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インドス川とパタラ島
アレクサンドロスはカウカソス山を越え、オクソス川、ヤクサルテス川を渡ってスキュ
タイ人を攻撃した。そして軍を返すとインドに向かい、インドス川を渡ってヒュパシス川
までやって来た。ヒュパシス川から引き返すと、インドス川の川下りを遂行している。こ
のインドス川についても、私は永い間、疑問に思っていたことがある。それは多くの歴史
家が、インドス川の河口は二つに分かれ、その間に島を形成していると記述しているから
だ。今日のインダス川の河口には、そのような大きな島は見当たらない。
「インドの地の西方はインドス川が、これを〔南の〕大洋にいたるまでずっと仕切って
いる。大洋岸ではインドス川は二つの河口によって海に注いでいるが、その二本の分流と
いうのは、イストロス〔ドナウ〕川の五本の分流のようには、お互い河口をひとつに合わ
せることをせず、エジプトのデルタを形成するかのナイル川のばあいと同じようになって
いる。インドス川もそんな風にインドのデルタをつくっているのであって、そのデルタは
大きさ、エジプトのそれにも劣らず、インド語では『パタラ』という名で呼ばれているの
である」(アッリアノス『インド誌』)
「インダス河は、どこででも幅は五〇スタディウム、深さは一五パッススを越えない。
そしてそれはプラシアネと名づけられる相当大きな島、いまひとつパタレという名の、そ
れより小さい島をつくっている」(プリニウス『博物誌』)
「インドス河口と向い合って、日の島と呼ぶいくつかの島があるが人は住めず、それと
いうのも島へ足を踏み入れると、周りの空気の力で、たちまち息の根を止められるほどだ
からである。また、当の河口の間がパタレネという土地で、ここはがまんならないほど暑
いため、住民がいなくなったところもある」(ポンポニウス・メラ『世界地理』)
「インドス河は二つの河口から南方の海へ注ぎ、両河口内に『パタレネ地方』を取り包
んでいて、この点はエジプトでのデルタ地帯に近い」(ストラボン『ギリシャ・ロ−マ世
界地誌』)
さて、歴史家の言うパタラ島とは何か。私はインドはマレ−半島の南部にあったと考え
ているので、インドス川もこの辺に求めなければならない。地図でマレ−半島の南端を見
ると、ちょうど河口が二つに分かれてその間に島がある川がある。ジョホ−ル川である。
河口の間の大きな島とは、今日のシンガポ−ルだ。シンガポ−ルこそ昔パタラと呼ばれ、
後世の歴史家からはスマトラと呼ばれた島ではなかったのだろうか。スマトラとセイロン
(タプロバナ)が混同されていたことは、先に述べた。
「さて、この市からさほど遠くないところに大サマトラ〔スマトラ〕国、すなわちサマ
トラ島があり、この島は昔の世界誌学者たちからトポロバナ〔タプロバナ〕と呼ばれてい
た」(ゴンサ−レス・デ・メンド−サ『シナ大王国誌』)
セイロンはスマトラ島であるという学説は今日でも存在している。セイロンにはイスカ
ンダル(アレクサンドロス)に由来する岩屋と泉地もある(イブン・バットウ −タ『大旅
行記』)。また、アレクサンドロスがセイロンまで至ったという説もある。
「タプロバネ<セイロン>は、『反対国人の国』という名で、長い間いま一つのちがっ
た世界であると考えられていた。しかしアレクサンドロス大王の時代と功業とが、これが
島であることの明白な証明を提供した」(プリニウス『博物誌』)
「反対国人の国」とは、影が南ではなく北へ落ちる国のことである。プルニウスはまる
で、アレクサンドロス大王がセイロンを訪れたかのように書いている。しかし実際はセイ
ロンはインドの地から舟で三日くらい離れた所にあるので(玄奘『大唐西域記』)、アレ
クサンドロスがセイロンを訪れたわけはない。これはやはりプリニウスが、セイロンとス
マトラ(シンガポ−ル)を混同したのだろう。このような混乱は他の歴史家にも見受けら
れる。
「コモリ−ン岬から海側の南南東およそ四十マイルに有名なセイロン島の最〔南〕端の
岬があり、そこから島は北東へネガパタ−ン岬の真向かいまで伸びており、大陸の同岬か
ら十マイル隔たる。大陸とその島の間にいくつかの浅瀬と小島が横たわる。ベンガ−ラや
コラマンデル海岸に航行する船々はたいていそこを通るが、ときどきそこでずいぶん危な
い目に出会う」(リンスホ−テン『東方案内記』)
「セイランの美しい島はコモリンの前面に位置している。そしてほぼナオ−ル〔コロマ
ンデル海岸のナゴ−ル〕のあたりまで伸びている。それは海岸に沿って130レグワは充
分ある。コモリン岬〔の所で〕は非常に遠く、海上三十五レグワ離れており、そこから進
むと次第に近づいて来て、距離は十五レグワまでせばまる。マラバルのすべての船はこの
島とショロマンデルの海岸との間を航行する。ただベンガラ、ペグ−、シアン〔シャム〕
に向かう船は島の外側、すなわち南岸をまわる」(トメ・ピレス『東方諸国記』)
「セイロン島と大陸(インド東南端部の海岸地方、すなわちコロマンデル海岸)の間の
海域に一つの湾がある。湾内の水深はどこも十ペ−スそこそこで、最も深い所でも十二ペ
−ス、場所によってはわずか二ペ−スの浅さである。この湾で真珠が採れるのであるが・
・」(マルコ・ポ−ロ『東方見聞録』)
まるでセイロンがコモリン岬(インド南端)から目と鼻の先にあるかのような記述であ
る。繰り返しになるが、このセイロンはスマトラ(シンガポ−ル)の誤りであろう。シン
ガポ−ルとマレ−シアの間には水路があるし、シンガポ−ルの南は海峡(シンガポ−ル海
峡)を成している。どちらも船の通り道である。そう、シンガポ−ルは昔、スマトラと呼
ばれた島だったのだ。
だがここに一つ問題がある。ジョホ−ル川がインドス川でシンガポ−ルがスマトラだと
すると、セイロン(スマトラの間違い)はコモリン岬の前面に位置している、という記述
は矛盾してはいないか。コモリン岬は南インド、インドス川は西インドに位置しているか
らだ。
しかし地図をよく見ると、マレ−シアのジョホ−ル州がビンタン島の方に突き出ている
のに対して、ジョホ−ル川はその西に位置している。だから突き出た所を南インド、ジョ
ホ−ル川周辺を西インドと呼んでも不思議はないのである。また『大唐西域記』を読んで
も分かるように、南インドと西インドの区別は漠然としている。厳密に線引きは出来ない
のだ。したがってシンガポ−ルはインドス川河口のパタラ島であり、同時にコモリン岬沖
のスマトラ島であったとしても矛盾はないのである。
セイロンはどこか?
