカ
検事ジャクソン,フランス予備裁判官ファルコ,ソ連検事ニキチェンコが署名している.このこ
とは,ニュルンベルク裁判が,立法者,検察官,裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分
割」という根本原則からまったく逸脱していたことを意味している.
[3条]
問題点B:「忌避されえない」ニュルンベルク裁判は「不可侵の存在」であるのか.
3条は,「法廷,裁判官または予備裁判官は,検察官または被告人もしくはその弁護人により
忌避されることがない」と規定しており,誰もニュルンベルク裁判自体の管轄権と構成に疑問を
はさめないことになっている.弁護団は,裁判の冒頭に,ニュルンベルク裁判の管轄権について
疑義を申し立てる動議【6】を提出したが,「法廷は,この動議が法廷の管轄権に関する嘆願であ
り,憲章3条に矛盾していると裁定して,この動議を却下した」ということになってしまった.
[4条:法廷の定足数および多数決原理]
[5条:必要に応じた別個の法廷の設立]
[6条]
問題点C:「平和に対する罪」,「人道に対する罪」は,事後法,遡及法であり,罪刑法定主義
違反ではないのであろうか.
6条は,「平和に対する罪」,「戦争犯罪,すなわち,戦争の法規又は慣例の違反」,「人道に対
する罪」にかかわる「各行為又はそのいずれかは,本法廷の管轄に属する犯罪とし,これについ
ては個人的責任が成立する」というように,国際軍事法廷の管轄権を定めている.
とりわけ,「平和に対する罪」および「人道に対する罪」で告発することが,事後法,遡及法
にもとづいており,近代の司法原則の根幹である「罪刑法定主義」に違反しているという点につ
いては,すでに議論し尽くされているので,詳述する必要はないであろう.
[7条:国家元首以下の公務員の責任]
[8条] 問題点D:上官の命令とその部下の個人責任との関係は明確にされているのだろうか.
8条は,「被告人がその政府または上司の命令に従って行動したという事実は,被告人の責任
を解除するものではないが,本法廷において正義が要求するものと認める場合には,刑の減軽の
ために考慮することができる」と定めて,「上官の命令による」という弁明を封じているが,こ
れは,とくに軍人に関しては,「上官の命令によって犯罪を実行した者」の免訴を定めた,連合
国も含めた,各国の軍刑法とは矛盾している.
[9,10,11条]
問題点E:「犯罪集団」とは何であるのか,それは「刑法の個人原則」と矛盾しているのではな
いか.
国際軍事法廷は,特定の集団を「犯罪性を有すると宣言でき」(9条),戦勝国は,「犯罪集団
と宣言された」組織に属していた者を訴追・裁判する権利を持ち(10条),有罪となった者に
「別個のまたは加重的な刑罰を科することができる」(11条)と定めている.弁護側は,この規
定は「民主主義的な刑法の個人原則」に対する違反である,この規定には「有罪の人々を起訴し
ないというよりも,無実の人々を処罰したいという傾向」がある,「ある組織が犯罪的であると
宣告された場合,かつてそのメンバーであった人物は,そこにかつて加入していただけで,処罰
されることになり,行為の当時は法的に認められていた行為の罪状で代償を支払わなくてはなら
なくなる.したがって,憲章は遡及法の基準を定めているのである」【7】と批判している.
[12条:欠席裁判の容認]
[13条:訴訟手続きに関する規則の作成]
[14条:検事団の職務]
[15条:検事の職務]
[16条]
16条は,「被告人に対する公平な法廷」と題する憲章第4節全体を構成している.全文は以下の
とおりである.
「被告人に対する公平な法廷を保障するため,次の手続に従う.
(a) 起訴状には,被告人に対する起訴事実を詳細に明示する事項をもれなく記載しなくてはなら
ない.起訴状およびこれとともに提出された書類の写しは,被告人の理解する言語に翻訳
し,公判前適当な時期に被告人に手渡される.
(b) 被告人の予備審問及び公判中,当該被告人は自己に対する起訴事実に関して弁解する権利を
有する.
(c) 被告人の予備審問及び公判は,当該被告人の理解する言語により行なわれ,又はその言語に
翻訳される.
(d) 被告人は,法廷において自ら弁護し,又は弁護人にこれを依頼する権利を有する.
(e) 被告人は自ら又は弁護人を通じ,自己の弁護を支持するための証拠物件を提出し,また,検
事の召喚した証人に対して反対尋問する権利を有する.」
この条文を読む限り,被告人の権利はかなり守られているように見える.しかし,実際の運用
がどうであったのかが問題である.法廷での被告・弁護側からのこの問題についての発言を中心
に検討してみよう(強調 ―― 引用者).
問題点F:被告・弁護側は,「被告人が理解できる言語に翻訳」された裁判資料を,事前に検討
できたのであろうか.
・「私たちのうち誰一人として,この資料を見ていません.その資料がドイツ語訳で,弁護側に
提供されることを希望いたします」(弁護人ディクス)【8】.
・「例えば,私たちは昨日の晩,英語で書かれた大量の資料を受け取りました.そして,夕方,
私たちは,獄中で,審理の結果について,依頼人と数時間話し合わなければなりませんでし
た.面会室に鉄格子のスクリーンが設置されたので,この仕事は一層難しくなりました.その
上,私たちは,英語で書かれた大量の資料について話し合わなくてはなりませんでした.これ
は実際上不可能なことです.この資料を受け取ったのは,審理の日の夕方以降でした.必要な
準備をするのは,たとえ英語に堪能な人でも,不可能でしょう」(弁護人ザウター)【9】.
