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「萩」へマンジュウつくりにいってくる 田布施町のタブー2003春 大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/477.html
投稿者 世界に広げよう!大室寅之スレ 日時 2003 年 8 月 05 日 19:37:38:TPRIcaMUGq.Ys

(回答先: Re: ××さん、どんどんよくなっていますね。どうかご無理をなさらずマイペースで。 投稿者 △△ 日時 2003 年 7 月 26 日 02:17:07)

「萩」へマンジュウつくりにいってくる

田布施町のタブー2003春


@大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について2003
      
2003年2月14日作成

一、発端

明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説を、鹿島昇氏が新国民社から公刊し6年経つが、(裏切られた三人の天皇---明治維新の謎)一般人は知らず、歴史に興味を持つものにとって、このことは実に計り知れない衝撃であった。2chのスレに、南北朝問題に関する、情報がいくつか集まった。自信ありげな発信者は少数に過ぎないが、基本的には鹿島説にたって大室明治天皇説を敷行していた。残りの発言者は無知ないし、善意の第三者で大室説に対して、素朴な疑問をぶつけ、あるいは皇太子殿下に対して、感情的な悪声を投じていた。

 

情報は大室天皇説と北朝説に大別される。前者は、「明治天皇は大室家から出たのみならず、皇太子殿下も今上陛下の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子」であると言うもので、後者は「今上陛下は東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。」と明言するのであるが大室系を南朝と呼び(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称することにおいては全員の見解は一致しているようで鹿島説が世に浸透し共通の理解になっている事が伺えた。

これに橋本龍太郎の出自が加わった。すなわち、「龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である」との事。(橋本龍伍の戸籍) 大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系と主張することになる。論点は更に皇位継承問題に及んだ。

◆山口県田布施町の大室さん

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)(橋本龍伍の戸籍謄本より)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)についてお話します。

そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわかっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は、

1.寅之祐の大室家が本当に南朝光親親王から23代も続いているのか? 

2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? 

と言う事であった。その後、大室家(後の大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家4代目に当たる。

さて、大室寅之祐が地家作蔵の息子で行方知れずになる1866年7月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。寅之祐が芸者の格好して帰ってきた。(そう書かれた木簡が出てきた。)(鹿島昇先生調べ)

大室近祐がワカルといってもせいぜい1863〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光親親王(1400〜)から23代500年以上も継続してるとは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)

これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから 1845年頃迄には父、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)とスヘが田布施町麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(興正寺昭坊は興正派門主一族)
作蔵(1824年?〜1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから「地家」の地名を苗字にした。(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)

1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)

>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)

1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛(41)とスヘ再婚。大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃〜1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か?大室近祐説?) 
その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時 40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから4代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。

そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎』に書いてある通りなので省略。 1866年7月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知れずとなったのであろう。(1867年3月ごろ麻郷村の人間が手分けして探した)

◆行方知れずになってから(1866年7月以後の大室寅吉)

情報 1.

(大室寅介とは庄吉のことで、寅介の名前で奇兵隊に参加)

 京都の上賀茂神社って知っているでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるのだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるのだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)

この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!

情報 2.

(大室虎助とは大室弥兵衛の弟?が萩に在住しててその息子のこと。 松蔭ははじめ南朝光親親王の血を引くこの親子を玉(天皇)にしようとした。 庄吉も寅吉(寅之祐)も連れ子で、南朝大室家の血統ではないから。)(虎助は京都明治天皇睦仁と同じ年で新撰組に殺された)

新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があった。

下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。

その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になってるそうだ。(本当は虎助が殺されただけ。田中光顕が三浦天皇に語った萩生まれの玉とは虎助のこと。庄吉も寅吉も田布施町麻郷生まれだから。なお寅吉は1866年1月時点で奇兵隊の力士隊をとっくに卒業してたと言う。

 こんなのあったよ!

大室寅之祐の実の母、スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川系柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったかも?。 こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)

 不動堂

木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。

慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。

 木津屋橋油小路

不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。 伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。

 情報 3.