すると残された大問題は、セイロンの位置ということになる。セイロンはスマトラと混
同されるくらいだから、両島はお互いすぐそばに存在しているに違いない。セイロン島の
比定には私も少々苦労した。だが苦労して探せば、ヒントは必ずどこかに存在しているも
のである。
マルコ・ポ−ロは小ジャヴァ島の一地方に、サマトラ王国を置いた。そして小ジャヴァ
島からネクヴェラン島(翠藍山)、アンガマン島を経てセイラン島へ至っている。『諸蕃
志』(趙汝?)では、三仏斉国(シュリ−ヴィジャヤ、スマトラにあったと言われる)の
属国の一つに細蘭国(セイロン)の名が見える。どうやらセイロンは多くの島々が集まっ
ている内の一つらしい。
「セイロンの前に他の数個の島がくる。パタレ島、これはインダス川河口そのものに位
置していることを示したが、幅が220マイルある三角形の島である。インダス河口の外
側にはクリュセとアルギュレの両島、いずれもわたしの信ずるところでは各種の鉱物に富
んでいる。というのは、ある著作者たちの、そこには金銀鉱しかないという記述には信を
おき難いから。これらの島から20マイルのところにクロカラ島が、さらに12マイル先
にビバガ島があり、これはカキその他の貝類が豊富だ。そして上に述べた島から8マイル
のところにコラリバ島、そして多くの著名でない島々がある」(プリニウス『博物誌』)
「また、この島(タプロバネ)とインド地方(本土)との間にはこのほかにもいくつか
の島があり、この島が一番南にあたる」(ストラボン『ギリシャ・ロ−マ世界地誌』)
インドとセイロンの間にある島々とは、モルディヴ諸島のことを指している。モルディ
ヴとセイロンが昔はひと続きの島で、海水の浸食によって切り離されてしまったことは、
前に述べた。モルディヴ諸島もまた、スマトラ(シンガポ−ル)と同様にコモリン岬沖に
位置している。
「一般にマルディ−ヴァと称するこの諸島は、カボ・デ・コモリ−ンから真直ぐ西方の
洋上60マイルの地点に始まる。すなわち、この岬〔カボ・デ・コモリ−ン〕と同じ緯線
の北緯七度に始まって、南南東へと南緯三度まで伸び、全長140マイルに及ぶ。人の言
うところによると、そこにはおよそ一万一千の島があるということだが、むろん正確には
わかっていない。なにしろ数えきれないのである。・・
マラバ−ル人らの確言するところによれば、この諸島はむかしは大陸のマラバ−ルに続
いていたが、長い間に海が食い込んで切り裂いてしまったのだという」(リンスホ−テン
『東方案内記』)
プトレマイオスは島の数を1378、九世紀中葉のスレイマ−ンは1900くらい、十
世紀のマス−ディ−は2190、十四世紀中葉、イブン・バットウ −タは約二千、モンテ
・コルヴィノは一万二千以上、ジョルダ−ヌスは住民のいるものだけでも一万ないし一万
二千、ステファノは七、八千はあるとしている。
イブン・バットウ −タはモルディヴ群島からマア バル(インド南西海岸)に向かおうと
して、航路を誤ってスィ−ラ−ン島(セイロン)にたどり着いた。では、コモリン岬(マ
レ−半島南端)沖にある無数の島々(モルディヴ諸島)とはいったい何なのだろうか。こ
れはずばり、リアウ諸島とリンガ諸島である。地図を見てもお分かりのとおり、この海域
には数えきれない程、多数の島々が存在している。そしてこれら無数の島々が、海水の浸
食作用によって形成されたであろうことは容易に推測がつく。
さてここまで分かれば、セイロン島の比定は簡単であった。リアウ諸島、リンガ諸島の
一番南(ストラボン)に位置していて、航海の目印となる高い山が存在する島、それはリ
ンガ島に他ならない。リンガ島のリンガ山は1163メ−トルなので、余り高い山ではな
いとお考えかもしれない。しかしそれは比較の問題である。リンガ島の周辺には、スマト
ラ島のリアウ地方、ジャンビ地方、マレ−シアのジョホ−ル州と見渡してみても、他にこ
れ程高い山は見当たらないのである。当然、海上からは目につき、船の目標ともなろうと
いうものだ。もちろん、リンガ山は島内で最も高い山でもある。そう、いにしえの仏教徒
の聖地、アダムス・ピ−クとはこのリンガ山のことだったのである。
セイロンがリンガ島だとすると、セイロンはエチオピアの方へ向いている、あるいは達
している、という歴史家の記述も納得のいくものとなる。何故ならリンガ島はスマトラ島
のジャンビ地方の沖合に位置しているからだ。このジャンビ地方の辺りが、昔はエチオピ
アと呼ばれた地域だったのである。そしてもっと重要なことは、リンガ島が赤道直下に位
置していることだ。セイロンは赤道を越えて南緯2°にまで広がっているという、プトレ
マイオスの記述とも符合している。ちなみに私は、リンガ諸島のシンケプ島がマルコ・ポ
−ロの言うアンガマン島、リアウ諸島のビンタン島が大ジャヴァ島に当たるのではなかろ
うかと考えているのだ。
ところで、リンガ島の北の海域には特に小島の数が多く、地図を見れば昔はこの島々が
リンガ島と陸続きだったことが分かる。マルコ・ポ−ロは次のように述べている。
「この島(セイロン)たるや、この方面の海域を航海する船乗りたちの海図を見ればわ
かるように、かつてはもっと大きく三千六百マイルの周回を有していたのである。しかし
、何しろこのあたり一帯は北風がはげしくて、島の陸地のかなりの部分が海中に湮没した
ため、現今では、もはや往昔ほどの大きさではなくなったのである。この島は北風の吹き
つける側が非常に低くかつ平坦になっているので、外洋から船で島に接近する際でも、接
岸の直前までその陸地が弁別できないほどである」(『東方見聞録』)
リンガ島の描写とピタリと一致している。海水によって分断される以前は、おそらくマ
レ−シア、シンガポ−ル、そしてリアウ諸島とリンガ島は陸続きだったのであろう。そし
て、マレ−シア(インド)からリンガ島(セイロン)へ至る間の無数の島々を、昔の人々
は天国への架け橋という意味で、アダムズ・ブリッジと呼んだのである。
「ネパ−ルに伝染病が発生したとき、ネパ−ルの人たちはカプチン会宣教師の僧衣の色
を槍玉にあげることを、たまたま思いついたというわけです。というのは、青い色は神を
冒涜するものだと、神々がたいへんに激怒し、ベンガルからランカ(これは海底の想像上
のセイラムの名前ですが、むしろ彼らの死後の極楽です)へ行く橋を破壊してしまった。
