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http://www.bund.org/opinion/1119-5.htm
パレスチナ和平の行方 法政大学教授 奈良本英佑さんに聞く
ロードマップでは解決にならない
2003-8-15
自爆攻撃にリクルートされる若者たち
武装組織の解体など無理な注文
難民の帰還ぬきにはおさまらない
去年夏に現地に行きましたが、一番感じたのはとにかく移動の自由が全
くないということでした。主要道路は全て封鎖され、村ごと街ごとに検問
所があって、特別な通行証を持っていないと通れない。自治区といっても、
300のチェックポイントで寸断されたゲットーです。
物資を運ぶトラックも、待たされて荷物のチェックを受ける。安全上の
理由以上に、パレスチナ人に対する嫌がらせです。一昼夜待たされて、生
鮮野菜も肉もみんなダメになってしまう。国連の食料や医薬品を運んでも
止められ、救急車でさえ何時間も止められた挙げ句に帰れと言われて患者
が死んでしまう。これが日常です。民主主義国家といいながらこんなこと
をしているのは、世界中でイスラエルしかありません。
通勤も、車で10分で行かれるところを、裏道を回り道して、何時間もか
ける。何日も続く外出禁止令が出て、水くみにも買い物にも行けない。そ
れでは生きていけないから、みんな無視して出かけます。普段はイスラエ
ル兵も見ぬ振りをしていますけれど、ヘリコプターで上空から監視してい
て、時々裏道を通る人に発砲する。ひどいときにはバルコニーに出ている
人も撃つ。運が悪ければそれで殺される。
私が頼んだタクシーも、どこをどう走ったのか全然分からないような裏
道を延々と行きました。あのあたりは丘陵地で、砂地にオリーブが生えて
いるようなアップダウンの激しい土地をボコボコ行くんです。運転手には
今の状況だったら比較的安全だ、とか分かるらしいのですが、イスラエル
兵の気まぐれで撃たれたらそれでおしまい。それが日常茶飯事です。
きちんとした統計などありませんが、失業率は50%を超えている。収入
が減っているし物資も不足しがちなので、栄養状態が悪くなっています。
明らかに子どもが小さくて、14歳の子どもは10歳くらいに見える。発育に
もろに影響が出てきています。ここ1〜2年は、貧血も非常に増えていま
す。94〜95年頃はそんなことはなかった。
最近、現地でヴォランティアとして働いていた看護婦さんは「なんで日
本はイラク戦争を支持するんだ」とずいぶん言われたといいます。日本人
はパレスチナまで来てこんなに良く支援してくれているのにどうしてだ、
と。これまで日本政府は自治政府に資金援助したり、ガザでは下水道建設
のプロジェクトを支援したりしてきた。日本人全体に対する現地の感情は
非常に良かったのです。日本はイスラエル政府とはずっと距離をとってき
たし、イラン・イラク戦争の時には独自に調停するなど、中東に関しては
独自外交をとってきました。最近はそれが全くなくなっています。アメリ
カに喜ばれさえすればいいというような今の姿勢を続けていけば、アラブ
人の日本に対する感情は変わってくるでしょう。特にイラクに自衛隊を派
遣して、もしイラク人を殺すということになったら、感情的には非常に変
わらざるを得ない。パレスチナ和平についても、発言力はなくなっていく
でしょう。
自爆攻撃にリクルートされる若者たち
今私たちがパレスチナと呼んでいるのは、第1次大戦後、イギリスが委
任統治支配をした地域です。1948年に建国したイスラエルは、194
9年までにその77%を支配下に置きました。1967年の第3次中東戦争
で、残り23%を合わせて、その100%を占領しました。この23%のうち、
一部分にパレスチナ人の自治を認めたのが、93年のオスロ合意です。翌年
のカイロ協定でガザ地区と西岸のエリコ地区に自治区が設置され、自治政
府が発足します。自治区というのは、そもそも最初から「陸の孤島」なん
ですね。その後交渉を重ねいくつかの協定を経て、ベツレヘム、ラーマッ
ラー、ジェニーンなどパレスチナ人の人口密集地を中心とした自治区が少
しずつ拡大してきていました。
完全自治区はA地区と呼ばれ、パレスチナの行政権と治安維持権が及ぶ
