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(回答先: 相対性理論に関する素朴な疑問とありがちな問答 投稿者 狂的電磁波 日時 2003 年 9 月 05 日 18:34:23)
>光は光源の運動にしたがって傾いて進行したりはしません。
>こういう基本的な認識がないから光のベクトル合成なんてわけのわからん誤解をするんです
>よ
ええ、私も光はベクトル合成されるとは思えないのですよ。それをアインシュタインという
人とその信者は光源の運動方向へベクトル合成されると言い張っているので困っているのです
よ。
『アニメーションで見る相対性理論 光時計の遅れ』
http://homepage1.nifty.com/tac-lab/lclock.html
光はこういう進み方はしないでしょう。
光源の垂直運動が「光の進行方向」に変化を与えるという前提も不自然で根拠がないもので
ある。光の進行の速さが光源の進行方向への運動に影響されないのならば、要するにそれは光
は慣性系では進行しないということを推定させ、よって光源の垂直運動にも影響されないと考
えるのが自然である。影響されるというのなら、確固たる証拠と根拠をまず示さねばならない
。
素朴に考えれば、ある物体の進行方向への発射体の運動によってはその物体の速さが加減さ
れないということは、両者の間にはお互いの運動に影響する何らかの形での「衝突」も「連結
」もないということである。光と光源の関係に関して言えば、両者は運動レベルで直接の影響
を与え合うほどに近い構成の存在であるとは思われないし、光は通常の運動物体であるとも思
われない。
光源が光を発射したというのは比喩的表現であって、ある点である方向へ向けてある電磁的
状態を発生させたという方が適切であろう。
アインシュタインは空間ごと移動している場合と光源という物体が移動している場合との区別
ができなかったのではなかろうか。
こうしたことを考慮するなら、光が光源の慣性系に従って進行するということを主張するの
は、よほどの証拠がないかぎりかなり奇抜な仮説にすぎないことがわかる。
>光時計が遅れるなら機械時計も遅れる。これは光の相対論における役割(時間と距離の規定
>)を考えれば分かること。この点で相対論の内部には矛盾は無く、動いている系で機械時計
>が遅れるというのに論理の飛躍は無い。
光速はある慣性系の時空の基準系にとっての相対的なありかたを規定しています。しかし、
光速とは光が一秒間に進む距離ですから、時空によって定義されています。いいですか、光速
を定義する時空は、光速によって相対的なあり方を規定される時空とは同格ではありえません
。基準系でも、どの慣性系でも光速は一定のCであるとしても、Cを定義した時空とCによっ
て規定された時空はその違いだけでも別種扱いしなければならないのです。だからCは、ある
特別な系におけるある基準点に対する光の一秒間の進行距離として扱うのが妥当だと思います
。
しかし、私は相対性理論などデタラメだと思っているので相対性理論における時空の問題な
どどうでもいいのです。もともと「真空中の光の速さは、光源の運動状態に無関係な一定値C
である。」という事実は、「光は大きな物体のように発射源の慣性系を基準に進行はしない、
すなわちいかなる慣性系にも属さない」ということを意味しているからです。
そもそも、速さが一定の光が光源の運動の影響を受けて傾いて進行するということは、速さ
が大きくなるということなのである。常に一定の速さである方向に向かって進んでいるものが
、垂直方向にベクトル合成される場合、当初の方向成分への速さは一定のCのまま、垂直方向
へ慣性速度で滑りながら進んでいるというようになるはずである。
さもなければ、根拠のない性質のベクトル合成になってしまい、はじめから光源方向へ傾い
て進行する理由すら説明できなくなり、現象を科学的に構成できなくなる。
だから、アインシュタインの前提するベクトル合成のあり方は妥当であるが、その場合天井
へはCより大きな速さで進行し静止系の場合と同じ時間できっちりと到達するはずである。ア
インシュタインの言うように、それより時間がかかるというのなら、先に述べたように根拠の
ないベクトル合成になってしまい、はじめから光源が運動する方向へ光が傾いて進行する理由
すらなくなってしまう。そうなれば相対性理論は理論としては存在できない。
(余計に時間がかかった場合には、光源の運動の反対方向にも、光の進行の反対方向にもベ
クトル合成がなければならなくなる。とくに後方へのベクトル合成は光の進行ではありえない
ことになっているから致命的ではないか。)
つまり、光の進行が光源運動とベクトル合成する場合は、上述の理由で速さが光速を超えて
しまうか、相対性理論が理論としては成立しないかのどちらかとなる。
ベクトル合成されずに光速一定で進行する場合とは、光源の運動とは関係なく空間上の発射
点からまっすぐ発射方向へ進行することである。この場合も相対性理論がでてくる出番はない
。
相対性理論の論理構成はやはり恣意的でインチキだ。まず光速一定Cの原則のもとで距離を
延長させてから、それで生じた矛盾を解消するという形で時間の延長が行われるが、時間を基
準系と慣性形で共通に設定すれば、光源運動と無関係に空間上の発射点から直進するか傾いて
速さCで進行するかで、いづれにせよ距離の延長がおきない。
光時計の直角三角形はあまりにも意味不明である。分かりやすく、斜辺Ct・底辺Vt・対
辺1、つまり慣性系での時間を1秒のとき基準系でt秒とする。斜辺のCtと底辺のVtが基
準系の量であるのに、対辺のCが慣性系の量(Cかける向こうの世界の1秒)であるという。
同じ空間で成立した辺の組み合わせでなければ、その空間で直角三角形が形成されることがな
く、ピタゴラスの定理を適用することはできない。あえて対辺の長さを求めれば、Ct(Cか
ける基準形で経過した時間)ではないのか。
しかし、それが他の2辺と同じ空間で接触して1辺と直下をなしていると考えることもでき
ないだろう。そうであれば、直角三角形はやはり成立せずあの式も成立しない。この問題は、
ただ「世の中そうなっている」では済まされないのである。一つの空間内でできちんとした光
速Cによって規定された光の進行の軌跡からなる直角三角形が作れないかぎり、相対性理論は
この世では成立しないものである。