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幻の島・ セイロン
アダムス・ピ−ク
セイロン島にアダムス・ピ−クと呼ばれる一高山がある。この山の頂上には、大きな石
があり、そこには巨大な足跡が印せられているという。仏教徒はそれを釈迦の足跡である
と言い、イスラム教徒はそれをアダムの足跡、ヒンドウ −教徒はシヴァの足跡だと主張し
ている。この足跡を参拝しようと、アダムス・ピ−クには昔から信心深い者の巡礼の跡が
絶えなかった。
アダムス・ピ−クが聖地として崇められたのは、この山がインド洋を航行する船の目標
となり、船乗りや海上商人たちにとって、航海安全を祈る聖山と見なされたからである。
ちなみに、アダムス・ピ−クはアラビア語でサランディ−ブ山、シンハラ語でサマナリ−
ヤ山と呼ばれている。
このアダムス・ピ−ク、一般的にはスリランカのスリ−・パ−ダであるとされている。
しかし、ちょっと待って欲しい。スリ−・パ−ダは標高2243メ−トル、スリランカの
最高峰のピドウ ルタラガラ山(2527メ−トル)に次ぐ第二の高峰である。つまり、島
内で一番高い山ではない、ということだ。
ところが様々な文献を見ると、アダムス・ピ−クは島内最高峰の山であると書かれてい
る
「そこは世界のなかで最高峰の山の一つで、われわれは九〔日〕行程も離れた海上から
その山を遠望した」(イブン・バットウ −タ『大旅行記』)。
「カンデ・ウダの南側に、この島の最高峰と思われる山があり、シンハラ語ではサマナ
ラ山というが、ポルトガルなどヨ−ロッパの国々ではアダムス・ピ−クの名で呼ばれてい
る。シュガ−・ロ−フのように険しく、山頂には二フィ−ト近くもある人間の足跡のよう
なくぼみのついた偏平な石がある」(ロバ−ト・ノックス『セイロン島誌』)
「この島はたいへん山が多く、全インディエでいちばん高いといわれる高峰があり、こ
れをピコ・デ・アダンと称する。インディエ人らは、楽園はそこにあって、アダン〔アダ
ム〕もそこで創造されたというのは真実だと考えており、またかれらの言うには、その山
には今でもアダンの足跡がいくつか見出され、あたかも彫刻したように石に食い込んでい
て、それで消えずに残っているのだという」(リンスホ−テン『東方案内記』)
「この島にはアダムの峰と呼ばれる非常に高い山がある」(ゴンサ−レス・デ・メンド
−サ『シナ大王国誌』)
「これは(アダムス・ピ−クのこと)インドにおいて、少なくともこの島において最も
高い山の一つと考えられている、驚異的な山である。そこからは、セイロン島内の最も大
きな河が流れだしている」(FRANCOIS VALENTIJN『DESCRIPT
ION OF CEYLON』)
「国王の居館の傍に大きな山が一つあり、高く雲にそびえている。山頂に足跡が一つあ
り、その深さ二尺、長さ八尺あまり石に彫りこんである。これは人間のはじまりである阿
聖人、すなわち盤古の足跡であるといわれる」(馬歓『瀛涯勝覧』)
「この島には非常に高い一つの山があり、この山について人々はアダムがこの山上でそ
の息子を失ったのを百年も悲嘆したといい伝えている」(オドリコ『東洋旅行記』)
以上の記述から、アダムス・ピ−クはインドで一番高い山、少なくともセイロン島内で
は最高峰の山であることが分かる。スリランカで二番目に高いスリ−・パ−ダをアダムス
・ピ−クであると比定するには、どうしても無理があるのである。
セイロンへ至る道
そもそも私がセイロンに興味を持つようになったきっかけは、仏教史にある。『法顕伝
』にはセイロンについて次のような記述がある。
「この国はもともと島国で、〔その島は〕東西五十由延、南北三十由延である。左右の
小島はなんと百余りもあり、〔島々の〕間隔は、あるいは十里、二十里、ときには二百里
もある。それらはみな大島に統属され、珍宝や珍?をたくさん産出する」
一読してまず気がつくのは、この島が南北よりも東西方向に長く延びた偏平な島である
ということである。また、この島の周囲には無数の小島が存在していることが分かる。ど
ちらも、現実のスリランカの記述からは程遠い。
法顕はガンジス河の河口から船に乗って14日でセイロンに着いたが、約2000キロ
メ−トルの道のりを14日とは早過ぎないだろうか。一日あたり約140キロとなるが、
大昔の船旅のことを考えると、これはほとんどあり得そうにもないことだ。
一方、玄奘は南インドからセイロンには、船旅3日で行くことができる、と述べている
。これはいいとして、問題はその南インドについての記述である。
「この国の南方、海に面してマラヤ山がある。高い崖に嶮しい嶺、洞穴のような谷に深
い谷川がある。この山の中に白檀香樹やチャンダネ−ヴァがある。樹の状は白檀に類して
おり、区別することはできない。ただ盛夏に高い所に登り遠望して、大蛇がまといついて
いる木があればそれと分かる。その木の性が冷たく涼しく感じられるので、蛇がとぐろを
巻くのである」(玄奘『大唐西域記』)
これが熱帯についての描写であることは、白檀や蛇という記述から読み取れる。南イン
ドも確かに暑いだろうから、これが南インドについての記述であるとしても、何も問題は
なさそうである。だが私はこの同じ記述から、もっと鬱蒼と樹木が生い茂る、どこかの熱
帯雨林の情景を思い浮かべてしまうのである。これは直観的なもので、うまく説明するこ
とは出来ない。そしてこの私の直観は、ここにある記述がインドのものではなく、どこか