そのために死者の魂はその橋が見当たらないので引き返さざるを得なくなり、その怒りは
現存者に向けられ、神父たちを殺害することで晴らそうということになったというわけで
す」(I・デシデリ『チベットの報告』)
ネパ−ル人もチベット人もセイロンの存在を知っていた。何故ならネパ−ルもチベット
も、今日のマレ−シアに存在していたからである。だからこそ、チベット僧のアティ−シ
ャがシュリ−ヴィジャヤ(スマトラすなわちシンガポ−ルのこと)に留学出来たのである
。常識的に考えたら分かると思うが、飛行機も車も存在していない時代に、今日のチベッ
トからスマトラ島までわざわざ出かけていくはずがないし、そもそもそんなことは不可能
であろう。行って帰って来るだけで、一生を費やしてしまいそうだ。現代人が想像するよ
りも、昔の人にとって世界は広かった。現代ではたった一つの小さな町が、昔の人にとっ
ては一つの国家に相当したのである。今日のスマトラ島が昔のアフリカ大陸であり、昔の
スマトラ島がシンガポ−ルであるなどと言うと、現代人はびっくりするかもしれない。余
りにも小さすぎるのではないか、と思うかもしれない。だがそう言う人は実際に自分の足
で現地を歩いてみればよい。飛行機も車も自転車もモ−タ−ボ−トも使わずに、現地を移
動してみればよい。徒歩で、あるいは馬に乗って、あるいは帆船で移動するのだ。当人が
思ったよりも、世界は広いと感じるだろう。
ここに歴史研究の落とし穴が存在していたのである。現代人は世界地図や地球儀やテレ
ビを見慣れ、あるいは飛行機や車で移動することに慣れて、自然な感覚を失ってしまった
のである。自然な感覚とは、大地はどこまでも広く、海は果てしなく遠い、ということだ
。一日歩いて20キロ、十日で200キロ、少し休んで一月で400キロ、半年で200
0キロ、という通常の感覚を失ってしまったのだ。地を這う動物としての人間にとっては
、やはり日本列島は島ではなく大陸であり、島といえば淡路島くらいの大きさが島と呼ば
れるのに相応しいだろう。
したがって、現代人にとっては世界のほんの一地域に過ぎない東南アジアが、昔の人に
とっては全世界に感じられたのだ。その全世界は今日の東南アジア各国で形成されていた
。今日のマレ−シアに中国とペルシャとインドとアラビアとヨ−ロッパがあり、スマトラ
がアフリカ大陸であった。昔の人にとって、これが全世界だったのである。
そして新大陸と呼ばれた南北アメリカは、今日のミャンマーやタイやカンボジアだった
のだろう。喜望峰は今日のスマトラ島南端部であり、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発
見とは、紅海(マラッカ海峡)を迂回して大西洋(インド洋)を経てインド(マレ−シア
東南部)に至る航路だったのである。
世界は、地球は、現代人が考えているよりはるかに狭かったのだ。太陽神崇拝など、世
界各地の神話に共通点があるのもそのためである。アジアもアラビアもアフリカも南北ア
メリカも、互いに近い位置関係にあったのだ。したがって、昔の地理学者の言う緯度経度
も今日の尺度で考えてはいけない。同じ1°でも、昔の方が今日よりも小さな距離を表し
ていたはずである。プトレマイオスはタプロバナ(セイロン)は北緯12°30′から南
緯2°30′まで緯度で約15°にわたって広がる巨大な島であると描写したが、これも
そのためであろう。スタディオンやマイルや里などの単位も同様である。推測されている
距離数よりも、実際ははるかに小さな距離を表現していたはずだ。
では私がインドの位置を比定する際に用いた赤道も、絶対的な基準とはならないのであ
ろうか。そうではないと私は考えている。何故なら、昔も今も北極星は不滅の不動点だか
らだ。天空で唯一動かない(回転しない)星が北極星である。これは旅する人にとっては
、自分のいる場所を推し量る上での掛けがえのない目印となる。したがって北極星が地平
線や海面と接する場所(赤道)もまた、絶対的な基準として用いてもよいのだ。また北極
星だけではなく、私は動植物の分布なども世界各地の位置の比定に援用した。
翻訳上の問題
中国僧、法顕は仏教経典を求めてインドへ旅立った。長安を出発して敦煌に至り、沙河
を渡って楼蘭に着いた。そしてコ−タンを経てパミ−ルに入った。パミ−ルは中国語で葱
嶺と書くことは前に述べた。この「葱山(葱嶺)は冬も夏も雪があり」(『法顕伝』)と
書かれている。ここに言う「雪」は文字通りの雪ではなく、翻訳上の誤りであり、「霜」
とでも訳すべきであることは前に述べた。
これと同様に、「沙河」の翻訳にも問題がある。通説では「沙河」はゴビ砂漠、タクラ
マカン砂漠であるとされている。東南アジアに砂漠はないので、これも翻訳上の誤りであ
る。沙河は砂漠ではなく、荒れ地と訳すべきである。
砂漠と同様に問題なのは「駱駝」である。アラビア砂漠には駱駝がいるとされているが
、これも明らかに何か他の動物のことを指して駱駝と言ったに違いない。これらの「雪」
「砂漠」「駱駝」は重要なキ−ワ−ドである。しかし真実を読み解くキ−ワ−ドではなく
、読者をミスリ−ドさせるキ−ワ−ドなのである。「雪」「砂漠」「駱駝」という単語が
目に触れた途端、読者の連想はそれらが実在する特定の地域に限定されてしまうのだ。し
たがって、こんな誤訳を犯した学者連中やそれを黙認した学会の罪はとてつもなく重い。
あるいは、これも仮説の一つだが、昔の気候は現在よりもはるかに寒かったことも考え
られるのである。だがら、東南アジアにも雪が降ったし川も凍ったのだ。この点は、もっ
と深く追求するべき課題として残されている。
天竺、波斯、大秦
玄奘は西インドの西北に波剌斯国(ペルシャ)があり、その西北に大秦国(ロ−マ)が
あると述べている。マレ−半島南端(インド)の西北寄り、マラッカ海峡に沿った地域に
波剌斯国(ペルシャ)と大秦国(ロ−マ)があった。マラッカ海峡は昔の紅海、地中海に
相当する。アラビアももちろん、このマラッカ海峡(紅海)沿いにあった。何故なら大食
(アラビア)は波斯(ペルシャ)から分かれて出来た国だからである。
「大食国は、もともと波斯の別種である。隋の大業中(605〜617)〔波斯版〕の
桀黠というべきものがおり、穴から文字が刻まれた石を探しだし、瑞兆だとばかりに部衆
を糾合して財貨を剽略した。傘下に投ずるものがだんだん多くなり、ついに獨立して王と