・「裁判長,反対尋問するつもりはありません.これらの資料について質問もしません.検事側
も質問しませんでした.これらの資料を使うことはできないと思います.一つの資料はポーラ
ンド語であり,残念ながら,読むことができませんので,それに質問することもできません」
(弁護人ペルクマン)【10】.
問題点G:被告・弁護側は,「自己の弁護を支持するための証拠物件」を提出することができた
のであろうか.
・「検事側は,自分たちの手元にある大量の証拠から,いくつかの犯罪を立証するような事実を
選び出し,そのあとで,その事実が典型的な事例である,どこであっても同様である,これら
の行為はSSその他に典型的な事例であったと論じてきました.そしてすでに述べられている
ように,犯罪の事実を覆すような証拠を準備するのは,もっぱら弁護側の責任だというので
す.ここにこそ,とくに,SSのような組織を弁護するにあたっての難点があります.SSと
いう組織は解散しており,存在していないからです.私たちが証拠を集めようとしても,その
組織のメンバーの大半や指導者すべてが拘禁されていたか,いまだ拘禁中です.占領軍当局
は,すべての文書証拠,個人ファイル,書簡,指令や命令書を保管しています.確かに,私た
ちは囚人たちに尋問することができたかもしれませんが,事件から,何年もたっており,まし
て,詳細については,情報は不十分なものとならざるをえませんでしたし,法廷の進行しだい
でしたので,情報を手に入れることができたとしても4月か5月以降のことでした.私たち
は,事件のことをよく知っている人物に接触することはできませんでした.予備審問との関連
でいえば,私たちはオーストリアやソ連占領地区のSS隊員から証言を得ることはまったくで
きなかったのです.連合国資料センターは,没収した文書資料をテーマ別に分類して保管して
いるはずですが,私たちはこのセンターでの調査を保安上の理由から許されませんでした.で
すから,いくつかの貴重な文書情報を手に入れることができなかったのです」(弁護人ペルク
マン)【11】.
・「さて,当法廷では,ドイツの対外政策の犯罪的性格について,一体何を証明できたでしょう
か.弁護側は300以上の資料を提出いたしましたが,うち150は,説得力のない理由で却下され
ました.弁護側は,敵側の資料,さらには,ドイツ側の資料にも近づくことができませんでし
た」(被告リッベントロップ)【12】.
問題点H:検事側が提出した証拠資料には,偽造文書があったのではないか.
・「ジャクソン検事による冒頭陳述での一般的姿勢はかなり疑わしい前提にもとづいている.ジ
ャクソン検事はこれとの関連で,資料1947にふれている.ジャクソン検事の陳述では重要なも
のとなっている資料1947-PSは1938年12月11日のフリッチュ将軍からシュツバル-ミルヒリン
グ伯爵夫人あての書簡である.その中で,フリッチュ将軍は,三つの戦いで勝利を収めなくて
はならないであろう,最初は,労働者に対する戦い,第二は,カトリック教会に対する戦い,
第三は,ユダヤ人に対する戦いであると述べているといわれている.私は,何回も要求したに
もかかわらず,この資料のオリジナルも写真コピーも受け取っていません.発見されれば,い
つでもアクセスできると言われました.ここで,私はシュツバル-ミルヒリング伯爵夫人の供
述書を異議申し立ての証拠としてあげておきたい.彼女はその供述書のなかで,いわゆるフリ
ッチュ将軍の手紙は受け取っていないと述べているからです.もし,この鍵となる資料1947-
PSがこの審理の終了までに提出されえなかったならば,この資料が提出されていないにもか
かわらず,使われてしまっていることを強調しておきたい.そして,提出されていない資料に
ふれているジャクソン検事の冒頭陳述の部分は,記録から削除されるべきであると考えます」
(弁護人ラテルンザー)【13】.
・「…1938年11月9日の事件は,SAに対する告発の中でも,もっとも犯罪的なものである.
クルプファルツ旅団の司令官報告といわれているものは,この点で重要な役割を果たしている.
この行動報告(PS-1721)周囲の状況から判断すると,この報告は,粗雑な偽造のように思わ
れる.その証拠として,私は,証人ルッケとフストの名前を挙げる.この二人については,弁
護側が彼らの収容されている収容所を教えたにもかかわらず,そして,事務局は数ヶ月間手を
つくしたにもかかわらず,ニュルンベルクに移送されてこなかった」(弁護人ベーム)【14】.
・「読み上げられた二つの資料には,事実関係についての多くの誤りがあります.署名もありま
せん.さらに,一回だけの会議が開かれたとあります.だから,これらの資料は不正確なので
す.この会議に出席していたもので,速記録をとっていた人物はいません.署名もありませ
ん.ですから,この資料を書いた人物は誰なのか,その信憑性に責任を持っているのは誰なの
かを確定できません.まだ読み上げられていない三番目の資料は,弁護側の資料室にある写真
コピーによりますと,たんにタイプライターで書かれています.場所や時間も特定されていま
せん」(弁護人シュターマー)【15】.
問題点I:被告から自白や供述書を手に入れるために,拷問や脅迫が使われたのではないか.
・「ヴィンクルのライトを経てベルヒテスガーデンへの気違いじみた急ぎ旅の途中,新聞記者
(5分の4がユダヤ人)の前で私は嘲罵を受けました.映画を見せられ,ザルツブルクの刑務
所入所.『とうとうユリウス・シュトライヒャーをつかまえたぞ!』とユダヤ人将校.『この
犬,豚! おれが10歳のとき,おまえは『突撃兵』の中に人種的不名誉の見本として,おれを載
せやがった!両手を出せ!』 私の両手には鉄の手錠がはめられた.その夜一晩,ユダヤ人か
ら私は嘲弄された.厳しい監視.食事なし.真夜中に女の声で『あなたはユリウス・シュトラ
イヒャーか?』私,『おっしゃるとおりです.』翌日,エップとともにトラックで,ミュンヘン
を経てフライジングへ.私に残されているのはシャツとズボンだけである.おそろしく寒かっ
た.フライジングの刑務所の小部屋.北向き.もっと寒くなる夜,窓は引き開けられていた.
