現在地 HOME > 掲示板 > 不安と不健康5 > 259.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: Re: 【ついに偉業達成!】 ウナギの稚魚育てることに成功 養殖研、完全養殖に道 [朝日]:これが本当に素晴らしいことなのか、七つの疑問です。 投稿者 七つの疑問 日時 2003 年 7 月 15 日 20:25:21)
七つの疑問さん、こんばんわ。
七つの疑問さんの七つの疑問は、この研究成果を否定するものではなく、補足として今後の課題を提示されたのだと受け止めました。よって私に回答を期待するものではないと考えましたが、やはり一通り私自身の考えを書いておこうと思います。
七つの疑問さんが指摘されていることは、基本的にどれも従来から存在する問題で、今回の実験成功によって新たに生じた問題ではありません。ただこの研究成果によって「大量養殖」が実現し、その従来の問題が拡大するということへの懸念というふうに私は捉えました。
そういうことであれば、ご指摘のほとんどの点に共感します。この研究の位置付けについて多少評価が異なりますが、それは現状認識の違いからくるものだと感じます。ですから七つの疑問一つひとつについて反論するような形をとらず、私なりの一連の文章の中で順序にこだわらず、ご指摘された全ての疑問点に触れて行きたいと思います。
この記事に対する別のレスに、参考として1999年に放送された、たけしの万物創世記「ウナギ」の要点を書き起こしておきましたが、
http://www.asyura.com/0306/health5/msg/243.html
この番組作りの姿勢も、自然環境の改善と天然ウナギの個体数回復が最も重要だというものでした。今回の研究の成功は、まさにそのためにこそ必要だったのです。養殖産業のためだけではありません。その点を中心に書いてみたいと思います。
ちなみに「完全養殖」という用語はなんとなく「完全監視体制」というような窮屈な印象を受けますが、「卵から親までの養殖」という意味です。つまり飼育実験で途切れていた成長プロセスが繋がって完全になったというだけのことです。「分かってるよ」と言われそうですが、言葉とはイメージが先行するものなので(私だけ?)、あえて指摘しておきます。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アリストテレスのウナギ自然発生説をはじめ、ウナギの生態は長い間の謎でした。アリストテレスはウナギの特殊性に注目し、観察と解剖によって研究してみた結果、ウナギは交尾によって生まれるのでも,卵から生じるのでもないことは明らかであるとし、湿った土の中のミミズから発生するのだと結論しています。この結論はともかく、これほど古い時代から生態学が確立され、その関心がウナギに向けられていたわけです。そしてその後の多くの研究者たちによっても、長い歴史上でいっこうに解明できなかった経緯がありました。近年まで解明が非常に困難だったわけは、やはりウナギの繁殖地が遠く南方の海域にあって大回遊を行なっているからでした。
現代の地質学や地球流体力学などの成熟によってもたらされた発想と、進歩した観測技術があってはじめてウナギの大回遊を解明することが可能になりました。1973年から行なわれた太平洋上でウナギの稚魚のサンプルを採取し、最も若い稚魚が多く存在する海域から繁殖地を割り出すという地道な作業は、膨大な時間と労力を必要としました。1991年に繁殖地がマリアナ諸島西の海山であるとほぼ特定された後も、人工孵化を成功させその仔魚をシラスウナギにまで育て上げるのは、各段階で困難を極めました。その難しさゆえに成功すればノーベル賞ものだと広く囁かれていました(私はノーベル賞信奉者ではありませんが)。
