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6月1日に「どこが悪いねん教育基本法〜改悪を許さない大阪集会〜」に行きました。なんでこんなおもんなさそうな集会に行ったのかというと、高橋哲哉(東大教授)の講演が
あったからです。高橋哲哉の話のレポートです。
高橋哲哉登場
3月20日に中教審の答申(最終バージョン)が出されました。今国会で教育基本法の改正案を出そうとしています。一刻の猶予もありません。改悪の問題がいかに重要なものかと言うと、準憲法的なものです。それに政治的な手が加えられようとしているのにメディア・ジャーナリズムは危機感を持っていません。このことについてかなり危惧をいだきます。大新聞なども、教育基本法改正が「なぜ?」「どのような意味を持っている
のか?」「何がもたらされるのか?」などの企画を答申が出る前からしててもおかしくないのに、全くしてない。ということは一般人は何も知らない。
99年の国会で、周辺事態法、国旗国歌法、盗聴法の民主主義を潰しかねない法律が通った。今国会でも、有事法制、個人情報保護法案、国立大学法人化法案が通るだろう。このような法律を通したい勢力は教基法改悪の勢力と思想的に同じ。このままだとほとんどの人が知らないまま改悪が行われてしまう。ここに集まった人たちがどこまで訴えることができるか。本当に正念場だ。
教育基本法改正案の危険なところは2つの要因からなる。愛国心教育と選別教育だ。2つの思想がある。選別教育はエリート教育で国民をエリートと非エリートに分断する。愛国心教育は国民を一つに統合する。矛盾があるように見える2つが矛盾することなく絡み合っている。
改正の勢力にどんなものがあるかというと、国家主義的な勢力。中曽根に代表される、靖国参拝、軍事化、憲法改正前の教基法改正。国歌を強くしたくて、日本のネオコンとも言える。国家を強くしたいのは財界の要請がある。冷戦が終わって世界はグローバル化していってる。経済戦争で生き残るためには(日本の大資本が生き残るためには)早くから人材を育てたい。だからエリート教育をしたい。また新しい歴史教科書をつくる会などの民間ナショナリズムも教基法改正の大きな力になっている。冷戦後、日本の植民市支配の実態が見えてきて自由主義史観が90年代半ばから出てくる。日本人としてのナショナリズ
ムを求める勢力が、日本の世論にも大きな影響を与えている。「新しい教育基本法を求める会」がある。メンバーはつくる会とだぶっている。教基法改正を求める人たちと、歴史修正主義者が同じ思想を持っている。
国家主義の勢力は「愛国心を盛り込まないといけない」と言う。日本の教育基本法は海外に例を見ない法律。日本には必要だったからだ。教育勅語があったから、教育基本法は必要。天皇第一、植民地の人にも天皇第一を押し付ける、日本国民の精神が支配されていた。そして45年に破綻した。新しい民主主義で日本を再生させるために教育勅語を否定しないといけなかったため、理念法として必要だった。教育勅語を未だに持とうとする保守勢力がある限り、教育基本法は必要。
教育基本法改正論の出発点は国旗国歌法が通った翌日。現文科省副大臣の川村が自民党内の改正チームのトップに立つ。川村は「平成の教育勅語を念頭に置いて改正する」と非常にはっきりしたことを言っている。
中曽根は中教審の答申に対し朝日新聞のインタビューで「半歩前進」「まだ生ぬるい。」「まだ認識が弱い」「教育は心、精神の問題なのに心の問題にまだぶつかっていってない。」憲法とは?という問いに対しては「明治憲法=教育勅語」「昭和憲法(?!)=教育基本法」とはっきりしたことを言っている(憲法改正につながることを見せつけている)。
選別の側面。
確かに今まで競争はあった。極端な選別は批判が強かった。習熟度別や、自由化、個性化などの言葉で選別教育を持ち込もうとしていた。
斉藤たかお(漢字分かりません)のレポート。
三浦氏へのインタビューで(改正派)
斉:ゆとり教育で学習内容が3割減ればかなりの学力低下になるんじゃ?