のアジアのジャングルについての描写であることを指し示しているのである。
直観と言われても説得力に欠けるであろうから、仏教史からもう少し問題となる箇所を
拾い出してみよう。
法顕も玄奘も、パミ−ル越えをしてインドに入国している。インドに入るのにわざわざ
チベットとネパ−ルを迂回しているのである。北インドにある仏跡を巡礼したかったのか
もしれないが、それにしてもタクラマカン砂漠経由でインドに向かう必要は全くない。ヒ
マラヤ山脈を越えてインドに入った方が、はるかに安全で早道である。仏跡を巡礼したい
なら、入国後に北インドへ向かえば良い。わざわざ命の危険をおかしてパミ−ルを越えて
行く必要はないのである。これがまず疑問点の第一である。
そしてこのパミ−ルについてだが、中国語ではこの山脈のことを葱嶺山と書く。その理
由はと言うと、「葱嶺はその山が高大で、上には悉く葱を生ずる。故に葱嶺と名づける」
(『西河旧事』)からである。7千、8千メ−トル級の山が連なるパミ−ル山脈の頂上に
は、葱が生えているのである。こんな馬鹿な話はない。
話を進めよう。玄奘は南インドから西インドに向かって旅をしているが、西インドの先
にあるペルシャ国(波剌斯国)について次のように述べている。
「伽藍は二、三カ所、僧徒は数百人、みな小乗教の説一切有部の教えを学習している。
釈迦仏の仏鉢は今この王宮にある」(『大唐西域記』)
現在のイランに仏寺があり、釈迦の仏鉢を奉持しているというのだ。話もここまで大き
くなればお笑い種である。では玄奘が間違った記述を残したのであろうか。そうではない
。玄奘が言う波剌斯国は、現在のイランではなかったのである。
玄奘によると、波剌斯国の西北は払懍(フルム)国に接している。払懍国は旧称は大秦
と呼ばれた国で、東ロ−マのことを指しているとされている。この大秦については、中国
の正史に多くの記述が残されている。
「大秦国は、犂 とも呼ばれ、安息と条支の西にある大海の西側にある。・・その国で
は人々は背丈が高くて整ったからだつきをしていて、中国の人に似ているが、胡服をつけ
ている。彼らが自らいうところでは、もともと中国から分かれてきたもので、つねづね中
国と交渉を持ちたいと望んでいた。しかし安息国が仲介者としての利益を失うまいとする
ために、使者を送ることができずにいた、と」(『魏書東夷伝』)
ロ−マ人が中国人の末裔であるはずがない。波剌斯がイランではないように、この大秦
も現在の東ロ−マとは全く関係がないのである。波剌斯も大秦も、天竺国(インド)のわ
りと近くにあるアジアの国々であったのだ。
インドはどこか?
そして仏典に言う天竺国も、現在のインドとは違っていることを、これから証明したい
と思う。
マルコ・ポ−ロは中国のザイトウ ン港を出航して、チャンバ(占城国)経由でジャヴァ
島、スマトラ島に至ったが、ジャヴァでもスマトラでも北極星や北斗七星が見えないと述
べている。これはジャヴァやスマトラが赤道以南に位置していることを示している。そし
てセイロン島を経て南インドに至ったのだが、コマリ国(コモリン岬)に来て、ジャヴァ
島より以来ずっと見えなかった北極星が、やっとかすかに見え始めると述べている(『東
方見聞録』)。
すなわちセイロン島では北極星がまだ見えず、南インドのコモリン岬に至って始めて北
極星が見えたことになる。これはおかしい。何故なら、コモリン岬もスリランカも、北緯
8°前後に位置しているからだ。この位置からは北極星は容易に見出せるはずだ。すなわ
ちマルコ・ポ−ロの言うセイロンや南インドは、現在の位置よりもはるか南方の赤道直下
に存在していたことになる。
インドでは北極星が見えない、すなわちインドは赤道以南に存在している、と言う説は
まだ他にもある。
「インド地方の岬地帯上では大半の場所で日時計の影が消え、夜間熊座の星が見えなく
なるのを、何れも目に出来る。(南の)最果ての地では当の北極星も姿を見せることがな
く、話によるとその場所あたりでは影も南側へ傾く」(ディオドロス『神代地誌』)
インドの最南端では北極星が見えないのである。次にセイロン島の位置について、歴史
家や旅行者がどのように書いているか見てみよう。
「この島は赤道の下にあり、その半分は北極の側にそして半分は南極の側にある」(ゴ
ンサ−レス・デ・メンド−サ『シナ大王国誌』)
「この島と本土との間の海は浅くて六パッススはない。しかしある水路では非常に深く
て、どんな錨も底に届かない。そういうわけで、その狭い水路を航行する間、向きを変え
る必要を避けるために、両端に船首のある船が使用される。これらの船は3000アンフ
ォラくらいである。かれらは航海中星の観測を行なわない−事実大熊星座は見えない」(
プリニウス『博物誌』)
日本語への翻訳では大熊星座となっているが、洋書ではこれが北極星と翻訳されている
。そしてかの高名な地理学者プトレマイオスも、タプロバナ(セイロン島)は赤道以南2
°に位置していると書いている。
さてここで世界地図を拡げてみて欲しい。アジアにあって赤道以南に存在している島、
これはスマトラ島とボルネオ島とスラウェシ島ぐらいなものである。したがって、スマト
ラ島をタプロバナであるとする説が古くから存在した。
「この市〔マラッカ〕からさほど遠くないところに大サマトラ〔スマトラ〕国、すなわ
ちサマトラ島があり、この島は昔の世界誌学者たちからトラポバナ〔タプロバナ〕と呼ば
れていた」(ゴンサ−レス・デ・メンド−サ『シナ大王国誌』)
