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長崎少年事件、捜査手法とマスメディアの問題点、そしてネオコン ----- 宮台真司
http://www.asyura.com/0306/nihon7/msg/504.html
投稿者 まさちゃん 日時 2003 年 9 月 02 日 14:47:22:Sn9PPGX/.xYlo

Message from ミヤダイ
2003年9月2日
http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20030902

──────────────────────────────────────
ディズニーランドの秩序(アメリカ流文化的多元主義)
に異を唱えるものは抹殺する

――ネオコン的なものを本質を見極めよう──
──────────────────────────────────────
                        東京都立大学助教授、宮台真司

■長崎少年事件、捜査手法の問題点

 今日は、90年代とりわけブッシュ政権以降、ネオコンあるいはネオコン的なものが、
なぜこれだけ伸長したのかについてお話ししたいと思います。というのも、巷間ネオコン
について語られていることの多くが、実はネオコン自体の説明にはなってはいても、ネオ
コンが隆盛してきた理由の説明にはなっていないと考えるからです。ネオコンが支持され
る世論のベースといいますか、土台について行き届いた議論がなされていない。
 その話をするとっかかりとして、長崎で12歳の少年が容疑者になった事件をめぐる国民
の反応の仕方に、ひとつのヒントを見い出してみたいと思います。長崎の事件については、
性的異常の問題であるとか、あるいは親の責任の問題、メディアの悪影響の問題が取り沙
汰されています。でも、そうしたことは今回の事件の本質とは関係ありません。問題の本
質は、警察の捜査手法です。それをどれだけの方がご存じでいらっしゃるでしょうか。
 実は今回の事件のようなタイプの連続犯罪に対しては、私服警官を張り込ませるやり方
と、制服警官を張り込ませるやり方の、二通りがあります。この二通りのやり方は、相反
することを目的としています。制服警官を張り込ませる場合は、犯罪防止が最優先事項に
なります。制服は目立ちますから、「ああ、警察が張り込んでるな。捜査されているな。
ちょっとマズいな」と、犯人もしばらく犯罪をすることができなくなる。
 これに対して、私服警官を張り込ませる場合には、犯人逮捕が優先になります。現実に
犯罪を起こさせる、少なくとも起こす寸前まで泳がせてから捕まえるわけてず。刑事ドラ
マによくあるパターンですね。
 どちらを優先するべきか、一般的に言うことはできません。あえて言うならば、犯人逮
捕を優先させて、凶悪犯罪を再発させてしまうことは公共性に反する、という判断は可能
です。凶悪犯罪が予想されるかどうかです。
 長崎の事件の場合、小さな子どもを裸にして突き落とすという事件が先行していました。
だから再発すれば当然、重大な結果を招くことが予想されていた。ところが警察は犯罪防
止よりも犯人逮捕を優先し、制服ではなく、私服警官による張り込みを行ったわけです。
 もちろん、だからといって警察が糾弾されるべきかどうかは難しい問題です。制服を張
り込ませて再発防止に成功しても、ほとぼりが冷めたころに、捕まらなかった犯罪者が再
び犯罪をおかし、今回よりももっと重大な帰結を招いてしまう可能性もないわけじゃない。
その意味で、捜査手法の問題を一概には言うことはできません。
 ただ私たちににとって重要なことは、こうした警察による捜査手法という技術的な問題
が、公共性に直結する大問題だということを理解することであり、メディアの監視や、世
論の監視を必要とすることだと自覚することです。だから「第四の権力」としてのメディ
アの側からすると、「警察を絶えずチェックしているぞ」と、警察ならびに国民に示す責
務ががあるということになります。
 ところが、それがちゃんとなされていません。メディアがやっているのは、犯罪被害者
に媚びた、あるいは社会の被害感情に媚びた、感情的な噴き上がりのサポートに過ぎませ
ん。言い換えれば、俗情に媚びた退廃を示しているわけです。そうすれば、視聴率を稼げ、
部数を稼げ、スポンサーは大満足、お金も儲かるということです。
 被害者感情をどうやってコンソレーション(慰撫)するのかは、もちろん非常に重大な
問題です。「親をさらせ」とか「市中引き回しのうえ獄門打ち首」とか言った防災担当バ
カ大臣がいました。興味深いことに、世論の六割以上が、この大臣発言を支持していると
いう現実があります。この民度の低さをどういたしましょうか(笑)。
 被害者感情の慰撫は、加害者への重罰化によってのみ達成されるわけではありません。
他に二つのやり方があります。一つは「修復的司法」と言いますが、犯罪を犯した人間が
どういう事情で犯罪を犯し、それを今どのようにそれを反省しているのかを、一方的ない
し双方的コミュニケーションによって犯罪被害者に伝えることで、被害者感情を修復して
いくという方向です。
 もう一つは、「犯罪からの学び」による慰撫です。犯罪動機の背後にある社会的背景を、
社会政策的に手当てすることによって、犯罪の再発を防止する。そうした措置が採られる
ことをもって、「私の息子の死は無駄ではなかった」という具合に納得していくというわ
けです。
 修復的司法については巷に議論が頻見しますので、3番目の「犯罪からの学び」につい
て述べます。「犯罪からの学び」は、情報公開による情報の共有によってはじめて可能に
なります。ところが現実には、「犯罪からの学び」に役立つ情報が、少年法のもとで伏せ
られてしまっています。
 再発防止のための社会政策を採ろうにも、加害者少年関する情報や、事件の詳細につい
ての情報が分からないのです。何がどうなったか分からないという不完全情報それ自体に
よる抑鬱感に加え、不完全情報ゆえに再発防止対策を採りようがないことから来る抑鬱感
が高じます。だからこそ、俗情に媚びたメディア情報ばかりが流通する状況になるのです。
 今回の長崎の事件については、捜査手法の選択が、事件を防止できなかった最大原因で
あることは明らかです。捜査手法を選択した人間は、国民に対する説明責任を負っている
はずです。ところが、その説明責任を果たせという要求を、メディアも、そしてみなさん
も出しません。要求を出さなければ、「犯罪からの学び」は得られません。私は大変に疑
問に思います。この辺りのことは雑誌『創』の最新号で、詳しくお話させて頂いています。

