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ジュアン・コール(Juan Cole)
ミシガン大学歴史学教授
訳・近藤功一
2003年6月7日、高位聖職者アヤトラのムハンマド・バクル・ハキーム師(63歳)率いるイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI、シーア派)は、アメリカの新しい文民行政官ポール・ブレマー氏によって30人規模のメンバーが指名される予定のイラク統治機構への不参加を表明した。ハキーム師にとって、外国勢力によって選任されたイラク政府が正統性を持つことなどあり得ない。SCIRIは、イラク人の代議員によって暫定政府を選出するための国民議会開催という当初の計画に、アメリカが従うべきだとの立場を頑として崩そうとしなかった(1)。
SCIRIは民衆に基盤を置き、1万から1万5000人の訓練された戦闘員で構成される武装組織、バドル軍団を傘下に持つ。この軍団を指揮するのは、ハキーム師の弟のアブドル・アジズ・ハキーム氏である。しかしながら、1年以上にわたって米政府との交渉で紆余曲折を重ねてきたSCIRIが、現在の立場を変えることも十分に考えられる。
テヘランに本拠を置くSCIRIは、サダム・フセイン政権転覆のためにアメリカに協力した唯一のイスラム組織である。2002年夏にワシントンで開催された会議にも参加している。2003年4月9日にバアス党政権が崩壊すると、SCIRIはにわかに存在感を増し始めた。シーア派が多数を占めるイラン国境付近の都市部では、特にそれが顕著である。イランに亡命して革命防衛隊の訓練を受けたイラク人からなる民兵組織、バドル軍団のメンバーたちが、帰国後そこに集結しているからだ。
シーア派はイラクの人口の60%から65%を占める。都市部のシーア派住民は、世俗的な中間層と労働者層、そして宗教政党の潜在的支持者とに分かれている。世俗的なシーア派人口は、政治的に組織されていないとはいえ、1950年代には50万人の党員を誇った共産党の重要な基盤となっていた過去がある。地方のシーア派住民は、世俗化はしていないものの、宗教界の指導者よりも部族の指導者を仰いでいるのが現状だ。
その一方、敬虔なシーア派教徒はかなり組織化されており、4つの主要なグループに分かれている。最も多くの人が従っているのがサドル家である。現在の指導者は若く活動的なムクタダ・サドル師(30歳)、アヤトラであった父は1999年2月に暗殺されている(2)。SCIRIは、イラン国境に近い東部の都市で支持を集めている。シーア派が多数を占める地域の中心部(特にナーシリアやバスラ)では、ダアワ党が支配権を握っている。さらに、最高位の宗教指導者たる大アヤトラのアリ・シスターニ師を支持するグループもある。ただし、隠者的な存在となっている同師の政治的影響力は、その地位の割に大きくはない。
なかでもSCIRIは、高い組織力と強い民兵軍団を備え、アメリカと一筋縄ではいかない関係を切り結んできた。1982年にムハンマド・バクル・ハキーム師を中心に、亡命中のイラク人宗教指導者がテヘランで創設したSCIRIは、早くから反フセイン体制を打ち出していた。メンバーは2002年の終わりから2003年の初めにかけて、米政府が支援するイラク国民会議(INC)と接触を重ねた。しかし、SCIRIがイラン政権内の最強硬派と密接なつながりを持っていることから、アメリカはSCIRIとの同盟関係を疎ましく感じつつあるようだ。対フセイン戦争では、クルド人武装勢力の協力を受け入れた一方で、バドル軍団については戦列から遠ざけた。その結果、SCIRIは4月15日、政権崩壊後初めて開かれた反体制派組織の会合をボイコットした。この会合の際には数千人のシーア派住民が、占領拒絶を表明するデモを繰り広げている。
バグダッドの北東に位置する人口28万人の町バクバは、戦争の終結とともにSCIRIの活動が活発化した場所のひとつである。ディヤラ州の州都となっていたこの町に米海兵隊が到着したのは、それから何週間も経ってからであった。その間に、町の支配権をめぐる争いが激化していた。4月上旬にバドル軍団の戦闘員がイランから帰国してバクバに拠点を築き、バアス党の残党やイランの反体制組織ムジャヒディン・ハルクと勢力争いを繰り広げたのだ。アメリカが「テロ組織」と見なすこのイラン反体制組織は、イラク国内に拠点を置くことをサダム・フセインにより認められていた。