二人の黒人が私を裸にし,シャツをニつに引き裂く.私はパンツだけになった.私は鎖でしば
られているので,パンツが下がっても上げることができなかった.そして私は素裸にされた.
4日間も!4日目に私の体は冷えきって感覚がなくなった.もう耳も聞こえなかった.2〜4
時間ごとに(夜も)黒人たちが来て,一人の白人の命令のもとで私を拷問した.乳首の上を煙
草の火で焼く.指で目を押す.眉毛や乳首から毛を引きむしる.革の鞭で性器を打つ.睾丸は
はれ上がる.つばを吐きかける.『口を開け!』そして口の中につばを吐く.私がもう口を開
けないでいると,木の棒でこじ開ける――そしてつばを吐き込む.鞭で殴打.たちまち体中に
血でふくれ上がった筋が走る.壁に投げつける.頭を拳固で殴打.地べたに投げつける.そし
て背中を鎖で打つ.黒人の足にキスすることを私が拒否すると,足で踏み付け,鞭打ち.腐っ
た馬鈴薯の皮を食うのを断わると,再び殴打,つば,煙草の火! 便所の小便を飲むことを拒
否すると,またも拷問.毎日ユダヤ人記者が来る.裸の写真をとる! 私に古ぼけた兵隊マン
トをかけて嘲弄.『え?あんたどれくらい生きていられると思っている』横になることは,許
されない.椅子もない.いつも両手をしばられ,地面にへ夕へ夕と引つくり返ったまま.4日
間休みなくしばられたまま.大小便もできない.私は痛みを訴える声も出せなかった.」(被告
シュトライヒャーから弁護人マルクスへの報告書)【16】.
・「しかし,どうして署名したのか,法廷に説明したいと思います.この資料はすでに出来上が
ったものとして私に示されました.私は獄中でこの資料を読んで研究してから,署名するかど
うか判断したいと述べましたが,拒否されました.すると,ポーランド軍かロシア軍に引き渡
すと言われました.署名をためらっていれば,ロシア当局に引き渡されることが明らかでし
た.ポーランド軍かロシア軍の将校が入ってきて,『ザウケルの家族はどこだ』と尋ねました.
『われわれはザウケルを知っている.そして,もちろん彼を連れて行く.しかし,彼の家族も
ロシアに連行しなくてはならない.』私は,10人の子供の父親です.私は考えることを止め
て,自分の家族を思い,この文書に署名しました.獄に戻ると,私は収容所長にメッセージを
書いてこの件で彼とだけ話したいと伝えました.しかし,それは許されませんでした.その直
後に,私はニュルンベルクに移されたからです」(被告ザウケル)【17】
.
[17条:法廷の権限]
[18条:公判の迅速な進展]
[19条]
「法廷は,証拠に関する法技術的規則に拘束されない.法廷は,迅速かつ非法技術的手続を最
大限に採用し,かつ,適用し,法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するも
のである」との19条は,後述する21条とともに,ニュルンベルク裁判の「特異性」を象徴してい
る.すなわち,極言すれば,提出されたあらゆる証拠は,「ヨーロッパ枢軸国の主要戦争犯罪
人」の「有罪」を立証するものであれば,たとえ,それが厳密な証拠手続きにそぐわないもので
あっても,すべて「許容する」というのである.
アメリカ首席検事ジャクソンは,もっと率直に,「しかしながら,憲章を解釈するに当たっ
て,国際軍事法廷としてのこの組織のユニークな緊急的性格を看過すべきではない.それは,署
名国の国内法の司法的機構の一部ではない.ドイツは無条件降伏したが,講和条約は署名されて
もおらず,合意されてもいない.連合国は,敵であるドイツの政治・軍事組織が崩壊しているに
もかかわらず,依然として,技術的には,ドイツと戦争状態にある.国際法廷として,当法廷
は,連合国の戦争遂行努力の継続である.国際法廷として,当法廷は,各国の司法・憲法制度の
精密な審理手順に拘束されない」【18】と述べている.
問題点J:被告は自分に不利な供述をしている証人に対して反対尋問をすることができたので
あろうか.
実際,ニュルンベルク裁判では,証人が出廷して弁護側の反対尋問を受けることなく,供述書
だけが法廷に提出され,それが証拠として採用された事例が多かった.例えば,被告パーペンの
弁護人クブショクは,「供述の内容は,証人のきわめて多くの主観的意見を含んでいるので,こ
の件について,証人個人から,話を聞くことが絶対不可欠です」と述べて,証人の出廷と証人へ
の反対尋問を求め,「私は,この法廷にいわば違った価値を持った二つの証拠手順方法を持ち込
もうとする検事側の意見に賛同できません.すなわち,証人の直接尋問による,完全な価値を持
つ証拠と,供述書にもとづく,あまり完全ではない証拠です.十分な証拠と不十分な証拠が存在
するというようになっています.私は,法廷は,完全で十分な価値を持つ証拠にだけ依拠すべき
であると考えます」と法理論的には正当な議論を展開しているにもかかわらず,裁判長は「法廷
は提起された異議申し立てについて次のように考える.法廷は,証拠に関する法技術的規則に拘
束されない,法廷は,迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し,かつ,適用し,法廷において
証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものであるとの憲章19条のもとで法廷が持って
いる権限を考慮して,法廷は,供述書を提出することは可能であり,そして,当ケースでは,こ
れは適切である」と裁定してしまっている【19】.ここでは,「被告人に対する公平な法廷」を
保障するために,被告に反対尋問の権利を認めた憲章16条(c)の原則が,被告の有罪を立証する
ために,「証拠に関する法技術的規則」を無視することを許した憲章19条に,踏みにじられて
いるのである.