範囲です。B地区ではパレスチナの行政権は及びます。治安維持・警察権
についてはイスラエルとパレスチナの共同管理ですが、その実権はイスラ
エルが持っています。残りがC地区で、完全なイスラエルの占領地です。
ガザではA地区が約60%ありますが、ヨルダン川西岸では20%未満、完全
な占領地が半分を占めています。
96年、右派のリクード党ネタニヤフが政権をとったことで、自治区拡大
交渉は基本的に止まってしまいました。しかしいろいろな細かい交渉は続
いていて、政治折衝で問題解決をするという体制そのものは維持されてい
ました。
この「オスロのルール」の枠組みをぶち壊すために出てきたのが、あの
シャロンという人物です。00年9月、シャロン将軍は聖地エルサレムに護
衛を連れて訪問を強行する。オスロ合意では、エルサレムの扱いは交渉で
決めることになっていて、彼の訪問は明らかに意識的な挑発でした。パレ
スチナ人もこの挑発に乗った。最初はイスラム主義者たち、代表的な組織
はハマースです。政治対決から次第に武力対決に入っていった。
武力対決と言っても、片方は小銃や手製の爆弾、ロケット砲や迫撃砲、
せいぜい機関銃くらいのレベルです。それに対して中東最強の武力を持つ
イスラエルが報復を加える。労働党政権の時代は、一般住民の無差別殺傷
は、政治的な判断で、できるだけ避けたんですね。国際的な反響が大きい
からあまり極端にはやらないで、できるだけパレスチナ警察施設を攻撃し、
次には警官を殺すというやり方をします。イスラエルは「自治政府はテロ
リストを取り締まらないからけしからん」と言い続けていますが、それは
協定によって決められたパレスチナ警察の仕事です。それなのに警察機構
を壊す。できないことをやれ、といっているわけです。
パレスチナ人はやられれればやはり怒るわけですから、民間の武装組織
がどんどん作られていって、彼らがイスラエルの入植地を銃撃したり、入
植者の車を襲撃したり、イスラエル兵の詰め所を襲ったりする。最終的に
は爆弾を抱えて自爆攻撃をする。
いつ自爆攻撃に遭うかとイスラエル人は非常に脅えていて、その騒然と
した中で01年には最右派シャロンが支持を集め、首相に当選した。彼はも
ともと軍人で、徹底した力の信奉者です。政治的な判断で自己抑制すれば、
相手を完全に叩きつぶすことができない。だから全面的な武力対決でオス
ロ合意体制を全部潰してやろうというのが、シャロンの考え方です。最終
的には67年の占領地を全部回復し、パレスチナ人を全部追い出したい。本
当にやりきれると彼が信じているのかどうかはよく分かりませんが。彼は
意識的に暴力のサイクルを拡大していきます。昨年7月にはガザ市の住宅
地に1トン爆弾を落とし、一挙に数十人を殺傷しました。パレスチナ側も、
その挑発に乗ったわけです。
95年のパレスチナ拡大自治協定で合意したA地区を、イスラエル軍が再
占領しているのが現在の状態です。A地区のまま残っているのは極くわず
かで、そこにもいつでもイスラエル軍が入って来ますから、自治機能はほ
とんど失われている。西岸にいたっては、再占領されずに残ったA地区は
エリコ地区だけです。ほんの2〜3%くらいなもので、残りは全部完全に
占領され入植地建設が強行されています。
イスラエル軍と正面から撃ち合いをしたのでは到底勝てない中で、パレ
スチナ人は全く希望を持てなくなっています。絶望した若者がいっぱいい
るわけですよ。もう生きていてもしょうがない、けれどもただでは死にた
くないと、爆弾を抱いてイスラエル人たちの真ん中に飛び込む。そういう
若者を急進派はいくらでもリクルートできます。
武装組織の解体など無理な注文
アラファト議長が軟禁されて動けない状態ですが、半身不随のパレスチ
ナ自治政府のかたちだけは残っています。シャロンの側にしても、67年の
占領地を100%維持するのは難しい、という判断もあって、そこで新中
東和平案「ロードマップ」が出てきた。00年9月以降の再占領地からイス
ラエル軍を撤退させ、05年までにパレスチナ国家をつくるというもので、
5月末、合意が成立しました。
イスラエルが不承不承いろいろと条件をつけてロードマップを認めたの
は、ひとつにはアメリカの圧力、アメリカの顔を立てる、ということがあ