セイロン島がスマトラ島であるとすると納得がいく。スマトラ島は赤道直下にあるので
、セイロン島は赤道以南に位置しているという、多くの文献の記述と一致するからである
。するとセイロンの北に位置するインド大陸は、現在のマレ−半島であるということにな
る。マレ−半島の最南端であるジョホ−ルは北緯1、2°にあるので、理論上、ここから
北極星は微かに見えるはずである。しかし実際上は地平線すれすれなので、見えないと表
現してもおかしくはないだろう。だからインドの最南端では北極星が見えない、というデ
ィオドロスの記述と矛盾することはないのである。
私も一時期は本気でスマトラがセイロンであると信じ込んだものである。しかし結局は
これは大きな誤りであることが分かった。このことは、後に証明したいと思う。
さてセイロンはスマトラであるという説に対して、VALENTIJNがどのような反
論を展開しているか、見てみよう。
「この島の大きさに関しては、プトレマイオスが地図の中で赤道以南2°に位置してい
ると示しているのに賛同する。プトレマイオスの時代には、セイロンはそれぐらいの大き
さがあり、原住民が文献中に示しているように、この島はそれぐらい大きく、モルディヴ
にくっついており、長い間にわたって海がこの方面で島を切断し海水で覆ったために、今
日ある姿になったのである」(FRANCOIS VALENTIJN『DESCRIP
TION OF CEYLON』)
VALENTIJNは、セイロンは昔はモルディヴ諸島とくっついており、赤道にまで
達するくらいの大きさがあったと述べている。そして長い間の海の浸食作用によって、モ
ルディヴから切り離されて現在の姿になったという。ここで再び世界地図を見て欲しい。
このVALENTIJNの記述を読んで、セイロンがスリランカであると考える人がいる
だろうか。スリランカとモルディヴ諸島はくっつきようがないだろう。これはいったいど
ういうことなのだろう。これはつまり、VALENTIJNの言うセイロンもモルディヴ
も、現在のスリランカやモルディヴ諸島を指しているわけではない、ということなのだ。
インド、アラビア、アフリカについて
マルコ・ポ−ロは『東方見聞録』の中で、インドの西海岸を北上するにつれて北極星が
しだいにはっきりと見えてくる様子について述べている。
「コマリもインドの一地方である。ジャヴァ島より以来ずっと見えなかった北極星が、
この地に来てやっとかすかに見え始める。すなわち三十マイルばかりの沖合いに出て望見
すると、水平線から一キュ−ビットばかり上方に北極星が認められるのである」
「メリバ−ルは西方に位置する大王国で、土人の王が君臨している。住民は偶像教徒(
仏教徒のこと)で独自の言語を行使し、外国のどこにも隷属していない。この国までくる
と北極星はずっとはっきり認められ、水平線上二キュ−ビットの高さに現われる」
「ゴズラ−トも広大な王国で、土人の王をいただいている。住民は偶像教徒で独自の言
語を使用し、どの外国にも隷属していない。この王国は西方に位している。
この国では、北極星はますますはっきり見えてくる。水平線から六キュ−ビットばかり
の辺に認められる」
「カンバエットは西方に位する王国で、土人の王をいただいている。住民は偶像教徒で
独自の言語を有し、外国には隷属していない。
この王国では、北極星はさらに明瞭に見える。北極星は、西へ行くにつれてますますは
っきり見えるものであることを心得ておいていただきたい」
マルコ・ポ−ロの言う、コマリはコモリン岬、メリバ−ルはインド西南海岸一帯を占め
るマラバ−ル地域、ゴズラ−トはインド西部海岸中央部のグゼラ−ト半島を中心とする地
方、カンバエットはインド西海岸中央北部に位するカンベ−湾地方、をそれぞれ指してい
る。
「ところで、西方および西北方に向けて旅する者にとって、ここ(ケスマコラン王国)
はインド最後の地方なのである。マ−バ−ルからこの王国までの諸国、すなわちわたくし
がマ−バ−ルをたって以来、これまでに次々と報告してきた諸地方や諸王国は、すべて大
インドに属し、インドでも最も良好な地帯なのである。以上に述べてきた所はもっぱら海
岸線に沿ったこの大インドの諸国・諸都市のみであって、同じインドでも内陸地方のこと
は、話せばきりがないから省略して触れなかったわけである」(マルコ・ポ−ロ『東方見
聞録』)
マルコ・ポ−ロの言うインドが、赤道から北へと続く大陸の一部であったことは間違い
ない。よって私はここに、このインドは現在のマレ−半島であると仮定しよう。すると非
常に興味深いことが分かるのである。
『瀛涯勝覧』(馬歓)には、天方国すなわちメッカについての記述がある。
「〔天方国は〕すなわち黙加国である。古里国(ケ−ララ州のカリカット)より出帆し
て西南西の方位に船で行くこと三ヵ月でこの国の波止場である秩達(ジッダ)に着く」(
馬歓『瀛涯勝覧』)
「天方は古の?沖の地であり、一名天堂、または黙加と言う。水路で忽魯謨厮(オルム
ズすなわちペルシャ湾頭)から四十日で行くことができる。古里より西南方向へ向かい、
三月で行くことができる」(『明史』)
この同じ『明史』に、古里から忽魯謨厮まで二十五日で行くことができると書いてある
ので、忽魯謨厮から天方までの四十日と合わせて、古里から天方まで六十五日であるはず
である。『瀛涯勝覧』では少し余裕を持って三月としたのであろう。
メッカとは言うまでもなく、イスラム教最高の聖地、現在のサウジアラビアにあるメッ