三:学力低下をさせるためにゆとり教育をしているんだ。今まで落ちこぼれにも金をかけてたためにエリートが育たなかった。エリートは100人に1人でいい。非才、無才は心だけでいいんだ。
”エリート教育=ゆとり教育”をはっきり言っている。
「非エリートは精神だけを養えばいい。現象や、社会のあり方に疑いを持つきっかけは与えない。心のノートで、社会にあるものをありがたく受け止め、素直な子供になれ。押し付けで素直になれ。従順になれ。差別されても文句を言うな。」などの差別的な考え方を持っている。
えざきれおな氏(漢字分かりません)
斉:能力に応じた教育って?
え:ヒトゲノムもできたことだし遺伝子で、できる子と、できない子を分ければいい。それぞれにそれなりの教育をしないと。まさにナチズムです。
選別教育と愛国心教育がどう絡まっているか?
子供の中にも、国民の中にもエリートと非エリートができる。99%は非エリートなんだから、エリートに差別されている。といって反乱を起こされたらたまらない(99%が蜂起したら恐い)。反乱に導かないためには教育だ。素直に疑いを持たず、「俺らは確かに冷や飯を食ってるけど、でも日本を支えてくれてるのはエリートの人らやねんから一緒に日本を支えなあかんな」といった気持ちを持たせる。そのためには愛国心がぴったりだ。統合の原理。なので選別教育と愛国心教育は両者不可欠である。
何のための国家戦略か?
グローバル化の大競争時代。競争に勝ち残るための教基法改正論。国家戦略の元、選別、愛国心教育。財界の声で教育が国家に従属させられる。戦前の教育勅語体制=「国のために生きる日本人+国のために死ねる日本人」完全に国家戦略の支配。教基法は「個人の尊厳、人格の完成、平和、民主的な社会の構成者」を作る理念を持っている。教育の主体を国民が国家から奪い取った理念法。第10条では教育行政の支配を排除している。戦前の教訓を踏まえたものだ。新たな国家戦略の下で教育が国家の下へ押し込まれてしまう。何十年か後、現代の教育基本法がある時代を「国民に教育権を奪われていた時代」と言われてるかもしれない。教育を国家に返してはいけない。有事法と同じように考えれる。国家が「そろそろ返してくれ」と言っていて、国民が「どうぞ勝手に」と言ってる状態。最終的には国民が決めるのだが、こんな状態。政府は「そろそろ戦争権、教育権を返してくれ」と言ってる状態と認識する。新たな富国強兵。もう一度繰り返すのか?
一人一人の個人が尊厳あるものとして尊重されているものとして国家を考える。尊重されるための国家を考えたい。そのためには教基法が出発点になる。
しかし今まで教基法があまり尊重されてなかった。
教基法には限界があると思う。神聖視する立場には立ちたくない。憲法と同じで守りたいが、神聖視はしない。憲法で言えば第一条を変えないと。教基法には天皇という言葉は出てこないが「国民教育」という枠がある。日本国民以外の人の権利や、朝鮮学校の権利が十分認められているとは言えない。大検のことだって、民族差別でしかない。自由化の流れの中で民族学校が認められるんじゃないかと言われていたが、北朝鮮問題があり、自民党の中からは「朝鮮だけはNO」の声もあった。
昨日同志社で講演したときには「在日」というビデオを見た。阪神教育闘争というのがあった。45年に戦争が終わり、200万人もの朝鮮人が日本にいた。多数は帰国したが朝鮮の事情などで帰国を延期していた人たちが民族学校を作り出した(全国で600校!)48年に、文部省の通達で閉鎖命令が出る。背後にはGHQがいた。米日一体となり朝鮮学校の弾圧。大阪神戸はとくに激しかったため阪神教育闘争と言われる。そのときキム・テイルという少年が殺された。この一連の事実が教基法の下で行われた。
教基法はどうとらえるべきなのか?
差別的な反応が取られている。現行の教基法は理想的とは言えない。子供の権利条約には、マイノリティーの言葉で教育される権利がある。民族学校OKにすることが本当の「改正」じゃないのか。法的に日本国民じゃない人の権利も求めないと。教基法にも不十分な点がある。しかし現時点の「改正論者」はそんなことを考えもしてない。
彼がとくに繰り返していたことは、
憲法改正論者の新憲法=大日本帝国憲法
教基法改正論者の新教基法=教育勅語
心のノート=修身
です。
あとがき。打ち込むのに疲れました。目が痛いです。でも自分ひとりが知っててもあんまし意味が無いことなのでいろんな人に知ってもらいたい一心で根性こめて頑張りました。読んでください。