■社会的逸脱にどう対処するか

 さて、この長崎の事件の問題が、なぜネオコンを理解するときに重要になるのか。一般
に、社会的な逸脱や犯罪が起こったとき、統治権力がそれに対処するやり方は、大きく二
つあります。一つは「法的意志の貫徹」。簡単に言えば、逸脱や犯罪を絶対に許さないぞ
という意志を統治権力が示すことで、それによって社会成員の被害感情の表出を肩代わり
し、威嚇効果によって再発抑止をも図るというわけです。
 もう一つは「社会政策的措置の遂行」です。これは「獄門打ち首」のような「法的意志
の貫徹」と違い、犯罪の背後にある社会的要因を取り除く政策的な措置を採るということ
です。例えば、逸脱や犯罪の裏側にルサンチマン(怨念)があるなら、このルサンチマン
を解除するような方向に、財やサービスの政策的な再分配をするといったやり方です。
 一般に「法的意志の貫徹」と「社会政策的措置の遂行」の二つは、車の両輪のようにバ
ランスが必要です。ところがこれから申し上げるように、ある時期以降の先進各国は、「法
的意志の貫徹」ばかりを主張するようになってきています。これは国の内外を問いません。
「社会政策的措置の遂行」すなわち、財やサービスの再分配による「社会的な怨念の緩和」
や「社会的な疎外の解消」といった手立てが追求されなくなってきているわけです。
 背景には、社会的不透明性の増大があります。不透明性の増大によって、犯罪動機が忖
度できなくなってきました。忖度できなくなると、動機の背景をかくかくしかじか手当て
すれば犯罪が起きなくなるはずだという想像力も、働かなくなります。かくして「社会政
策的措置の遂行」が後景に退き、「法的意思の貫徹」ばかり前面に出てくることになる。
 ちなみに、社会的複雑性の増大による犯罪動機の不透明化は、以前から述べてきたよう
に、少年犯罪が軽犯罪から凶悪犯罪まで含めて、戦後一貫して少なくなって来ているにも
かかわらず──具体的にいうとピーク時の数分の一以下であるにもかかわらず──、凶悪
な少年犯罪が増大しているかのようにフレームアップされる背景でもあります。
 「社会政策的措置の遂行」が後景化するのは皮肉なことです。私の極右お師匠である小
室直樹氏も繰り返し述べていたように、戦後の日本は、世界最大の社会主義的再分配国家
であり続けてきました。民営化が問題にされている道路公団にしても、川辺川ダムをはじ
めとする土木事業の問題にしても、これらは全て、一度中央に財(資本と労働力)を集中
した上で、各種特措法と財政投融資を用いて再分配するスキームの象徴的な例です。
 このスキームは、戦後直後以来の傾斜生産方式以降の戦後復興スキームであると同時に、
遡れば、廃藩置県以降の日本の近代化スキームでもありました。そこでは官僚機構が非常
に重要な意味を持ちます。なぜならば、市場ではなく、組織的意志決定によって、再分配
の宛先と分量が決められていくからです。
 かくして政官財これが三位一体となる形で──いわゆる護送船団方式の下で──弱者を
補完するための社会的な再分配がなされ続けてきました。そこに、意志決定の枢軸を担う
国家官僚機構の権益と、彼らに口利きをする政治家の権益が生じ、弱者をダシに肥え太る
「売国官僚」と「売国政治家」が増えていく、という、皮肉な結果が生まれたわけです。
 この再分配をめぐる皮肉は、非常に重要な一般的問題を示しています。「弱者への手当
て」なるものは、誰が弱者であるかが自明である時代には問題を生じにくいのですが、社
会が成熟して、地べたを這いずるような「見るからに弱者」が少なくなってくると、たえ
ずチェック&バランスの対象にしない限り、必然的に腐敗や堕落を生むことになります。
 犯罪動機の背景にある社会的背景を手当てする場合も、同じことが起こります。かつて
「食うための犯罪」がもっぱらだった時代には、犯罪に手を染める少年たちは「見るから
に弱者」であり、「社会政策的措置の遂行」に合意を調達しやすかったのです。
 ところが、昨今の少年犯罪に見られるような、社会の中を生きていないかに見える──
私の言葉で言えば「脱社会的」な──少年たちは、見たところ裕福な家庭だったり、成績
も良かったりする。弱者どころの話じゃない。しかも「脱社会化」のメカニズムはそれな
りに入り組んでいて、「コイツが諸悪の根元なのか」という具合に溜飲を下げられる単一
ファクターが見つかるわけでもない。
 となると、当然ながら、犯罪の社会的背景を手当てする「社会政策的措置の遂行」も社
会的合意が得にくくなり、「そんな悠長なことをやっているぐらいなら、つるしてしま
え!」という情緒的な反応に押されがちになります。さて、そろそろ、ネオコン問題との
関連が、賢明な諸氏には見えてきたのではないでしょうか。

