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ネオコンとか日本の転向右翼とかの元トロッキストなどは小物もいいところでフランス革命期のジョセエフ・フーシェを研究せよ。
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投稿者 木村愛二 日時 2003 年 7 月 31 日 13:40:29:

ネオコンとか日本の転向右翼とかの元トロッキストなどは小物もいいところでフランス革命期のジョセエフ・フーシェを研究せよ。

http://kodaman-empire.kir.jp/Napoleon/n-p02.html
ジョゼフ・フーシェ
政治家・警察大臣
[オートラント公爵・警察大臣(1804年 〜 1810年、1815年) 内 務大臣 (1809年)]
(1763年5月21日、ロワール県で生誕 〜 1820年12月25日、トリエステで病死)


体が弱かったフーシェは、ナントのオラトリオ修道会寄宿学校に入れられたが、後にはそこで教鞭をとる。
その後、ロベスピエールの生地アラスで、同じオラトリオ派の中学校(コレージュ)の物理学教師になったのが縁で、1788年にロベスピエールと知り合った。
革命の一連の事件を興味をもって見守り、ナントの「憲法友の会」(ジャコパン・クラブ)に登録する。
カトリック系学校教授の無給、修道院共同生活を廃止し、彼らに給料を支給することを提唱して、教育の世俗化に尽力した。
哲学正教授の職を捨て、弁護士となり、ナントの名士の娘ジャンヌと結婚する 。
(彼自身は僧籍になく、妻帯を禁止されていたわけではなかった)

1792年、保守的な公約を掲げて、生地のロアール県から国民公会議員に選 出され、議会内の右派に属し、コンドルセやヴェルニョーらジロンド派と親交を 結んだ。
しかし国王の裁判では、選挙区の意向を無視して、モンタニャール派と同じく 執行猶予なし」のルイ16世処刑に賛成票を投じ、以後、エベールやショーメットに近い極左派に鞍替えし、反教権主義運動の尖鋭的指導者となった。
カトリック修道会の廃止の政令を提案し、教育の国営化を提唱した。
そして、1793年のニエーヴル県ネヴェル市での任務で、墓地の門扉に「死は永遠の眠りである」 とカトリック教義を否定した語句を記した逸話は有名で、彼は反宗教運動の中 心的役割を果たした。

この年の三月から派遣議員として各地に派遣されるようになり、まず生地のナントに派遣され、この地方で起きていたヴァンデ県の反乱に対しては、軍隊の再 編を行って近郊を奪取したヴァンデ軍を撃破し、ナントの包囲を解く軍功を立て た。
六月末から、再び派遣議員としてパリの南東部各地に派遣され、これらの地に赴いては、不正取得財産の再分配、徴用を拒否した地主と借地人への死刑など、 過酷な革命的政策を実施し、とりわけ有名なのが、僧侶に対して三ヶ月以内に結婚するか、さもなくば養子をとることを強制的に義務づけたことであった。

リヨンで反ジャコバンの反革命の反乱を鎮圧するため、コロー=デルボワと共に国民公会から派遣される。
彼は巧妙にも、意図的に出発を遅らせて、犠牲の多い任務はこの片割れに任せて、十一月になってようやくリヨンに到着する。
三日後に反乱軍が降伏すると、彼らは早速、報復を始める。
特別裁判所では猛スピードで裁判をこなし、数ヶ月で総計2600人以上もの死刑判決をだした。
彼らは、「20万住民の都市を破壊し、住民の一割を抹殺する」というノルマを自ら課していた。
あまりに処刑者がおお過ぎるため、ギロチンの使用は時間がかかりすぎると判断され、処刑者を数列にわけ、彼らに埋葬のための溝を掘らせてそこに並ばせ、フーシェの号令のもと、四門の大砲から発射される散弾で一斉射撃を行った。
致命傷にならなかったものに対しては、竜騎兵がサーベルで一人一人止めをさ した。
その後フーシェは、処刑者の内、213体の傷だらけの遺体をローヌ河に遺棄させ、
「トゥーロンの叛徒は仲間の死骸を見て度肝をぬかれるであろう」と嘯いた。