なり波斯国の西境を領有した」(趙汝?『諸蕃志』)
大食(アラビア)、波斯(ペルシャ)、大秦国(ロ−マ)はマラッカ海峡に並んで存在
する国だった。そして昔の中国人は、大秦の西に世界の果てがあると記している。
「大秦国の西には大海が広がり、大海の西には大河がある。その大河の西には南北に連
なる大山があり、その西には赤水が流れ、赤水の西には白玉山があり、白玉山には西王母
〔の山〕がある。西王母の西には長くつづく流沙がある。流沙の西には、大夏国、堅沙国
、属?国、月氏国があり、その四つの国の西方には黒水がある。これが伝聞の及ぶもっと
も西のはしである」(『魏書東夷伝』)
大秦の西の大海は地中海、赤水は紅海、黒水は黒海のことであろうか。赤水の西の白玉
山に住む西王母とはひょっとしたら、シバの女王のことであろうか。これは勝手な推測で
ある。
ところでこの大秦(ロ−マ)の地へ、中国から絹がもたらされたと言われている。これ
がいわゆる、シルク・ロ−ドである。だがちょっと考えれば分かることだが、気候の寒い
西欧諸国で絹などの薄い布地が重宝されるわけがないのである。寒さの厳しい地域では、
羊毛などの方がはるかに需要が大きいはずである。絹がありがたがられるのは、気候の暖
かい地域の住人が素肌を軽快な布地で覆うような場合である。ヨ−ロッパなどの寒い地域
ではなく東南アジアのような暖かい地域でこそ、絹が尊重されるのだ。私が何を言いたい
か、もうお分かりだろう。シルク・ロ−ドも今日のマレー半島に存在していたのである。
そもそも中国など絹の名産地でもないだろう。中国土産のシルクなどという話は聞いたこ
ともない。
「支那図説」
イエズス会のアタナシウス・キルヒャ−神父は「支那図説」という奇書を著しているが
、その中で興味深い論を展開している。ペルシアの王、カンビュセスはエジプトを侵略す
ると、エジプトの聖牛アピスを殺し祭司たちを迫害したので、祭司たちはアラビア湾沿い
にインドまで亡命した。このインドの地で彼らは太古の文明の記念碑を見つけ、ヘルメス
やバッコス、オシリスなどのエジプトの神々が、自分たちがやって来る以前にこの世界の
果て(インド)に伝わっていたことを発見したのである。この地で彼らはカンビュセスに
よって葬られたエジプトの神々に対する信仰を新たにしたと言う。その信仰は聖牛崇拝と
輪廻転生を中心とするものであった。
以上が有名な「インド文明エジプト起源説」である。だがインドの神々とエジプトの神
々は違うではないか、と仰るかもしれない。実はそんなことはないのである。エジプトの
オシリスはギリシアではディオニュソスと呼ばれインドではシヴァと呼ばれた。エジプト
のアンモンはギリシアではゼウスと呼ばれインドではインドラとなる。エジプトでもギリ
シャでもインドでも、同じ神を別々の名前で呼んだに過ぎないのである。
興味深いのは、キルヒャ−がこの邪説(聖牛崇拝と輪廻転生)の創造者を釈迦仏である
と見なしている点である。歴史家の中には、釈迦仏はシリアの亡命ユダヤ人であるとか予
言者ヨシュアであると、誤って主張する者もいた。インド人である釈迦をどうしてユダヤ
人と間違えたのであろうか。
インド文明の起源がエジプトにあったことはよいとして、問題は今日のアフリカ大陸の
エジプトから、今日のインドまでその文明が伝わったのか否かである。文明や宗教が伝わ
るには、ちょっと遠すぎないだろうか。その通り、今日のエジプトもユダヤもインドも、
文明や宗教の発祥地とは何の関係もなかったのである。文明も宗教も今日の東南アジアで
誕生した。だから昔のエジプト(スマトラ島リアウ地方)やインド(マレ−シア東南端)
も、わりと近い位置関係にあったのだ。文化や宗教の交流があって当然である。ユダヤも
もちろん、今日のマレ−シアに存在した。だからユダヤ人の王、キリストがはりつけにさ
れた際に頭に戴いた茨の冠は、「海の藺」すなわち珊瑚であった、という話も存在してい
るのである。
「ところで、人の噂どおり、この冠が茨のそれであるとしても、じつは、それは真っ白
で、茨と同じように鋭くとがった海の藺であることをお知らせしたい」(J・マンデヴィ
ル『東方旅行記』)
この珊瑚はマラッカ海峡で取れたものなのだろうか。キルヒャ−の論点でもう一つおも
しろいのは、「エジプト中国植民説」である。ノアの子孫のハム族が、エジプトからバク
トリア経由で中国へ文字を伝えたというのだ。エジプトの文字とはヒエログリフ(聖刻文
字)のことで、中国の文字とは言うまでもなく漢字である。確かに両者とも動物、鳥、爬
虫類、魚、木などの絵から文字が作られた点は同じである。すると中国文明の起源はエジ
プトにあったのか。中国やインドに共通する偶像崇拝の起源はエジプトにあったのか。し
かり、スマトラ島リアウ地方がエジプトでマレー半島北東部が中国であったとすれば、こ
の説にも説得力が出てくる。ただしヒエログリフと漢字では異なる点も存在している。ヒ
エログリフは漢字みたいに日常会話で使われることはないし、資格のある限られた人間に
だけ密かに伝えられたものである。ヒエログリフは漢字と異なり、隠された力や機能を表
現している。神秘的、オカルト的な意味合いがあるのだ。
蛇足になるが、キルヒャ−は「支那図説」の中でインドに棲息するという「空飛ぶ猫」
について言及している。鵞鳥よりも大きくて全身に毛が生えていて、頭部は猫に似ている
動物だという。私はこの動物は東南アジアに棲息する「ヒヨケザル」ではないかと思う。
今日のインドに「ヒヨケザル」は棲息していない。興味のある人は是非、動物図鑑で調べ
てみて欲しい。
中国人から見た西洋
では中国人はヨ−ロッパ諸国のことを、どのように見ていたのであろうか。歴史書を漁
っていて、おもしろい記述を発見した。
「〔魏書〕大秦国は、犁 、安都城とも呼ばれ、条支の西より海を渡って曲がり、一万
里、代を去ること三万九千四百里である。その海の傍らはまだ渤海に出る。だから、東西
は渤海と相い望むのは自然の理である。その地方六千里は両海の間にある。
漢晋より以来、皆は地中海を大西海と間違えた。昔、食料を持って数年、始めて大秦に
達してこの説が誕生した。ただ魏書は始めてその海の傍らはまだ渤海に出ると認めた。中
国と渤海は東西相い望んでいる。古より地中海はこの所より先はないと言われている。海
を渡って万里を曲がり、その縦の長さはこれであると言い、南北横は実に三千余里で止ま
