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(回答先: Re: Ddog氏、是非ご教示くださいませ。天皇教についての質問にはお返事頂けないものでしょうか? 投稿者 Ddog 日時 2003 年 7 月 10 日 01:00:10)
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参考書籍(批評つきで)ご提示ありがとうございます。まずお礼までに。
欠本しているところをアサリにいってきます。
(1)
誤字訂正:御主ー>ではなく 御氏 です
すいません
(2)
たこに完敗したDdog:結局天皇に「政治責任」があることは否定できなかった。
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/949.html
投稿者 負け犬の遠吠え 日時 2003 年 7 月 10 日 13:31:14:
たこ氏とDdog氏の一連のやり取りを読んだ。昭和天皇には
1法的責任
2政治的責任
3同義的責任
。
。
。
。
M:このたこ氏の本文が何処にあるかは知らないが、上の投稿は下劣。
ヒロヒトなどという輩っぱらもいるが、戦争責任については道義的に十分昭和天皇御自身が一番知っていることだ。(と思う)
確か記憶によると、つたない記憶であるが、戦後「お詫びし、あやまった(お詫びと言う意味)」のではなかったか?。先般の週刊誌の内容はみてないが別モノか?
Re: Ddog氏、是非ご教示くださいませ。天皇教についての質問にはお返事頂けないものでしょうか?
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/937.html
投稿者 Ddog 日時 2003 年 7 月 10 日 01:00:10:ZR5JcjFY1l.PQ
>日本人は、無宗教である人が多いといわれるが、実際にはそうではない。
自分自身の宗教をそれを意識すらしない程に体に染み込ませているという意味で、日本教は世界中のどこよりも強い、強烈な一つの宗教なのだという彼の論理は、21世紀の今でも、斬新で日本人に対する全く新しい視野を私達に与えてくれる。
M:この辺りは各々一人一人自らの体の中に宿る魂に聞いて自覚し発芽、覚醒すべきことであると思われるが・・・
最低限、この作業がされていない故の現状であると私は認識しますがね・・・。
2003/7/9産経 一部抜粋
さらに「愛国心」や「宗教教育」を盛り込むことが焦点になっている教育基本法改正案も自民公明間で調整がつかずもめている。
M:具体的、天皇が信奉されていたとされる教王護国寺はあまりご存知ないようでしたが、D氏は今でも東京周辺にいられると思います。護国寺の存在についてはご存知のはずです。護国寺インター。。。
ここは天皇が信奉修行されている所なのか?、天皇も仏教修行されているのか?、はたまた天皇が教徒を集めるところなのか?等々諸々。
天皇が信仰?。天皇が仏教に帰依している?(だと?)歴代天皇はどうなんんだ?と。天皇教を自ら自認する前に当の天皇が何か信仰しているらしいゾ。今調べているところです。興味がつきないですね。
以下宗教はすっとばされても結構です。
参考
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-77.html
mansongeの「ニッポン民俗学」
天皇の信仰に見る日本人と仏教
この小論の目的は、天皇および皇統は自らの出自である日本の神(特に天照大神)ひとすじに古来仕えてきたとの日本人の思い込みを正し、天皇のありのままの仏教信仰を通じて、日本人の信仰を探ることにある。
▼仏教伝来前の日本の神
葦原(あしはら)の中つ国、すなわち日本には、天孫降臨(天照大神の孫ニニギ命の降臨)以前から八百万(やおよろず)の神々が棲(す)んでいた。日本書紀には、日本を指して「彼の地には、多(さわ)に蛍火(ほたるび)の光(かがや)く神、また蠅声(さばえな)す邪(あや)しき神あり。また草木ことごとくに能(よ)く言語(ものい)ふことあり」とある。火山、森や草木、動物など、自然そのものが神だった[注1]。
[注1]天照大神中心の信仰が神道ではない。そういう意味で「紀記神話による神道」の成立は古代の宗教改革であった。
さらに、仏教伝来前の日本人の信仰は、「神を崇める」と諡(おくりな)された崇神天皇の事蹟に見ることができる。崇神は天照大神と倭(やまと)大国魂神を祭り、八十万群神(八百万神)を祭った。また、三輪山を神体とする国つ神の代表であり祟(たた)る神、大物主神を丁重に祭っている。それから、大和の東西境の神である墨坂神と大坂神を祭っている。日本の神とは自然や土地の神々であり、祭らなければ祟る神であった。