ると思います。シャロンの本音としては、武力対決のルールでパレスチナ
と対決を続けたい。その方が有利だからです。パレスチナ側にも武力で対
抗しようというグループもありますが、やはりそれでは基本的には勝てな
い、政治のルールで交渉をしていこうと主流派が説得して停戦合意となり
ました。ファタハのマルワン・バルグーティが、この停戦交渉で大きな役
割を果たしています。彼はパレスチナ・ナショナリストの対イスラエル闘
争の中心的な人物です。
ロードマップの行方はまだ見えません。イスラエル側は和平合意の次に
は武装組織の解体を迫ってくるでしょう。武器の回収くらいはできるかも
しれませんが、組織の解体となると難しい。イスラエルの閣僚などは「ハ
マースの民兵はたかだか数百、パレスチナ警察は1万の兵力があるんだか
ら解体は簡単なはず」などと言いますが、実際には数百人の組織などでは
ありません。軍事組織だけであれば解体してもどうということはない。ハ
マースというのはもちろん軍事組織を持っていますけれども、同時に政治
・社会組織であり自治組織であって、モスクを基盤として医療サービスや
学校、生活に困っている家庭への扶助、食料配給など、たくさんの社会サ
ービスを担っています。湾岸諸国から援助を受けていて、資金も潤沢に持
っている。今はそれをテロ組織への支援だと称して、止めろという話にな
っているわけです。
自治政府は非常に非能率で、部分的には腐敗もしている。末端まできち
んとした社会保障を行う力は到底ありません。ハマースなどの組織がなく
なったら、内乱状態は避けられません。組織解体を強行すれば、武装闘争
を支持していないパレスチナ人からも反発が起きるでしょう。こうしてパ
レスチナ社会を混乱させ、やはり彼らには自治能力がない、だからイスラ
エルが統治するんだ、といって再び軍を入れていく。挑発して反撃させて、
パレスチナ側が停戦を破ったという構図を作り出す。それがシャロンのね
らいです。
アメリカも武装組織解体を主張していますが、その意図はまだよく判り
ません。アメリカ政権内部が明らかに割れているわけですが、私の見方で
は、今のパレスチナ政策を動かしているのはパウエルをはじめとする共和
党の中道穏健派、国務省を中心とした伝統的な保守派ですね。ラムズフェ
ルドやウォルフォウィッツ、チェイニーなどイラク戦争を主導したような
連中は、今のパレスチナ情勢に関しては後ろに引っ込んでいるかたちです。
強硬派はイスラエルと共同であの地域全部を支配しようというプランを描
いていると思います。イランを脅し、その前はシリアを脅し、今はイラク
を支配している。リビアも間接的に脅しているから、今はリビアはほとん
ど発言しないですね。脅しをかけて黙らせて、イスラエルと共同であの地
域全体に影響力を保とうと思っている。イラクに武力侵攻したのもこの構
想のためだと思います。
パウエルら中道派は、パレスチナをこのままほったらかしておいてアラ
ブ・イスラム教徒全体を敵に回すということはアメリカの国益にそぐわな
い、ここではもう少しイスラエルの武断主義政策をけん制して、パレスチ
ナ側の言い分も聞いておこうと。こうした立場が、今のところはアメリカ
のパレスチナ政策を動かしている。
ロードマップに基づいて行われている最近のイスラエル軍撤退はアウト
ポストといって、ほとんどテントとかトレーラーハウスが何台かあるよう
な入植地だけです。それが100カ所くらいあって、7月はじめに撤去し
たのはそのうちの20カ所くらい、その中で人が住んでいたのはほんの1カ
所しかなかった。難しいのはこれからです。入植地問題を解決できなけれ
ば、パレスチナ問題は最終的には解決しません。両方とも不満は残るでし
ょうけれども、とにかく67年の占領地全部から撤退することです。エルサ
レム東部も撤退地域に含まれますが、これはイスラエルの宗教勢力にとっ
てかなり抵抗が大きい。
ただイスラエル社会も、常に緊張して構えている国から普通の国になっ
てきているという変化はあります。信念をもった兵役拒否者は多くはあり
ませんが、兵隊なんかいきたくないという若者がずいぶん多くなってきて
いる。今のところ、それを吸収するだけの力をイスラエル軍はもっていま