(大室寅助とは行方知れずになってからの大室寅之祐(寅吉)のことで、スヘ(基子)と大室弥兵衛の間の2歳弱で死んだ大室家の血統の寅助になりすましたわけ。)(庄吉も寅吉も作蔵とスヘの間の子で連れ子だから。) 

寅吉が注目を浴びだすのは1863年7月頃から。高杉が奇兵隊を結成。伊藤博文が麻郷の大室家に遊びに来たころで、七公卿落ちの時三条が大室家に立ち寄ったのもこのころ。だから吉田松蔭と寅吉の接点はなく、吉田松蔭の死後1863ころから寅吉が玉として浮上してきた。 伊藤の玉が寅吉で慶喜の玉が水戸斉昭の子中川宮朝彦。

(情報)山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。

そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年10月下旬、田布施町麻郷に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」 と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。 通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。

その後、寅之祐は再度上ラク(薩長軍を率いて)。 慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明け渡す。慶応4年1月15日からの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

1.天皇すり替えに関しての疑問

天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。

2.解説

いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなのです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。 案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。鹿島f氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治天皇」として迎え入れられた訳です。

それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3年(1867)年7月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇が存在しなかった事(空位)になります。(多分半年間、中川宮と慶喜が京都御所を仕切っていたと思われる。)

慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を天皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、総理大臣になるつもりだった。だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、坂本が慶喜をたすけるために木戸と西郷を引き合わせ薩長同盟をむすばせた。つまり薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を作ろうとしたが長州がこれに反対。 木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。慶喜の背後にフランス軍がついてたが薩長の背後のイギリスのパークスが、慶喜と背後のフランスをつぶすために「開国を認める天皇(寅之祐)の元で薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。薩長にイギリスが加担し戊辰戦争(鳥羽伏見)勃発。慶喜と中川宮は敗れ去った。上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、寅之祐が天下をとったわけ。

即位前(睦仁親王時代)

即位当初の少年京都明治天皇(写真

  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。

御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。

この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。

元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。又、政務にも無関心であった。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかった。

即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇

◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。

基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。

この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。

明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。明治天皇は、書が「達筆」であった。又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。

大室寅之祐の東京明治天皇(写真) 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html

(1866年1月。当時大室寅吉。長崎にて。前の列、左から7番目の白い服を着た方。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方が東京明治天皇。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛)

◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報

興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。

Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭(ショウコウ)←この人はやはり高松松平家の血統ですか??

A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭ースヘ)

Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??

A.と言う事になりますな。結論から言えば。

Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??

A.そうです。

Q.大谷(興正寺)昭←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?

A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。

Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??

A.間違いではありません。

Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?

A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  

 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。

幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。

佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??

これでやっと謎が解けたね。

前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なのだね。

◆作蔵について(人生何があるか分からない)

作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、41歳の独身、大室弥兵衛と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。

孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。

一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5〜6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。 さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。 明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。 京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「鹿島」先生調べ)

大室寅之祐の弟、庄吉の孫、大室近祐は祖父庄吉から聞いた話として、 「わしが12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅之祐)を連れだし、石城山に登っていた」 という。 石城山の練兵場では常時四〇〇人近い兵が銃陣訓練を重ねており、時には近くの皇座山で鹿狩りなども行われていたから、寅之祐の士気を鼓舞して乗馬や剣術を教えたり、同年輩の隊員と角力をとって鍛えるにも最適の道場であった。 このときの寅之祐との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ったのである。

孝明天皇暗殺の真犯人が、初代総理大臣になった伊藤博文であったのは真実である。 そして、この暗殺は南朝革命のために睦仁親王暗殺、将軍家茂暗殺とリンクしていた。 彼が、人斬り名人と認められたのは17才頃であるが、大物を斬殺する度に名前を変え、幼名は利助であったが、利介、利輔、俊輔などと名前を変えてきている。 大室寅之祐(明治天皇)は、長州奇兵隊の伊藤博文の力士隊の隊士であったから、伊藤の子分同様であった。

