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(回答先: 「感応に内在する官能性の孕むやもしれぬ悪魔性」と「覚有情」 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 8 月 31 日 12:13:28)
マルハナバチさん、こんにちは。
自身の刹那もいつ止まるかも知れない時間性を意識し、またマルハナバチさんの3ヶ月後くらいからの“蠢動”を期して「覚有情」を少し語っておきたいと考えます。
<「覚有情」について>
およそ1年半前にこのサイトに出遭い、その口上から「阿修羅」=「覚有情」と直観しました。すなわち、阿修羅の道は覚有情へ繋がるものなのだと感じたのです。暫らくの間ロムしながら、そこに値するものが自分にあるとしたらそれは何かという自問を繰り返し、漸く見い出したのが己自身もやはり覚有情を希求しているといった自覚でした。
「覚有情」は先ず、覚醒せる生物つまり身体性を有する人間を表し、さらに俗界に身をおいての悟れる生命(体)あるいは悟りを指向する存在を示します。古くは悟りすなわち菩薩への道は縁覚と声聞のニ道があると云われましたが、現在では聖俗の区別を措かず何れも生命(体)の悟りの道であるといった認識に決着していると思われます。
おそらく私が語ることの多くがここに集う人達の心情を代弁しているに過ぎぬのでしょうし、また阿修羅の道では集う者が織りなし創る関係性によって悟りに導かれるものと考えています。それが、「縁あって覚る」の縁覚の極致であるのでしょう。
同心円的な展開を示していくと見えても、中心がなかなか顕在化しては来ない摩訶不思議な運動体が阿修羅であると感じます。それは、イデオロギッシュな対立や感性のうねりまでも取り込み反芻してしまうような奇天烈な運動をするものかも知れません。何れにせよ、阿修羅(=仏法を護る軍神)が目指す道は単純な道程ではないでしょう。
「覚有情」のもう一つの相は阿修羅に重なるものとして、唯一人間の隠れた側面に抗う可能性を包蔵していることでしょう。己に潜む悪魔性と切り結びつつ、修行に励んでいくというのが「覚有情」の本来の姿であろうと想像しています。
その最中であっしらさんというFunctionもしくはParameterを措定するならば、おそらく(∞+あっしら)になるのではと考えたわけなのです。そして、(∞×あっしら)ではなく(∞+あっしら)としたのは、あっしらさんは拠るべきContextや同心円の核と見做されることを忌避されるであろうし、阿修羅に集う無限大の素子の力ならば氏が随伴するだけで事足りると思量したからに外なりません。
ところで、これまでに皆さんが眺望されているように、遠くない末来に人間家畜牧場といったものが現出するかも知れません。自身を家畜と覚って生きることも、無頓着に生きることも、どちらも可能だとしたとき、一体人々は何を選択するでしょうか。少なくとも悟って生きようと決意するのが阿修羅に集う人々であると想います。やがてその人達のそれぞれが「覚有情」と呼ばれると確信しています。
それでも、それをも超える投企の発見があるとしたら、必ずや素晴らしいことが待ち構えていると想像しています。
また、会いましょう。