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すみちゃんの『イスラムについて続き(皆様へのレスです)』( http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/1311.html )を受けてのものです。
すみちゃん:「しかしイスラム諸国はなぜ近代工業を発達させることができなかったんでしょう。なんでオイルマネーは中東を素通りし、米国等に還流したのでしょうか?なぜ中東地域に工業を起こすことができなかったのでしょうか?そのあたりの理由が良くわからないのです。中東地域は11、12世紀に世界最大の産業力を持っていたわけですから、なぜそれが現在できないのか、よく理解できないんですよね。イスラム自身に何か問題はないのでしょうか?」
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「近代」に支配を受けるようになった後のオイル・マネーの問題はともかく、イスラムはなぜ「近代世界」で大きく遅れをとったのかという問いは、西欧近代史観に縛られずにイスラム帝国の歴史を知るものにとってそそられるはずです。
(中東地域が世界最大の産業力を誇っていたことはないと思っています。神学・哲学・化学・医学・数学・農業技術・建築・航海関連などは高いレベルにありましたが、「近代」以前で大きな産業力を誇っていたのは中国とインドです。中東のイスラム商人は、インド・中国・東南アジア・アラビア・アフリカ・ヨーロッパをつなぐ陸海の商業活動で活躍していました)
イスラム世界がなぜ「近代」に乗り切れずに凋落していったのかという問いに対する一つの答えが、昨年春に刊行された小室直樹氏の『日本人のためのイスラム言論』(集英社インターナショナル刊・1,600円)で示されています。
(小室氏という思考力に優れた「近代精神」が捉えたイスラム論で、推奨したい書籍です。★イスラムこそ「宗教のお手本」★民族虐殺を許すキリスト教の論理★イスラムこそ「平和の教え」★アラブこそ、欧米文明の母などを切り口としてイスラム論が展開されています。欧米の政治的フィルターを通してしかイスラムを見ていない近代主義者に是非とも読んでもらいたいイスラム論ですね)
マックス・ウェーバー−大塚久雄学徒を自称されている小室氏の論述ということで想像できるように、「プロテスタンティズムの倫理」が醸成される余地がないイスラムから資本主義の精神が生まれ出ることはないという説明になっています。
同書より:「さらにイスラム教では「人間はすべて平等である」という思想が徹底している。これもまた驚くべき思想である。西欧社会が平等の観念にたどりつくのは、マホメットよりも一〇〇〇年近く後のことなのだ。こうしたことを考え合わせるとき、マホメットはまさに空前絶後の大宗教家であっとと思わざるをえない。だが、イスラムが他に冠絶した宗教であったことが、まさに今日のイスラム世界の苦悩を生み出しているのである。この矛盾を如何せん。ひたひたと押し寄せる欧米キリスト教国の影響をはじき返し、十字軍コンプレックスを解消するためには、イスラム諸国の近代化は避けて通れない。だが、その近代化を行う最大の障碍となるのが、他ならぬイスラム教なのである。すでに述べたように、宿命論を掲げるイスラム教からは、行動的禁欲(aktive Askese)は生まれっこないう。イスラム教の禁欲とは断食の類であるから、この点で日本の禁欲と同じである。行動的禁欲がなければ、天職(ベルーフ)とそれが結びつき、「労働が救済である」という思想を生じることもありえない。よって、資本主義の精神などが生まれるべくもないのである。また、イスラムでは利子・利潤の正当化もありえない。」(P.432)
十字軍コンプレックスという捉え方もさることながら、最後の「イスラムでは利子・利潤の正当化もありえない」は、商業共同体から生まれたイスラムが適正な利潤(儲け)を否定することはありませんから思い違いで、「イスラムでは利子の正当化もありえない」が正当でしょう。
(1年前に読んだ本なので具体的には指摘できませんが、私でもおかしいとわかるイスラムの教義に関する誤解がけっこうあります。それでも、近代主義者のイスラム論として読むに値するものだと思っています)
そして、小室氏は「以上のことから明らかなように、もし、近代化を徹底しようと思えば、イスラム教そのものを捨て去るしかない。」(P.433)と結論付けています。
ウェーバー的説明部分はともかく、「近代化を徹底しようと思えば、イスラム教そのものを捨て去るしかない」という結論部分は正鵠を射ていると思います。
小室氏の説明部分は、従来の私の主張に照らしてもらえば、もっともらしい解説を超えるものではないということがおわかりいただけると思います。
