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浅野健一ゼミHP
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以下転載
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2003年5月14日
読売新聞は進歩的な新聞だった
社論の大転換に説明責任
浅野健一
月刊「あれこれ」(山中登志子発行人、本多勝一編集長)5月号に「1000万部 ヨミウリ元旦社説の読み方」というタイトルで記事を書いた。アンチ巨人の執筆者たちによる読売新聞の特集で、私は1979年から29年にわたる元旦社説を分析した。
読売新聞は、3月19日に米国が始めたイラク侵略を、社説で全面的に支持した。米英にも、読売ほどのトーンで武力行使を肯定した新聞社はない。
読売新聞がずっと国権主義的保守派の機関紙だったわけではない。いやむしろ、1981年までの読売社説は、中道・福祉国家型社会を構想し、「国権主義的」「自民党タカ派」路線を厳しく批判していた。私が学生から記者になった1970年代の読売新聞の社説は、社会から取り残された人々に目を向けるのが、知識人の役割だと訴えていた。
読売社説がなぜ進歩的な論調が、82年元旦の「あえて80年代を楽観する-平和維持に知恵と勇気を」以降、年々、右傾化というか、産経新聞化していった。社説は、アジビラのようになった。
問題は、社説が読売新聞社内のだれによって、どのように形成されているかだ。1982年前後に、読売内のジャーナリストが議論をたたかわせて社論が変わったわけではない。自民党極右政治家に近い論説委員などの編集幹部が論説委員会を乗っ取り、社内の実権を掌握したための変化である。
一般の社員が意見を述べる場が全く設けられず、クーデターのように「社論」が急変する点にジャーナリズム機関として最大の問題がある。
ところが、読売新聞東京本社広報部長の楢崎憲二氏は、「週刊金曜日」452号(3月21日)「論争」欄で、《読者の混乱を招いた「記者」の肩書き》と題する寄稿記事で、読売新聞社勤務の山口正紀氏に対し、「自社の社論形成、紙面展開にどう関与したのか」を書かなければ、「読者への責任はまっとうできない」などと批判した。
楢崎氏の記事は、「人権と報道・連絡会」世話人で同誌の「人権とメディア」を連載している山口氏が、「週刊金曜日」444号(1月24日)に書いた《外部の圧力で「記者職」剥奪》の記事への「反論」だった。このHPでも取り上げたように、山口氏は朝鮮問題をめぐる「週刊金曜日」記事が原因で、2003年2月1日付けで記者職を剥奪された。
楢崎氏はこの中で、「読売記者を名乗る者が、読売の社説批判を公表することで、読売の読者に混乱を与えている」と指摘。さらに「大手メディアに所属しながら大手メディアのありようを批判している」山口氏の立場は、「ごく普通の読者」にとっては「奇異に映るだけ」と強調した。
山口氏は同誌458号(5月9日)で、《「外部の圧力」は「想像の産物」か》と題して、次のように反論した。
《一九九四年一一月に発表された「読売憲法改正試案」は、その二年前に社外有識者の「憲法問題調査会」が行った提言を土台に、社内十数人のチームが作ったものだ。その過程で、一般の社員が意見を述べ、「社論形成に関与」する場は設けられただろうか。他の社論も大半は論説委員会などが「形成」し、その結論に沿って「紙面展開」されてきた》