この研究成果の意義を考える前に、まずこうした研究者の困難を克服する知恵と執念、そして弛まぬ努力はそれだけで賞賛に価すると思います。この研究の中心人物は水産総合研究センター養殖研究所主任研究官である田中秀樹さんで、「彼でなければできなかっただろう」と周囲の人々が語ったと言われるように、彼の10年あまりにわたる集中的な飼育実験への取組みによって、最終的に成功に到達したのは間違いなさそうですが、その背後には海洋調査や各段階でウナギ研究に携わってきた多くの人々の30年間にわたる蓄積がありました。それら全てを含めて純粋に技術研究として歴史的偉業と言えるのではないでしょうか。
次にこの研究成果の意義、つまりこのことが日本人をはじめ人類に良い結果をもたらすのか、自然環境や生物の生態を人間の手でコントロールすることは様々な弊害をもたらすことになり、偉業とは言えないのではないかという問題ですが、これは新しい理論や技術が確立されると必ず付きまとう問題で、基本的に研究者の業績とは別の、その理論や技術を実践する者(政府や企業または個人)の行動に依存するので、各自の良識に従うと同時に政府による一定の規制を設ける必要があると思います。しかし往々にして政府や自治体は腰が重く、利権で動く傾向があるので、そのような問題点は慎重論者が社会に警鐘を発していかなくてはならないでしょう。
ただ卵から稚魚への飼育技術は、ほかの魚ではすでに確立されていることです。ウナギの場合にそれが非常に困難で遅れていたに過ぎません。またこの実験の成功が新たな問題を引き起こすのではなく、あるとすれば従来から養殖業に存在する問題の拡大です。そういう意味では私も手放しで喜んでいるわけではありませんが、今回の成功は素晴らしいことだと思っています。ここからが本題になりますが、この問題の是非を議論するにあたって、我々人間社会や地球環境が今どのような段階に来てしまっているのかということが重要です。それによって「ウナギの完全養殖が可能になった」ということの位置付けがまるで変わってきます。現状認識こそ最も重要で、議論の出発点です。
ウナギに限らずタラ・マグロ・アユなどが激減しているという記事が最近阿修羅サイトで投稿されていましたが、漁獲量の減少とそれによって推測される実際的な個体数の減少は多くの魚に共通してすでに深刻なレベルに達していると思われます。そこでそれらの記事をよく読んで見ると、各国政府や漁業関係者たちは何もしていない訳ではなく環境改善や漁獲量制限など程度の策をすでに講じているようです。しかしここまで状況が悪化するともはや追いつかず、なかなか改善が見られないそうです。
全国的に昔のような魚が住める環境を取り戻すには、上流域の山の植林から初め、非常にトータルな事業になるので、ある特定の人物や団体の偉業として達成できることではありません(政府や自治体の偉業として将来達成して欲しいですが)。よほど莫大な予算をかけて政府が環境改善に取り組んだとしても、長い年月が掛かる間に魚のほうが先に絶滅してしまうでしょう。もちろん政府は予算を割き、具体的な期間計画を設定して環境改善に取り組むべきですが、ここまで来てしまった以上、希少生物や激減が報告されている生物をそれまで存続させておくことを考えなくてはなりません。
戦後トキが十数羽となったとき、人間の手で飼育するべきかどうかという議論がずっと続き、いよいよ最後の5羽になって捕獲され、トキ保護センターで増殖のために飼育されると決まったときも賛否両論がありました。一方はトキの生態から飼育下の繁殖は無理だといい、他方は今や自然状態での繁殖は危険が多すぎる主張しました。いずれにしろ手遅れでした。飼育技術を確立するためには、もっと個体数が多いうちに実際に飼育経験が必要だったのです。「野生の状態でいさせてあげたほうがトキとしては幸せではないか、人間の手で飼育し、増殖を図ることはエゴではないか」という意見が当時ありましたが、絶滅してゆく生物を人の手で存続させるのは人間のエゴだと言えるでしょうか?
