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(回答先: 理知的に神を捉えようとすること 投稿者 オリハル 日時 2003 年 8 月 23 日 01:09:26)
この日本にはもともとそういった"宗教"という概念は仏教が流入してくるまではなかった。
仏教がきてからおかしなものとなった。
神道の元になった、神の教えのまにまに・・という"カンナガラのミチ"というものも、やはり敢えてそう呼び名をつけているものである。
本来は宗教というものは必要としない。
宗教を信じず、人はただ、"カミ"を信じれば良いのである。
神が一番上、その下に仏、そして一番下が人である。
人とは己のこと。
神を敬い、先祖を敬い、人に良くし、己に厳しくす。そういう人間は神から好かれる。
神の世界のように楽観的に、ただ物事にぶつかっていけばいいのである。
成る事は成るし、成らぬ事は成らぬようにしてある。
親、年輩者はもちろん生まれて来る子供も輪廻し転生した自分の先祖である。
すなわち自分は一番したに置くべきものである事を知ることである。
そうすれば決して驕る事無く、油断もせず、皆がそうであればそこに譲り合いが生まれる。
譲り合いあるところにいざこざは起きない。
自分が、自分のところが一番だ、とするものは反宗教的であり、見破るのは簡単だ。正しい事というものは勧誘など必要としないし去る者を追い掛けたりもしない。また当然ながら正しい所は税金もきちんと治めている。未だ宗教に恐れ迷うものは良い判断材料と成るだろう。
宗教とするものなら以上の事はなにひとつ欠けてはいない。当然であろう。
人には誰にでも生まれながらに善の心というものがある。それを「法性(ほっしょう)」という。
神を信じて生きるとは、「法性」に磨きをかけ、それを如何に穢さないか。
生命の呼吸に見るように人は清め続けなければ生きていけないもの。
すれば自ずと生きるに必要無い欲は棄てて行くべき事を知る。
まずは対立しない、不和を求めない。
それすら出来ぬ者、神とは何か、認識し得る一切の事、身になし。