る所である。その地は両海の間にあり、大秦の北にはまた洲中海がある。地中海と広さ長
さがおよそ半分である。皆、渤海で大西海ではない。故に、西域は魏書には詳しくないと
言う」(魏源『海国図志』)
下手な訳で申し訳ない。私も漢文は素人なので、勘弁して頂きたい。ここには、地中海
の隣に渤海があると書かれている。「渤海はもと高麗の別種」(『宋史』)なので、この
渤海が中国人に「海東の盛国」と称された、朝鮮北部にあったとされるあの渤海と同一で
あることは間違いない。何と、地中海と朝鮮は隣同士だったのだ。これまた、地中海が東
南アジアにあったことの傍証になりはしないか。
一方、魯迷(コンスタンティノ−プル)については、中国史書にどう述べられているの
だろうか。
「近くの土魯番(トルファン)がしばしば甘肅を侵略したので、付近の役人が天子の命
令で魯迷に入って、土魯番の人がいると知った」(『明史』)
こちらの訳はわりと分かりやすいだろう。甘肅とトルファンとコンスタンティノ−プル
は隣近所だったのだ。これまた、東ロ−マが東南アジアにあったことの傍証になる。そし
て遂に、ヨ−ロッパが東南アジアにあったことを証明する決定的な証拠が見つかったので
ある。
「その時、大西洋人が中国に来て、マカオに居た。・・後にまた干系臘国(スペイン)
と称した。犀、象、真珠を多く産する所で・・初めは仏教を奉じて、後に天主教(キリス
ト教)を奉じた・・滿剌加(マラッカ)、巴西(ブラジル)、呂宋(ルソン)の三国が滅
んでからは、海外の諸国で敢えてこれに抗うものは無くなった」(『明史』)
この干系臘国は、別名「西班亞」とも書くので(『海国図志』)、スペインを指してい
ることは間違いない。スペインに犀や象がいて、真珠もある。おまけにキリスト教が信仰
される以前は、仏教が行われていたというのだ。これこそ、スペインが東南アジアにあっ
たことの証拠ではないか。まだある。
「俄羅斯(ロシア)は髪拳が黄色なので紅毛と称する・・初め仏教を奉じて、後に天主
教を奉じた・・」(『海国図志』)
ロシアでも仏教が信仰されていた時代があったのだ。すなわちロシアも東南アジアにあ
ったことになる。
中国から見た日本
ついでに、中国から見た日本についても語っておこう。
「男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨する」
「その道里を計ってみると、ちょうど会稽の東冶(福建?侯)の東にあたる」
「倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みなはだし」
「真珠や青玉が産出される」(以上『魏志倭人伝』)
「その地は、おおむね会稽の東冶(福建?侯)の東にあり、朱崖・?耳(ともに今の海
南島)とたがいに近い」(『後漢書倭伝』)
「男子は多くうでに入墨し、かおにもからだにも入墨し、水にもぐって魚を捕らえる」
「気候は温暖で、草木は冬も青く、土地は肥えうつくしく、水が多く陸が少ない」(以
上『隋書倭国伝』)
「家畜には水牛・驢・羊があり、犀・象が多い」(『元史日本伝』)
倭国には水牛や犀や象が棲息していたのである。これは明らかに今日の日本列島につい
ての記述ではない。その他の記述を見ても、どこか南の島を彷彿とさせるものばかりであ
る。倭国はマレーシアの沖合のどこかの小島だったのであろう。
ところで傑作なのは、『明史』の日本に関する記述である。これだけ何故か日本語に翻
訳されていない。不思議な話である。
「(萬暦)十九年十一月上奏する、倭の頭である関白、平秀吉は明くる年の三月に来犯
すると声言したので、兵部に告げて海防を整えるように申した。平秀吉なる者は、薩摩州
の人である。初めは倭の関白である信長に従う。信長がその手下に殺されると、秀吉は遂
に信長の兵を統べて、自ら関白と称した」
「日本には昔から王がいる。その下は関白が最も尊ばれている。時に山城州の頭である
信長がこれに相当する。たまたま狩りに出て人が木の下に寝ているのに遇った。驚いて起
き上がるとぶつかったので、これを捕らえて詰問した。自ら平秀吉と名乗り、薩摩州の下
男であると言った。勇ましくて強く身軽ですばやく、弁舌が達者であった。信長は悦んで
馬を飼育させ木下人と名付けた。後に次第に勢力をふるい、信長を画策させて二十余州を
奪い併合した。遂に摂津の鎮守大将となった。参謀の阿奇支という者がいて、信長に罪を
着せ、秀吉に命じて兵を統べこれを討ち取らせようとさせた。まもなく信長がその手下の
明智に殺されると、秀吉はそむいて阿奇支を攻め滅ぼした。事変を聞くと、部将の行長等
と勝ち進み兵を返してこれを討ち、威名はますます振るった。ついで信長の三子を廃して
関白を僭称した。ことごとくその衆を得た。時に萬暦十四年。ここに於いてますます兵を
治めて、六十六州を征服した。また威を持って琉球、呂宋(ルソン)、暹羅(シャム)、
佛郎機(フランス)諸国を脅かしたので、皆、使いを出して奉献した」(以上『明史』)
驚いたのは私だけではあるまい。日本史の常識と食い違っている点がたくさん存在して
いるからだ。例えば、信長は山城ではなく尾張の頭ではなかったか。秀吉の姓は平ではな
く羽柴ではなかったか。秀吉は薩摩ではなく尾張の出身ではなかったか。阿奇支とはいっ
たい誰のことか。信長を恐れてフランスが日本に奉献したなどという歴史的事実はあった
のか。
ここに『明史』の言う佛郎機とは、「フランキ」すなわち「フランク族の国」という意
味で、フランスの事を指している。フランスの植民地であった東洋の国、という意味では
ない。『海国図志』にも、「佛蘭西之那波里稔王」とある。これは「フランスのナポレオ
ン王」という意味である。「佛蘭西」は「佛郎機」の別称である。この『明史』の記述か
ら、フランスも日本もルソンもシャムも互いに近い位置にあった事実を読み取ることが出
来る。つまり、フランスも今日の東南アジアに存在していたのだ。
歴史の剽窃と抹殺と捏造
以上が私の探り出した「衝撃の世界史」の概略である。信じられないだろうか。あるい
は、信じたくないだろうか。しかし時に我々には、受け入れがたい真実を受容する、頭の
やわらかさと直観力が要求されることがある。常識という観念の牢獄をぶち破るには、精
神の柔軟性が必要なのだ。知識については、努力次第でいくらでも吸収できる。あと必要