確かにエゴの一種かもしれませんが、エゴはその時点で始まったのではなく、環境破壊によって野生生物を激減に追い込んだこと自体がそもそも人間のエゴの結果であり、そこまで生物の生態に(無意識にしても)関与しておいてそのまま放置することはエゴの継続であり、そこで意識的に関与して絶滅を回避することはむしろエゴを打ち消す努力と考えられないでしょうか?今やサケやアユなどについても、河川環境の改善を図るほかに、減少した個体数を増加させるため、かなり前から人工孵化による稚魚放流を行なっています。それほど深刻なら食べなければいいとも思いますが、せめて捕獲した分かそれ以上は放流しなければ減る一方だということでしょう。
ウナギに関してはそのような研究が遅れており、やっと追いついてきたという状況です。後戻りできない絶滅の危機となる前に、ニホンウナギを卵から成魚に育てる技術を確立することが出来たわけですが、数年前まではその確証さえありませんでした。同じ回遊魚でもウナギはサケとは逆で普段は河川に生息し、遥か南の深海を繁殖地としています。そのため生態の解明が困難だったと同時に、減ってしまった個体数を増やすために稚魚を放流するという手段の有効性に疑問があります。ウナギの幼生レプトケファルスを南の洋上に放流して、果たして日本まで泳ぎ着くのか?サケの稚魚を川に放つのと比べ不確実極まりないでしょう。また人工的にシラスウナギの段階まで育てて、河口付近に放流した場合、稚魚たちは本能的に日本の川の上流へと遡上してゆくのか?そして約8〜12年後にマリアナ諸島沖を目指すだろうか?という疑問があります。
そこでいまのところ天然ウナギの個体数を増やす現実的な方法は、我々が沿岸部で天然のシラスウナギを獲ることを一切停止し、人工孵化によるシラスウナギから養殖されたウナギを食べることにする。そして環境改善を図りながら個体数の自然回復を待つ、ということです。サケは成魚までの養殖に適さないが、稚魚の放流にはある程度の確実性が見込める。ウナギは放流に確実性が見込めないが、成魚までの養殖に適している。それぞれの魚によって対応策が変ってくるのは特性の違いからくる宿命と言えるでしょう。いずれにしても魚たちがすでに激減しており、環境を改善するだけでは追いつかないのが現状です。
もうひとつの現状認識は、我々が科学技術と生命倫理の問題で、すでにどこまで来てしまっているかということです。もはや遺伝子組み替えやクローン技術の食物への応用が行なわれている時代です。遺伝子を操作して人間にとって都合よい自然界に無い生物を創り出す…このような禁断の領域にすでに踏み込んでいる現状を考えれば、ウナギの完全養殖はむしろ非常に保守的で、今回の研究も時間と手間を惜しまず、調査と観察という伝統的な手法に徹したものでした。人工孵化にあたりオスとメスの親ウナギに、それぞれヒトとサメのホルモンを投与しますが、それは不妊治療のようなものです。生まれてきた仔魚の飼育にはもっぱら塩分濃度や水温調節、そしてエサの工夫によって仔魚の最長生存記録を伸ばしていったようです。
つまりウナギの完全養殖は遺伝子操作で問題解決するという方向性に対抗する伝統的手法の健在ぶりを示したのであり、新しい技術でありながらも古い価値観の再確認だといえます。水産総合研究センター養殖研究所には繁殖部のほかに遺伝育種部、栄養代謝部、飼育環境技術部、病理部、日光支所があります(最近組織改変されましたがここではあえて以前のまま取り上げます)。その中で「遺伝育種部細胞工学研究室」では実際に魚類の遺伝子操作実験や遺伝的に均一なクローン魚の作出技術を開発したりしているので、これに関しては私もかなり警戒感をもっています。一方で「飼育環境技術部」では環境に優しい飼料と給餌方法の開発を課題とし、「飼育環境技術部」では資源浪費・環境消耗型から環境保全型養殖業への転換を目指して研究を進めているようです。