これらの事件で彼は、”リヨンの霰弾乱殺者” の異名を取ることになったが、政治的に慎重な彼にとっては大きな汚点とな った。

非キリスト教化を推進していたことと、この過剰なテロルで、ロペスピェールに非難され、彼と対立し、厳重な監視下に置かれる。
生命の危機を感じた彼は、タリヤンらと共謀し、大胆にも次回の逮捕者名簿に名前が載っているぞと言って同僚を脅して回って、クーデタの同調者を集めて、テルミドール9日のクーデタを成功させた。

その後、極左派の路線を捨て、様々な党派を渡り歩いてなんとか重要なポストにとどまるものの、結局1795年8月には国民公会から除名される。身を潜め、様々な人脈、とりわけバラス総裁との関係に腐心する。
フリュクチドール18日のクーデタでバラスを助け、その情報提供の見返りにバラスは、フーシェがイギリス方面軍の資金を横領して私腹を肥やすのも許した 。
1799年7月20日、警察大臣となる。
そして彼は早速、ジャコバン・クラブを閉鎖し、パリの160紙あまりの新聞に発行停止を命じた。

その数ヶ月後、ジョゼフィーヌ、リュシアン、ジョゼフらボナパルト一家の親しい友人となっていたフーシェは、ボナパルト将軍に紹介される。
そして彼は、ブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)のために、200万リーヴルを提供する。
執政政府と帝政の時代を通じてほとんどの期間、大臣の地位を守ることになる 。

彼は「香水と手錠を両手に操って」、秘密警察の情報網を張り巡らす。

「それはギロチンよりもずっと洗練された治安維持の手段ではないか」(ツヴ ァイク)
(恐怖政治のころ、町中にギロチン隊が巡回していた。)

フーシェが自らに定めた任務は単純明快である。「すべての人々、すべての物事を監視すること」、すなわち、犯罪あるいは違反、陰謀、暗殺計画、商業、賭博場、新聞などに 関する情報を収集することである。

情報が権力をもたらすものであることをフーシェは理解していた。
彼は、役人、情報提供者、たれ込み屋から情報を金で買った。密偵には2千フランという高給を与えた。
そして時には手紙を開封して自分で情報を手に入れた。
彼は切れ者だった。
その秘密のファイルは皆を不安にさせた。

ボナパルトは、「同時に至る所に存在する特技の持主」として、つまり多数の密偵を操る秘密警察のドンとして、彼の能力を高く評価したが、その一方で、「不信と嫌悪の念」を払拭できず、内心厄介払いしたい気持ちであった。
1802年9月13日、フーシェは、終身執政制に反対したことと、長年の政 敵タレーラン、さらにはボナパルトの兄弟たちから批判を浴びて解任され、警察省は解散した。
その後彼は、しばらく静かな生活を送る。時折チュイルリー宮に呼ばれ、意見を求められることもあった。

だがアンガン公事件(1804年)での活躍をきっかけに元の役職に復帰し、司法制度を抜本的に改革した。
タレーランが指摘したように「フーシェの後任にはフーシェしかいない」ことが立証されたのである。
彼はレアルをはじめとする3名の区長、警視、局長を配下においたが、制服警官は自由にできなかった。
彼の様々な業務は細分化されていた。それらを結びつけるものは日々の報告書だけであり、皇帝はそれに欠かざす目を通した。

1804年に帝政が始まると、その貢献により、元老院議員とオートラント公の爵位を授けられた。


フーシェとタレーランはお互いにナポレオン政権の両輪でありながら、お互いに仲良く憎みあっていた。
フーシェが「時いたらば、タンブル塔の牢獄にタレーランを収容する空き部屋が待っている」と言えば、タレーランは「フーシェが人間嫌いなのは自分自身をよく研究したせいである」と言い返す。