■ネオコンの源流はネオ・リベラリズム

 ネオコンの本質とは何でしょうか。1960年代のレオ・シュトラウスという政治哲学
者のホッブズ主義の流れが1970年代の初代ネオコンを形成したという具合に、ネオコ
ンをホッブズ主義によって特徴づける無教養者がたくさんいます。これはなぜ無教養なの
か。簡単ですね。政治哲学を復習しましょう。
 ホッブズはこう言います。自然状態、つまり社会の元々の状態では、人々は自然権、つ
まり天から与えられた権利としての自らの自由を行使して、互いに殺し合っていました。
でも、天賦の自由を行使して殺し合う状態では、安全に生きられません。すなわち自由で
あることによって不自由になってしまいます。そこで、強大な統治権力と社会契約を結び、
自然権を譲渡することで平和で自由に暮らせるようにしようとして、国家が生まれると。
 社会契約による秩序形成の思想を、最初に提唱したのがホッブズです。ホッブズは近代
以前的な王権神授説を否定し、これに代えて、社会契約によって絶対王権を正統化しよう
しました。だからホッブズ思想の本義は、強大な物理的実力を持った国家権力万々歳とい
う思想ではありません。強大な物理的実行力をもった国家権力に、人々が合意するべき理
由を述べ立てることで、現に正統性への合意を調達しようとする「近代思想」なのです。
 ところが、ネオコン的な政策を見てみますと、極端な反国連主義を見ても分かるように、
社会契約という契機を全く重視しません。いったいどこがホップス主義なのか。ネオコン
が、マックス・ウェーバー的な正統性論──服従者の自発的な附従契機を重視する近代思
想の本義──を放棄して、力さえあれば何でもできるとするホッブズ主義に移ったといっ
た「利いた風な図式」は、社会思想を知らない愚か者の言うことです。ホッブス主義とは、
正統性を重視する近代思想の本義に連なるものです。 
 というわけで、ホッブズ主義とネオコンは、まったく関係がありません。ネオコンの立
て役者の一人ウォルフォヴィッツも、「関係あるわけないじゃないか」と先日のインタ
ビューで答えていました。「思想の問題ではなく、常識の問題だ」とウォルフォヴィッツ
は述べています。
 ことほどさように、実は、ネオコンとは思想ではありません。では何なのか。単なる政
策的なスキーム(を同じくする者たち)です。どんな方向性か。その意味は、80年代の
「ネオリベ(ネオ・リベラリズム)」にまで遡らないと判りません。そして、リベラリズ
ムとは違って、ネオリベもまた思想ではなく、単なる政策的なスキームに過ぎません。
 1960〜70年代は「リベラルな時代」でした。マイノリティーに市民権を与える「公
民権法の時代」であり、なおかつ、社会主義に対抗して資本主義社会の正当性を示すべく
──また労働組合運動に対処すべく──西側諸国で再分配政策が重視された「社会福祉政
策の時代」でもありました。
 ところが、80年代になりますと、ノウメンクラツーラ(ソ連の特権階級)の存在が明
らかとなり、ソビエトをはじめとする社会主義諸国が、いま話題の北朝鮮も含めて、まと
もに動いていないという情報が、広く世界中に伝わります。他方、西側諸国では財政状況
が非常に厳しくなります。かくして、従来型の社会福祉政策を継続できなくなると同時に、
その必要もなくなりました。
 こうした状況を背景に、新自由主義(ネオ・リベラリズム)なる政策的なスキームが出
てきます。ネオリベは単なる政策スキームであって、思想という程の複雑性はありません。
簡単に言えば「小さな政府」の主張です。ネオリベが出てきた背景を、多くの論者は財政
問題に求めています。しかし、私の考えでは、それではまったく不十分です。
 ミルトン・フリードマンの学説、といいますか、マスコミ向けの主張を思い出して頂き
たい。フリードマンは、60〜70年代のリベラルな再分配政策と、少数者重視のアファーマ
ティブな政策が、怠け者をつけあがらせ、フリーライダーを蔓延させたと言います。社会
はモラルハザードを来たし、都市や郊外の空洞化を招いて、犯罪の異常な増加を招いてし
まったというわけです。