大室寅之祐と、殺害された睦仁親王(孝明天皇の実子)は性格も能力も全く異なり、東京遷都のとき京都で仕えていた女官を全員解雇したのも、口封じの意味があったのだろう。

さて、「できもしない佐幕攘夷」を主張し続けて政局を混乱させていた北朝系(足利義満の後裔)の孝明天皇が、「倒幕南朝革命」を指向した薩長同盟と岩倉具視らの演出によって暗殺されたのは、慶応2年(1866年)12月25日洛中下京区岩滝町の堀河紀子邸であった。 同月中旬、英国軍艦に便乗してひそかに上京し、薩摩屋敷をアジトにしていた長州力士隊の忍者集団は、品川弥二郎らの手引きで堀河邸の警備につき、痘瘡の治った孝明帝が愛妾紀子のもとへ行幸してくるチャンスを待った。 やがて25日の明け方、便所の床下に隠れていた隊長の伊藤俊輔(博文)が、自ら愛用の忍者刀を天皇に突き刺し殺害した後、隊士と共に悠々と堀河邸を立ち去り、待機させておいた英国艦に乗って引き揚げた。 (便所は中二階式になっており、落下してくる排泄物を大きな箱で非人が受け止め洗浄する仕組みになっていた。当時、非人の代わりに伊藤博文が潜んでいたわけだ。) こうして孝明帝が無くなると、翌3年正月9日、孝明帝の子の睦仁親王が新天皇として踐祚した(16才)。 ところが親王は、以前記したように以下のような資質の持ち主で、

>大室寅之祐(明治天皇)と睦仁親王は正反対の性格と体格で誰でも一目でその違いがわかった。 >寅之祐は勇壮で体が大きく、乗馬、相撲が得意だった(もと、力士隊にいたから当然か)。 >睦仁親王は女のように華奢で病気がちで、乗馬ができなかった。 >寅之祐は達筆だったが、睦仁親王は字が下手だった。 >睦仁親王は幼時、種痘をしたはずなのに、寅之祐の口の周りには5,6個の痘痕があった。 性格だけは父の孝明帝に似て強情で「幕府擁護」を主張したから、岩倉らはついに邪魔者として片づけることに決めて、7月10日猿に引っ掻き傷をつくらせた後毒殺した。 遺体は母方の中山家に運び出して秘かに葬ったという。 官僚と政治家の情報独占がこのような事件を可能にしたと言えよう。

当時、公用で出張する伊藤博文のために英国艦隊のキング提督が軍艦乗り込みの許可証を与えていた、といわれている。 藩政府も「林宇一(伊藤の変名)を英国艦隊乗組仰付らる」という辞令を発して支度金として300両を与えていた。 実際、英国艦一隻が常時馬関港(下関)に停泊しており、伊藤たちを運んでいたという。

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急死した民間研究者のメモを一部紹介します。彼は思想的には右のようです、ご心配なく。

*孝明天皇毒殺説が定説

南條範夫母方の祖父・土肥十一郎(号 春耕で閑院宮家の侍医)の実見談では、 「慶応2年十二月五日夜半、御所で白羽二重の寝衣を敷き布団の上に横たえられた貴人の死体を検死。 脇腹を鋭く尖った刃物で深く刺されていた。恐らく凶器は槍・・。斜め下から上に向かって突き上げられた 格好。その四○歳位の貴人を「お上」と断言。従って槍による刺殺説。

*陸仁暗殺の伝承 大室寅之祐(南朝末裔で長州力士隊と入れ替え長州藩の忍者部隊)、指示者は伊藤(三 ケ月不明の時期あり)。木戸も忍者。岩倉、三条、中山忠能、西郷、大久保も同意。 *暗殺の時期 大室寅之祐上京は、慶応三年三月。六月二七日松平閑そう(鍋島斉正)京に入る。明治四年の条に 「四月大阪行在所にあり、同十七日天皇東本願寺に幸す。木戸(桂小五郎)天顔に」。  『防長回天史』。鍋島(情報係は江藤新平だけでなく宮中にもホットライン)により教導され仕上がる。