なのは、世間体を恐れずに自ずからの信念に従って行動する勇気だけである。無視されよ
うが、馬鹿にされようが、非難されようが、あくまでも真実を貫き通そうとする鋼鉄の意
志が要求されるのだ。
しかしだからと言って、頑固であってはならない。他人の反論に素直に耳を傾け、価値
ある意見は取り入れて、修正すべき点は修正し、改めるべき点は改める態度は必要であろ
う。もっともそのためには、相手方もそれなりの知識を有していなければならない。議論
のベ−スとなる知識がなければ議論は成り立たず、単なるあらさがし、非難の応酬で話は
終わってしまうからだ。
そこで私は、この論文を一読した者からまず返ってきそうな反論について取り上げて、
それに対する回答を持って、この論を締め括りたいと思う。
まず最初に誰でも気付く点は、遺跡に関する問題であろう。エジプトにはピラミッドが
あるし、サウジアラビアにはカ−バ神殿があるし、ギリシアにはパルテノン神殿があるし
、イランにはペルセポリス跡があるし、インドにはタ−ジ・マハ−ルがあるし、インドネ
シアにはボロブドウ −ルがあるし、中国には万里の長城がある。誰でも知っている。だか
ら常識なのである。遺跡があるということは、これは動かぬ証拠なのではないか。エジプ
トはやはり今のアフリカ大陸にあり、インドは今日のインド、中国は今日の中国にあった
のは間違いない、疑いない。これが常識である。
この点に対しては、私はこう反論したい。いったいこれらの遺跡は本物であるのか、と
。まったく関係ない遺跡を歴史的建造物であると勘違いしていることもあろうし、遺跡が
後世のでっち上げである可能性も大きい。いったい、何時、誰が、何のために遺跡を捏造
したのか、という疑問はひとまず置いておいて、当の遺跡がでっち上げられたものである
という根拠を若干、ここに提示して置きたいと思う。まずピラミッドについて。文献には
次のような記載がある。
「ケプレンはピラミッドの基層を色のあるエチオピア石で造り、大ピラミッドに接して
建てたが、高さはそれよりも四十フィ−ト低い。このピラミッドは二つとも、高さおよそ
百フィ−トの同じ丘の上にある」
「ケプレンの後、ケオプスの子ミュケリノスがエジプト王になったという。・・この王
もピラミッド一基を残したが、これは父のものよりもはるかに小さく、方形の各辺の長さ
が三プレトロンに二十フィ−ト足らず、半分がエチオピア石で造られている」(以上、ヘ
ロドトス『歴史』)
「この王(ミュケリノス)は第三のピラミッドを築こうと計画したものの、建造物が全
部完工を見ないうちに死んだ。底辺部はそれぞれ三プレトロンもの基礎を持ち、側面を十
五階までは黒御影石を使い、石はテバイのピラミッドの石材に似通っている。しかし、残
りはそのほかの諸ピラミッドのものとおなじ種類の材で、仕上げられた」(ディオドロス
『神代地誌』)
「これら両ピラミッドはおなじ平面内に互いに隣り合うように立っているが、三つ目の
ピラミッドは先の二つからさらに離れて山地のもっと高いところに位置する。先の両墓よ
りはるかに小型だが、その造りには両墓よりはるかに多額の費用をかけている。すなわち
、基礎石からほとんど中間あたりの高さまでの間に黒い石を使い、これを材料にしてしっ
くいをも調製しているが、石は遠方から運んだものである。すなわち、エチオピア地方の
山から出し、材質が硬く加工し難いため工事はひじょうに高くついた」(ストラボン『ギ
リシャ・ロ−マ世界地誌』)
この三つのピラミッドが、かの有名なギザのピラミッドである。現在では、大ピラミッ
ドはクフ王、第二ピラミッドはカフラ−王、第三ピラミッドはメンカウラ−王が建てたと
されている。しかしヘロドトスはピラミッドを建造した王は、ケオプス、ケプレン、ミュ
ケリノスであったと書き、ディオドロスは、ケンミス、ケプレン、ミュケリノスであった
と書いている。歴史家はクフ王などと呼ばれる王が存在した、などという記録は一切残し
ていない。誰がクフ王などをでっち上げたのか。
記録からは、大ピラミッドと第二ピラミッドは、同じ丘の上に隣り合って建っていたが
、第三ピラミッドは離れた所に建っていたことが分かる。しかしギザのピラミッドは、三
つのピラミッドが斜めに並んで立っている。これはおかしいではないか。また記録では、
第三ピラミッドは下から半分は黒い石が使われたとされている。実際はご存じの通り、ギ
ザのピラミッドは褐色の石灰岩で出来ている。第三ピラミッドには赤い玄武岩の化粧石が
残されているが、黒の御影石(花崗岩)ではない。黒い石はどこへ行ったのか。
もうお分かり頂けたと思う。今日のギザにあるピラミッドは、ヘロドトスやストラボン
が記述したピラミッドとは全くの別物だったのだ。では次に、インドネシアのジャワ島に
あるボロブドウ −ル遺跡を取り上げよう。
この遺跡は私も実際に自分の目で見たことがある。これは1814年にイギリスのラッ
フルズ(シンガポ−ルを作った男)によって掘り起こされた世界最大の仏教遺跡である。
ボロブドウ −ルの近くには、世界で最も美しいヒンドウ −教寺院といわれるプランバナン
が存在している。仏教王国とヒンドウ −教王国が交互に栄えた、と言われているジャワの
歴史を象徴しているかのようだ。しかし私は、このかの有名な仏教遺跡は後世の捏造であ
ると考えているのだ。
ではボロブドウ −ルが偽物であるとする根拠だが、これはちょっと宗教的な問題に関わ
って来るので、その方面の知識や経験がないと理解出来ないかもしれない。ボロブドウ −
ル遺跡の頂上にストウ −パがあるが、これは中が空洞になっていて、そこに仏像が安置さ
れている。ストウ −パには四角い隙間が沢山開いていて、そこから手を伸ばして中の仏像
に触れることが出来ると、ご利益があるという。仏教徒なら分かると思うが、こんな馬鹿
な話はない。ありがたい仏像を石の壁で囲い込んで、中に閉じ込めてしまう。まるで仏陀
を牢屋に監禁しているみたいだ。仏教徒だったらこんな冒涜は絶対に犯さないだろう。ボ
ロブドウ −ル以外に、こんな仏教建築が存在しているという話は聞いたこともない。これ
はやはり、ボロブドウ −ルが偽仏教建築であるという証明になろう。
またボロブドウ −ルを実際に見たことがある人なら分かるが、この遺跡は大きいことは
大きいが、横に大きく広がっていて、そのわりには高さはない。つまり表現は悪いが、べ
ちゃっと潰れた牛の糞みたいな感じなのである。一方のプランバナンは、一つ一つの寺院