 こうした議論が、イギリスでもアメリカでも大きな支持を得ました。そこから、「弱者
を支援するからつけあがる、弱者は自業自得だ、怠け者や犯罪者には徹底的に地獄を見て
もらおうじゃないか」といった発想が出てくる。これがいわゆる「優勝劣敗」のネオ・リ
ベラリズムであり、背景にはソシアル・セキュリティー(社会的安全)や、パブリック・
セキュリティー(公共的安全=公安)に関わる不安の増大があったわけです。
 私は各所で述べているとおり、このネオ・リベラリズムとリベラリズムを混同するバカ
がいて困るのです。典型的には「左翼」教育学者の佐藤学とかですね。リベラリズムはれっ
きとした思想であって、ネオリベ的なものを真っ向から否定する原理原則を持っています。
この点は藤井誠二氏らとの共著『学校が自由になる日』(雲母書房)で詳述したので、こ
こでは繰り返しません。
 ネオリベとは、要するにサッチャリズムやレーガニズムのことです。先ほど「法的意志
の貫徹」すなわち、統治権力が断固たる意志を示すという方向と、「社会政策的な措置の
遂行」すなわち、逸脱や犯罪の背後にある動機を手当てするという方向は、両方とも重要
だと言いました。ネオリベは、先ほど申し上げたような経緯で「社会政策的な遂行」をほ
ぼ全面的に否定し、断固たる「法的意志の貫徹」ばかりを主張します。
 興味深いことに、ネオリベの極北たるレーガン政権には、初代ネオコンが蝶集していま
す。70年代のカーター政権的なデタント(緊張緩和政策)に反発するところに生まれた
初代ネオコンは──人によっては60年代と区別して第二世代とも言いますが──、80
年代にこのレーガニズムの後ろ盾になった政策スタッフを大量に輩出しているんですね。
 彼らは、イラン・コントラ事件に関与したカドで、一度は政権中枢から追い出されまし
た。ところが90年代末期になり、それまでシンクタンクやメディアで「しのぎ」を得て
いたネオコン連中が再び政権に返り咲いて、ブッシュ政権の一角を担うようになります。
そして9・11を契機に、彼らの政策的主張が一気に現実化した、という経緯になります。
 ネオコンの政策的主張とは、一口でいえば、「社会政策的な遂行」よりも「法的意思の
貫徹」を圧倒的に優先させるネオリベ的な内政図式を、国外にも投射したものです。ここ
に、ネオコンの大きな特徴があるんですね。イギリスやアメリカの中東政策史が蓄積して
きたルサンチマンを再分配的に手当てしようじゃないか、という常識的発想を全面的に否
定し、ルサンチマンに基づく武装闘争を圧倒的武力で叩きのめそうとするわけです。
 ネオコンの人脈的なルーツは、60年代に遡って、政治哲学者のレオ・シュトラウスだ
とされていますが、政治勢力としてのルーツは、70年代に遡って、民主党議員のアービ
ング・クリストルです。彼はいわゆる元ニューヨーク・トロツキストです。彼に象徴され
るように、政治勢力としてのネオコンは、ユダヤ系の民主党左派が元々のルーツです。
 彼らの政治理念は、ホロコーストの地獄を絶対に再来させない、という決意に尽きます。
だから彼らは、民族的な少数者を含めて、様々なマイノリティーの自由を重視しようとい
うカルチュラル・プルーラリズム(文化的多元主義)を主張し、ニューディーラー的な再
分配政策を重視していました。
 ところが、気が付いてみると、同じ「ネオコン」という言葉をかぶせられながらも──
ネオコンなんていう言葉はアメリカ人でも知らない人が大半ですがね──、その内実が随
分変わってしまったのです。再分配政策の重視だったはずなのが、再分配政策の敵視に変
わってしまった。私たちはこの点をハッキリと意識しなければなりません。
 どうして変わってしまったのか。最初は、少数者の自由を支援するために、再分配政策
が不可欠だという主張でした。ところが、少数者の自由を保証する、合衆国憲法的な枠組
──ひいては近代的な枠組──を、危機に陥れようとする輩が出てきた。この輩を、再分
配政策のような瀰漫的ポリシーが蔓延させているのだと。だから、彼らの行動に正当性を
与えず、徹底的に殲滅しなければならないというわけです。