*大室について  田布施町麻郷が生家。田布施町の大室近祐氏(平成八年田布施町麻郷で永眠)は次のように 語った。「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在 していた。祖父の兄寅之祐は、後京都に行って明治天皇になった」。 私自身はあまり関心がありませんが、議論の材料として紹介します。

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大室家の人々の篤くべき証言  

大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田 家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人 は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず っと大室家で暮らしてきた方である。 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解 説する。

実際、大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐で(戸籍では寅吉) あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅 之祐を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。 そのため二才年下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居す ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤 俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年 四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。  これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方 について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命 はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け よう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。

一、慶応三年一〇月下旬、睦仁に変身した寅之祐天皇が女性に化けて、芸者風に 装った女官たちを引連れ、西郷らと共に麻郷に帰ってきた。その中に睦仁の皇后 になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも寅之祐の側にべったりで あったという。 この勝子は寿栄姫ともいったが、性慾も独占慾も強くて、 寅之祐の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女の子宮には欠陥があっ たのか、性力旺盛な明治天皇といくらセックスしても子が出来なかった。そのた め異常に嫉妬心を燃やし始めた勝子は、多くの側室に子供が生れると直ちにくの 一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。 天皇の側室は、二八人居たといわれ、その間に皇子、皇女は一九人いたが多く は二才までの間に死亡している。 明治一二年、天皇の子を身寵った(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、八月三一日無事男児を出産した。 この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

一、明治二〇年ごろ、柳原愛子が立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 しく行列を組んで田布施にやって来た。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登 る道案内をさせた。 

◆大室庄吉の子供たち 長男 儀作  (明治19年11月23日生) 長女 モト  (明治 4年 1月 8日生)次女 タカ  (明治 8年11月24日生)三女 ツネ  (明治11年11月 1日生)四女 ヨネ  (明治14年10月24日生)五女 ツユ  (明治17年 6月28日生) 次男 音吉  (明治22年 9月26日生)

一、昭和五八年(一九八三)、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か) が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と 懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。 今上陛下(昭和天皇・裕仁) の子とされている明仁親王 (一九三三年 生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠 宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自 分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。 その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ−と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあお れん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私 が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのような こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 と平身低頭した。  なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、 宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の 玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った 末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。  だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出 があったのである。  近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。

明治天皇 = 大室寅之祐 説はトンデモで、鹿島氏のデマと言われますが この本の殆どが何かからの引用なんです。鹿島氏もここ迄集めたと感心します。 鹿島氏の都合のよい内容だけを引用している可能性ありますが、引用部分に限れば はでっち上げではない様です。 自分は鹿島氏の信者ではありませんが、執念ですね。

鹿島本の引用要約

・将軍家茂・孝明天皇暗殺?の謎  毒殺説 → ねずまさし/「孝明天皇は病死か毒殺か」  刺殺説 → 南条範夫/「孝明天皇暗殺の傍証」(閑院宮家の侍医の証言)  他 アーネスト・サトウ

・睦仁親王の暗殺/南朝後醍醐天皇の末裔、大室寅之祐と入替えの謎  → 三浦芳聖/「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」(三浦芳聖と田中光顕との対話)  → 松重正/「大室家の人々の驚くべき証言」  → etc...

・明治天皇の変身ぶりについての謎  → 中山忠能日記  → 蜷川新/「維新史にこれだけ裏がある」(討幕の密勅とは逆の親書を三条家で発見)  → etc...