4月28日、約3000人の米兵がバクバに到着した。ロバート・ヴァルディヴィア中佐は5月4日、アラブ・タイムズ紙に次のように語っている(3)。「米軍は、町の警察署内でイランの(プロパガンダ用の)ツール類と、重火器の備蓄を発見した。地元の警察は、イラク最大のシーア派組織(つまりSCIRI)の軍事部門、バドル軍団を名乗る民兵たちと共謀しているのだ」。5月9日には、ある部隊長が「我々は毎晩、銃弾に見舞われている」と不平を漏らした。対するバドル軍団の戦闘員は、「人々がイスラム体制下で暮らすことが望ましい。メディアと言論を活用して人々をそのように説得したい」と語る(4)。
ハキーム兄弟の帰国
バドル軍団は同じころ、バクバ近郊の町シャハラバーンとハリスでシーア派住民を政治的に組織し、多くの支持を獲得していた。人口38万のクートでも、町の支配を狙うサイード・アッバス・ファディールという宗教指導者を手助けした。彼は側近とともに市役所を占拠し、市長を名乗っている。海兵隊は当初、彼を殺害すれば済むことだと考えた。4月半ば、海兵隊は攻撃を試みたが、わずか20人の海兵隊員の前に即座に約1200人の住民が立ちはだかったため、勝負を諦めざるを得なかった。米政府によれば、ファディール師はイランから援助を受け、武装した護衛隊を使って、市長の座を狙う人間を脅しているという。
4月16日、バドル軍団を指揮するアブドル・アジズ・ハキーム氏がイランから帰国し、クートの町で2万人に上ると思われる群衆に迎え入れられた。彼の信奉者であるファデーィル師が、自らの特権的地位を利用してかき集めたのだ。この時ハキーム氏は、カルバラでの反米デモの挙行を呼びかけたが、実現には至らなかった。それから2日後、彼はイランのテレビ局のインタビューに答え、イラクの将来に関するSCIRIの展望を語ってみせた。「我々はまず、国民主体の政治システムを選択する」。そこにはすべての政党と宗派の代表が参加することになる。彼は続けて、「しかし最終的には、民衆はイスラム共和国を望むだろう」と述べ、シーア派住民が人口の6割を占める以上、民主主義の下ではイスラム政権を望むシーア派の意向が勝つことになると付け加えた。
秩序が保たれ、公共サービスが機能しているクートでは、陳情者がファディール師のオフィスの前に列を成す。イランとの癒着について問い詰められた彼は、それは事実ではないと述べつつも、次のような言い方をした。「イランの援助を受けることに弊害はない。彼らはムスリムであり、我々の同胞である。しかもイランは隣国なのだから」。4月の終わり、海兵隊は市役所を明け渡すようファディール師に最後通告を突きつけた。彼はしぶしぶ応じたが、モスクからでも市役所からと同様に、町を支配することは可能だと吠えてみせた。
SCIRIは、バクバ、クート、アマラのような東部のシーア派都市で、高い支持率を保っている。バスラのような大都市にも拠点地区を得て、そこから周辺の小さな町に使者を送り、政治的支持の獲得を画策している。
その間テヘランでは、ムハンマド・バクル・ハキーム師が米軍の即時撤退を要求し続けていた。彼は5月初めに、4つの緊急課題を示している。バアス政権の残党を根絶すること。連合軍を撤退させること。物理的な問題に対処し、秩序を回復できるような新体制を確立すること。そして、民族や宗教の違いを問わず、すべての国民によって選出された政府を樹立することである。
5月10日、ハキーム師は、100台もの車列を引き連れ、ついにイラクに帰国する。ハキーム師はまずバスラ入りした。そこでは支持者たちが町中いたるところに同師のポスターを貼り付けていた。彼は約1万人の群衆を前に演説し、「私はイラクの民に仕えるイスラムの兵士である。我々が望むのは過激なイスラム主義ではなく、独立、正義、自由を意味するイスラムなのだ」と述べた。しかしながら、イスラム法(正確にはシーア派のイスラム法)がイラク全体の法となるのを望んでいることは認めている。バスラの支持者たちは、ハキーム師を「新たなホメイニ」と呼ぶ。ただし、同師への熱狂は、かなり限定されたものにすぎないと言うべきだろう。1万人の歓迎というのは、130万人を数える都市にあっては、それほど大した規模ではない。
ハキーム師は後日の記者会見で、すべての人が安全を享受し、女性が重要な役割を果たす「近代的イスラム国家」の到来を願うと述べた。彼は、もしイラクが近代的原則にのっとって統治されるならば、「憎しみや破壊ではなく、復興と愛、友情のジハード」の国になるだろうと主張した。そして、アメリカを名指しはしないながらも、こう付け加えた。「我々は独立した政府を望んでいる。強要された政府はいかなるものであれ拒絶する」と。彼はまた、「イラクの法律は、イスラムの戒律を基礎としなければならない。西洋では容認されるかもしれない振る舞いも、イスラム教が禁じるなら禁止すべきだ」とも述べている。