■ネオコン的普遍主義といかに闘うか

 かつてのグラン・ワークショップでも話したことですが、国際テロの背後には「原理主
義」があると言われます。「原理主義」は昔は「根本主義」と訳されていて、カノン(聖
典)に書かれてあることを比喩ではなく事実だと文字通りに信じる立場のことを意味しま
した。それが、いまではファナティシズム(宗教的狂信)と同義に扱われています。
 これは、イラン革命が、アメリカの中東政策に対する「政治的怨念」に発するものであ
ることを覆い隠すための情報操作の必要から、生まれてきた用法です。具体的にいうと、
石油利権を背景にしたアメリカのモサデク政権転覆とパーレビ王朝のでっち上げによって、
貧富の格差や政権の腐敗堕落が進行したことに対する「政治的怨念」です。これを隠蔽す
るべく「宗教的狂信」が背後にあるかのように情報操作しようとしたわけですね。
  ただし、近代先進国のご都合主義的な中東政策に対する「政治的怨念」を下敷きにし
ているがゆえに、「原理主義者」の目には、近代的方向性や近代的合理性への妥協が、腐
敗や堕落に見えるということがあります。その意味で、「原理主義者」たちには、そうし
た近代的な妥協を排して、純粋な宗教的原理で自らを鼓舞しようとします。
 つまり、今日的な「原理主義」とは、「政治的怨念」に由来する、反近代主義を旗印と
する「宗教的表出」のことなのです。「政治的怨念」それ自体は、アメリカの、そして古
くはイギリス・フランスの中東政策史に由来します。したがって、パレスチナ問題もそう
ですが、「原理主義者」によるテロの背後にある「政治的怨念」を緩和する政策をとらず
して、「テロの根絶」を図る道は、事実上ありません。