問題点K:検事側の立証や判決は,検証されていない「供述」にもとづいて組み立てられてい
るのではないだろうか.
多くの供述書が,反対尋問を受けずに証拠として採用されただけではなく,ニュルンベルク裁
判の判決も,このような供述書からの引用だけで,犯罪を立証したかのような調子で書かれてい
る.判決文には,「…ドイツ人技師グレーベが語っているロヴノとドゥブノでの虐殺は一つの方
法の事例である.…アウシュヴィッツに関していえば,法廷は1940年5月1日から1943年12月1
日までその所長であったヘスの証言を審理している.彼は,アウシュヴィッツ収容所だけで,そ
のあいだに250万が絶滅され,さらに,50万人が病気や飢えで死亡したと述べている」【20】と
ある.
提出されたグレーベの供述資料(PS-2992)は,「ヘルマン・フリードリヒ・グレーベの二つ
の供述,1945年11月10日:1942年7月13〜14日のロヴノでのユダヤ人の虐殺についての記述:
1942年10月5日のロヴノでのユダヤ人の虐殺についての記述.1945年11月13日の追加供述,大量
殺戮を実行したSS隊員とSD隊員の記述.… 私,ヘルマン・フリードリヒ・グレーベは次の
ように証言する.… 私は,上記の話を1945年11月10日,ドイツのヴィスバーデンで行なった.
私は,これがまったくの真実であることを神の前で宣誓する.フリードリヒ・グレーベ」【21】
というものであり,彼自身は反対尋問も受けておらず,彼の供述にあるロヴノでのユダヤ人虐殺
事件については,他の証拠資料や証言でも確証されていない.唯一,グレーベの供述の信憑性を
保証しているのは,「私は,これがまったくの真実であることを神の前で宣誓する」という
彼自身の言葉だけである.
また,アウシュヴィッツ所長ヘスの供述書(PS-3868)は,「1946年4月5日のルドルフ・フ
ランツ・フェルディナンド・ヘスの供述;彼は,1940年5月1日から1943年12月1日まで,アウ
シュヴィッツ強制収容所の所長であった;そのあいだに,300万人がそこで殺された;殺害方法
が記述されている;責任者の名前;『最終解決』はヨーロッパのユダヤ人全員の絶滅を意味し
た;アウシュヴィッツ周辺地区の住民は殺戮を知っていた(提出証拠USA-819)…ルドルフ・
フランツ・フェルディナンド・ヘスは,宣誓したのちに,次のように供述している.私は46歳で
あり,1922年からナチス党員でした….……私は,上に書かれている英語を理解できます.上記
の供述は本物です.私は,この供述を自発的に,かつ,強制されずに行ないました.そして,供
述を読み終えてから,証明し,1946年4月6日のニュルンベルクでも同じことをしました.署
名:ルドルフ・ヘス」【22】というものである.ホロコースト正史のなかでアウシュヴィッツでの
「大量ガス処刑」を証明している第一級資料とみなされているヘスの供述書や「自白」,および
供述書や「自白」が生み出された状況,およびその内容については,すでに,ホロコースト修正
主義者の手によって,丹念に分析されているので,ここでは扱わない【23】.
「自白」と「供述書」
だけにもとづく裁判の典型は,中世の魔女裁判と,近代の共産主義者による反対派に対する粛清
裁判であるが,ニュルンベルク裁判もその延長線上にあるといえよう.
問題点L:マウトハウゼン収容所長ツィエライスの「自白」には,信憑性があるのだろうか.
また,この「自白」の内容を証言したマルサレク供述書は「伝聞証拠」ではないだろうか.
次の問題は,通常の裁判でならば,証拠価値を認められない「伝聞証言(hearsay)」も,「証
拠に関する法技術的規則に拘束されない」という19条のもとで,証拠として採用されたことであ
る.典型的事例が,証拠PS-3870として提出されたマルサレク供述書【24】である.
マルサレク証言は3部構成であり,第1部はマルサレク自身の経歴,第2部は,マウトハウゼ
ン収容所長ツィエライスが死の床で行なったとされている「自白」についてのマルサレクの伝聞
証言,第3部はマルサレク自身の証言であるが,全体の4分の3ほどを占めているのは,第2部
のマルサレクが「聞いた」とされているツィエライスの「自白」である.
この第2部は,次のように始まる.
「2.1945年5月22日,マウトハウゼン強制収容所長フランツ・ツィエライスは逃亡しようと
してアメリカ軍兵士に撃たれ,グーセン支部収容所に連行されました.私は11軍師団(アメリカ
軍師団)司令官セイベル,前囚人で物理学者のコシェインスキ,名前不詳のポーランド市民の前
で6〜8時間,フランツ・ツィエライスを尋問しました.尋問は1945年5月22日から23日の夜に
行なわれました.フランツ・ツィエライスは重傷であり,彼の身体には銃弾が3発入っていまし
た.彼は自分が瀕死であることを知っており,私にこのように語りました.」(下記は,米軍が撮
影した,死の床でのツィエライス尋問の様子である.)【25】ツィエライスの「自白」を整理すると
以下のとおりとなる.
@ 1939年2月にマウトハウゼン収容所長となった.
A 収容所で死亡した囚人の総数は,65000名であった.
B 手に負えない犯罪常習者が精神病患者として,ハルトハイムに送られ,「絶滅」された.
C 囚人の死体から,刺青のある皮膚がはがされ,本のカバー,電灯の傘,バッグが作られた.