この大臣の老獪さを意識していたナポレオンは、信頼と不信の間を揺れ動いた 。
信頼の証としては、1809年、オーストリア遠征で国をあける時は彼に内務省を任せた。
不信の証としては、フーシェがその掌中に握った権力の大きさに気付いて、内務大臣の地位を取り上げた。

タレーランと同じようにフーシェも、1810年頃から帝国の衰退を察知し、様々な手段を講じることになる。
ナポレオンは、フーシェの警察を監視していた彼の息のかかったサヴァリの警察からそのことを嗅ぎ付ける。
1810年7月3日、ナポレオンから、「余の寝室や靴の中まで探りに来る大臣は信頼できぬ。警察大臣職は全面的かつ絶対的な信用を必要とするが、この信頼はもはや存在しない。24時間以内にフランスを退去せよ」と引導を渡されて 、フーシェは権限を取り上げられ、厳重な監視対象となった。

この事態を当時、駐仏大使であったメッテルニヒは早速本国に注進している。「現在フランスで最も影響力のあるのはタレーランとフーシェである。かっては見解も利害も対立したが、当人たちとは無関係な事情によって、二人は接近した ・・・・。」と。

1813年、総督としてイリュリア諸州に派這されるが、10月、連合軍に追い出され、ナポリのミュラの許へ向かう。

ナポレオン失脚後の第一次王政復古では、国王の弟、アルトア伯から大臣の地位を提供される。
だが、ルイ16世処刑賛成議員だった彼は、ルイ18世の掌中にある権力を拒否する。
彼はこのアルトワ伯の不明を知人に対してこうなじっている。
「あんたにはアルトワ伯の愚かさ加減が分かるまいが、私には言わせれば恥ずかしい限りだ」
彼は知っていたのだった(知ることが彼の仕事であった)ナポレオンがもはやエルバ島にいないことを・・・・・・。

皇帝がチュイルリー宮に到着し、フーシェはそこで警察大臣に任命される。
彼はこの時、皇帝に退位してローマ王ナポレオン2世を即位させるように強く勧めた。
これはオーストリアを懐柔する一つの方策であったが、皇帝は拒否した。

そこでフーシェはこの地位につきながら、2度目のナポレオン失脚後の下地を秘密裏に整えることにする。
これは彼にとって一世一代の政治工作であった。
このことで彼は「フランスを救った」と評されることになる。

彼は、現職の大臣でありながら、アルトワ伯やオルレアン公、ウェリントン公やイギリス当局らと連絡を取り合い、そしてメッテルニヒと手紙をやりとりし、ウィーンにいるタレーランとも接触を開始した。
そのうち、都合のいいものだけをナポレオンに報告するという、鉄面皮な造反をやってのけた。

彼は言う。「我々はあの男(ナポレオン)の帰還を望んだわけではない。奴は出ていったときよりも、もっと頭がおかしくなってもどってきた。政権は三ヶ月と持つまい。一度や二度は戦いに勝っても、三度目には敗れる。私は奴より強力となり、私を殺さぬかぎり、私に跪かせて見せよう。」

彼は「すべてを救える唯一の方策は、皇帝が死ぬことである」とも言い放った 。

これは彼らしい冷静な分析であり、合理的なものであった。
この方針の正しさはわずか三ヶ月後に立証されることになる。


1815年6月18日のワーテルローの戦いの後、警察大臣フーシェはその影響力を利用して、皇帝の退位を早め、人々にナポレオン2世の存在も忘れさせようとする。
彼は下院では、「フーシェ最大の裏切り」と評されながらも、専制政治の廃止とナポレオンの退位を要求し、一方で、ナポレオン本人にはいしては、帝政を救うためと称して、息子のローマ王への譲位をすすめ、その退位文書に署名させた 。
こうしてブルボン家の帰還に一肌脱ぎ、そしてカルノーをさしおき、臨時行政委員会議長に任命される。
そして、パリ防衛軍司令官ダヴー元帥に対しては徹底抗戦を命令する一方、連合軍には進出を催促した。
こうしておいて彼は和平交渉にはいり、その成果をすべて一人占めして、ブルボン家に恩義を売った。
しかし見方を変えると、早期終戦の最善策であり、共和派と王党派の政治的な争いと混乱を未然に避けて、しかも外国軍に占領されるという屈辱を軽減してあくまでもブルボン家に降伏する形を取ったのである。