同じ研究所内でも様々な研究が同時に進行しているのでそれを個別に評価しなければなりません。ただ個別の研究が別の研究からヒントを得たり、手法を応用したりすることはあり得るわけで、例えば遺伝子解明が魚の生態調査に役立ち、環境保護に貢献する場合もあるでしょう。現代のような複雑深刻化した地球規模の環境破壊を改善するためには、新鋭の科学的アプローチが不可欠です。しかし裏を返せば先進の生命科学に突き進み、技術研究において功名栄達や国際競争が過熱すると将来とんでもない弊害を生むという惧れを常に我々は抱え込んでいる時代にいるわけです。ウナギの卵からの稚魚育成は、それ自体が大きな弊害を生むとは思えません。問題は従来からの養殖業における薬品使用などにあるわけです。
最近、中国産の輸入加工ウナギの一部から基準値を超える合成抗菌剤が検出されたというニュースがありました。また中国産のウナギに限らず、世界中の養殖魚、そしてブタ・ウシ・トリなどの畜産業すべてに抗生物質や成長ホルモン、抗菌剤使用が蔓延しています。これは摂食者の体内に蓄積され健康に異常をきたす惧れがあると同時に耐性菌増加の温床となっています。ある養鶏業者が抗生物質や成長ホルモンを全く使わない飼育法を実践したところ、初めのうちはヒヨコがバタバタと死んで行くそうです。その中から生き残って成長した鶏を繁殖させることを繰り返し、安定させるまでにはかなりの努力とコストが掛かったとか。ここまでやる決意と実践が無くてはこの問題は解決しないかもしれません。
養殖・畜産業の薬物乱用を押えるには、政府の指導と、生産者の意識、コストを負担する消費者の価値観の変化が必要で、そのことへの諦めから、ウナギの完全養殖技術が確立しないほうが良かったとは思えません。シラスウナギから成魚までの養殖の段階で有害薬物が使用されれば、またこの研究がそれを助長する結果となるならば研究者にとって不本意というものでしょう。確立された技術を今後どう活用するかは、養殖業者をはじめ社会全体にかかっています。そうした中、近年では養殖魚の病気予防にワクチンを使用する方法が広まっています。前出の水産総合研究センターでは以前では「病理部」、現在では「病害防除部」において水産用ワクチンの開発を進め、すでに実用化され成果を上げています。養殖魚の感染症は魚の種類によって原因の細菌やウィルスがほとんど解明されており、それほど新種が頻繁に発生するわけでもないので、飼育環境が良好であればワクチンによる予防で対処できます。
水産用ワクチンとは、魚に経口投与又は接種することにより魚の体内に免疫ができ魚をウィルスや感染症から守るしくみであり、病気を予防するとともに、防御効果の持続が長く、残留物質の心配もないことから、安全性の高い魚を生産することができます。薬事法に基づく国の承認、検定等各種の制度により、品質、有効性及び安全性が保証されています(だからといって盲信は出来ませんが)。そして都道府県の水産試験場、家畜保健衛生所等が指導を行なっており、使用に先だって、指導機関に連絡し、水産用ワクチン使用の指導を受けるとともに、指導書の交付を受けて必要量を購入します。水産用ワクチンは安全性の面で大きなメリットがありますが、あくまでワクチンなので対象となる病気以外のものには効きません。また病気の発生時期を踏まえあらかじめ投与する必要があります。未知の疾病が発生した場合は研究所などが緊急に病原体の解析を行い、それに対応するワクチンを開発するという体制をとる必要があります。
近年の輸入加工うなぎへの依存は、中国などとの生産コストの格差ばかりが注目されがちですが、根本的な原因はこの東アジア地域全体のシラスウナギの減少です(もちろんそれにより価格も上昇)。中国などではヨーロッパ種のシラスウナギを輸入して養殖しているわけです。卵からシラスウナギまでの育成が実現したことで、日本において安定的にシラスウナギが供給できる体勢が整えば、シラスウナギの価格も下がり、衰退気味の国内のウナギ養殖が活力を取り戻します。上記の水産用ワクチンによる病害防除法を利用するなどして安全性の高いウナギを生産することが可能になるわけです。あとは消費者が価格差をどう判断するかですが、品質と安全性を加味すれば、国産うなぎはかなり競争力の回復も見込めると思います。
