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新プラトン派系統の神秘思想とか東洋的神秘思想では、「絶対無」は全ての事物
や現象を発現させる可能性とエネルギーを持った絶対的充実としての「全て」とか
「絶対神」と同一視されている。
「絶対無」は何物でもないがゆえに「全く無制限な存在」であり、即自的に(そ
れ自体で)「存在」そのものに転化する。それは全てを生み出しうる(全てになり
うる)能力を持っており、そのエネルギーの充実が溢れることにより「制限」をも
つ「有限な物事や現象」を生み出す。
最初に生まれるのが、存在(絶対無)自身がおのれを認識することによって生じ
る「叡智」だとされており、その「叡智」はやがて自分自身である「存在」を観察
することによって「観念」もしくは「観念の原型」(イデア)を生み出す。この場
合の観察とは、「諸観念の創造作用」と言ってよいようだ。
この観念の創造の時、叡智はすでに「質量素」ともいうべき「物質の素材」を用
いているようだ。つまり、神秘思想においては「物質」は案外早くから舞台に登場
しているのである。質量素は叡智が生まれた時には存在しているところからみると
、絶対無としての存在そのもの発するエネルギー(原初的光)の欠如部分とか影と
考えられているのかもしれない。
人間の霊魂は観念(イデア)の一種と考える学者もおり、イデアは無時間的(永
遠的)存在だから、この場合人間の霊魂は不滅であるということになる。
三次元物質世界における永遠の時間の流れは、単にイデア界の「無時間としての
永遠」が物質的表現をとるために生じるものにすぎないとされている。
あらゆる事物と現象は何らかの量的・質的制限をもつ有限な存在だからこそ、あ
る事物や現象として存在し、定義されうる。
だから、すべての物事と現象(まとめて全事象と呼ぼう)がどこから生まれてき
たか、もしくはどういう場に存在しているか、または何から作られているのかとい
う問いを発した時に、「制限をまったく持たない何か」だという答えが当然に推定
される。
「制限をまったく持たない何か」というあらゆる定義や性質を拒絶するものは、
「絶対無」以外には考えられないのではないか。質量や大きさを持たず、性質がな
く、色も形もなく、存在する場所も時間もないものは、「絶対無」と呼ぶほかはな
いのではないか。
絶対無は完全で全ての可能性と能力をもつから、制限ある有限存在を生むことも
できるはずである。全事象の存在する場、全事象の根本的材料は「存在」そのもの
としての絶対無であるという推理は、さほど荒唐無稽な発想とは思われない。
また、この発想を簡単に否定してしまうと、世界が存在し自分が今ここに存在し
つつ特定の感情と思考をもち目の前にある特徴を備えた景観が広がっていることが
、ありえないくらいにひどく不自然なことになってしまうだろう。
「空」という概念は、ある事象が他の諸事象がある条件の下で相互関係を持つこ
とにより成立していることをあらわすもので、「無」とは違うと思う。ある特定の
有限な事象がある特定の時空に位置しているかいないかをあらわす普通の表現にお
ける「存在」・「無」は、相対的なありふれた対概念に過ぎず、「存在」そのもの
としての「無」という絶対的な意味の「存在」・「無」とは混同できないものであ
る。
ちなみに、新プラトン派や東洋思想の伝統ではその「一者」としての「絶対無」
は個人が「体験」できるものだとされている。
新プラトン派の哲学は、ヨーロッパ系キリスト教神学の源流であるカトリック神
学に教父アウグスティヌスによってかなり採用・導入されている。
また、仏教や禅・道教といった東洋思想は、新プラトン派と用語法は異なるとは
いえ、実際にはその哲学とかなり近い教理をもともと持っているようだ。