は炎が燃え上がるみたいに、上へ上へと伸び上がっている印象を受ける。およそ全ての宗
教的な建築物は、天へと向かう宗教者の精神を具現したものであるはずであるから、空高
くそびえ立つように作るのが自然である。地に這いつくばったような格好のボロブドウ −
ルは、宗教的建築物としては失格なのである。単に失格であるだけでなく、これはおそら
く捏造であろう。
ペルセポリスの王宮についてはどうだろう。この王宮はアレクサンドロス大王が焼き払
ったはずだが、柱がにゅきにゅきと突っ立っているのは何故だろう。焼き払ったというか
らには、木造建築物ではなかったのか。また写真を見ていて感じるのだが、数千年前の建
築物にしてはやけにきれいである。きれい過ぎて嘘くさい。これはエジプトのピラミッド
についても同じことが言える。石灰岩という柔らかい石材が使われているわりには、よく
保存されている。保存され過ぎではないか。
建築物だけではなく、壁画も怪しい。エ−ゲ文明のクノッソス宮殿の壁画など、お笑い
種である。女性やイルカなどいきいきと描かれているが、とても三千年前に描かれたもの
には見えない。ほんの数十年前の作品に見える。探せばきりがない。世間の人がこれらの
贋作を本物だと思ってしまったのは、疑わないからである。疑いの目を持って見れば、嘘
はたちどころに見抜けたはずなのだ。自分の目でよく見て、検討して欲しい。きっと素敵
なインスピレ−ションが湧いてくると思う。
では最後になったが、誰が、何時、何のために、手間暇かけてこんな大がかりなペテン
を仕組んだのか、私の仮説を述べて終わりとしたい。
私たちの知る文明は、歴史は、芸術は、全て現在の東南アジアにあった。宗教もそうだ
。もちろん世界の他の地域にも人間は生存していたであろうし、何らかの文明もあったの
だろうが、我々がそれらを知ることは出来ないのである。今日のイギリスにもヨ−ロッパ
諸国にもロシアにも中東にもインドにも中国にも日本にも何らかの文明はあったはずだが
、それがどんなものであったかは、もはや闇の中である。記録に残されている世界の歴史
の舞台とは、今日の東南アジアであったからだ。そこで繰り広げられた偉大なドラマの登
場人物も、今日の東南アジアの人々だったのである。
では何故、これらの偉大な文明が現在の東南アジアに残されていないのだろうか。抹殺
されたから、としか考えようがない。世界史はいったん終了したのである。そして舞台の
登場人物はすり変わった。詐欺師が他人の筆跡を真似て、その人物に成り済ますように、
アジアの民族の歴史を盗んで己のものとしてしまった民族が存在したのである。白色人種
である。もちろん白人全てが悪いわけではなく、その中のほんの一握りのエリ−ト連中に
問題がある。歴史の秘密の鍵を握る連中の数は限られている。白色人種は今日の東南アジ
アを征服した後、そこにあった歴史や文化を吸収した。そしてそれを今日の世界全体へと
拡大したのである。世界地図を見ながら、東南アジア各地を地球全体へと拡大して割り振
って行った。そしてスマトラ島はアフリカ大陸に、マレ−半島はヨ−ロッパと中東とロシ
アとインドと中国に、インドシナ半島は南北アメリカになった。東南アジアの地形を拡大
すると、世界全体の形状に近い(あくまで近いであり、そっくりではない)ものが出来上
がるからだ。
そしてこの割り振りが完了した後、彼らは世界の線引きをして国境を定めて国家を捏造
し、そこに各国に対応した文化や宗教や言語や建築物等を創造させた。イギリスには英語
を、ヨ−ロッパ圏にはキリスト教を、エジプトにはピラミッドを、アラビアにはアラビア
語とイスラム教を導入した。そしてかつては世界そのものであった東南アジアは、東南ア
ジアという余り有り難くない名前を頂戴してしまったのだ。東南アジアも線引きされ、タ
イやベトナム等といった、かつてマレ−半島にあったであろう小国の名前を頂戴した。名
前だけではなく、言語や宗教や文化も入れ替わった。
それではいったい何時、歴史の主役が入れ代わったというのだろうか。ここではあまり
詳しく述べないが、私は1880年あたりに、このすり替えが行われたのではないかと考
えている。
だがいくらなんでも、1880年代に歴史と地理がすり替わってしまったというのは無
理があるのではないか、現代と近過ぎるではないか、と仰るかもしれない。その通りであ
る。だから歴史は1880年代でいったん終了したと私は述べたのである。その後何百年
が経過したか、それは分からない。星の動きや日食の記録等で調べることも可能なので、
目下調査中である。その何百年かの間に東南アジア(世界)の文明は滅び、そこにあった
文明は世界各国に移植され、東南アジアには今までと全く別の文明が導入された、という
わけだ。そしていよいよ舞台が整った時、再び時間をリセットして1880年代から始め
たのである。今度は写真や映像が発明されていたので、誤魔化しようがない。歴史の抹殺
や捏造は極めて困難である(だが不可能ではないことは、ナチスによるホロコ−ストや南
京大虐殺という事例が証明している)。こうして再び歴史は動きだし、記録され、真実な
ものとなった。この間に時間の空白が存在し、主役がすり替わっていることに誰も気付か
ないまま動き始めたのである。すなわち、ここは非常に重要な所であるが、現在は西暦2
003年ではなかったことになる。
以上が私の仮説である。あくまで仮説であるので、他にうまい説明をつけられる人は私
に教えて欲しい。検討してみたい。だがこの議論の前提は、現在存在している世界の歴史
はもともと東南アジアに存在していた、というものである。お忘れないように。もしこの
前提に異議がある、という人はそれもよかろう。反論の材料を文献から探し出して私に提
示して欲しい。だがピラミッドや何とかの遺跡や、何とかの彫刻や、何とかの壁画等を持
ち出すのは止めてほしい。退屈なだけである。
それにしても不思議なのは、東南アジアにあった世界の歴史は何故滅びてしまったのか
である。当時はペストやコレラが流行っていたという記録があるので、これらの病気で文
明が衰退してしまったのかも知れない。あるいは何か大きな戦争でも起こったのか。それ
とも洪水などの天変地異でも起きたか。それこそハルマゲドンでも起きたのか。それは誰
にも分からない。記録が残っていないからである。もし残っていたとしても、我々の目に