カのことである。南インドのケ−ララ州から船出しても遠いのに、これがマレ−半島から
となると、とてつもなく遠い道のりである。それなのに『瀛涯勝覧』では、榜葛国(ベン
ガル)の先にオルムズ、その先にメッカという順番で記述している。つまりこれは、メッ
カがインドのわりと近くにあったことを示しているのではなかろうか。
マルコ・ポ−ロは『東方見聞録』の中で、アバシュ国(マルコ・ポ−ロの言う中インド
のこと)の次にアダン国(アラビア半島南端の現在のイエメンにあるアデン)について記
述している。
「この国には、貨物を満載したインドの商船をことごとく入港せしめるにたるだけの海
港があり、多数の商人がそこへ蝟集してくる。商人はこの海港でその商品を小舟に積みか
え、七日間ばかりかかって河(紅海)を遡上する。七日目に商品を小舟からおろして駱駝
に駄載し、さらに陸路で約三十日行程の地まで運搬する。三十日目に一名ナイル河とも称
せられるアレキサンドリア河に達し、ここで再び<ゼルム>と呼ばれる小舟に商品を積み
込んで河水に順流すれば、容易にバビロンにそれをもたらすことができる。バビロンから
はカリゼ−ヌ運河によってアレキサンドリアまで送られるのである。このようにしてアレ
キサンドリアのサラセンたちは、アデン経由で胡椒・香料その他の貴重物資を入手するの
である。アレキサンドリアに達するには、これ以外に便利な早道はない」
「ここ(カリカット)でメッカの船は香料を積み込み、ジュデア(ジッダ)というメッ
カの町に運ぶ。メレクワ島からジュデアまでは追風で五十日かかる。この地の船は間切っ
て進むことはできない。ジュデアで船荷を下しグラン・ソルダンに税を払う。そして小型
の船に荷を積みかえ紅海を通って、トウスという、シナイ山のサンタ・カテリ−ナ近くの
場所に運ぶ。ここでまた税を払う。商人達はここで一頭につき四クルザ−ド払って雇った
らくだにこの香料を積み、十日旅してカイロに着く。ここで再び税を払う。このカイロへ
の道筋で、彼らはしばしばその地に住むアラルヴェスその他の泥棒に襲われる。カイロで
再び船に荷を積み、インディア・バイシャのプレステ・ジョアンの国に源を発するニロ〔
ナイル〕河を下り、二日後ロシェ−テ〔ロゼッタ〕という場所に着き、また税を払う。そ
してまたらくだに荷を積み、一日かかって海港であるアレシャンドリア〔アレキサンドリ
ア〕の町に出る」(ガマ『インド航海記』)
インドとアラビア、そしてエジプトが互いに目と鼻の先にあるかのような記述である。
そして実際にはその通りだったのであろう。だからこそかの偉大なアレクサンドロス大王
は、ナイル川の源流はインダス川であると真面目に議論しているのである。
「つまりナイル川はインドのどこかそのあたりにその源を発して、広大な砂漠地を流れ
抜け、その辺でいつの間にかインドス川という名前も失ってしまうが、そこからまたあら
ためて人の住む土地を通って流れはじめると早くも、その地域のエティオピア人から、次
いではエジプト人からもナイルの名で、<あるいは>ホメロスに歌われてアイギュプトス
〔エジプト〕なる地名の由来ともなった、アイギュプトス〔川〕の名で呼ばれるようにな
り、こうして果ては内海〔地中海〕へと注ぎこんでいるというのである」(フラウィオス
・アッリアノス『アレクサンドロス東征記』)
『エリュトウ ラ−海案内記』では、エジプトからアラビア、ペルシャを経てインドに至
る海路が紹介されている。これを見てもやはり、エジプトやアラビア、インドは互いに近
接した位置にあったと思わざるを得ないのである。まだある。今度はタプロバナ(セイロ
ン)とエチオピアについてである。
「ひじょうな信頼を勝ち得ている説によるとこの島(セイロン)は、インド地方から南
へ向かってその前方に位置する、外海の大きな島である。そして、話によるとエチオピア
地方の方角へ向かって(東西へ)5000スタディオン以上も伸び、島からインド地方の
いくつもの交易地へ象や亀の甲羅そのほかの産物を大量に輸出している」(ストラボン『
ギリシャ・ロ−マ世界地誌』)
「話によると、タプロバネは外洋にある島で、インド地方の南端に住むコニアコイ族の
地域からの距離は南へ向って七日間の航海を要する。島はエチオピアの方へ向って長径約
8000スタディオン、島に象もいる」(同上)
「大海中に西に向かってパライシム−ンドウ −と呼ばれ、昔の人々からはタプロバネ−
と呼ばれた島が横たわっている。この島の北に面した部分は渡航者にとり一日(の航程で
あるが、南部はもっと西に延びて)、殆どその対岸であるアザニア−(アフリカ東海岸)
にまで達している」(『エリュトウ ラ−海案内記』)
スリランカがエチオピアの方を向いているという事実はないし、スリランカを記述する
際にエチオピアを持ち出すのもおかしい。これはやはり、セイロンとエチオピアは今日あ
る場所ではなく別の所に存在していて、かつ、両者は互いに近い位置関係にあったと考え
た方が自然である。
先に私はインドはマレ−半島の南端にあると仮定した。するとアラビアとエジプトはど
こにあるのだろうか。ヒントとなるのは、エリュトウ ラ−海(紅海)である。そもそも何
故、この海峡が紅い海(紅海)と呼ばれるようになったのだろうか。
「ギリシア人はエリュトウ ラ(紅い)海と呼ぶが、これは海の色から来るのか、エリュ
トウ ラスがこのあたりの王となったのでそのように呼ぶのか、である」(ポンポニウス・
メラ『世界地理』)