▼仏教による新しい死生観と霊力
記紀によれば、天皇(当時は大王)と仏教の関わりは6世紀の欽明天皇に始まる。いわゆる「仏教の公伝」であり、百済の聖明王が使いを遣わして仏典・仏像を献じた(「私伝」は当然これを遡るだろう)。ここから、若き聖徳太子もそこに巻き込まれた、後ちの物部・蘇我両氏の神仏闘争に至る。仏は日本人にとっては外蕃の神であった[注2]。それは、自然的な日本の神とは違い、文明の神であり、一つの総合的なテクノロジーであった[注3]。
[注2]日本人にとっての仏や菩薩は、仏教の教えそのままの存在ではなく、外国から来た新たな霊力を持った日本の「神」であった。
[注3]このことは、日本の神が無形であり自然の中に棲んでいたのに対して、仏は仏像として造形されて寺院建築の中に安置され、その寺院は都市の中に建築されたことからも分かる。神社建築や神像そして神道理論は仏教の影響下、作られるようになった。
神仏闘争が崇仏派の勝利に終わった後、仏教に深く帰依し仏教による宗教国家を構想する皇子さえ現れる。聖徳太子である。太子は日本人誰もが認める偉人であるが、彼が第一に神道ではなく仏教の信仰者であったことにはもっと注意されなければならない。ただし、日本人の太子信仰が彼自身を、日本の神として、仏菩薩の生まれ変わりとして、また儒教的聖人や道教的仙人として描き出し、それらに何ら違和感を感じないということに、私は日本人の信仰を見出す。
ともあれ、聖徳太子に代表される当時の皇族が出会った仏教は、日本人に新しい死生観と霊力をもたらした。それを媒介したのが罪と死の穢れである。古墳に埋葬され、やがて浄化されて他界へ旅立っていくものと信じていた魂が、自ら犯した罪によって地獄へと追い落とされ、そこでもがき苦しんでいたことを初めて知ったのだ。しかし、同時に仏教の霊力はこの魂を地獄から救済し得ることも知った。
▼大嘗祭は仏教の火葬によって確立された
天武天皇とともに、壬申の乱を戦い、国号「日本」と王号「天皇」を定め、さらに皇祖神天照大神を祭る伊勢神宮を尊崇した持統天皇は、穢れなきはずの「天皇」天武が祟りに倒れ、崩御したとき、深く苦悩し、日本の神の無力さをつくづく感じたことだろう。天武の魂を浄化する殯(もがり)は二年二か月続いた。殯は死者反生(甦り)のためとも鎮魂のためとも言われるが、結局白骨化した遺骸が御陵に葬られたことだけは間違いない。
問題は、殯の庭で腐敗し異臭を放つ天皇の肉体から、いかに天皇霊を救い出すかということにあった。殯宮に参集した僧たちは、穢れを火葬によって速やかに浄化することを勧めただろう。死の穢れを離れることなくして、天皇霊を新帝に移す大嘗祭はあり得なかったからだ(大嘗祭は天武帝に始まる)。結局、持統は偉大なる先帝の葬礼には旧例に大幅な変更を加えることなく、天武崩御の約五年後に自らの大嘗祭を行なった。
しかし持統自身は違った。孫である文武へ初めての生前譲位を断行し、そのまま大嘗祭で穢れなき天皇霊を継承させた。そして自らの死に際しては火葬を命じたのであった。それでも、崩御した持統には約一年の殯が施されたが、遺命通り火葬に付され、夫帝が待つ大内山陵に合葬された。以後、例外はあるが、皇位継承として、生前譲位→新帝の大嘗祭→先帝崩御→火葬→埋葬、あるいは先帝崩御→新帝即位→先帝の火葬→埋葬→新帝の大嘗祭、という流れが定まった[注4]。
[注4]大変興味深いことに、自ら「仏弟子」を称し、全国に国分寺を、中央の東大寺に大仏を造った聖武天皇は、火葬されなかった。深い信仰によりすでに生前に魂が成仏したとされた聖武は、その肉体も浄化され仏身として転生したからだという。
注目すべきは、神道の大嘗祭と仏教の火葬がワンセットになったということだ。これにともない、殯の期間が大幅に短縮され、文武の次の元明天皇ではわずか一週間となった。大嘗祭は火葬によって確立されたとも言える。実は、仏教こそが日本人に死の穢れを意識させたのだ。火葬による霊肉の分離はやがて日本人に遺骨信仰を生む。火によって浄化された白骨は、日本人にとっては故人の魂の化石となり、今に至るのである。
▼平安以降は仏教こそが「国教」であった
平安時代となり、空海と最澄が唐に渡り、密教という霊的呪術を日本に導入した。天皇以下貴族はこれに入れ込み、加持祈祷(かじきとう)が天皇と日本を防衛することになる。宮中では毎年正月、神道による前七日(第一週)の節会の後、八日からの第二週、今度は空海ら密教僧による「後七日御修法」が行なわれ、玉体(天皇)の安穏を祈願していた。また、最澄の延暦寺でも、国難など大事の際は「安鎮国家法」という法会が催されていた[注5]。