D ヒムラーが,トンネルの中で大量の囚人を爆殺する命令を出したが,それを拒否したので,
別の人物によって行なわれた.
E 浴室にカモフラージュされたガス室の中で,ガス処刑が行なわれた.
F ガストラックが作られ,囚人はマウトハウゼンとグーセン間の移送中に,このトラックの中
でガス処刑された.
G リンツ郊外のハルトハイム城にあったガス室では約100万,150万の人間が殺された.
H 焼却棟で働く特別労務班を3週間ごとに殺害するという秘密命令があった.
I 収容所長としての自分の管轄下には,マウトハウゼン(12000名),グーセンTとU(約
24000名),…シュロス・リント(20名),…シュリール(約1000名)など32の収容所があった.
3発の銃弾を受け,「瀕死」の状態にあった人物が,死の直前の1945年5月22〜23日に「6時
間」も尋問を受けて,このように複雑で詳細な「自白」を行ない,しかも,その「自白」はその
場にいた尋問官のメモにも記録されず(したがって,ツィエライスが署名した「自白」なるもの
は存在しない),ただ,マルサレクなる人物の「記憶」のなかにだけ残り続け,1年ほどのちの
1946年4月8日にマウトハウゼン収容所長ツィライスの「自白」として登場している.このこと
自体だけでも,非常に「奇怪」なのに,もっと不可解なのは,このツィエライスの「自白」に
は,ハルトハイムでは100万,あるいは150万人がガス処刑されたという噴飯ものの記述ととも
に,「刺青の入った囚人の皮で作った本のカバーや電灯の傘」,「浴室にカモフラージュされたガ
ス室」,「ガストラック」といったような,当時,流布していたナチス・ドイツの「蛮行」を象徴
するような事柄,そして今日まで,マス・イメージのなかでホロコーストを象徴するような事柄
=「ホロコーストの定番アイテム」が含まれていることである.
ツィエライスの「自白」の「奇怪さ」=「不可解さ」は,ツィエライスの「自白」と死亡の時
期(1945年5月)とマルサレク証言が登場した時期(1946年6月)を念頭に置けば,すぐに理解
できる.すなわち,ハルトハイムでの安楽死の話は,すでに戦前から広まっており,「刺青の入
った囚人の皮で作った本のカバーや電灯の傘」の話は,ダッハウ裁判やニュルンベルク裁判です
でに登場してきており,「浴室にカモフラージュされたガス室」という話は,マイダネク収容所
とアウシュヴィッツ収容所に関するソ連・ポーランド特別調査委員会のなかに,「ガストラッ
ク」の話は,ソ連が大戦末期に開いた「クラスノダル裁判」,「ハリコフ裁判」およびニュルンベ
ルク裁判で登場してきている.つまり,ツィエライスの「自白」と死からマルサレク証言までの
時期は,「大量ガス処刑」説が「権威のある報告,法廷の顕著な事実から重みをえながら,一般
的なペイパーバック,写真誌,ニュース映画というメディアを介して直接広く受け入れられつ
つ,進化し続けていった」【26】時期なのであり,こうした情報に通暁した尋問官が,ツィエライス
の「自白」を含むマルサレク供述書を作文したのである.すなわち,マルサレク供述書の末尾に
署名している米軍尋問官S. W. Brookhart Jr.中尉こそが,この供述書を作文したのである.実
は,このブルックハートは,ヘスの供述書,「最終解決」では400〜500万人のユダヤ人が殺され
たとアイヒマンが述べたというSS隊員ヴィスリセニイの証言【27】,東部戦線での特別行動
部隊の「虐殺」行為についてのSS隊員オーレンドルフの供述書【28】,カルテンブルンナーと
ツィエライスがマウトハウゼン収容所でのガス処刑に立ち会ったというSS隊員ヘルリーグルの
供述書【29】,すなわち,加害者側であるSS隊員が「ガス処刑」や「大量射殺」などを「自白」
した重要な証言記録すべてに尋問官として署名している人物である【30】.
[20条:証拠の提出前に,その性質説明を求める法廷の権限]
[21条]
「法廷は,公知の事実については,証明の必要のない,法廷に顕著な事実(Judicial notice)
と認める.また,法廷は,戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および
文書を含む,連合諸国の公文書及び報告書ならびにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の
法廷の記録や判決書をも,同様に法廷に顕著な事実と認める」という憲章21条は,ニュルンベル
ク裁判における証拠資料の取り扱いの「特異性」を象徴する条文である.もちろん,特定の裁判
において,すでに「公知の事実」となっていることすべてを立証する必要がないことは当然のこ
とであり,この意味で,19条の前半は容認しうる.しかし,戦勝国の調査委員会の公式報告,お
よび戦勝国の軍事法廷の記録や判決を「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」とした後半部
は,戦勝国の作成した報告書による事実認定を,最初から,法律的には公判で争う余地のない明
確な証拠,ひいては歴史学的にはまったく検証の余地のない「歴史的真理」とみなしてるがゆえ
に,法的にも歴史学的にも容認しえない.
以下,検事側および判決が,戦勝国の調査委員会の公式報告,および戦勝国の軍事法廷の記録
や判決を使って,罪状を「立証」している事例を挙げておこう(強調 ―― 引用者).
問題点M:カチン事件は,ソ連特別委員会の公式資料を使って「立証」されているが,今日で
も,「「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」なのであろうか.
・「1941年9月,戦争捕虜となった11000名のポーランド軍将校が,スモレンスク近郊のカチンの
森で殺された」(起訴状)【31】.