「社外で発言する前に、社内の部会できちんと問題提起しろ」と私もよく言われた。しかし、企業内記者が自分の良心や信念に従って、自社やメディア界全体の掟などを批判した場合、待っているのは、いじめ・ハラスメントや不当懲罰人事である。私自身に対する共同通信(当時の人事総務責任者は“リベラル”で著名な原寿雄氏)と当時の組合役員が一体となった弾圧の数々を振り返ればよく分かる。(第三書館から出版した三部作に掲載)
楢崎氏には読売の広報責任者として、読売新聞の社論がなぜ80年代に大きく変化したのか説明してほしい。変わることは悪いことではない。言論は自由だ。しかし、なぜ70年代までの主張が消えてしまったのかを読者=市民に説明する責任がある。現在の読売社内に、山口氏の見解や70年代の社論を支持する社員はいないのだろうか。
以下は、「あれこれ」5月号の元原稿である。
◎読んでびっくり読売の過去29年元旦社説
国権主義的保守派のクーデターだった
私はもともと西鉄ライオンズの熱狂的なファンだった。高松の小学校時代、西鉄は鉄腕稲尾和久の投打にわたる大活躍で巨人を相手に日本シリーズ四連覇を果たした。その後、西鉄はライター屋などに買収されて今は西武になった。西鉄の解散で、ひいきの選手が移った阪神ファンに転向した。
意外にも私の家は読売新聞(大阪本社)をとっていた。祖父の好みだった。私の大学時代の読売新聞も、社会党の故江田三郎衆議議員が提唱した構造改革路線に近く、北欧型の社会民主主義・中道左派的な色彩が強かった。渡邊恒雄社長率いる現在の読売新聞とは全く違っていた。
今回、一九七五年から今年まで二九回分の社説をじっくり読んでみた。八一年までの七回分の社説は、示唆に富んだ進歩的な論調で、今の時代にも通用する点が多い。ところが、八二年元旦の「あえて80年代を楽観する?平和維持に知恵と勇気を」以降、年々、右傾化というか、産経新聞化していく。
渡邊氏は七九年六月、取締役論説委員長に就任。その後、読売の論調に変化が出てくる。渡邉氏は九一年五月二日に社長になった。
社内の実権を実質的に掌握したのは八四年一一月といわれるが、文体と論説内容を分析すると八四年元旦社説が渡邊社長による最初の社説であろう。渡邊氏はそれ以降、毎年、元旦社説を書いてきたという。
私のところに来る学生たち(同志社に限らない)の多くは、読売新聞や産経新聞を避けている。それでも希望の新聞社を落ちて、読売に内定した学生には、よくこう言っていた。
「元旦の社説さえがまんすればいいじゃないか。朝刊の編集手帳や一部の解説記事も相当癖があるが、その他の記事は他社とそう変わらない。国際面などは読売がいい」。読売新聞内の進歩的記者たちも「元旦の社説さえ我慢すればいい」と言っていた。
しかし、八〇年代からの右傾化は、渡邊氏こそ日本の改革者であるという錯覚を若者の間に生み出した。九〇年にジャカルタで会った読売新聞入社内定の早大生は目を輝かせて「読売の社論が好きで入社試験を受けた」と語った。あのころから日本が変わったように思う。
社説が主張した自衛隊の軍隊化、「責任と負担」という福祉の切捨てなど悪政のほとんどが、「保守的保守政権」によって「実現」した。
小泉首相よりももっと右の石原慎太郎東京都知事や安部晋三官房副長官らがお好みのようだ。
八二年元旦から元旦社説スペースが倍になった。渡邊社長の主張がかなり反映している。社説は、「市場経済と思想の自由は、西側の東側に優越する社会的原則である」と論じ、「これを守るため、西側の結束した軍事力が不可欠」と主張する。八三年には、ソ連の脅威を強調し、「西側社会の一員としての責任を果たすべく応分の犠牲を払わねばならない」と訴える。
八四年は「平和・自由・人権への現代的課題」と題して、「非同盟中立」を「現実を無視した幻想的で無責任」な立場と攻撃した。渡邊社長が全文を書いた最初の社説と思われる。
八五年には「マスコミの一部や左翼学者」「反米親ソの中立論者」を糾弾する。