 ところがネオコンは、人々のセキュリティ不安に媚びて、断固たる「法的意志の貫徹」
ばかり主張します。当然ながら、アメリカが断固たる「法的意思の貫徹」措置をとれば、
それこそが「政治的怨念」の火に油を注ぎ、反米テロ再発の土壌を耕してしまうことにな
ります。マッチポンプ的な悪循環になるということです。
 しかし、ここが肝心ですが、必ずしも意図せざる矛盾だとは言えない。すなわち、ネオ
コン勢力には「そんなことは百も承知だ」という連中が、実はたくさんいるはずなのです。
だからこそ、僕はこれを「ネオコン的マッチポンプ」と呼ぶんですね。それはつまり、こ
ういうことです。
 アメリカが強硬な措置をとれば、「政治的怨念」の火に油が注がれ、国際テロが起こる
でしょう。そうすれば、セキュリティ不安が惹起されますが、このセキュリティ不安を、
アメリカ一極集中型の情報管理行政を徹底させようとか、それに関わるアーキテクチャー
をアメリカ標準仕様にしようとか、要は、アメリカン・グローバリゼーションの追い風に
なるように利用しようとする。それが、ネオコン的マッチポンプの真実です。
 ちなみに、以前のグランワークショップで言いましたように、グローバリゼーションと
は、?軍事力一極集中化、?高度情報社会化、?アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの席
巻のことです。かつての帝国主義的グローバリズムと違って、弱小国家、弱小民族が、豊
かになろうとして、あるいは生き残ろうとして、あくまでも自発的に、アメリカ製アーキ
テクチャーに依存しようとするところから生じる流れのことです。
 こうした、よく考えられたマッチポンプが背後にある以上、ネオコンの「法的意思の貫
徹」偏重に対して、「おかしいじゃないか、矛盾しているじゃないか」と批判するだけで
は、問題解決に結びつきません。根本的な解決に至るためには、ネオコン的なマッチポン
プ戦略の本質に迫った上で、「背骨を抜き取る」必要があります。
 本質には大きく二つあります。一つは、セキュリティ不安という人々の俗情に媚びてマッ
チポンプを形成するのが、ネオコンの戦略だということです。この戦略を熟知した上で、
セキュリティ不安に踊らされないようにする必要があります。ところが、それはまだ分か
りやすく、処しやすい部分です。ネオコン的なマッチポンプ戦略の向こう側には、実はもっ
と奥深い、私たちとしては対処が難しい発想があることを、知らなければなりません。
 ネオコンの「奥にある発想」は、実はディズニーランドに喩えるとよく分かるでしょう。
なぜか。まず、ネオコンの連中は、カルチュラル・プルーラリスト(文化的多元主義者)
です。先ほど申しましたように、もともと文化的な多様性や少数者の自由を認めようと主
張してきた人たちなのです。
 しかしネオコンは、マルチ・カルチャリズム(多文化主義)とは違い、近代を相対化し
てはいけないと主張します。文化的な多様性や少数者の自由を許容する近代の原則を、踏
みにじるようなタイプの多様性が出てきたら、これを徹底して抹殺せよ、というわけです。
これが文化的多元主義と多文化主義の違いです。そして各所で書いてきたように、私自身
はネオコンと同じ文化的多元主義なのです。
 さて、文化的多元主義を背景としたネオコンは、「力を背景に多様性を維持せよ」とい
う政策スキームを採ります。これがなぜディズニーランドなのか。ディズニーランドに行
くと、アドヴェンチャーランドとかファンタジーランドとかトゥモローランドとか──私
はディズニーランドが好きなんで良く知っているのですが(笑)──多様なゾーンがあり
ます。ゾーン同士はお互いを見渡すことができず、それぞれのゾーンから「大ボス」の象
徴たるシンデレラ城だけが見えるという、シンボリックな記号的構成になっています。
 他方、ディズニーランドはマルチ・レイヤーです。表層の多様性とは別に、ゴミ処理と
か汚水処理とか物流をめぐる多層的なレイヤーが、深層に横たわっています。表層で多様
性き戯れている人々の目には、深層のアーキテクチャーは伏せられています。これは極端
なアメリカ主義者だったディズニーという人間の発想に基づいていますが、ネオコン的な
文化的多元主義を理解するための、非常に分かりやすい図式になるかと思います。
 私自身も含めて、ここにはディズニーランドが好きな方が多いでしょう。実際、民族・
文化を問わず、ディズニーランドが好きな人たちは世界中にたくさんいます。マクドナル
ドが好きなムスリムの人がたくさんいるのと同じことです。そして、このディズニーラン
ドの秩序に異を唱える者は悉く抹殺するという思考スキームが、ネオコン的なものです。
 ネオコンは言います。近代の表層にある多様性と存分に戯れてください。既存の多様性
で足りないなら、そこに新たなゾーンを付け加え、その島宇宙に生きてください。他のゾー
ンを侵害せず、深層のアーキテクチャーに手をつけない限り、ムスリム・ランドも、北朝
鮮ランドも、超OK。しかしディズニーランドの秩序自体に手をつけたなら──他のゾー
ンや深層アーキテクチャーを侵害したら──直ちに抹殺するぞ、と。
 このようなネオコン的な、ある種の近代的普遍思想は、みなさんににとって縁遠いどこ
ろか、非常に馴染みやすいものであるはずです。近代的なシステムの便益を存分に享受し
つつ、しかし、システムを支える深層のアーキテクチャーは完全なブラックボックスになっ
たまま、意識にも昇らない。それが、グローバリゼーションの世界を生きる私たちの日常
的な実存であるはずです。ネオコン的なスキームは、私たちの実存と表裏一体なのです。