「このアラビアを通って行くと紅海、すなわちアラビア海の海峡に達する。この海は長
さが450レグアあり、水はところどころで非常に深い。また水の色は汲み出してみれば
白いのだが、海では紅色を呈する。その理由は水底の地面が紅色のため、日光が水にあた
ると紅色に見え、こうして今日のごとき名前で呼ばれるようになった」(ゴンサ−レス・
デ・メンド−サ『シナ大王国誌』)
「この海には赤く染まっている部分がたいへんに多いので、「紅」の語はこの海にたい
へん似つかわしいものです。船隊を率いてこの海の入口へ入ろうとしていたとき、その入
口から赤い水が太い血管のようになって流れ出ているのを見ましたが、それはアデンの方
角へ延びていました・・
アフォンソ・デ・アルブケルケが海峡の入口まで行った時の様子を語った言葉、すなわ
ち赤く染まった水が太い帯状をなして海峡の入口から流れているのが見え、また海峡の入
口の内側でも、彼の乗っていたナウの船首楼から見える部分はすべて赤く染まっていたと
いう言葉、さらにはイスラム教徒が彼に語った説明に注意を払えば、その原因は激しい北
風のために海が荒れ水底の水が表面に運ばれ、その水の勢いで海底の珊瑚の根が折れて浮
かんできたことにあったことがわかると思われるからである。ただし、それは重量がある
ため水面までは浮かんでこないが、激しい風がおさまり、干潮になると、流れる水に乗っ
て海峡の入口の外へ出て行くのである。この狭い場所を通るとき、激しい水勢で大きな珊
瑚の枝はこまかく砕けて、アフォンソ・デ・アルブケルケの見たという太い帯になるので
ある。つぎに広い外洋へ出ると、珊瑚の枝は広く拡がり、ドン・ジョアンが鯨の出産か流
産によると考えた赤い縞になるのである。彼がそう考えたのは、海峡の中で見たときとは
違って珊瑚のこまかな枝が水面に出ていたためである」(ジョアン・デ・バロス『アジア
史二』)
「エリュトウ ラ海沿岸の全域にわたって海底深く月桂樹やオリ−ブ樹に似た木が生え、
干潮時にはこれらの樹々はすっかりその姿を水上に見せるようになるが、満潮時になると
すっかり水中に隠れることもある。その上、これらの樹より上の方にあたる陸地には樹木
が育たないから、この話はいやが上にも信じ難くなる」(ストラボン『ギリシャ・ロ−マ
世界地誌』)
紅海には珊瑚があるのである。そして鯨がいる。今日の紅海に鯨がさまよい込むことが
あるかどうか、私は寡聞にして聞かない。今日の紅海にも珊瑚が生えているが、以上の記
述はどこか南の海を彷彿とさせる。しかり、エリュトウ ラ−海は今日の紅海ではなく、別
の海峡のことを表していたのである。では紅海は、アラビアはいったいどこにあるのだろ
う。紅海がアラビアとアフリカ大陸との間に狭い海峡を成していることは、様々な記述か
らしても疑い得ない。インド(マレ−半島)南端近くにある狭い海峡とは何か。もうお分
かりだろう。そう、歴史家の言う紅海とは、マラッカ海峡のことを指していたのである。
そして紅海がマラッカ海峡であるなら、アラビアはマラッカ海峡のマレ−半島側、アフリ
カ大陸は今日のスマトラ島ということになる。
古代エジプトはアフリカにはなかった
さてこの紅海は、「かのモ−ゼスがイスラエルの子らを引き連れて足を濡らさないで渡
ったところ」(リンスホ−テン)である。するとスマトラ島のマラッカ海峡側に、かのエ
ジプトが存在していたことになる。ではこれからエジプトがスマトラ島にあったことの証
明に入ろうと思う。とは言うものの、これは不可能である。何故ならば直接的な証拠は何
も存在していないからだ。しかし間接的な証明ならば出来る。つまり、エジプトが今日の
アフリカ大陸に存在していた訳ではないことを示せば良いのである。ではこれからその証
明に入ろう。
エジプトのプトレマイオス朝の歴代の王による、象狩りの話は有名である。
「ヘロオン・ポリスからトログロデュティケ地方沿いに船を進めるとピロテラ市。市の
名はプトレマイオス二世の姉妹に因んだもの、サテュロスが象狩場とトログロデュティケ
地方を調査するため派遣された折に建設した」(ストラボン『ギリシャ・ロ−マ世界地誌
』)
「モスコパゴイの次には・・約四千スタディオン離れて『狩猟のプトレマイス』と呼ば
れる海沿いの小さな商業地があり、プトレマイオス家の時代には王の狩人たちは此処から
内陸に這入って行った・・また此処では時には少量ながらアドウ −リ産のものに似た象牙
が見出される」(『エリュトウ ラ−海案内記』)
「ナイル河の彼岸からの象牙は総ていわゆるキュエ−ネイオンを通じて此処に運ばれ、
此処から更にアドウ −リに運ばれる。殺される象や犀は全部内陸の地に棲息し、時たまに
は海岸地方でアドウ −リ附近でさえ見受けられる」(同上)
そう、エジプトには象がいたのである。うん、ちょっと待って欲しい。エジプトには象
はいないゾウ。アフリカ象が棲息しているのは、サハラ以南である。ここに言うエジプト
の象とはアフリカ象ではなく、スマトラ島にいるアジア象のことを指しているのではない
か。矛盾点は象だけではない。
「熊はこの国では珍しく、狼は狐よりやや大きい程度のものであるが、これらの獣は死
んでいた場所にそのまま葬る」(ヘロドトス『歴史』)
「河には川獺も棲んでおり、神聖なものとされている」(同上)
熊も川獺も今日のエジプトにはいない。狼もいない。昔はいて今は絶滅した、という話
ではない。存在していたという記録もないのだ。狼はジャッカルのことを指しているのだ