・纂輯御系図の謎(さんしゅうおんけいず・北朝のルーツに当る貞成親王を「父不祥」 と記載。有栖川を総裁に任命。明治10年元老院発行)  → 長島銀蔵/「皇統正史」

・明治天皇の奥さんが何故に昭憲皇太后?  → 原敬/「原敬日記」

個人的に次ぎの項目を加筆すると鹿島本の続編ができそう。 大いにもり上げましょう。

1)有栖川宮家最後の嗣子、栽仁親王急死で司法解剖の謎 2)有栖川宮熾仁親王の息子、出口王仁三郎・大本教弾圧の謎3)旧官弊中社に南朝の皇子、旧別格弊官社に南朝の功臣が多く祀られている謎 4)明治神宮の神社紋の謎(明治神宮の祭祀はだれ??) 5)踊る宗教と神道天行居など多くの宗教本部が石城山麓に集まってる謎 (226事件前に石城山の神社に集まった将軍たちはだれ?他はだれ?)

その他情報

俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったのだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したのだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・

◆長州大室家系譜?

Q. 大室と先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。

A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。 系譜は江戸時代初期詳しく言えば初代「麻郷某」死去年(1616年)からみたいです。ただ、文政年間(大室)から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、「長 大室虎(ママ)之祐」と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)

やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、

南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)

この事?ですか???(「鹿島昇」先生の本より)

この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・

系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。しかし、「長 大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。

先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。

私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており色々な物を下賜して下さった」 と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。それと横枠に朱字で、 「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「地家」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは山々なんですが、私には読めません。

系譜の最後に、

「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。  

1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様でる。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)

尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝

高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。

>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(先生に質問)

現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。

本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。

大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)

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調査結果

寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐  近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄。近祐の息子徳川(大室)恒孝、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。

以上 田布施町戸籍課 

 (天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)

光格天皇の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 大隈重信の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后、父は大室寅之祐明治天皇) 高松宮(母、松下トヨノ、父は大室寅之祐明治天皇)東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁。(母は貞明皇后 )

三笠宮寛仁  桂宮 は三笠宮崇仁の息子。(北朝)(ただし高円宮の実父は細川護貞)

(大室は南朝)

以上 田布施町戸籍課 

情報を整理すると

高松宮が昭和58年8月に田布施町に居た事が証明されれば、大室=明治天皇の疑惑は一気に高まると断定して良い訳だな。そして、その真偽を知っている者は、当時の宮内庁職員、田布施町役場職員、及び政府首脳。此処迄、情報は狭められた訳だ。

橋本の家の系図誰か教えて 

大室寅之祐の弟、大室庄吉の女(むすめ)大室よねが、サッポロビール常務 橋本卯太郎の家に居候して女中になる。此処からが、始まり始まり。 既に卯太郎には本妻 真都(マツ)の間に4人の男の子と1人の娘が居た。明治39年、卯太郎が大室ヨネにお手付きして出来た子。それが橋本竜伍。(5男だから竜伍。竜伍の下に1人の弟と1人の妹あり) 竜伍は東大を主席で卒業した後、吉田内閣で大臣3回経験。龍伍の長男が橋本龍太郎。

話を整理してみる。(ややこしいので)

1、明治天皇と松下豊子の間の子が高松宮。

2、高松宮の双子の妹(山本静山尼)の方はやはり父明治天皇、母松下豊子。(だから山本静山尼は高松宮に似てる)静山尼は戸籍では高松宮より10歳年下になっているがこれはウソで宮と同じ年。尼は5歳にして入山し、8歳の時得度、23歳で第十世門跡。しかしこれはウソで高松宮日記より、15歳まで、宮中で、「やすこ」という名前で生活していたのである。 だから宮の日記から、この書き方から山本静山尼の存在をずっと以前から知っていた。5歳で離ればなれになった妹のことなんてほとんど記憶にないから。つまり尼は15歳にして入山し、18歳の時得度、33歳で第十世門跡。79歳ではなく89歳でこの世を去った。(もちろん奈良県で)