この声明を読み解くならば、ハキーム師はホメイニ的なイラクを夢見つつも、きわめて鋭敏な政治家であるがため、それを明け透けに言うことで女性とスンニ派の支持を失うような真似はしないことが分かる。ホメイニ師とその側近も、1979年のイスラム革命に先立つ数年の間、彼らの真の目的についてイラン中間層を同じやり方で欺いていたのだ。
波乱に満ちた関係
米国防総省イラク復興人道支援室のトップに立っていたジェイ・ガーナー退役中将は、イラク有力者の第二回会合にSCIRIを招いた。SCIRIは代表を送ったが、高級幹部ではなかった。5月5日、ガーナー氏はSCIRIとの妥協を試みた。有力者評議会が6月の国民議会の開催を準備し、そこで代議員が暫定政府を選任するとの方針を発表したのだ。ガーナー氏は、評議会には2つのクルド人政党、旧バアス党員主体の政党、アフマド・チャラビ氏のINC、そしてSCIRIが入るとした。さらに後に、1960年代に創設されたスンニ派の民族主義政党と、シーア派のダアワ党も加えた。
こうした工作により、国防総省のタカ派は、チャラビ氏をはじめとする以前からの同盟相手にイラクの実権を握らせようと試みた。しかしながら、国防総省の計画は失敗に終わる。国務省はブッシュ大統領に対し、ガーナー氏の下でイラクが大混乱に陥ったと指摘して優位に立った。5月12日に彼に替わる現地トップとなったポール・ブレマー氏は、ガーナー氏の計画を徐々に取り消していった。「有力7派グループ」を格下げし、単なる「計画策定委員会」として位置付けた。そして、国内に残っていたイラク人を中心として他に23人のメンバーを加える意向を示し、亡命勢力や2つのクルド人政党の影響力を稀釈しようとした。ブレマー氏は、この夏に予定され、政府を選任するはずだった国民議会の計画も白紙に戻した。さらに、北部のクルド人武装勢力を除くすべての民兵に向け、6月15日までに武器を引き渡すように通告した。
約束に反するこれらの措置に、SCIRIの指導部は激怒することになる。重火器を引き渡すことには同意したものの、バドル軍団の戦闘員が自動小銃を保持することは譲れないと主張した。こうしてアブドル・アジズ・ハキーム氏が6月7日、ブレマー氏が任命する評議会が短期間で政府を選出するというのでない限り、SCIRIは評議会に参加しないと表明することになる(5)。
アメリカとSCIRIの関係は、常に波乱に満ちていた。互いに便宜的に手を結んだにすぎず、状況に応じて躊躇なく相手を裏切ってきた。なぜ米政府のタカ派がこのような関係に乗ってきたのかは不明だが、おそらくチャラビ氏が重要な役割を果たし、この組織は穏健で、敬虔なシーア派住民の間で高く支持されていると請け合いでもしたのだろう。
実際には、SCIRIの影響力は限られている。活動家は南部全域に散らばっているが、住民の間に浸透してはいない。バグダッド東部やクーファその他の都市では、モスクや病院のほとんどがサドル師の組織に支配されているが、彼はアメリカとの一切の接触を拒否している。サドル師はさらに、ハキーム家はフセイン政権から逃げ出してテヘランに亡命した臆病者であり、それに比べてサドル家は危険を冒しながらも踏みとどまったのだと、かなり辛辣な当てこすりを述べてもいる。
SCIRIがアメリカと取引することさえ厭わない実際的な組織であるとしても、長期的に見れば、その目的はサドル師のものと変わりはない。どちらもシーア派の支配するイスラム共和国を望んでいるのだ。国内に無視することのできない少数派のスンニ派が存在し、またアメリカがいかなる神権政治にも敵意を示すことを考えれば、どちらも目的を達成することはないだろう。アメリカとSCIRIの間では、今しばらく協調路線とその解消が目まぐるしく繰り返されることになるかもしれない。しかし、これまで夫婦喧嘩が終わると熱烈に戯れ、その後はまた夫婦喧嘩を繰り返していたこの不似合いなカップルは、遠からぬうちにきっと別れる運命にあるだろう。
(1) ダヴィッド・バラン「占領イラクの新たな政治ゲーム」(ル・モンド・ディプロマティーク2003年6月号)参照。
(2) アラン・グレシュ「誰がサドル師を殺したのか?」(ル・モンド・ディプロマティーク1999年7月号)参照。
(3) Arab Times, Kuwait, 4 April 2003
(4) Knight Ritter Newspaper, 9 May 2003
(5) この評議会は7月13日、SCIRIも含めた有力7派にその他の政治勢力の代表を加えた全25名の「統治評議会」として発足した。[訳註]
(2003年7月号)
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