■経済的・文化的自立を目指す欧州

 とはいえ、近代の社会システムが、必ずディズニーランド型になるというわけではあり
ません。というより、正確にいえば、ディズニーランド型にならないような近代的システ
ムを模索しようという動きが古くから生じています。具体的には、ヨーロッパ石炭共同体
(EEC)からヨーロッパ共同体(EC)を経てヨーロッパ連合(EU)に至る流れです。
そうした流れの中で、今イギリスも含めたヨーロッパでは、ネオコン的なスキームにどう
やって対抗していくのかが、真剣に議論されています。
 要はこういうことです。デプス(深さ)が深いマルチレイヤー(多層)的なアーキテク
チャーがあって、表層で戯れている限りはハッピーだけど、深層がどうなっていて、何に
どんな負荷をかけているのか全く分からないようなシステム。それを、どう考えるかとい
うことです。ヨーロッパの連中は、広い意味での安全保障の観点から、こうしたシステム
は、まずいだろうと考えているわけです。
 安全保障といってもNATOのような軍事同盟に限られるわけじゃありません。とはい
え、NATOは冷戦体制を背景に米英が欧州大陸を間に挟んでソ連とにらみ合うためのも
のでしたが、いまやNATOのヨーロッパ化が急速に進んでいる。NATOが大ボス──
アメリカですが──に「いいように牛耳られる」のは、まずいだろうということです。
 こうした安全保障の発想は、軍事だけではなく、EECの伝統を踏まえてアメリカのエ
ネルギー戦略に組み込まれないための「エネルギー安全保障」、遺伝子組み替え作物など
によってアメリカの種苗会社に首根っこを押さえられないための「食料安全保障」、ウィ
ンテル同盟に牛耳られないようにリナックスに乗り換えようとする「IT安全保障」、ファ
ストフード的な便益に依存することでどこもかしこも入れ替え可能な場所になるのを抑止
する「文化的安全保障」にまで、及びます。
 一口でいえば、デプスが深く、見通しがたいがゆえに、大ボスにいいように牛耳られて、
当事者の利益が侵害されがちなアーキテクチャーを排して、代わりに、デプスが浅く、見
通しが利くがゆえに、大ボスに牛耳られにくく、当事者が自らの利益を保全しやすいアー
キテクチャーに、移行しようとしているわけです。
 そのために、第一に、さっき紹介したグローバリゼーションのシステムに過剰に依存し
ないように、軍事・経済・文化的なブロックを作って、相対的に閉じたネットワークを作
ろうとします。これは、日本でいえば、かつての亜細亜主義の発想に近いものですが、そ
れについては『絶望から出発しよう』(ウェイツ)に詳しく述べたので、繰り返しません。
 そして第二に、そうして形成されたブロックの内部でも、セントラライズ(集中化、集
権化)を回避して、分散型のアーキテクチャーを作ろうとします。興味深いのは、ゴミ処
理やエネルギー供給はより広域の行政単位で、教育や文化行政はより狭域の行政単位で、
という具合に、テーマごとに異なる分権主体を作るという方向での、マルチ・レイヤー的
な分散化が図られているところです。
 亜細亜主義うんぬんは置くとしても、こうした発想は私たちにとっても縁遠いものじゃ
