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『なぜ日本経済は殺されたか』 吉川元忠
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投稿者 TORA 日時 2003 年 8 月 13 日 06:40:30:CP1Vgnax47n1s

 此の程『なぜ日本経済は殺されたか』(R・ヴェルナー氏との対談)が講談社から刊行されることとなった。私の著作としては、これで十指に近づくことになる。様々な想いがよぎる。この機会に今までの生活を振り返り、この本に至った経緯も若干明らかにしてみたい。
 私は最近「人生は不可解」の想いに捉われる。一九五八年に民間の銀行(旧日本興業銀行)に入った時には、将来教育や経済分析を生業なりわいにする等とは、夢想もしなかったことであった。大学では法学部であり、その特有の論理的思考方法にも馴れていったが、傍ら経済学部の講義をきき廻ってはいた。私なりにその大枠は理解し得たかと思うが、そうした中で当然ながら法学と経済学の思考方法を比較するようにもなった。いわゆる「近経」には、興味をそそられる面もあったが、論理的思考という面ではいささか弱いように感ぜられたのである。
 さて、私を生業としての経済分析へと向わせるきっかけとなったのは、三十歳を前にしての日本開発銀行(現日本政策投資銀行)への出向であった。著名なエコノミスト、下村治博士を初代所長として設備投資研究所がそこに創設され、私は創設にあたっての出向であった。
 この出向の前、私は勤務先の調査部でエネルギー産業等の分析にあたっていた。色々なことはやったものの、あくまでサラリーマンのローテーションの一環であり、基本的には常識論の世界であった。それに対して、著名な経済学者達が顧問として参加していたこともあり、この研究所では報告会等での議論も難しい面があり、私はなる程アカデミズムとはこういうものか、とも思った。
 下村博士の謦咳に接し得た事も大きく、その生き様(この言葉を私は好まないが)は、今に至るまで私に影響を与えている。一九六〇年代の高度成長を導いた池田内閣の「所得倍増計画」は「下村理論」が支柱であるとして、当時博士への評価は絶大なものがあった。しかし博士は七〇年代には石油危機に直面し、エネルギーの供給不安定等を根拠にその後「ゼロ成長論」を唱えるに至る。これによって博士の人気は急落したが、しかし博士はそれで所説を変えようとはしなかった。大エコノミストに比べるのはおこがましい限りであるが、私が後年『マネー敗戦』を著した際、恐らく同質の(景気の悪い話は困るといった)批判もあったが、私はそれで態度を変えなかった。日本経済の惨状を「近経」では十分説明しないが、「マネー敗戦」は論理的結果として解明しているのである。
 ところで同じく竹中平蔵大臣もかつてこの研究所に在籍し、下村博士に私淑しているという。どこが交叉しているのか、機会があれば一度ゆっくり話してみたいと思っている。
 四十歳の手前で、日本輸出入銀行(現国際協力銀行)に出向ということがあった。当初は調査部、次にこれが改組されて海外投資研究所となった。調査部は日本経済新聞社ビルの六階にあった。最初にここに顔を出した際は、流石に複雑な想いがした。というのは開銀の研究所は実はこのビルの七階にあったので、私にとってこのビルに勤務するのは二度目であったからである。「どこか適当な所で、調査研究でもさせておけ」と勤務先銀行が私を持て余していることは嫌でも気付くことである。
 イギリスのサセックス大学というのも、この延長線上のことであった。この大学で日本経済と産業政策の役割について英語論文を書いたり、時に講義をしてくれる人を求めており、この研究プロジェクトに参加してみないかとの勤務先の勧めに応じたのである。
 大学はロンドンの南、海岸の保養地ブライトンであったが、キャンパス自体は街の郊外の丘陵地帯にあった。研究室の窓からは、一面イギリス特有の緩やかな緑のスロープが広がっていた。四十歳台半ばで初めて、東京のビジネス街とは全く異なった環境に持って来られた感じであった。