八七年「努力による資産の形成をまったく否定すること」に反対と表明。八八年には、《「日本さえ戦争に巻き込まれずに平和であれば」とか「わが国が豊かならば」という、いわば「一国平和主義」や「一国繁栄主義」に陥っていたきらいがある》と論じ、「わが国は、カネは出すが人は出さない、というので、国連内でも、潜在的な不満が強い」と述べる。
九〇年は、社会民主主義も含めた「社会主義」を「経済の国家統制と計画を重視し、また過度な平等主義や極端な累進課税によって労働や投資の意欲をそぎ、国民経済の活力を低下させる本質も持っている」と決め付け、安保問題では《「非同盟・中立・非武装」のドグマ》を非難する。
九一年は「カネさえ出せば国際社会の一員としての義務は果たせたとして、すませるものではない」と指摘。
九二年には「左翼的な野党、マスコミ」「わが国の左翼勢力」「左翼イデオロギー」を非難。憲法について、「日本を無力化しようという占領軍の政策」「憲法はマッカーサー司令部主導の下に、主権のない国家の最後の帝国議会で決められた」と指摘した。「国連加盟国として“人並み”の汗もかかず、カネですますわけにはいかない」と再び論じた。
九三年には、「憲法九条第二項の改正がのぞましい」と初めて明言、九四年に憲法改正試案を発表。九五年は「現在の日本には、排外的、独善的ナショナリズムや軍国主義の復活する余地はない」と断じる。
九六年はついに《「平和愛好」「護憲」「軍縮」などの言葉》も敵視する。
九七年の社説は、「自虐的な情報」を近隣諸国に流す勢力攻撃、「金持ちは悪で労働者は善」と単純に二分する社会主義的考え方を批判し、「サッチャー女史」の政策を賞賛した。
防衛問題では、「革新勢力が唱え続けてきた非現実的で情緒的な孤立主義的平和論を打破し、集団的自衛権の行使を可能とする真意に有効な安全保障を確立することは日本にとって重要な課題だ」と踏み込んだ。
九八年には「加害者の人権と被害者の人権」を取り上げた。
九九年には「戦後民主主義」の「三つの大罪」を論じ、米国を自由主義、民主主義の国と規定し、「日米安保体制の重要性」を強調した。その一方で、「一国平和主義」を「偏向したマインドコントロール」だと攻撃する。
所得税の累進税率を批判し、《教育の場や企業内でも「平等」が重視されるあまり、個人の持つ優れた才能が十分に開発されていない》と指摘した。
また、「民主主義という価値を共有する米国との同盟関係」の強化のため、「集団的自衛権の解釈をめぐり重箱の隅をつつくような“平和ボケ”論議」とは一線を画すと明言した。
二〇〇〇年の社説は「一国主義を超えた、常に地球的視野にたって他国のことも考える国際国家としての風格と行動力を備えた」社会を目指すと宣言し、個人の自由は「公共の福祉」との調和の上にのみあるという「真の自由主義」をうたう。また「加害者の人権を尊重するあまり、犯罪被害者やその関係者の人権を忘れがちな風潮」を批判する。また安保問題では、「集団的自衛権行使を可能とする安全保障政策の確立を急がなければならない」と煽っている。
〇一年には、「戦後民主主義」そのものを、「社会主義幻想に引きずられたとして批判の対象にした。「歴史と伝統文化を踏まえた国家の個性、独自性、国民の国家意識」を持つように訴えた。
〇二年には、内閣法制局見解を「国家的自己欺瞞」非難し、《自衛隊が《軍隊》ではないとか、「戦力」ではないなどといった、子供にでもウソとわかるような次元の論議に終止符を打たなくてはならない》と提唱した。
〇三年には「すでに日本は、アフガニスタンにおける国際テロ勢力との戦いのため、自衛艦隊をインド洋に派遣し、米国などの艦隊への支援活動を実施している」「実態的には、いわゆる集団的自衛権の行使そのものである」《「集団的自衛権は保持しているが、行使できない」などとする法運用の建前は、「自衛隊は軍隊ではない」という子供にでもウソとわかる強弁と同様に、明々白々な現実から遊離した空虚な言葉遊びにすぎない》と決め付けた。