ありません。例えば、日本にも地方分権化の動きがあり、町村合併の動きがあります。こ
れは何も、「中央からの国庫補助負担金を貰うために、見渡せる場所に公民館が二つも三
つも作るのは、オカシイ」といった行政効率や経済効率だけの問題ではありません。その
ことがちゃんと意識されていないのは残念なことです。
 中央に資本と金を集中させた上でコンクリートと金を地方にぶち込む集権的再分配型の
社会主義的アーキテクチャーは、急速な近代化途上や戦後復興途上においては効率的です
が、モノの豊かさが国民的な目標ではなくなる近代成熟期を迎えれば、ニーズのないハコ
モノやサービスを、腐敗した権益のために提供するものになりがちなのは、事実です。
 でも、そのことを含めて、自分たち──範囲はオープンに考えてください──が大ボス
のいいように牛耳られる状況を回避し、自分たちのことを自分たちで決めることができる
自己決定=自己責任型のアーキテクチャーに移行しようとする動きであること。そして、
そのことによって、自分たちが入れ替え可能な存在になるのを回避しようとする動きであ
ること。それが、いちばん重要です。「食えればいい」時代は、既に終わったんですね。
 こうした言い方でお分かりのように、「表層で自由に戯れながら、深層にいる不可視の
大ボスに牛耳られる」アーキテクチャーは、自己決定=自己責任型ではないという意味で、
近代社会の本義に悖るということもできます。「私」の自己決定=自己責任のみならず、
「私たち」の自己決定=自己責任を、複数の層に応じた複数の「私たち」的範囲において
追求可能にすること。これが、近代主義の本義に適う分権化の本旨だ、と言えるでしょう。
 結局のところ、近代の社会システムをどう構想するのかということが、最終的に問われ
ているのです。ネオコンは、確かにWMD(大量破壊兵器)を巡って「稚拙な」政策を展
開しました。それを人々は批判しています。私も批判しています。でもそれはネオコンの
本質ではありません。
 もしネオコンが、ベスト&ブライテストの名に値するような──ブッシュだけは知能指
数92だそうですが他のスタッフは150を超える面々ばかりです──、狡猾でマイルドな戦
略をとっていれば、どうだったでしょうか。従来の批判を見るかぎり、ネオコンがもっと
国連を重視するようなフリをするとか、大量破壊兵器が本当にあることにするとか(笑)
もっと上手に振る舞っていれば、「やっぱりアメリカは正しい」というような世論になっ
てしまったかもしれない。それでいいのか、ということです。
 もう一度いいます。ネオコンの粗忽さやラフさやバーバリアンぶりを、いくら批判して
もダメです。確かに、ベスト&ブライテスト的な奢り高ぶりゆえに粗忽に振る舞った者ど
もが、ネオコンにはいるでしょう。しかし、それはネオコンの本質には関係がありません。
ネオコンがもっとマイルドで賢く振る舞った場合に、彼らの文化的多元主義──多様性を
重視する近代普遍思想──を、どう批判していくことができるのか。それだけが問題なの
です。もうお時間のようです。予定の半分もしゃべれませんでしたけれども、終わります。

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