現在地 HOME > 掲示板 > 日本の事件6 > 698.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 『勉強する』ということと『考える』ということ 投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 8 月 02 日 00:46:44)
ぷち熟女さん、エンセンさん、おはようございます。
自分は長崎の少年事件には何か執念みたないものを感じており、下手なことを下手な学者や政党、マスコミが口を滑らせたりすると徹底してかみついてやりたくなります。
彼らには生きた人間の血が通っていない。
ろくに事実関係も調べもしないで駿くんの死や少年の異常性格の喧伝などがいいメシの種になるという程度の捉え方が見え見えなのです。実証主義を排除した主観主義的な思いこみなど学問的方法とはまるっきり無縁です。
生のデータを生のデータとしても捉えられない思考力にはあきれました。
それはなぜか。事件を利用して自分の考えを押し売りしようというハラがあるからでしょう。
どんな形であれ、抗議と追求のの手をゆるめることは、私にとって自分の敗北を意味します。
世間では熟年に相当する団塊の世代で、今や老骨に鞭打つ哀れな姿を晒して申し訳ないんですが、殺された被害者や加害者とされた冤罪被害者の苦しみを思うとじっとしておれません。
この3週間仕事も手につかないほど長崎のことが気にかかっております。
汚く罵る場合は、私が罵る以上に冤罪をあるいは本質的には謀略をしかけた連中、そしてそれに唱和する連中のほうがはるかに汚いからです。
気を悪くされたらごめんなさい。