[注5]以降、しだいに一般化して普及し、私たちも受けることができるようになったのが今の護摩木(ごまき)などによる密教祈祷である。
平安京大内裏には、空海の進言によって真言院が建てられた。それは陰陽寮や神祇官(神道の役所)の建物よりも内裏に近い位置にあった。ここで、玉体の代わりに玉衣が「後七日御修法」による加持を受け、外部の邪霊・悪霊から天皇を守っていた。それは、毎秋の新嘗祭(真言院のすぐ横にあった中和院で挙行)で神と新穀を食すことで、内部から玉体と天皇霊を賦活(ふかつ)する神道呪法とちょうど対になっていたのだ。
天皇に愛された最澄は伝教大師、空海は弘法大師と尊号を賜った。ますます皇統の仏教への傾倒は続き、出家した上皇を「法皇」と呼ぶように、僧職は皇族や貴族たちの隠居後の仕事ともなった。門跡寺院が次々に誕生し、そこはいつしか皇族たちの菩提寺となる。鎌倉時代に入り、公家方が敗れた承久の変の後ち、受け手がなかった天皇葬儀を引き受けた京都の泉湧寺が以後、皇室の菩提寺となり「御寺」(みてら)と呼ばれ、明治に至ったのである。
中世における天皇と仏教との関わりの象徴に後醍醐天皇の例を挙げておこう。後醍醐天皇の肖像は、まさに神仏に守られた天皇として描き出されている[注6]。中国皇帝風な衣の上に僧が着る袈裟(けさ)をかけ、両手には密教呪具を持っている(その所作は金剛サッタの変化身であることの表現)。さらに、仏菩薩が乗る壇上に坐しているのである。背後には「天照皇大神」などの神名が掲げられているが、それも本地仏である大日如来の威光の表現かも知れない。
[注6]網野善彦氏が「異形の王権」と指摘したことで殊に有名になった。
▼明治以降の「神道」は創り出されたもの
明治の「神仏分離」や「廃仏毀釈」は江戸時代後期から準備されていた。まず儒学者の仏教批判に始まり、仏教を排し復古神道を唱える国学者がこれを受け継いだ。水戸藩と長州藩ではすでに天保期に「神仏分離」と「廃仏毀釈」が藩政改革として行なわれ、幕末には薩摩藩と津和野藩で実行されていた。慶応四(1868)年三月十三日、有名な「五か条の誓文」発布の前日であるが、いわゆる「神仏分離令」が布告される。
宮中でも「神仏分離」と「廃仏毀釈」が展開される。ところが、その一年半前の孝明天皇の葬儀は僧侶によって執り行なわれ、泉湧寺に埋葬されていた。皇霊祭儀が神式に改まるのは、明治元(1868)年十二月の孝明天皇三年祭(三周忌)からである。それまで天皇葬儀への仏教関与は、実に約千二百年にわたって続いた(もっとも、玉体の火葬自体は1654年の後光明天皇のときから取り止めとなり、以後は儀礼的に火葬しての土葬に改定)。
宮中には長らく「お黒戸」(黒戸御所)と呼ばれた言わば「仏壇」があり、そこに仏像を安置し、歴代天皇や皇后の位牌が祭られていた。これが排されたのはようやく明治四(1871)年のことで、やがて泉湧寺に移された。同時に泉湧寺からは寺内の天皇陵や皇族の墓所が没収され、宮内省に移管された。また、仏教による玉体護持の「後七日御修法」や天台宗の「長日御修法」など宮中の仏教行事も廃された。
一方、神道神殿の整備がなされる。明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。かつて神祇官八神殿に奉斎され、その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、宮中三殿として今に至っている。同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。
[注7]玉体の守護と鎮魂を司る八神。御巫(みかんなぎ)祭神八座。神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神(この「産日・ムスビ」五神は天皇の心身の神)、大宮売神・御食津神(飲食の神)、事代主神(言葉の神)。ここには造化三神のうち天御中主神はなく、またすべてが紀記神話の神でもないことに注意。
*
以上、足早に天皇と仏教の関わりを見てきた。明治以降、皇室は常に国民生活のお手本としてあった。それは洋装や肉食、さらには大正天皇ご成婚に始まる神前結婚まで多岐にわたる。しかしながら、信仰生活においてはそうではない。葬式仏教と揶揄(やゆ)されるが、国民の多くは葬儀はなお仏式で行なう。本来、日本人の信仰は形式を問わないものなのだ。今さら引き返しなぞ出来ないのだが、国民生活と皇室の乖離を残念に思う。
[主なネタ本など]
山折哲雄『死の民俗学』岩波現代文庫
黒田日出男『王の身体 王の肖像』平凡社