ちなみにワクチンについては発想自体に限界があるという指摘もありますが、どんな方法にも限界はあり、精度を上げる運用法の指導が必要です。またワクチンの原材料の点では、有害な化学的合成物質使用を見直すなどの品質向上の研究が続けられています。また生物由来製品の使用に関しては不特定多数の生物から採取した組織・血液等を用いて製品化するため、製品ごとに個々のドナーの影響を受けやすいということになるので、原材料採取段階及び製造段階における品質、安全性の徹底管理を行なう必要があります。現在すでにワクチンによる防疫体系は養殖・畜産業で主流となりつつあります。
これでも養殖魚が信用できないという方もいるでしょう。では天然魚は安全かというとこれも汚染拡大の問題が指摘されています。最近のニュースで「メカジキなど7種類、胎児に悪影響」とあるようにメカジキ・キンメダイやサメ・鯨類など、特に大型の魚は生物濃縮によって体内に高濃度の水銀を含んでいるそうです(妊娠している可能性のある者…メカジキ・キンメダイ週に二回以下、一回60g〜80gが望ましい、とのこと)。別の記事ではマグロ類もそれに近い数値を示していると伝えています。では小型の魚はどうかというとダイオキシン濃度はアジやアナゴなど近海の魚ほど高く、またタチウオやイワシ、天然ウナギなど脂身が多い魚ほど同じく濃度が高い傾向にあるそうです。
野菜はどうでしょうか?まずダイオキシンに関しては野菜も家畜も同様に免れず、野菜は魚介類よりは濃度が低めですが、食べる頻度を考えると油断できません。そして基本的なものとして化学肥料、除草剤、害虫防除剤の使用があります。ある有機農家の方の話では10日も田を見ないと様変わりして見えるほど雑草が伸びるそうで、除草剤を使わない場合の方法は、米糠を撒いたりカモによる除草の他はマメな手作業しかないとのこと。有機農業はコストと労力が掛かり今のところ少数です。微生物を利用したEM農法とか人畜無害の除草剤など新しい研究も聞かれますが、有効な研究が進み広く活用されることを期待したいところです。
そのほか遺伝子操作がもっとも実用化されているのが農業です。遺伝子組み替え野菜はすでに多種多様なものが出回っています。そしてあまり話題になりませんが、かなり前から野菜や果物の形が揃い過ぎていることに気付きます。これは品種改良の成果のみではなく、ほぼ日本全国で同じ種から野菜が作られているからです。これはF1(first filial hybrid)と呼ばれ、雑種第一代という交配種のことですが、優性1代ですから、採れたF1の種で次の野菜を作るとどうなるかわからない。そこで生産者は毎年種苗屋さんからF1の種を買うことになります。このことによる人体への害は特に指摘されていませんが、自然の摂理から随分とかけ離れたことのように思われます。
地球上でエントロピーを増大させる根源は人口増加にあると思いますが、平成12年版科学技術白書によると世界の人口は2025年には78億人、2050年には89億人に達すると予想されています。発展途上国の事情と高齢化社会の労働力減少の弊害を考えると急激な人口抑制は望めません。エネルギー問題と食糧問題が深刻な課題ですが、エントロピーを極力増大させないためには、新世代エネルギーの開発、産業の効率化、リサイクルの徹底などの方策が有効かと思いますが、養殖技術の発展は将来の食糧問題に基本的に大きく貢献すると思います。つまり一種の産業の効率化ですが、この効率化の意味を履き違えて人体に有害な薬物を使用し続けたり、また外部環境との循環に淀みを生むようなシステムでは逆にエントロピーは増大してしまうでしょう。前出の「資源浪費・環境消耗型から環境保全型養殖業」への転換が必要です。
菜食主義についてですが、私個人の意見としては、栄養面からいえば、基本的に菜食中心で少量の肉や魚を摂ることかベストだと思っています。生き物の殺生を回避する立場の菜食主義については、その考え方を尊重し一部の方々がそのような思想を実践することは意義のあることだと思いますが、広く一般化することは難しいと思われますし私自身は、自然界に肉食動物が存在することから、生命維持のために人間が他の動物を食べることは、その行為自体は自然の摂理に反しないと思います。ただ大量生産と商業主義によって例えば売れ残った食糧を腐らせたり捨てたりした時点で、無駄な殺生をしたということで生命倫理に触れることになります。また贅沢や飽食によって、生命維持に必要な栄養摂取量を過度に超える分もこれに該当すると言えるかも知れません。そういう意味では現代の日本人の食生活には大いに見直すべき点があるでしょう。