3、さて、話は変わって今度は三笠宮崇仁の話。、(三笠宮の父は東久邇宮。)との一致により)テイメイ皇后と東久邇宮の間の子が三笠宮崇仁。で双子の妹の晴子さんも父母同様。今現在も京都に在住。三笠宮晴子さんは別名、糸子とよばれていた。(京都で)

4、大正天皇(リベラル)の母は柳原愛子だが父は大隈重信(リベラリストおよび反薩長の)。原敬が暗殺され大隈が病気にかかり大正11年には死亡するが大正10年に昭和天皇が摂政として即位。このころから(大正10年)大正天皇の権力が弱まり、昭和天皇の権力が増大した事からも考慮。

高松宮日記ですがここに出てくる尼さんは三笠宮の双子の妹ではなくて高松宮の双子の妹と考えて間違いない。自分の日記に北朝の(まったく血筋の違うアカの他人)人のことが書かれるわけがないから。同時に大正天皇に関してですが、原武史の大正天皇と言う本を読めばわかりますが、昭和天皇、秩父宮、高松宮に関しては明治天皇を中心とする勢力が書いた書によく出てくるんだが、三笠宮と大正天皇はほとんど出てこない。三笠宮がキゲンが悪くなって怒ったのはこのことでようは血統が違うから。大正天皇も明治天皇の子ではない。子供の頃も成人してからも大正天皇のところへ明治天皇がほとんどあっていない。自分の父(孝明天皇?・)を殺した岩倉が風邪をこじらせ自宅で寝込んでしまったとき明治天皇がわざわざお見舞いに行くため、岩倉家にわざわざやってきたほどなのに。

>>明治10年頃の宮中の勢力分布が未詳のため大正天皇の実の父に関しては保留。

中丸の真実のともしびを消してはならないを読めばわかりますが、当時、大隈重信派と岩倉派が政治をにぶんしていたそうだ。大隈派の方が力があって岩倉派の堀川辰吉郎は宮廷を追われてしまった。そう、堀川とは岩倉のぎりの妹、堀川紀子の「堀川」か???。だから堀川辰吉郎は岩倉と追放された千種任子につかえた女官「千草」(43歳で死去。)の間の子で千種任子(88歳で死去)の方はなるほど、宮廷を追われていなくて69歳までつかえていた。

>>だけど千種(千草)が二人い たとはすぐには信じられないのであるが。

このあたりが中丸の証言と食い違いを見せるあたりで千種任子(88歳で死去)は、辞官し、移り住んだ先は京都の堀川御所ではなく東京新宿区砂土原町なわけです。そこで88歳まで生きた。千種任子のどこを調べても「堀川」御所なんて出てこないわけです。だから岩倉と堀川御所に追放された「千草任子」(43歳で死去。)の間の子が堀川辰吉郎といえる。

三笠宮晴子は今も生きていて御所で、いとこと呼ばれていた。山本尼の方はやすこと呼ばれた。

一部紹介します

2ちゃんねる 日本史板「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう(復活版){このスレ開いて>>1にあるURLをクリックすると880レス読めます。}」と「大室寅之祐が明治天皇になったと言える2」を読んで見て下さい。内容は衝撃的で、橋本龍太郎の祖母の父、大室庄吉の兄大室寅之祐が明治天皇になったと言うもので、2000年8月の雅子様懐妊の真相は実は橋本龍太郎の長男橋本竜の長男を雅子様、皇太子さまの間の子としてこっそり養子にしようとして失敗した・・・等凄い事が書かれておりマスコミタブーも有り衝撃的でした。一度目を通して見て下さい。

