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(回答先: ズレたレスですが... 投稿者 あっしら 日時 2003 年 8 月 30 日 20:26:14)
あっしらさん、こんにちは。お久しぶりです。ご回答ありがとうございます。
阿修羅屈指の論客への対応に大へん嬉しくもありますが、手元の文献の洗いざしにおおわらわで、あっしらさんの仔細にわたる回答にも拘わらず、簡単なレスになりましたことをお詫びいたします。
>「人類がそれぞれの運命(歴史過程)が相違するという理由によって、地球という Matrix において引き受けるべき宿命を分別することなどできない」という志向よりも、私(個)の絶対的な独立性と差異性を宿命として引き受け、私−他者関係性が持つ統合性や主体的改変力に自己を投じるという方向に魅力を感じます。(平等(世界)性よりも差異(地域)性にこだわることで“Driving force”が生まれると直観しています)
少し遡って、貫かれているだろうメルロ・ポンティの視座から類推するとあっしらさんが後段を導き出されることを予想できました。それでも、「“Driving force”が生まれると直観」の直観を拡大するとどうのような展望が可能か、それが知りたいところですが、「(∞+あっしら)」で仮説・検証を重ねていくとなのかも知れません。
>如往さんはご自身の論にナショナリストから非難されると書かれていますが、国家からさらに外に向かうのではなく、国家の内側の地域や家族そして個に向かうという私の論はそれこそ狭隘な反動派であり古臭い道徳主義者と謗られるものでしょう。
狭隘でも反動派でもないとの印象ですが、それではやがて煮詰まってしまうのではと懸念されるのです。結局は他地域ないしは国家と遭遇するとになって折り合いをつけていかなければならないのならば、地域が伸張していく過程での他者との共立関係維持を予め眺望しておかなければならないと想いますが、誰がどのように進めていくべきでしょうか。(これは自身に向けて発している問いでもあります。)
>如往さんが書かれた意図とはズレたものになりますが、ロマン・ロランから展開された「私が人間に生まれたのは一つの宿命である。しかし日本人に生まれたのはある種運命に過ぎない。」という言説から、“人間として生まれた一つの存在が私になる過程”という逆方向の問題意識を触発されました。
身体性という媒介項を他所におけば、ハイデガー実存主義のインテグレーションの位相を叙述していると思います。
また、下記の“私”は、時間性においておそらく神と同様に未だ立ち現われない、あるいは立ち現われるはずものない“私”の在り様を示すものと理解したいと考えています。
>自己と他者をともに主体の構成者であると考えるならば、他者は、客体であったり対峙すべき対象としてではなく、“同一性”や相互依存性を有するものとして見えると思われます。(社会なのか共同体なのかという生存基盤の差異がもたらす違いであり、精神の発達性とは無関係です。また、共同体的意識が「甘え」だとも言えないと思っています)
日本人論に限って言えば、「甘え」の淵源に関する考察は自分のテーマであると捉えています。派生的には歴史的・受動的に獲得した「二項併存」の思考土壌とその影響を握捉することと、さらに「甘え」を超克していくための施策として「二項対立」の統御までを包摂すると見ています。要するに「近代」の相対化のプロセスを確実に踏んでいくというのが、日本人にとっての古くて新しい中心課題であるとの認識です。
また、会いましょう。