という風に説明する解説者もいるが、やはり狼は狼であろう。犬頭のアヌビス神とは狼の
ことである。この他にもヘロドトスは、春になるとアラビアからエジプト目指して飛んで
くる翼のある蛇や、その蛇をエジプトの入口で迎え撃ち、侵入を許さず殺してしまうイビ
スという鳥についても述べている。翼のある蛇といい、鳥といい、やはり熱帯の光景を思
い浮かべてしまうのは、きっと私だけではあるまい。
エジプトについての記述で疑問に思うのは、動物についてだけではない。エジプトと言
えば紙が発明されたと言われている所、そうパピルスがある。パピルスからは紙だけでは
なく舟も作られた。パピルスはまた食用にも供された。
「パピルスは、その年々に生えたものを沼から抜き、上の部分は切り取って他の用にあ
て、残りの下部およそ一ペキュスほどを食用にしたり売却したりする。パピルスを特に美
味しく食べようと思うものは、赤熱した土鍋で蒸し焼きにして食べる」(ヘロドトス『歴
史』)
「それはまた、生のまま噛んだり煮て噛んだりして汁だけ呑むのに用いる」(プリニウ
ス『博物誌』)
いったい何が悲しくて葦など食わねばならぬのか。そう、パピルスは葦などではあり得
ない。ではいったい何なのだろう。舟も作れて文字も書け、おまけに食うことも出来る。
ちょっとした謎々みたいになってしまったが、答えはずばり、「竹」ではなかろうか。イ
ンドネシアでは竹の皮に文字を刻んで保存している民族がいるし、竹からは舟も作ること
が出来る。竹の子は似て食えば美味しい。竹とくればその生産地はアジアであろう。それ
ではさらなる証拠を求めて、今度はエチオピアに飛んでみよう。
「このあたり(エチオピア)の山にはさまざまな動物がいる。すなわちライオン・象・
虎・豹・狼・猪・鹿・獏」(アルヴァレス『エチオピア王国誌』)
虎、狼、鹿、獏はエチオピアには棲息していない。獏が棲息しているのは、南アメリカ
、中央アメリカ、東南アジアである。マレ−バクは、ビルマ、タイ、マレ−半島、スマト
ラに棲息している。やはりエチオピアはスマトラ島にあったのである。ではエジプトとエ
チオピアは、スマトラ島のどの辺に位置していたのであろうか。ここで再び世界地図を拡
げてみて欲しい。
問題はスエズと称された場所の位置である。マラッカ海峡は南方から北上するにつれて
マレ−半島とスマトラ島との間にはさまれて、その幅を狭めている。そしてちょうど、ス
マトラのルパ島のあたりで一番、両大陸が接近している。すると歴史家によってスエズと
称されたのは、この辺りの土地ではなかったのだろうか。
「カイロからスエズへは三日で行かれる。スエズは海峡のいちばん奥で、港でもなく、
人の住んでいる所でもない。同地ではわれわれに〔対抗するための〕艦隊が作られている
ということである」(トメ・ピレス『東方諸国記』)
「その岬すなわちカボ・デ・グアルダフ−ンから海峡の奥まったところの、むかしアル
シノ−エと呼ばれたスエズ(すなわちそのエストレイトつまり海峡がそこで終わる最端の
町)まで三六〇マイル、そこから陸路イタリアの地中海までは九十マイルである。このエ
ストレイトすなわち海峡は口もとも、また中へ入ったもっともひろいところでも四十マイ
ルで、ところどころはもっと狭い。またそこには多くの島があり、その一方の側すなわち
スエズから内陸の北部にはアラビア砂漠、他方の側の南方にはエジプトがあって、そこに
はニルス〔ナイル〕河が貫流し、また少し下がってインディエ海の方向にはアラビア・フ
ェリ−スが、そしてその反対側にはアベシネ〔アビシニア〕人の国すなわちパ−プ・ヤン
ス・ラントがある。紅海の入口に面して、アラビア・フェリ−スの一角に、ポルトガル人
は以前アデンと称する砦をもっていた。しかし今日かれらはそれを失っているため、スエ
ズで艤装されたトルコ人のガレイ艦隊がしばしば紅海の海峡から出て来て、アベスすなわ
ちメリンデ海岸に多大の危害を加えている」(リンスホ−テン『東方案内記』)
「アラビア側の海岸にあるトロから先〔北〕にかけては、アラビアの海岸とエジトの海
岸はそれぞれの海岸から突き出た岬のところで近接している。二つの岬は互いに向き合う
位置にあり、両者は最大三レグアしか離れていない。この二つの岬を過ぎると、陸はふた
たび屈曲し、入江や突出部をつくりながら、紅海の最奥部であるスエズの町に達する」(
ジョアン・デ・バロス『アジア史二』)
以上の記述を読んで気づくことは、アラビアとエジプトが非常に近接した位置関係にあ
るということである。しかしマレ−半島とスマトラ島はマラッカ海峡を挟んで、かなり離
れた位置にある。これはおかしい。そこでこれは仮説であるが、歴史家はスマトラのルパ
島をアラビア側に含めたのではなかろうか。するとルパ島の対岸であるスマトラ島のデュ
マイ市がエジプト側、おそらくスエズあたりになる。こう考えると、アラビアからエジプ
トに向けて翼のある蛇が飛んで来る、というヘロドトスの話にも説得力が出てくるだろう
。ルパ島とスマトラ島との間は、水路を隔ててせいぜい数キロメ−トルの距離である。デ
ュマイ市からはルパ島を見ることが出来る。エジプトはデュマイ市の辺りにあったのだ。
するとエチオピアはエジプトの南、現在のデュマイ市の南方のリアウ地方の辺り、という
ことになろう。
あるいは、現在でこそマレー半島とスマトラ島は海で隔てられているが、昔は地続きで
あったということも考えられる。それが何かの原因で水没して、今のマラッカ海峡を形成
するようになったのではないか。
ヨ−ロッパは東南アジアにあった!