安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書
(参考)「神仏分離」「廃仏毀釈」について
mjf-076 靖国神社問題と日本人の「宗教」
以上転載
余談
Re: Dちゃん、中国での最後の瞬間に「天皇陛下万歳!」の雄たけびだけは忘れないでよね。
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/829.html
投稿者 鬼軍曹 日時 2003 年 7 月 05 日 09:59:25:
(回答先: Re: 徴兵制になったら、阿修羅からはDdogさんをまず徴兵してください。お願いします。 投稿者 センナ茶 日時 2003 年 7 月 05 日 09:49:17)
「株上がった、万歳!」じゃないからね。
このようなことも私は言わない。出来れば勤皇の志士として、「倒幕」とか、「幕府を討つ」ってちょうだいねなどを誰ゾが言うならばわかるがね。
なかんずく「おまえらもくるんだろうな」などと感情あらわにし、不公平感を感じつつも死にいく者、俺だけが死ぬのか?などと疑問を感じつつも出陣しようと、どうやら本気でのようだ。平均以上、十分以上の天皇教だ。君のお役割は近衛兵。
因みに利権者は残念ながら簡単に死のうとは考えていない。この辺はあっしら氏の指摘する通り。
注)この機会に所得階層と命の張り具合を考えると、
低所得者層は生きにくくて良いと言う理由を延べよ。
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/805.html
投稿者 Dolphin 日時 2003 年 7 月 04 日 19:01:46:
(回答先: Re: ほとんどレスポンスがない 投稿者 円からの逃走者@M 日時 2003 年 7 月 03 日 15:23:45)
タイトルどおり。
「弱い者は更に弱い者を叩く」
以上転載
これを私なりに答えると命を張れもしない者がこの国で金を掴む可能性は低くていい。(かもしれない)
D氏は激しく競争に晒されている業種だ。ご感想は?
日本教について
日本人の大多数は自分のことを無宗教だと信じ、また世界の人々もそのように認識していますが、それは大きな間違いです。日本民族は1600年に及ぶ閉鎖的な歴史と空間の中で、独自の思考方法と価値観、常識、文明を作り上げました。その独特の価値観は本質的にはまさに宗教です。このことを最初に見抜いたのは山本七平で、彼はそれを「日本教」と名づけました。私が考えるに、日本教の神様は「世間様」です。その最大の徳義とくぎは「和」であり、最大の罪は「恥」です。天皇は世間様の象徴です。神道(日本教)に聖典が存在しないのは、世間様が神様だからです。神は絶対ですが、世間様は相対的です。したがって日本人の考え方も常に相対的です。日本人が自分の意見を曖昧あいまいにし、相手の意見を確かめた上でようやく自分の意見を述べるのはそのためです。自分の考えや意見が常に相対的である以上、日本人にとって、立場立場たちばたちばで主張を変えることは少しも悪いことではありません。むしろ立場や状況に応じて主張を変えない人間こそ、集団の和を乱す厄介者やっかいものとして、村八分の対象です。日本人はまた、社会の和を保つ手段として世界でも比類のない身分制度(上下関係)を発達させました。およそあらゆる言語の中で、日本語ほど上下関係にこだわる言語は存在しません。日本人はあらゆる人間関係に序列をつけないと気が済まないので、双子の兄弟にまで兄と弟の序列をつけるほどです。日本が鎖国をしたのも世間様を維持し、和を保つためでした。日本人に恥の意識はあっても罪の意識はありません。したがって日本人は世間様の見ているところでは恥を知りますが、世間様の見ていないところでは恥を知りません。このように、日本教は世界に類を見ないユニークな宗教であり、同時にその閉鎖性から独自の文明圏を形成しています。
>最大の罪は「恥」です
この辺りは「坊ちゃん」であり、青い目の日本研究聖典「菊と刀」
>世間様は相対的です。したがって日本人の考え方も常に相対的です。日本人が自分の意見を曖昧あいまいにし、相手の意見を確かめた上でようやく自分の意見を述べるのはそのためです。自分の考えや意見が常に相対的である以上、日本人にとって、立場立場たちばたちばで主張を変えることは少しも悪いことではありません。
これは日本人の「遠慮」の文化。はしたないとか一歩下がって等々。
集団的に対する個別的、昔はやった俗語「それってジコチュウじゃん・・・」。
D氏を含めて我々の年代の小学生教育時で個別を悪とした。あからさまに教育現場で悪とされてきたのを覚えてられるか?
疲れた。本日はこの辺で。