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だが,兄によって記された蓮池薫のこれらの一連の発言を,その後の日本社会を覆い尽くしている,扇動的なナショナリズムの悪扇動の中においてみると,これらの思いが,来るべき新たな日朝関係構築のために有効に生きる場所がなかったものか,との思いが浮かんでくる.かつての親友との対話の中で蓮池薫は「俺の24年が無駄だったというのか」と叫んだという.ここには,拉致という許しがたい行為と,北朝鮮での生活における思想教育の一方的なあり方と向き合い,これを克服し,主体的な立場で物事に当たろうとしてきた蓮池薫の切実な思いが込められていると思える.
酷薄な国家が強いる不条理な運命の対して,個々人が抗うことのできる範囲は小さい.だが,拉致された先の北朝鮮において日朝関係史を学ぶなかで日本国家の本質を掴み,拉致されたという事実で北朝鮮国家の冷酷さも身に染みて知っている被害者は,だからこそ両者に向かって何事か明確に言い得る立場にあるのではないか.被害者たちは,両国双方が犯した国家犯罪を贖罪し,許し合い,和解を生み出すために,(不幸な出来事が機縁とはいえ)またとない媒介の位置にいる人びとなのではないか.
現実には,「洗脳状態」から弟たちを救い出そうとする蓮池透たちの努力は,功を奏しつつあるようである.北朝鮮との戦争も辞さないと断言する好戦的な人物が綴る「家族愛」の物語を読みながら,私は「失われた可能性」を考えずにはいられなかった.
太田昌国『「拉致」異論』,太田出版,2003年,197-7ページ.