八二年以降の社説に、「戦争責任」は二回しか出てこない。それも、「歴史は厳しく反省しなければならない。しかし、同時に近隣諸国の古い固定概念の誤りを正し、新しい局面を切り開いていく必要がある」(九一年)「戦後の日本には、戦争への反省に左翼イデオロギーの影響が強く加わって「国家」の観念をタブー視する風潮があった」(九五年)という展開で出てくるだけだ。
九〇年代に入っての論調は、産経新聞や歴史改ざん主義者の主張と全く同じになった、9・11事件以降は、産経などよりさらに右傾化した。
私が最も危険だと感じるのは、「自衛隊は軍隊(戦力)ではない」という見解が、「子供にでもウソ」と断定していることである。渡邊氏と読売新聞社が、だからこそ憲法九条第二項の「改正」試案を発表したのだろが、憲法が「改正」されるまでの違憲状態を放置していいのかということである。憲法より現実のほうが大事と言い放つ、その態度は、渡邊氏が忌み嫌う全体主義、ソ連型社会主義国家と全く変わらない。政府与党は次の国政選挙でも、憲法「改正」を公約にはしないであろう。
憲法が規定している限り、法治国家なら行政権力はそれに従うことが要求される。憲法を遵守せよという主張を、「明々白々な現実から遊離した空虚な言葉遊び」と断じる姿勢は、まさにファッショ的である。
渡邊社説は、八一年までの中道・福祉国家型社会を全面否定し、それまでの社説が強く批判した「国権主義的」「自民党タカ派」路線をとった。北欧型の社会民主主義的な思想にも近かった読売新聞を自民党タカ派・極右勢力が乗っ取った過程が浮き彫りになる。
七五年の元旦社説は「日本の再構築に取り組むとき」と題して、今後の政治は、金権政治をなくし、「社会的公正」を目指し、「政治から疎外された老人、主婦、学生などの声まで吸い上げるべき」だと提言。物質万能的な考え方を改めて、人間生活を尊重した心の豊かな社会を構想している。
七六年は、「福祉国家への安定した秩序を」というタイトルで、「各階層の資産格差の拡大」を懸念し、現在の「自民党内のタカ派」によってでは何もできないと指摘。当時の三木内閣が「公労協にスト権も与えられない」状態になり、「タカ派が主導権を把握するような状態」を危惧している。そのうえで、「勤労者階層を含めた幅広い支持を得られるような政治」を行い、福祉国家に到達するための第一歩となる「進歩的な保守党」または保革連合政権が待望されると論じている。
七八年は、明治以降の歴史を振り返り、「西洋に傾斜する余り、韓国や中国の蔑視が日本の大衆に浸透し、アジア軽視から脱亜、蔑亜の風潮がはびこった過程」であり、「そうした誤った優越感が、日本はアジアや東洋の指導者であるといった思い上がりを生み、悪夢のような戦争に突入していった記憶はなお生々しい」と述べる。「欧米を除く他民族への配慮の欠如も目に余る」「日の当たらぬ弱者への、温かい配慮に満ちた政治をわれわれは望みたい」などと述べている。
七九年の社説は、明治時代にできた教育勅語の成立の経過をたどり、「これによって、万邦無比といういわれなき日本の優越感が確立され、敗戦の日まで続く」と指摘。「八紘一宇や大東亜共栄圏の時代錯誤的発想につながり、一視同仁で、アジアの留学生にまで勅語を読ませたことも記憶になまなましい」と断じている。
八一年の社説は「不透明な八〇年代に光を」という見出しを掲げ、中東情勢を理由に、
「アメリカによる平和の時代は終わった」と断定。「これからの国家的危機は、これまでのように、特定の大国に依存して解決を待つわけにはいかないし、もちろん、日本一国が、軍事力その他の手段で、直接危機の原因を除くことはできない」と強調。