 ここで驚かされたのはワークショップ学での英国人学者のやり取りである。一応銀行という典型的なタテ社会に住んでいたことからすると、流石に自由闊達、なる程これがヨコ社会というものであろうかと思った。
 次なる研究生活は、アメリカのコロンビア大学である。退職後のことは決まっており、準備として勤務先銀行の了解をとり付けその東アジア研究所で研究をさせて貰った。その経緯からも、イギリスの場合とは異なり、五十歳を過ぎてマンハッタンの銀行NY支店の同年代とは全く異なるクラスのアパートでの単身生活を余儀なくされた。これにはいささか無理があり、家人は時に訪れる度に心配し、また憤慨していたものである。
 渡米早々、八七年十月、ブラックマンデーの株式大暴落があった。何事が起ったのかと、ウォール街の取引所を取り巻いていた人々の群れを、昨日のことのように憶えている。こうした中で、日本の大蔵省のやっていることは、その後次々と聞こえてきた。これが日米マネー関係の将来に大きな疑念を抱かせ、その後『マネー敗戦』を書く動機にもなったことは言うまでもない。
 帰国後、私は埼玉県の小さな新設大学に移った。自ら求めた途であるとはいえ異なった世界への転身であり、どういうことになるのか、自分にも掴めない面も多かった。
 早春の一日、あてがわれた二階の一角の研究室には、燦々さんさんと陽が降り注いでいた。担当ゼミの学生に初めて「先生!」と呼ばれたときは、面映ゆい思いがしたものである。そして私は「これが、これからの生活なのだ」と改めて実感した。
 現在の大学に移ってから程なく、私は『マネー敗戦』を上梓した(文春新書、九八年十月)。その中で日本の長びく経済的苦境は日本の歪んだマネー関係、具体的には円・ドル関係に基本的問題があることを指摘した。日本は債権国化した八〇年代にその通貨・円を国際化することを躊躇し、債務国通貨・ドルを基軸通貨として支えることになってしまった。この矛盾は年々拡大し、日本経済を破滅させるまでになった。つまり「失われた」のは十年ではなく、その以前からの二十年前だ、ということである。そこでは日本のマネー経済を司ってきた大蔵省の責任も大きいのである。この本は幸にして広く迎えられた。
 その二、三年後にバブルの形成と崩壊に関った日銀を問題とした『円の支配者』が現れた。従ってその著者ヴェルナー氏との対談によるこの講談社からの新刊書は、日本マネー経済の惨状の原因を、主体的に明らかにするであろう。また私としては『マネー敗戦』刊行後四年余を経た現時点での、さらなる敗走のとり敢えずの総括となった。これは、円・ドル関係の構造的な問題の是正が全く行われてこなかったため当然予想された所であるが、残念なことである。
 人生は不可解であると思う。かつての勤務先銀行の建物は、東京の一等地に、変りなく現存している。私は結局そこには、数年しかいなかったのだった。そして色々な研究所や海外の大学等での生活は、当時それをどう受け取っていたにせよ、今となっては全て懐しい、現在の生業へのプロセスであったように思えてくる。そうした生業の中から、今年初め新聞を賑わした中央銀行幹部の人事にも、ともかく候補としてその一角にあったようである。実現はしなかったもののこれは私の中では、また家人にとってもささやかな一つの到達点であった。そして、日本経済が崩れ落ちようとするのを少しでも食い止め上向かせるため、何か自分にも出来ることがあるのだろうと、思うようにも、なったのである。
(きっかわ・もとただ 神奈川大学経済学部教授)

◆ 日本には数多くの経済研究所が存在している。しかしそこは優れた研究員を養成するためではなく、使いものにならない社員の島流しの場所でもあるようだ。使いものにならないとは、優秀ではないと言う意味ではなく、組織に忠実ではないと言うことだ。

竹中金融大臣もこの研究機関にいたが、組織に忠実であることが認められて、トントン拍子に出世した。日本企業で出世するためには優秀であることより、上司に反抗しないリモコンロボットのような人材が求められている。

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