・「起訴状にあるように,主要戦争犯罪人が責任をおっているもっとも重要な犯罪行為の一つ
は,スモレンスク近郊のカチンの森でドイツ・ファシスト侵略者によって射殺されたポーラン
ド軍将校の大量処刑である.私は,この犯罪の証拠として,この処刑が行なわれた状況を調査
した特別委員会の公式資料を提出する.特別国家委員会のメンバー,すなわち,アカデミー会
員ブルデンコ,アレクセイ・トルストイ,府主教ニコライに加えて,当委員会は,パン・スラ
ヴ委員会議長グンドロフ中将,赤十字・赤三日月連盟執行委員会議長クレスニコフ,ロシア共
和国教育人民委員アカデミー会員ポチョムキン,赤軍医学局長スミルノフ将軍,スモレンスク
地区執行委員会議長メリニコフから構成されている.また,何人かの有名な法医学専門家も委
員会に加わっている.私は,調査結果を証拠USSR-54(資料USSR-54)として提出する」
(ソ連検事ポクロフスキイ)【32】.
問題点N:囚人の脂肪を使って製造されたとされる「人間石鹸」は,ソ連側資料にもとづいて
「立証」されているが,今日でも,「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」なのであろうか.
・「焼却ののち,灰は肥料に使われた.また,いくつかのケースでは,犠牲者の死体からの脂肪
を石鹸の商業生産のために利用する試みがなされた」(起訴状)【33】.
・「ダンツィヒの解剖研究所では,死体から石鹸を製造したり,工業用に皮膚をなめす半工業的
な実験が行なわれた.私は,人間の脂肪からの石鹸生産に直接関与した人物の証言を証拠
USSR-197(資料USSR-197)として,法廷に提出する.それは,ダンツィヒ解剖研究所の実
験助手であったジグムント・マズールの証言である」(ソ連検事スミルノフ)【34】.
・「この場合,犠牲者の死体さえも,戦争中の石鹸不足をうめあわせるために利用された(資料
USSR-272)」(イギリス検事ショークロス)【35】.
・「焼却ののち,灰は肥料に使われた.また,いくつかのケースでは,犠牲者の死体からの脂肪
を石鹸の商業生産のために利用する試みがなされた」(判決文)【36】.
問題点O:ダッハウ収容所の「ガス室」は,アメリカ合衆国議会委員会報告(L-159)に登場し
ているが,今日でも,「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」なのであろうか.
・「ダッハウ収容所の際立った特徴は,囚人処刑用のガス室と入念な射殺処刑施設である.ガス
室は,焼却棟のなかの大きな部屋の中央にあった.コンクリート製であった.広さは20×20フ
ィートで,天井は10フィートであった.部屋の両側の壁には,気密ドアがあり,囚人はそこを
通って処刑室に入り,処刑された後に運び出された.ガスは,天井の穴の開いた真鍮の備品に
つながっているパイプを介して,部屋に入れられた.部屋の広さは,一時に100名ほどを処刑
するのに十分な広さであった.ガス室のある部屋の両側には,焼却を待つ処刑後の死体が保管
されている倉庫があった.それらの部屋の広さは,30×50フィートである.われわれが収容所
を訪問したとき,これらの倉庫には死体が山積みされていた.一つの部屋には,死体が乱雑に
山積みされていた.別の部屋では,薪のように整然と積み上げられていた.乱雑に積み上げられ
た死体の山は,10フィートほどの高さで,ほぼ床全面にわたっていた.全員が裸であった」【37】.
問題点P:トレブリンカ収容所の「蒸気スチーム殺人室」についての報告書は,ポーランド政
府が憲章21条にもとづいて,ニュルンベルク裁判に提出したものであるが,「蒸気スチーム殺人
室」は,今日でも,「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」なのであろうか.
・「この収容所でのユダヤ人の絶滅に関する『起訴番号6,トレブリンカ収容所』と題する資料
は,ポーランド政府が,憲章21条のもとで国際軍事法廷に公式に提出したものであることを証
明する.在ロンドン連合国戦争犯罪委員会ポーランド代表代理タデウシ・キプリアン博士.…
…総督ハンス・フランク博士の管轄下にあるドイツ当局は,蒸気室で窒息死させてユダヤ人を
大量に殺戮する目的を持つ絶滅収容所を1942年3月トレブリンカに設置した.……1942年4月
末,最初の3つの部屋が完成し,蒸気を使って大量殺戮が行なわれることになった.のちに,
本物の『死の建物』が完成し,そこには,10個の死の部屋があった.1942年秋の初頭に,大量
殺戮が始まった.……これらの死の収容所のうち,もっともよく知られているのは,トレブリ
ンカ,ベウジェッツ,ソビボル,ルブリン地区のものである.これらの収容所では,ユダヤ人
は,数千名ずつ,これまで知られていない,新しい方法で殺された.すなわち,ガス室,蒸気
室および電気が大規模に使われた.……すべての犠牲者は,衣服と靴を脱がなくてはならなか
った.それはのちに集められた.その後,犠牲者全員が,最初に女子供が,死の部屋に押し込
まれた.のろのろしていたり,弱っていて早く進めない人々は,銃床,鞭,足蹴,さらにはザ
ウアー自身によって追い立てられた.多くの人々が滑って転んでしまい,次の犠牲者がその上
を進んで,つまづいた.小さな子供はそのままなかに投げ込まれた.部屋がいっぱいとなる
と,気密ドアが閉じられ,蒸気が注入された.数分ですべてが終わった.ユダヤ人の召使労働
者が死体を取り出して,大量埋葬地に運ばなくてはならなかった.新しい移送集団が到着する
ごとに,埋葬地は,東に拡張されていった.……犠牲者たちは,数日間,貨物列車で収容所に
運ばれ,身体も心も衰弱しきっていた.だから,彼らにとっては,蒸気室での死は,救いとし
て歓迎されたに違いない.彼らの唯一の罪は,ヒトラーが死を宣告した人種に属していたこと
であった」【38】.
