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(回答先: Re: 追記:『奴ら』はなぜ放置されるか 投稿者 マドオンナ 日時 2003 年 8 月 08 日 16:39:06)
マドオンナさん、こんちは。
今回はちょっと数字の話をしてみる。
俺は『0(ゼロ)』を「無」と考えている。
「全て」であって「全て」でない「原初の混沌」、それが「無」だ。
『1』は「有」であり、その他の「数」はそこから派生する「有のひとつのカタチ」だ。
精神世界系の話ではよく「周波数」という言葉が使われる。
俺がそこから想像するのは、「何か」分の“何か”、という分数のカタチだ。
“何か”/「何か」
これが「人間」や、他のあらゆるものを表す「数」だと思っている。
“何か”は精神的・心霊的・抽象的なものであり、“上”へ昇るものだ。
「何か」は肉体的・物質的・具体的なものであり、「下」へ降るものだ。
“何か”の方が大きい数字になれば、『それ』はより心霊的な存在となり、「無」から遠ざかる。
これが時に「善」と呼ばれたりする。
「何か」の方が大きい数字になれば、『それ』はより物質的な存在となり、「無」へと近寄っていく。
これが時に「悪」と呼ばれたりする。
しかし、『それ』は決して「無」から逃れることも、「無」に還ることもできない。
俺は、「数」の最も良いカタチが『1』だと考えている。
つまり、“精神”と「肉体」が同値となってバランスの取れた状態。
それが『1』だ。
そして、この『1』は同じでありながら違うものがある。
百分の百の『1』もあれば、1万分の1万の『1』、1億分の1億の『1』など、数え切れない。
もちろん、他のあらゆる「数」でも同様だ。
「有」はかつて『1』として「無」から生まれた。
そして「無」に還るときも、『1』としてでなければならない。
「無」に還るとき、「有」はおのれの異なる姿である『−1』に出逢うだろう。
そして抱擁し、溶け合って「無」に還る。
俺はその全てを「愛」と呼んでいる。
「善」も「悪」も、「有」も「無」も、だからみんな「愛」のひとつのカタチだ。
「数」とは、「愛」を知るためのささやかな「道標」なのだろう。
俺にはもう「なぜ」はない。
ただ、行くのみ。