「特定の利害関係国にとどまらず、地球上から飢餓と貧困をなくすこと、特に非産油途上国への援助の拡大強化」や「難民の受け入れ」を推進すべきだと訴えている。また、「古いナショナリズム」を捨てて、「ナショナリズムを超えた国際協力の発展に、日本がイニシアティブをとるべきだ」と提案する。
さらに、「個別的国益追求の上位に、普遍的な国際協力の理想を掲げること」など「理想主義の復権」を高らかに呼びかけている。
八一年は「資本主義の側は、きわめて大胆に社会主義の、いいかえれば革新的政策の長所を次々に吸収してきた」と論じ、「保守・革新対立型伝統的イデオロギー政治の時代に幕を引き」、左右のイデオロギー的対立の不毛性を説いた。
防衛論議について《伝統的保守イデオロギーの復活を狙う国権主義的志向が見られた。論壇にも「核武装せねば国家ではない」という極論が登場した》と指摘し、「視野の狭い軍事技術論は、時として本当の脅威を見失う」と断じた。
また、「安全保障の究極の目標は平和維持であり、軍縮である。今日、世界各国が支出する軍事費の総額は約五千億ドルであるが、途上国への経済協力支出は八百億ドル、うち政府開発援助は三百億ドルに達しない。東西を問わず、先進工業諸国は、軍縮による経済余力を、第三世界諸国の経済建設と民生安定のために注ぐべきだ」「世界を軍拡よりは軍縮に向けるための国際世論の形成は急務だ。それには、平和維持と軍縮についての我が国固有の安保哲学を確立する必要があるのだが、国権主義的保守派はそのための大きな障害になるだろう」と論じた。
読売新聞の記者たちによると、読売の社内で、憲法に関する論議はほとんどないという。憲法改正試案も、全共闘世代のデスク以上の一部幹部たちが集まって文章化したという。まずは、社内の自由で責任ある言論活動を通じて、社論を形成するという作風をつくるべきではないか。
渡邊氏は東大の学生時代、共産党の民青活動家だったが、八〇後半以降の社説はアジビラそのものだ。「社会主義」「左翼」を嫌い、「戦後民主主義」も否定的とらえる。自由主義といいながら、憲法を公然と破り、法の支配を否定する。原発を抱える自治体の住民投票を非難し、大衆の声を聞く政治を衆愚政治と突き放すのである。
社会民主主義をソ連型社会主義と同一視する論理展開は、あまりに乱暴である。
国を愛し、日本の文化、伝統を尊重せよといいながら、米国の軍隊の駐留を無条件で認める。米国追随と、渡邊氏の言う「日本の伝統、文化」を大切にする国家観がどう整合するのであろうか。
渡邊氏は、日本には「排外的、独善的ナショナリズムや軍国主義の復活する余地はない」と断言してきたが、一千万部のアジビラが毎日まかれることによって、
読売新聞が七〇年代に提唱した軍縮、社会的不公正の是正などの生活保障政策が大きく後退し、朝鮮問題を利用した排外主義的、全体主義的、軍国主義的な風潮が強まるばかりである。渡邊氏は社説で「勇気と責任ある言論」を強調するが、
「渡邊社長の思考方式は、左翼の時代と変わっていないのではないか。左から右に移行しただけで、自分が権力、人民を動かし、歴史を作っていくのだというヒロイズムがある」。ある読売新聞のベテラン記者の分析だ。歴史は、名もない、声なき声の人々の営為によってつくられるという人間観、歴史観に欠けた知識人の典型だと思う。七〇年代の読売新聞の社説の言うように、社会から取り残された人々に目を向けるのが、知識人の役割だということに気づく日はないのだろうか。
(みなさんの近くの図書館にある読売新聞の縮刷版で、1960年代から70年代の社説を読んで、現在の同紙社説、論説と比べてほしい)
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