次に問題となるのは、紅海がスエズで行き止まりになっているという記述である。スエ
ズ運河がフランス人レセップスによって開かれたのは、1869年である。それ以前は当
然、地中海と紅海は地峡によって隔てられていたことになる。バスコ・ダ・ガマによって
喜望峰回りのインド航路が発見されたのが、1498年である。こんな昔の時代に、こん
なに大回りをしてインドに行った、というのも不思議な話である。しかしもっと不可解な
のは、ガマによって喜望峰ル−トが発見される以前は、地中海の船はいったいどうやって
紅海に抜けていたのか、である。物資の往来はいったいどうなっていたのか。エジプトの
地中海側でいったん積み荷を降ろして陸路で紅海側の港まで運び込み、再び船に載せてい
たのか。それとも、プトレマイオス朝の王が開いたという運河を通じて紅海に到ったと言
うのであろうか。
「プサンメティコスの息子がネコスで、父の後を継いでエジプト国王となったが、彼は
『紅海』に通ずる運河に手を染めた最初の人物で、後にペルシア王ダレイオスの開鑿した
のが、この運河である。その長さは舟航四日の行程に及び、幅は二隻の三段橈船が並んで
漕ぎ通れるほどにして開鑿された。運河の水はナイルから引き、ブバスティスの町のやや
南の地点に発し、アラビアの町パトウ モスの傍らを過ぎて『紅海』に達するのである。は
じめに開鑿されたのはエジプト平野のアラビア側であったが、この平野の南方にはメンピ
ス附近に連なり石切場のある山脈が続いている。運河はこの山脈の山麓地帯に沿って西か
ら東へ延々とのび、それから峡谷にわけ入り、山地からはなれて南方に走り『アラビア湾
』に達するのである。『北の海』から『南の海』−いわゆる『紅海』と同じ−へ至る最小
最短の距離を求めれば、エジプトとシリアを区切るカシオス山脈から『アラビア湾』に抜
ける線であるが、この距離がちょうど千スタディオンである。これが最短距離であるが、
運河ははなはだしく曲折しているので、その延長はこれよりもはるかに大きいのである。
ネコス王の代に運河の開鑿に当ったエジプト人は十二万の死者を出した。ネコスはしかし
、彼の工事が異国人のための露払いの仕事であるという神託に妨げられて、中途で開鑿を
止めてしまった。エジプト人は自分と言語を同じくせぬ者はすべてこれを異国人と称する
のである。
運河の開鑿を中止したネコスは、今度は心を軍事に向け、多数の三段橈船を建造させた
が、その一部は『北海』向けとして作られ、他は『紅海』向けとして『アラビア湾』で建
造された」(ヘロドトス『歴史』)
「この運河を築くことを最初に企てたのはプサンメティコスの子ネコスで、その後をペ
ルシア人の王ダレイオスが企て、しばらくの間仕事を進めたものの、結局は未完のまま放
棄した。
すなわち誰かが、地峡を切り開くとエジプトを水浸しにさせることになるのでよくない
、と王に教えた。この人びとは、エリュトウ ラ海がエジプトの側より高い位置にあること
を、証明した。
後世プトレマイオス二世王がこれを完成させ、最も適切な場所あたりに、いわば技術の
粋を集めた隔壁を建造した。そして、通り抜けようと思う折にはいつでもこれを開き、ふ
たたび速やかに閉じて、この工夫が狙いどおりに満たされていることを示した」(ディオ
ドロス『神代地誌』)
この運河、今日では跡形も残っていない。不思議な話である。もしこの運河が現代まで
残っていたら、レセップスはわざわざスエズ運河を掘る必要はなかっただろう。ナイル河
から紅海に船で抜けることが出来るからである。ちなみにヘロドトスの言う「南の海」は
紅海、「北の海」は地中海を指している。
スエズ以南すなわちデュマイ市以南のマラッカ海峡を紅海とすると、地中海はデュマイ
市以北のマラッカ海峡、大西洋はスマトラ島西部のインド洋であったことになる。すると
ヨ−ロッパはマレ−半島のマラッカ海峡側、今日のマレ−シア北部とタイ南部ということ
になる。そんな馬鹿な、と思わないでもう少し話の続きを聞いて欲しい。
ヨ−ロッパが東南アジアにあったという直接的な証拠はない。しかしそのヨ−ロッパが
今日ある位置に存在していたということに対する反証はある。かの有名なポエニ戦争を思
い出してみよう。
カルタゴの名将ハンニバルは第二回ポエニ戦争で、三十七頭の象を加えた軍勢を率いて
新カルタゴ(カルタゴのスペイン植民地)からイタリアに攻め込んだ。有名なハンニバル
のアルプス越えである。この三十七頭の象は寒さのために一頭を残してすべて死んでしま