問題点Q:ソ連特別調査委員会がナチス・ドイツの犯罪と「報告」したカチン事件が,今日で
は,ソ連側の行為であると認められているとすれば,すなわち,ソ連特別調査委員会報告が今
日では「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」ではないとすれば,同一の人物が調査団に加
わっているアウシュヴィッツ収容所に関するソ連・ポーランド調査委員会報告は,今日でも,
「証明の必要のない,法廷に顕著な事実」なのであろうか.
・「… ドイツ人は,大量の死体をまきの上で燃やしたので,アウシュヴィッツの絶滅のための
施設の能力は,この数字が示しているよりも実際にははるかに大きいものと考えなくてはなら
ない.しかし,ここの焼却棟はフル操業していたわけではなく,修理のために停止されたかも
しれないことを考慮して,技術委員会は,ドイツの死刑執行人は,アウシュヴィッツ収容所が
存在していた期間を通じて,ソ連,ポーランド,フランス,ユーゴスラビア,チェコスロバキ
ア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリア,オランダ,ベルギーその他の国々の少なくとも
4000000の市民を殺したと断定する.……特別国家委員会議長シュヴェルニク.アカデミー会
員トライニン.総主教ニコライ.アカデミー会員ルイセンコ.アカデミー会員ブルデンコ」【39】.
[22条:法廷の常設地]
[23条:検察官と弁護人の職務]
[24条:公判の進行手順]
[25条:公文書の使用言語と翻訳]
[26条:判決と再審の不許可]
[27条:量刑]
[28条:強奪財産の没収]
[29条:刑の執行と減刑]
[30条:裁判費用]
<おわりに>
連合国側は,先に引用したアメリカ首席検事ジャクソンの言葉を繰り返すまでもなく,ニュル
ンベルク裁判(および東京裁判)を近代の司法制度にもとづいて被告人(ひいてはドイツ国家と
日本国家)の有罪・無罪を審理する裁判としてではなく,依然として戦争状態にある敵国=ドイ
ツおよび日本の政治的・軍事的指導者を法廷のかたちを使って「処分」しようとする「連合国の
戦争遂行努力の継続」として理解していた.したがって,裁判の法的根拠である「国際軍事法廷
憲章」も,迅速に有罪を確定し,被告を「処罰」するという目的を達成するために作成された.
とりわけ,「法廷は,証拠に関する法技術的規則に拘束されない」とする19条,「法廷は,戦争犯
罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む,連合諸国の公文書及
び報告書ならびにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも,同様に
法廷に顕著な事実と認める」とする21条は,近代の司法原則を無視してまで,被告および被告が
代表する国家の有罪を確定し,「犯罪者」「犯罪国家」の烙印を押そうとする連合国側の強い意志
を象徴していたといえよう.
1 IMT02_0029. Trial of the Major War Criminals before the International Military
Tribunal, Nuremberg, 14 November 1945-1 October 1946. 42 vols.(the blue set)(以後
IMT). Nazi Conspiracy and Aggression(the red set)(以後NCA).Trials of War
Criminals Before the Nuremberg Military Tribunals Under Control Council Law No. 10.
(the green set)
(以後NMT)
.ただし,筆者が参照したのは,1947年に刊行された裁判記録原
本ではなく,The Avaron Projectによるonlineのweb頁版http://elsinore.cis.yale.edu/lawweb/
avalon/imt/imt.htm,とCD-ROM版Nuremberg War Crimes Trials, volume 1: Aristarchus
International Law Database Series, Aristarchus Knowledge Industries, 1995, POB 45610,
Seattle, WA, 98105である.同記録からの引用巻および頁は,IMT12_0123-0456(国際軍事法廷
記録12巻123?456頁)というように表記する.
2 しかし,この「国際軍事法廷憲章」という名称自体が,連合国側も,ニュルンベルク裁判自
体の法的正当性に疑問を抱いていたことをうかがわせる.すなわち,犯罪を定義し,その犯罪に
対する処罰を定めているわけであるから,この規定は明らかに「法律」であり,例えば,「ヨー
ロッパ枢軸国主要戦争犯罪人処罰法」という名称が適切なのであろうが,それでは,明らかに,
「事後法」,「遡及法」となってしまうので,あいまいな「憲章」という名称がつけられたのであ
る.パーシコは,この間の事情を「しかし,この新しい法的文書をなんと名づけるべきか.命名
は慎重を要した.『法律』『法令』『法典』と名づけては,最初から『遡及法』の烙印をおすこと
になる.結局,中立的な用語である『憲章』を使うことでまとまり,『国際軍事法廷憲章』と命
名された」と述べている.ジョセフ・E・パーシコ,白幡憲之訳『ニュルンベルク軍事裁判』(原
書房,1996年),(上),70頁.Joseph E. Persico, Nuremberg, Infamy on Trial, Penguin Books
edition, 1994, p. 47.
3 『憲章』全文は,IMT01_0010-0015.
4 IMT10_0311-0312.
5 岡崎久彦 「百年の遺産-日本近代外交史(67)」(産経新聞2002年6月19日)
6 IMT01_0168-0170.なおこの動議全文の試訳は,http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/imt/
IMT01_0168-0170.htm
7 IMT21_0452-0454.
8 IMT02_0185.
9 IMT05_0022.
10 IMT20_0408.
11 IMT21_0589.さらに,歴史研究の観点からすると,ニュルンベルク裁判で提出された証拠
資料の取り扱いについては,イギリス人歴史家テイラーの次のような指摘が非常に示唆的である.