>> じゃあ、明治天皇は130年以上も前の話だから、一度余所に置いといて、2000年8月の雅子様ご懐妊、騒動は何だよ。 TBSの報道番組(ザ スクープ)で産婦人科医が出て来て、「妊娠4週目でレントゲン検査して胎児の姿が確認出来ず。(公式な宮内庁発表) と言う事は、有り得ない。雅子様は妊娠しておられ無い!!」と泣きそうな顔で話していたのを、テレビで観たぞ!! 一説には、橋本龍太郎の長男、龍の長男を雅子様、皇太子様の間の子と言う事にし、株価上昇に利用しようとしたが、雅子様が余りにも嫌がられるので失敗したと言われている。この情報の出所は、何と宮内庁では無く、首相官邸と言うでは無いか!!! 当時、小渕は「2000年8月に太陽が、二つ昇る」と言った事は、有名だけど一つは景気の回復。もう一つは、??? 小渕が橋本と共犯で、雅子様ご懐妊騒動仕掛けたと伝えられるが???? もしこれが事実なら、大変な事だぞ!! 橋本は大室と遠い親戚だから、佐藤栄作に自民党公認にして貰って26歳の若さで初当出来たと言うじゃないか。

>>大体、2000年8月の御懐妊騒動って何だ?

>>そりゃそうだろう。雅子様もまさか自分が妊娠もしていないのに、2000年8月に自分の子供が生まれて来るなんて夢にも思っていなかったのだから。(小渕発言後、自分が2000年8月に子供を出産する予定になっていた事を知って、雅子様は部屋に引き籠もり成され、皇太子さま以外の人間とは口もきかなくなって、人間不信になられた一連の騒動の事。)

◆何故、今、皇室は大室でなければいけないのか?

熊沢家は今の当主が確か娘2人で実質断絶に近い状況にあるし、今の皇室見ると、常磐会を中心とする、島津家および久邇宮家と大室寅之祐東京明治天皇を中心とする南朝大室天皇家(寅之祐の弟庄吉の子 儀作の子近祐の子徳川恒孝の子皇太子さま)と2つある。此等に自民党の権力が複雑に絡み合っているからさ。

政府自民党の支持基盤は3つあって1、郵便局、2靖国、3医者なんだけど、3の医療会の票田を作ったのが武見だったり厚生族の橋本龍伍だった。(大室寅之祐東京明治天皇の弟大室庄吉の娘大室ヨネと橋本卯太郎の間の子が橋本龍伍) 2の靖国及び神社本庁のボス(つまり自民の票田)は村上正邦だったが、歴代総理が靖国万歳なのは明治天皇を奉る事で靖国の票田を自民党が押さえると言う意味合いも有る。(つまり、遺族会の票田)自民党に右翼が多いのはその為で、突き詰めたら大室明治天皇の血統が130年以上続いているから、熊沢家を奉じても何の得にも金にも成らん。だから北朝の孝明天皇に触れる事は出来ても南朝の明治天皇の歴史に触れ難い。明治天皇の息子が昭和天皇でなくなってからまだ14年しか経っていないから明治天皇の歴史はそれ程古くないから共言える。

さて、橋本龍太郎の頂上作戦の話をしなければいけない。先、書いた通り橋本龍太郎の父龍伍は大室寅之祐明治天皇の姪、大室ヨネの息子であるから本質的には南朝なのかも知れないが、大室ヨネが女性で有るから橋本天皇(半分南朝、半分北朝)とする。で、今、日本を裏で実質的に動かしている5悪は、1.曽根綾子 2.正田巌(日銀を影で動かしている男美智子様の兄、(弟?) 3.美智子皇后 4.橋本龍太郎 5.橋本久美子だが、今上陛下はまだ14年しか経っていないので権力はそれ程無い。広飲み屋にも権力はそれ程持ってない。議員歴39年の橋竜こそバリバリ権力持っていて、常に雅子様の御懐妊騒動を引き起こした主犯がこいつ。 (続き) 一度目は皇太子さまが結婚なされて3年目の1996年、丁度、橋本内閣の時、自分の孫。(橋本龍太郎の2女厚子の子)を養子にしようとして失敗。この時はマスコミに公にはならなかった。それより前に自分の娘長女の寛子を皇太子さまと結婚させたかったが、その野望は失敗した。(皇太子さまも寛子もお互い反対したから)