すが。イスラエルで兵役拒否をするということは、昔の日本で言えば非国
民ですから、良心的兵役拒否の運動をやっている人はすごく根性が座って
います。すでに170人くらいが投獄されている。イスラエルの反戦運動
は多数派にはなれないけれども、イスラエルのユダヤ人口は400万くら
いですから、比率からすると小さくない。去年の春には10万人規模の平和
集会が開かれています。
難民の帰還ぬきにはおさまらない
この問題の特徴は3つあると思います。
ひとつは移民国家が作られたことによって先住民の権利が奪われている。
もうひとつは、ヨーロッパでユダヤ人として差別されていた人たちが移民
してきたということ。ヨーロッパ人がイスラエルをなぜ批判しづらいかと
言えば、ヨーロッパのキリスト教徒全体が集団的に加害者であったという
歴史があるからです。
第3点は、この土地が3大宗教の聖地という、非常に特殊な土地だとい
うことです。長くイスラム教徒が支配していたが、あらゆる宗教の自由な
アクセスや宗教活動を認めていた。ところが勝手にユダヤ教徒たちが入っ
てきて支配を続けている、と。この点が特に世界のイスラム教徒にとって
は気に入らない。この不満はキリスト教徒にもあります。バチカンとイス
ラエルは、93年まで国交がありませんでした。
ただ「宗教的な対立だから和解不可能だ」という言い方は明らかに間違
いであると私は言いたい。他に対立の要因があって、宗教の違いが対立を
増幅すると考えるべきです。確かに宗教的に頑迷な人たちももちろんいま
すけれども、それが双方の圧倒的多数であるという話ではない。
この地域はアフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶキャラバンルートが通
り、海路でインド洋と地中海というふたつの大交易圏をつなぐ場所だった。
この地政学的・軍事戦略的要所を16世紀以来支配していたオスマン帝国が
弱体化していったとき、ヨーロッパの列強はその勢力圏をめぐって互いに
競争し、いろいろなマイノリティを利用しました。
ヨーロッパのマイノリティであるユダヤ人の一部に起きた移民運動を強
力にバックアップしたのがイギリスです。第1次世界大戦に勝ったイギリ
スはすでにこの地域(シリア・パレスチナ南部・イラク)を委任統治とい
うかたちで占領していましたから、ヨーロッパと植民地インドを結ぶメイ
ンルートの防衛という観点から言って、シオニストを支援するメリットが
他の国よりも大きかったのです。
48年、国連でパレスチナの土地をユダヤ国家とアラブ国家に分割すると
いう決定がなされる。それは人口3分の1に過ぎないユダヤ人に57%の土
地を与えるという、非常に不公平なものでした。どうしてそんな分割案が
国連で通ったのか。
ひとつには、ナチスの虐殺に対して連合国はそれを見殺しにした、その
贖罪だという意識があった。同時に、やはり出ていってほしい、という意
識も強かった。ヨーロッパにユダヤ人が再定住するプロジェクトをつくる
こともできたし、アメリカに移民したいという人たちもたくさんいた。と
ころがアメリカはやっぱりそんなに来て欲しくない。けれど気の毒だから、
彼らにはパレスチナをあげよう、と。そしてシオニストたちは48年、イス
ラエル建国を宣言します。
この年、パレスチナ人の約半分にあたる約70万人が難民となって流出し
ました。不法入植地の撤去とともに最も重要なのは、難民の帰還権問題を
どう解決するかということです。これまでに追い出された100万人以上
の難民全部がかつて自分の住んでいた土地に帰ることは、実際にはあり得
ない。もちろん、帰りたい人には帰る権利を認めるべきです。一方、お金
で補償されればいい、あるいは将来のパレスチナ国家に住みたいという人
も居るでしょう。そういう選択も含めて総合的に解決するしかないと思い
ます。イスラエルは、アラブ諸国から追い出されたユダヤ教徒もいるのだ
から帳消しにしろ、周辺諸国が勝手に難民を引き受けたのだから吸収しろ、
と言いますが、それでは解決にはならないでしょう。
ならもと・えいすけ 中東近・現代史 研究。日本パレスチナ医療協会運
営委員長。著書『君はパレスチナを知っているか』、訳書『イスラエル・
運命の刻』ほか。