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題名: 平成15年6月26日 (四)
投稿者: 西尾幹二(B) /2003年07月04日 14時56分
アイデンティティということばが盛んに使われだしたのは、私の記憶では40年くらい前からである。正確な証明はできないが、第二次大戦後の日本の自己確信の喪失と高度成長による自信の回復と――この二つの相の矛盾と関係があるだろう。しかし一般の生活語としては定着せず、もっぱら評論用語であり、知識人用語である。
アイデンティティということばの多用が示唆しているほどに、一般の日本人社会はアイデンティティの危機や不安をさして切実に感じていない証拠であろう。もし感じているなら、使い易い生活語になっているはずだし、外国人労働者の導入の必要をきわめて楽観的に唱える人が、90年代初頭につづいて、再びこれほどに増えることは決してないであろう。
日本人はアジアの孤児だといわれてきた。欧米に顔を向けすぎて、アジアを忘れているという人が少なくない。この半世紀ずっとそんなことを言う人ばかりだった。しかし、中国が強大国として立ち現れるにつれ、中国から寄せられるあらゆる秋波にも拘わらず、日本人は本能的に中国から距離を取ろうとするようになるであろう。そして、そのつど、いかに日本が近代化=西洋化しているか、あるいは日本文明の本来的美質(法治国家であるということ)を顧りみ、いかに日本的近代を達成しているかに思い及ぶだろう。中国型肺炎サーズの事件もそんな自覚を日本人にもたらしたと思う。
いや、中国の野蛮と非文明がやがて強大な「力」として迫ってくるにつれ、日本は自分のアイデンティティをためらわずに「近代」のうちに求めざるを得なくなるであろう。そして、ポスト・モダンなどという甘ったれたことを誰もいわなくなるだろう。そのときには、アイデンティティということばも、もう誰も使用せず、死語になるであろう。
しかし、と私はふとこうも思う。達成した「近代」に日本人が照れも恥じらいもなく取り縋らざるを得なくなったときに、じつは「近代の克服」や「脱近代」や「ポスト・モダン」といった言い古されたことばの実践が真に求められるのである、と。
「ことばの使用と現実の必要とはたいていの場合、つねに逆なのです。」と私は池田さんに言った。「われわれの若い頃、あの戦後の焼跡と闇市の時代に、思想の世界では、ニヒリズムと実存主義が流行でした。けれども、ニヒリズムの正体が露呈し、実存主義が本当に必要なのは、むしろ今のわれわれのこの時代ではないですか。」
焼鳥と豆腐料理をつつきながら私たちの談論はまだつづいた。お客さんは日曜の夜をたのしむ家族連れもいて、酔漢はいない。「吾作」は住宅街の西荻窪らしい飲み屋だった。
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からの転載です。
おもしろいですね。ここでも実存主義だって。なんか、こんな流れなのかな、と思いました。