「これらの資料文書は厖大で立派にみえるけれども,歴史家が使用するには危険な資料であ
る.これらの文書はあわただしく殆んど手当たり次第に,法律家の訴訟事件摘要書を根拠づける
ために蒐集されたものである.これは歴史家のとる方法ではない.法律家は訴訟を目的とする
が,歴史家は状況を理解しようとする.法律家を納得させる証拠はしばしばわれわれを満足させ
るものではないし,われわれの方法は彼らには著しく不正確にみえるようである.だが法律家で
すら,今日ではニュールンベルクでの証拠について疑念を抱いているにちがいない.文書は被告
人の戦争犯罪を証明するためだけでなく,原告である諸大国の戦争犯罪を隠すためにも選択され
たのである.ニュールンベルク法廷を設立した四大国のいずれかが単独で裁判を行なったとした
ら,中傷はさらにひどかったろう.西欧諸国は独ソ不可侵条約をもちだしただろうし,ソ連はミ
ュンヘン会談やいかがわしい取引をもちだして報復したであろう.四大国に法廷が委ねられたた
め,第一に実行可能な方法はドイツの単独責任を前もって仮定することであった.評決は裁判に
先行し,文書はすでに決まっている結論を証拠立てるために提出されたのである.勿論これらの
文書は本物である.だがそれは『歪曲』されているのであって,これに依拠するものは誰でもそ
れが歪曲されているという事実から殆んど逃れられないことを知るであろう」(強調――引用者).
A. J. P. テイラー,吉田輝夫訳『第二次大戦の起源』
(中央公論社,1977年,31?32頁)
12 IMT22_0371.
13 IMT21_0381.
14 IMT22_0147.
15 IMT02_0291.
16 マーザー著,西義之訳『ニュルンベルク裁判』,1979年,TBSブリタニカ,68-70頁
17 IMT15_0064-0065.ゲーリングなどニュルンベルク裁判の「主要戦争犯罪人」に対しては,
拘留中に,直接,物理的な拷問は行なわれなかったと思われるが,「主要戦争裁判人」以外の被
告を裁いた,ダッハウ裁判やマルメディ裁判では,物理的な拷問は一般的であった.ダッハウ戦
争犯罪裁判調査委員会委員であったペンシルバニア州判事ヴァン・ローデンは,その報告書の冒
頭に「ドイツのダッハウでの合衆国法廷のアメリカ人尋問官は,自白を手に入れるために次のよ
うな方法を使った.すなわち,殴打と野蛮な足蹴.歯を折ること,顎を砕くこと.偽裁判.独房
への拘禁.僧侶の振りをすること.食糧配給の減額制限.無罪の約束」と記している.この報告
書の全文試訳は,http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/others/van_Roden.htmにある.
18 IMT19_0398.
19 IMT02_0350-0352.
20 IMT01_0251.
21 グラーベの供述書(PS-2992)は,NCA05.
22 ヘスの供述書(PS-3868)は,IMT33_0275-0278.
23 注目すべきは,今なお,ホロコースト「正史」では「大量ガス処刑」についての第一級の証
人として扱われているヘスが,国際軍事法廷では,「大量ガス処刑」の事実を証言する検事側証
人ではなく,被告カルテンブルンナーのための弁護側証人であったこと,「大量ガス処刑」に関
する文書資料(例えば,「Vergasungskeller(ガス処理室)」という単語を含む書簡など)が登
場するのは,この国際軍事法廷ではなく,その後開かれた米軍主宰のニュルンベルク裁判
(NMT)であったことである.
24 NCA06_0790-796.
25 Paul Le Caer-Bob Sheppard, Mauthausen, Paris, 2000, p. 80.
26 S. Crowell, The Gas Chamber of Sherlock Holmes, , An Attempt at a Literary Analysis of
the Holocaust Gassing Claim, http://codoh.com/incon/inconshr123.html, http://codoh.com/
incon/inconshr4567.html, http://codoh.com/incon/inconshr8_13.html, http://codoh.com/incon/
inconshr14_16.html
27 ブルックハートが尋問したヴィスリセニイ証言は,IMT04_0355-0371
28 オーレンドルフ供述書(PS-2620)は,NCA05_0341-0343.
29 ヘルリーグル供述書(PS-2753)は,NCA05_0398.
30 それゆえ,このブルックハートが,「ホロコースト物語」の作成に果たした役割は非常に大
きいと思われるが,彼の素性と経歴については,稿をあらためて論じたい.
31 IMT02_065.
32 IMT07_0424-0425.
33 IMT01_0252.
34 IMT07_0597.
35 IMT19_0506.
36 IMT22_0496.
37 IMT37_0621.
38 IMT32_0153-0158.しかも,このポーランド調査委員会の報告は,「ポーランド調査委員会
は,絶滅のためにアウシュヴィッツに移送された犠牲者が経験した恐怖を記述して,彼らは身体
も心も衰弱しきっていたので,『蒸気室での死は,救いとして歓迎されたに違いない』と述べて
いる」と,別の裁判(ポール裁判)での判決文(NMT07,1126-1128)にも使われている.つま
り,この当時,多くの戦争犯罪裁判が同時進行していたが,ある裁判での記録や判決が「証明の
必要のない,法廷に顕著な事実」とのあつかいうけて,別の裁判での「証明の必要のない,法廷
に顕著な事実」となり,また,その裁判の記録と判決が,また別の裁判での「証明の必要のな
い,法廷に顕著な事実」となった.だから,ほんとうに「証明の必要のない,法廷に顕著な事
実」であるかどうかは,一回も検証されていない.ここに,一連の戦争犯罪裁判による事実認定
の根本的問題点がある.
39 報告書全文(008-USSR)は,IMT37_0241-0292.
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