「天職(ベルーフ)とそれが結びつき、「労働が救済である」という思想」で刻苦奮闘し、利潤を浪費せずに設備投資に回しても、“貨幣供給量=需要財量”という資本の論理を突破して企業家全体が利潤を獲得するためには、外部共同体への輸出の増大を通じて外部共同体から貨幣的富を手に入れるしかありません。
「近代」=資本主義を成立させるためには、内なる共同体を解体するだけではなく、外なる外なる共同体を崩壊させることをためらわない価値観が必須となります。
原始的蓄積の問題はとりあえず脇に置くと、内なる共同体の需要を超える財の生産を達成し、それを資本主義的利益として結実させるためには、外部共同体にそれを引き受けてもらうしかありません。
そしてそれは、対象となった外部共同体の崩壊を招く所業です。
だからこそ、帝国主義時代というか植民地拡大時代は、砲艦外交と市場維持のための苛烈な支配を必要としたのです。
「近代」は、膨大に積み上げた貨幣的富を原資として、内なる共同体の構成員を外部に販売(輸出)するための財を生産する手段(賃金労働者)に解体し、その成果である財を外部の共同体に無理強いでも売り込むという循環システムを成立条件としています。
内と外の共同体の破壊なくして「近代」は成立せず、内的恒常条件として供給=需要が最良ですから、外の共同体がどうなろうとかまわないというかたちで輸出を達成しない限り利潤を得ることができません。
このような循環が順調に続かない限り、近代産業の発展は達成できません。
(現在の日本のように。米国に年間10兆円を超える“援助金”を供出するかたち(ドル買い為替介入)で輸出を維持する政策は考察の外です。日本の対米黒字額(7兆円ほど)以上の“援助金”ですから大笑いです)
イスラムの共同体性原理が、このような論理を孕む「近代」=産業力の近代的発展を志向したり許すと考えることはできません。
イスラム共同体構成員相互の関係性をそのとき限りの貨幣媒介的なものに還元してしまい、自分が所属する地域共同体の利益を拡大するために他の地域共同体の破壊をいとわないという選択を採ったなら、その時点でイスラムは放棄された(消滅した)と判断してもいいはずです。
(前近代の交易は、余剰・不足生産物及び奢侈品をめぐるもので、共同体の存続形態を壊してまで余剰生産物を売り込むものではなかったという押さえは重要です)
また、日本の場合は、財的条件の向上を主要な国家的価値観に収斂させることで、現在のような生活形態や経済システムを是とする(やむをえないものと考える)状況になっていますが、富への執着を悪魔の誘惑とするイスラムの原理が、特定者の富をさらに増大させるために、多くの他者を道具化したり外部共同体を疲弊させるような仕組みを許容するとは考えられません。
もちろん、現時点で、イスラム世界の人たちがこのような自覚をもって「近代」を忌避していると主張するつもりはありません。
イスラム世界は、「近代」が中東やイスラム世界にもたらした災厄を受け止めるのに精一杯で、「近代」に対する根底的な批判まで進んでいないと思っています。
また、第二次世界大戦まで植民地的支配を受け戦後も経済的支配を受けているイスラム世界が、それなりのお金があるからといっても、先進国に伍して産業競争を展開していくのは困難です。
(近代化に成功していると言われているアジア地域も、日本を除けば、外資導入に依存しながら(自国民の活動力を安く売ったり内政にそれなりの差配を受けながら)得た成果です。戦後日本でさえ、米国の貸し出し(融資)・技術移転・輸入受け入れがなければ、今日の姿はなかったはずです。それは、米国(世界経済支配層)に魂を売ることで勝ち得た成果なのです。経済制裁を受けたイラン・イラク・リビアの窮状を考えればわかるように、イスラム世界が産業競争力を確立するためには、今以上の反イスラム政策=世界経済支配層迎合政策を採らなければなりません)
さらに言えば、「近代」は、中央銀行を始源(頂点)とする詐欺的金融制度を基礎としている経済システムです。
「近代」は、無から有を生み出す錬金術でつくり上げた貨幣を貸し出すことで膨大な利息を取得するというとんでもない仕組みを駆動力をして発展してきました。
(これまでも書いてきましたが、もっともらしい金本位制も詐欺ですし、管理通貨制にいたっては盗みそのものです)
近代人は「近代金融制度」を当たり前のように受け止めてしまっていますが、保有貨幣を貸し出して利息を取得することすら禁止しているイスラムの原理が「近代金融制度」を見れば、悪魔の所業としか受け止められないはずです。
成功した近代国家の人たちも、現在進行形の行き詰まりを切実に感じるなかで、イスラムが「近代」を受け入れないわけを知ることになると思っています。