触れる機会は絶対に来ないだろう。
だが私はやはり、世界(東南アジア)の文明は白色人種によって滅ぼされた可能性が高
いと考えている。アジアを植民地化したのが白人だったからだ。中でも今日のイギリスは
七つの海をせいし、アジア各国を支配下に置いた歴史がある。イギリスがこの世界的謀略
の中心的役割を果たしていることは間違いないだろう。仏教遺跡の発掘も、イギリス人が
中心的役割を果している。
最後にちょっと長くなるが、ある本からの引用をもって締め括りとしたい。
1987年に亡くなったアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説『伝奇集』の
中に、興味深い短編がある。題名は『ト−レ−ン、ウクバ−ル、オルビス・テルティウス
』。
ボルヘスの物語によると、“ト−レ−ン”とは、メンフィスに住むある常軌を逸した南
部の貴族から資金援助を受けた、頭のいい男たちのグル−プが発明した架空の惑星である
。
彼らはト−レ−ンの言語、哲学、数学などの細部にわたる完璧な集大成ともいうべき不
朽の作品『ト−レ−ン百科辞典』を刊行するため、自分たちの才能と各分野からの協力者
の力を注ぎ込む。しかし、彼らは人のいい大衆には一度にほんのわずかなことしか明かし
ていかない。
発起人たちは、“オルビス・テルティウス”という秘密結社のメンバ−であるが、こう
した企てのすべてを永久に秘密にしておくことを誓いあう。
ト−レ−ンでは、我々が知っているような時間の概念はない。過去は現在の記憶として
のみ存在し、未来は現在の希望にほかならない。そのため、過去を手直しして未来を変え
てしまうこともたやすい。
ト−レ−ンにはまた、あらゆる物体はそっくりの複製物をもっているという理論がある
。物体を消失してしまっても、心の中で強くその物体を念じることで複製物として取り戻
すことができるのだ。たとえば二人の人間が一本の鉛筆をさがしているとしよう。一人は
それを見つけるが黙っている。もう一人は若干違っているがほとんど同じ別の鉛筆を見つ
ける。この二本目の鉛筆は“フレ−ニ−ル”と呼ばれる。
40巻に及ぶ『ト−レ−ン百科辞典』からなる秘密のメンフィス・コレクションが、徐
々に発表されていくと、ますます多くの人間がト−レ−ンを信じるようになり、その信念
は、世界中で発見される見慣れぬ物質でつくられたト−レ−ン人の物体によって強化され
ていく。
「ト−レ−ンとの接触やト−レ−ンの習慣は、この世界を崩壊させた。その統制にとら
えられると人間性は、それがチェスの統制であって天使のそれではないことを忘れたり、
忘れつづけようとする。今や、ト−レ−ンの推測上の『原言語』は学校にまで侵入してき
た。今や、その調和にみちた歴史、感動的なエピソ−ドにみちた歴史の授業は、わたしの
幼年時代を支配した歴史を抹殺した。今や、すべての人の記憶の中で、仮構の過去が他の
ものの位置を占領している。われわれはそれについて確かなことは何一つ知らないし、そ
れが虚構であることさえ知らないのである」(ボルヘス)
オルビス・テルティウスと呼ばれる秘密結社が、我々の現実と彼らの現実を、ゆっくり
とすり替え、合理的な正気の世界を完全に崩壊させてしまったのだ」(ロバ−ト・オッペ
ンハイマ−『日本は情報操作天国』)
陰謀論はアカデミズムの世界では妄想と同義語なので、この辺で筆を置いた方が利口か
も知れない。
PS.今では私は白色人種が東南アジアを征服して、歴史を奪ったという仮説は間違って
いたと確信している。もし、異民族が弱小民族を征服した場合、その弱小民族が持ってい
た文化文明を継承するということは、考えにくいからである。例えその文明がどんなに優
れたものであったにせよ、征服民族は自分たちの文化を被征服民族に強要するはずである
。そして被征服民族の文化は、博物館の中へと追いやられただろう。
ではいったい、東南アジアにあった文明はどのようにして、世界中に拡散したのであろ
うか。私は、文明は移植されたのであると考えている。私たちの知らない歴史の空白期間
中に、前文明は高度の発達を遂げたのであろう。ところがその前文明は何らかの理由で滅
び去った。しかしその滅亡の前に、文明は保存され、世界各地に無事に移植されたのであ
った。もちろん、その文明の担い手である人類も同時に世界各地に植民した。
しかし、現在の白人はアジア人とは特徴が異なっているし、黒人や中国人も同様である
。おかしくはないか。アジア人から白人や黒人や中国人が出現するのであろうか。そこで
考えられるのが、遺伝子工学である。先に、前文明は滅亡する前に高度な進化を遂げたの
であると述べた。当然、科学技術も発達し、遺伝子操作が可能なレベルにまで達していた
と考えられる。
すなわち、白人や黒人や中国人は、遺伝子操作によって人工的に作り出された産物だっ
たのである。よく考えてみて欲しい。もし、学校で教わった世界史がでたらめなものだっ
たならば、当然、民族の発祥に関してもでたらめなはずである。つまり、今日のヨーロッ
パやアメリカやオーストラリアに白人が存在し、アフリカ大陸に黒人、中国に中国人が存
在する根拠はないのである。アフリカ大陸に白人が、ヨーロッパに中国人が、中国に黒人
が存在していても構わないのである。
遺伝子操作によって人工的に作り出された白人をヨーロッパやアメリカに、黒人をアフ
リカ大陸に植民させたのは、歴史的な辻褄合わせだったのである。そして彼らが世界をコ
ントロールするために白人を選んだのは、単に都合が良かったからに過ぎない。世界史を
リセットした段階で、イギリスを中心とする白人帝国が世界を植民地化していたからであ
る。これがもし、歴史の別の時代が選ばれていたとしたら、中国人が世界の支配者になっ
ていたかもしれない。モンゴル人がヨーロッパに攻め込んだ時代が歴史のリセット段階と
して選択されたような場合である。
しかしいったい何故そこまでして、彼らは歴史を捏造しなければならなかったのであろ
うか。歴史的文献に合わせて遺跡を捏造し、人種を創造するよりも、文献を書き換えてし
まうほうがはるかに容易ではないのか。また、前文明が滅びたとして、新文明(現在の文
明は何故、その事実を隠蔽し、あたかも歴史が連続しているような幻想を振りまいている
のであろうか。そこには、さらなる驚愕の真実が隠されているのだ。次回は、この世界的
陰謀の究極の大秘密を暴露したいと思う。