養殖とは他の生物を完全な管理化に置く事。これは人間の傲慢では?という考え方については、気持ちは分かりますが、それを言い出すとあらゆる畜産業とペット飼育・動物園(水族館)・職業犬などを否定することになり、歴史的にもウナギ養殖は江戸時代まで遡り、また畜産は有史以前まで遡って否定しなくてはなりません。動物を家畜として飼うことにより人類は狩猟生活から脱却することできました。また今でこそ農家と畜産業は分業されていますが、農耕は畜産と切っても切れない関係で発展してきました。トラクターが無い時代、牛や馬は農耕の貴重な労働力でした。糞は堆肥として利用されました。そしてなにより農耕は天候に左右されるので、大凶作の保険的意味でも家畜を飼い、肉や卵・乳製品を確保できる態勢をとってきたのです。
そして人口増加と社会の発展にしたがって産業が分業され、現在のような大規模飼育が行なわれるようになりました。私はそれ自体が人間の傲慢とは思いませんが、結果的に食料となるからといって、どんな育て方をしても良いとは思えません。家畜や養殖魚に対する動物虐待もありうるでしょう。明確な暴力的行為を行なわないまでも、例えば大規模養鶏場で何万羽というニワトリが、身動きもままならないほど狭く区切られた檻に閉じ込められ、前にはエサのライン、後ろには生んだ卵の取り出し口という状況で大量飼育されているのを見ると、まったくこれは人間の傲慢だと感じます。ニワトリも生活環境によって強くストレスを感じるので当然不健康になります。そこで抗生物質などをエサに混ぜて対処する。これが流通業界の低価格化競争の舞台裏です。別の地鶏農家では、毎日広い庭に鶏たちを放つそうですが、質の良い卵や鶏肉が生産できる代わりに売値も高くなっています。
フランスのフォアグラ工場の様子をテレビで見たときは絶句しました。天井からガソリンスタンドの給油ノズルのようなものがぶら下がっていて、飼育員が番号札のついたアヒルたちの首を引っつかみ、ノズルを咽喉の奥深く差し込んで一定量の流動飼料を強制的に食道へ詰め込んでいました。もちろん早期に肝臓を肥大させるためです。このような飼育法を効率化と呼ぶならば、それは文明の進歩ではなく頽廃だと思えてきます。そういう意味では、ウナギの立場にたった「養殖などされて果たして嬉しいだろうか」という素朴な疑問は無視できないどころか、現代の問題点の核心を突いていると思います。私は畜産と養殖は将来の食糧問題を解決する上で今後も必要だと考えますが、外部の地球環境を改善するばかりでなく、畜産場や養殖場内部において、飼育動物の生活環境改善も必要だと思っています。
最後に食文化について。うなぎの世界総生産量に占める日本の消費量は約70%ですが、これは日本人の飽食ぶりを示すものと一概に決め付けることは出来ません。それより他国に比べてうなぎへの嗜好が強いからと捉えるべきでしょう。それは言うまでもなく先人たちが培った食文化のおかげです。そしてそれを歪めたのは流通革命です。食文化自体に罪はありません。優れた調理法が生み出され改良されてきたからこそ我々はいま、例えば美味しいうなぎの蒲焼が食べられるわけです。うなぎの蒲焼はその語源のとおり、初期のころは身を開かないで串焼にした蒲の穂の形をしたものだったそうで、現在のような形に姿を変えるまでには昔の料理人たちの、美食の追及があったからです。
美食の追及とは悪徳なのでしょうか?美食家というと贅沢三昧に走りがちな印象があるので否定的に見られることも多いですが、飽食と同義ではありません。「食」にこだわるということは、それに向き合い理解を深めようとする行為です。特に料理人たちはそのことを職業としていて食材の性質を熟知しています。その食材に合った調理法を編み出し、時には全く違う性質の食材を味覚という感覚世界で融合させ、表現します。伝統の調理法を受け継ぎ発展させ、新たな伝統の主流が生み出してゆきます。そして食材への探求と理解は多くの人々の間で共有されます。