7月6日、国王に謁見。王令によって再び警察大臣の地位につく。
シャトーブリアンはこの模様をこう語った。

「突然扉が開いて、悪徳が犯罪に腕を持たれながら、音も無く入ってきた。タレーラン氏がフーシェ氏に支えられてのご入来で ある。この地獄の光景は私の前をゆっくりよぎっていって、国王の執務室に消えた。フーシェは主君に忠誠と敬意を表しにやってきたのである。国王殺しの臣下は跪いて、ルイ16世の首を落とした両手をば、その国王の弟の手の中に置いた。還俗した司教(タレーラン)がその宣誓の証人として立ち会った」

この有名な警句にあるように、国王弑逆者フーシェは、7月8日にはタレーランの庇護に寄りかかり、その内閣で王政に宣誓する。
ルイ18世はフーシェを警察大臣に任命する書類にサインする前に、しばし沈黙して、「不幸な兄よ、赦し給え」と呟いて、署名した。

当時、「白色テロル」を蔓延させていた超王党派は、政府の要職に彼をおいておくことに耐えられなかった。
彼らは強硬に圧力をかける。
そのためタレーランはかつての敵をザクセンの宮廷、ドレスデンに公使として追いやることにする。
そして1816年1月、フーシェがパリを発ってまもなく、議会は国王殺しに関する法律の適用範囲を広げ、彼の永久追放を可決したのである。


昔日の威光を失った彼は、プラハ、リンツなどで亡命生活を送り、1820年12月26日、トリエステで病死した。
「ひどい吹雪の中を葬送した折りに、強風に煽られて柩車が横転した」というのは暗示的であった。

陰謀の真の天才。

ユダヤ系ドイツ人伝記作家シュテファン・ツヴァイクが彼について書いた伝記によると、ジョセフ・フーシェは変わり身の早い無節操な政治家の代名詞であるとされた。
ツヴァイクによれば、彼の風貌、そして精神さえもが、「冷血動物」にたとえられた。
「微動だにしない冷血こそ。フーシェの本来のちからであり、・・彼の陰謀家としての才能は天才をもしのぎ、彼の冷血はあらゆる情熱をこえて生き続けるのである」とさえ評している。

しかし、彼の評価は現在ではすこし異なり、彼の内面に秘められた知性や、学生から非常な尊敬を受けていたことも知られる。

彼の唯一のライヴァルであるタレーランと比べると、完全に好対照な人物像が見えてくる。
タレーランとフーシェでは、政治的道徳心に欠け、人間不信という点では共通するものの、タレーランが大貴族の出身で、傲慢、怠慢、女性や美食にたいする 快楽追求、汚職に走ったのに対し、フーシェはその名前が示すとおり市民の出身で、精勤、素行厳正、よき家庭人であった。

彼が”一生を通じて国王殺しの罪におののいていた”という評価には、私は賛同できない。
彼は非常な合理精神の持主であり、数学者・物理学者である。
国王の処刑は彼が恣意的に決めたことではないし、時代の要求であった。
リヨンでの虐殺でさえも、彼なら立派に自己を弁明して見せるだろう。

彼はタレーランと並んで、この時代を代表する”天才”政治家の一人である。

人名について・「Fouche」の最も一般的な表記法は、”フーシェ”もしくは”フウシェ”である。
ちなみに、最後の"e"にはアクセント記号がつく。

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