二度目は2000年8月に雅子様が子供を生む予定で流産したが、(小渕内閣の時)この時は長男龍の長男(2000年8月生まれ)を皇太子さまの養子にしようとして失敗。雅子様が公の場に出てこなかった。

三度目は先ず、橋龍の娘隠し子の和子が妊娠した。これが橋本と小泉の総裁選挙の少し前位の時。これに合わせる様に皇居に人工受精の装置が運び込まれ、南朝大室広飲み屋(小泉・森派・安倍・岸派を中心とする自民党右派(右翼)のタマ)のおたねを某女に人工受精させ、今度は北朝今上陛下(宮沢派・河野派・吉田・麻生太郎─三笠宮(信子)秋篠宮・今上北朝派)のおたねを使い某女に人工受精。で、広飲み屋の胤で人工受精した女は先ず、女の子を孕む。だ・か・ら小泉を中心とする右派(右翼)から皇室典範の女帝改正論が急に勢いずく。しかし、この女が流産したから右翼から女帝論が急速にトーンダウンする。

北朝今上派としたら今上が那須に行って東京に帰って来た所で、男子が誕生すると言う計画で、麻生太郎が「皇位は男子に限る」と言ったのはその事。イギリスのマスコミに今上の胤使って某女に人工受精して男の子を孕んだとの情報が漏れる。

一方、橋本の娘和子は女の子を妊娠してこちらが先行した。12月の最後迄、女の子か男の子かともめていたのは北朝三笠宮天皇今上一派(麻生)と橋本天皇の頂上対決でマスコミも男の子と言う事で準備してた。12月に入って少し長引いて最後に橋龍の権力によって和子の娘を愛子とした。広飲み屋は最後、部屋のドアを怒って蹴って出て行かれたと言う。最後に小泉が「女帝は慎重に検討する」と言い出し、みんなが唖然とする。つまり後ろ向きな発言に変化。

佐藤・竹下・橋本派が敬宮愛子・岸・安倍・森・小泉自民党右派(ウヨ)が南朝広飲み屋支持、吉田麻生三笠宮秋篠宮・明仁・宮沢・河野麻生派が今上陛下派、と考えたら分かり易い。小泉・橋本・麻生の3大決戦に皇室も巻き込まれていたと言う事。そして戦いはまだ続いて、今度こそこの3大勢力が、雅子様に男子を産むと言う事で凌ぎを削り、女帝改正には皆が消極的であると言う。2〜3年後か?に最終決着が付く筈だ。

年次 事績

天保8(1837)年

9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。

弘化4(1847)年

9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。

嘉永3(1850)年

1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。

嘉永6(1853)年

6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。

安政5(1858)年

この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。

万延元(1860)年

3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される)

文久2(1862)年

7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。

文久3(1863)年

4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。

元治元(1864)年

1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる) 。7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 。7月24日 第1次長州征伐(征長の役)。 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

慶応元(1865)年

5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写真を全員で撮る?) 。

慶応2(1866)年

1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。(田布施町麻郷の村人が手分けして探索) 。 6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島f説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)。 12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。(刺殺では無く、毒殺されたとの説もあり)

慶応3(1867)年

1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 3月頃大室寅之祐(当時寅助)が『萩』から京都へ上洛。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。 7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預かる。この仏像は京都睦仁の遺体であろう。同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) 。(7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼る。これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される)。 10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 10月下旬、 寅吉が芸者連れて田布施の麻郷に帰ってくる。(寅吉を寅之祐と改名。)通史の王政復古の大号令とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 (午後の小御所会議も同様)

慶応4(1868)年

明治元(1868)年 1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により(もちろん幕軍の方も錦の御旗たっていたが)、幕府側は戦意を喪失し惨敗。

 1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。(それまでは、上洛した時京都薩摩藩邸で寅之祐待機)三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 。 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)。『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。睦仁親王(京都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)が正式に明治天皇となった。 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁(大室寅之祐明治天皇)」に会う。(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)

(慶応4(1868)年)

 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。

 慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。 8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。


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