生命倫理についても同様です。料理人が例えば俎板の上の魚を間引く瞬間、心のなかで何を思うでしょうか?彼らは常に厳しい平常心でその問題に向き合っているはずです。包丁の手入れが満足に出来ない料理人は一流ではないとよく言われますが、包丁を鋭く研ぎ澄ますのは、料理人として食材に向き合う前の神聖な儀式とも言えるでしょう。そして調理の全ての過程(焼いたり、蒸したり、タレをかけたり)で丹精込めた作業が行なわれていれば、最終的に料理の出来栄えにその精神ははっきりと現れるはずです。
七つの疑問さんが「土用の丑の日にはうなぎさんに感謝しつつ、天然のうなぎの蒲焼を食べたいと思います。」と言われるように、美味しいものを食べたときに感じるのは、罪悪感ではなく感謝というのが正解でしょう。私たちは(その味覚も含めて)自然の一部です。その私たちがうなぎを食べて美味しいと感じる。そしてうなぎは栄養が豊富で人間の体に良い効果をもたらす。その事実を素直に受け入れ、美味しいうなぎを味わうことで、深い感謝の念が沸いてくると同時に、人間と自然の繋がりを感覚として再確認させてくれる。これぞ食文化の恩恵であり美食追及の真骨頂というところでしょうか。
そういう意味で私は食文化の充実と自然保護は矛盾しないと思っています。むしろ問題を悪化させているのは、そのような伝統的な食文化の衰退です。よく大型店舗法の改正が後押しとなったと言われていますが、大型店の進出やチェーン店、スーパーの輸入低価格品の進出で、個人経営店が閉店に追い込まれるケースが続出しました。伝統的な味を引き継ぐ料理人が育たず、客(消費者)も「本物」の味が分からなくなりつつあります。結果として消費者は品質よりも低価格重視に走り、ますます流通業界に都合のよい状況になってきたわけです。
景気低迷で大型店や大手スーパーの業績が悪化し、その立て直しからつい最近、鮮魚売り場などを品質重視の方針に見直す動きが見られるそうですが、全国規模で見て今後どうなることか。大型店どうしの品質競争はあり得ますが、大型店の強みが低価格路線であることは本質的に揺るがないと思われます。よほど消費者意識が変われば別ですが、生産者・流通業者・消費者の中で、その組織力と宣伝力でもっとも事態を誘導し易いのは流通業界だと思われ、生産者以外にも流通業界が食品の安全性や品質のみならず、環境問題に対しても責任を自覚すべきだと思います。消費者としては伝統的食文化を見直し、まず食材が食卓に届く過程を知ることが重要でしょう。
環境保護はまず多くの人が感心を持ち実態を知る事から始まりますが、ニホンウナギの激減も同様で、調査研究によって明らかになったウナギの生態は、多くの人々の問題意識を喚起しました。さらに卵からシラスウナギまで育て上げることに成功したことで、近い将来シラスウナギの量産が可能になり、国内でのウナギ養殖の復興と安定生産に道が開かれるとの見通しが持たれています。しかし今後の課題(従来から未解決の課題)は多く、それは研究者、政府、生産者、流通業者、消費者のすべてが意識を変革し、それぞれの役割を果たすべき問題です。そして重ねて強調したいのは、政府が自然環境の改善に継続的に取り組み、この研究の成功を激減したニホンウナギの保護に生かして欲しいということです。
関連
『アリストテレス全集 7 動物誌 上』(岩波書店) 第16章
http://hps.sci.hokudai.ac.jp/Education/QandA/aristotle/text.html
水産総合研究センター 病害防除部
http://www.nria.affrc.go.jp/health.html
食品のダイオキシン汚染状況
http://www.kenkou.metro.tokyo.jp/shokuhin/dioxin/dir-6.html
私たちは何を食べているのか
http://members.aol.com/satoky/food.html
江戸料理百選 落語にみる江戸の食生活 第5回 うなぎ
http://www.asahi-net.or.jp/~UK5T-SHR/rakugo-5.html