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小耳さんの琉球新報紹介記事をみて70年安保自動延長反対の戦いに参加したころを彷彿するとともに、時代がますます悪くなっていることに懸念を表明します。沖縄の人たちはこれまでの歴史の悲哀を知っているからこそ二度と戦争を繰り返したくないという意識があるので、有事法には特に敏感に反応していることと思います。琉球新報のような労働現場の記事は本土の新聞にはでてきません。
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琉球新報
更新 2003年6月6日 金 10:11
きょう有事法案成立/不安の声上げる県民
http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2003/2003_06/030606a.html
70年6月にはクラス討論で決議をとってデモに参加した。普段中間的な反応しかしなかった学友たちもみなこぞって参加した。皆「安保だけは反対だ」、と意見を表明した。
当時の安保闘争は沖縄闘争、ベトナム反戦も包含する戦いだった。
60年安保条約締結という屈辱的な事態を二度と繰り返さないという決意をもってジグザグデモを繰り返した。労働組合も時限ストや職場集会をやった。
そのご復帰前の沖縄を訪問した。沖縄はベトナム戦争の後方支援基地で戦場さながらであった。米軍トラックが国道53号線を我がもの顔で走り−−−自衛隊はまだ存在せず−−−夜の町はナイフを持った米兵が酔っぱらったあげくに人々を脅していた。嘉手納基地からは恐ろしく尾翼のでかいB52が発着していた。数年前には嘉手納の小学校だったと思うがB52が墜落、50名ほどの小学生が死んだ。顔は黒こげで内蔵を開いて朝食にとった食べ物を調べて被害者を特定したというニュースがあった。
名勝ムーンビーチの一角は米兵専用で「日本人立ち入り禁止」。北部の基地では、広い敷地の中心の白い建物のまわりに鉄条網を張り巡らせ緑の草が生えているところでヤギを放していた。これはマスタードなどの毒ガス貯蔵庫だった。知花には弾薬庫があった。
今でも戦場であることには変わりがない。アフガンへ、湾岸へと基地から艦船や兵士が派遣される。沖縄にいる米兵にとって、当然戦地にいる感覚だから(アメリカ本土以外は敵地である)、沖縄の人々の住居を放火したり強姦したり、強盗したり、未だにこの種の事件は跡を絶たない。
70年当時祖国復帰運動が盛り上がったが、沖縄の学生に「復帰することをどう思うか」と訪ねたら、「ヤマトンチューよりアメリカーのほうがましさ」という意見であった。
ヤマトンチューは本土を守るために沖縄を犠牲にした。沖縄線では軍人も含めて18万人の犠牲者がでたが、ほとんどは民間人(沖縄の人口の四人に一人が犠牲者)。米軍が上陸してからは日本兵が自分たちを守るために沖縄の人々を盾にしたことは有名な話である。洞窟(ガマ:防空壕に使用)に隠れる人々を追い出して自分たちが閉じこもったり、乳飲み子が洞窟で泣くからといって「その子を殺せ」と強要した。
薩摩の琉球支配に苦しんだ沖縄の人々は、「琉球処分」以降は「日本人である」ことを本土の日本人以上に示さねばならなかった。それまでの首里王朝からヤマトの天皇が神様として君臨した。育面では方言禁止令(方言札などという屈辱的な仕打ちまで食らっている)を強制され、共通語教育にはどの地方よりも力が入れられた。敗色濃い戦争では、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊が組織され多くの少年少女たちが犠牲になった。「日本は勝つ」と信じ込まされて自らの居住地を戦場として戦い、多大な流血の犠牲を払ったのに、本土の人々は本土決戦などといいながらも無条件降伏。戦争が終わってみれば沖縄は米軍統治は続行。「だまされた」と気づいたのだ。
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若い市民のためのパンセ(2000年7月号)
「鉄血勤皇隊」と「神の国」
http://www.koubunken.co.jp/Pense/2000/07.html
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それゆえ「核基地つき自由使用返還」などという「上からの祖国復帰」など受け入れられないというものだった。「復帰運動」は破産、支配階級同士のやりとりで「基地付き」で簡単に復帰した。ブルジョワジーは米軍の存在あってこそ、檻の中の自治を謳歌しているのだろう。
有事法は暗い戦争時代に直接的に回帰する恐ろしい法律である。