った。さてこの辺でもうこの話の馬鹿らしさに気づいてもいいだろう。ヨ−ロッパに、ス
ペインに、象が棲息していたというのだ。何万年前の氷河期のマンモスの話をしているの
ではない。つい、二千年程度前の話である。この間に象がヨ−ロッパから絶滅したと言う
のだろうか。現在、ヨ−ロッパに象が棲息していないのは、気候を初め環境条件が象の棲
息に適していないからである。このわずか二千年の間にヨ−ロッパの気候が大きく変化し
たという記録も事実もない。二千年前のヨ−ロッパに象がいたなら、当時の象は何を餌と
していたのか。考えるだけ馬鹿らしい。昔も今もヨ−ロッパに象はいなかったのである。
その象がアルプスを越えてイタリアにまで攻め込んだというのだ。いったい何の戦略的価
値があるのか。それ以前に、象がアルプスを越えるのは不可能であろう。お笑い種である
。
ではリウィウスを初めとする古代ロ−マの歴史家が嘘をついたのであろうか。そうでは
ない。リウィウスの言う新カルタゴやロ−マは、今日のスペインやロ−マではなかったの
である。スペインやロ−マは今日の東南アジアにあった。ちなみにカルタゴ本土は現在の
北アフリカのチュニスに当たるが、北アフリカにも象が棲息していないことは前に述べた
。北アフリカからスペインに象を連れて来たわけではないのだ。
だがしかし、「スペインやロ−マは今日の東南アジアにあった」という私の論には一つ
重大な欠陥がある。それは、ハンニバルは雪のアルプス越えをした、という事実にある。
言うまでもないが、マレ−半島の山に雪は降らない。ではやはり、イタリアが東南アジア
にあったという説には無理があるのだろうか。そうではない、と私は言いたい。問題は翻
訳にあるのだ。アルプスの山頂に積もっていたのは雪ではなくて、霜か何かだったのであ
ろう。これを雪と誤訳(意図的にか無知からか)したのがまずかった。誤訳の問題につい
ては、また後で取り上げる機会があろう。
ところで、リウィウスの言う新カルタゴやイタリアがマレ−半島にあったとするなら、
カルタゴは今日のスマトラ島北部のマラッカ海峡側、おそらく現在のメダン市の辺りにあ
ったと推測できる。するとカルタゴ人ハンノの西アフリカ沿岸の航海というのは、ヘラク
レスの柱すなわちスマトラ島北部アチェを越えてスマトラ島西部沿岸を南下した遠征だっ
たことになる。ハンノは北アフリカで象などの動物を目撃している。スマトラ島にはアジ
ア象が棲息している。
ハンノは火を噴く「神々の戦車」と呼ばれる高い山を越えて、体に毛が生えている野蛮
人のいる島まで行った。その際三人の女を殺して皮を剥いでカルタゴまで持って帰った。
食料が尽きたので、ここから引き返したという。
ハンノが言う野蛮人の住む島が、スマトラ島のメンタワイ諸島であることはもうお分か
りだろう。ここに「ゴルゴ姉妹伝説の島」や「幸福な人々の島」(ポンポニウス・メラ『
世界地理』)も存在していたのである。この「幸福な人々の島」はフェニキア人の発見に
かかるカナリア諸島と見なされている。そしてハンノの見た噴火する高山というのは、バ
リサン山脈にある活火山だったのであろう。この山脈のどこかに、アトラス山も存在して
いた。アトラス山の沖すなわち今日のインド洋は、アトランティス海(大西洋)と呼ばれ
ていた。海底に沈んだという幻の島アトランティスはインド洋にあったのだ。カナリア諸
島すなわち今日のメンタワイ諸島は、プラトンの言う幻の島アトランティスが海底に没し
た跡であると言われている。だからこそプラトンは、アトランティスの向こう(インド洋
の向こう)には本当の大陸(インドシナ半島)と呼ばれるものが存在していると書いたの
だ。
「なぜなら君たちはヘラクレスの柱と呼ぶと言っているそうだが、その海峡〔ジブラル
タル海峡〕の向こうには島(アトランティス島)があった。その島はリビュエ(アフリカ
)とアジアを合わせたよりももっと大きく、当時の航海者たちはその島から他の島々へ、
そしてさらにその島々から、かの本当の海をとりまく向こう側の大陸全部へ渡ることがで
きた。つまりわたしたちがいまあげた海峡内部の海は、せまい入口を持つ内海であると思
われるが、あの外の海は本当に海洋であり、それをすっかり囲んでいる陸地も本当に大陸
と呼ばれて至当である」(プラトン『ティマイオス』)
ところでメンタワイ諸島のニアス島には、巨石文化が残されている。これはひょっとし
たらアトランティス文明の名残ではないだろうか。
アレクサンドロスの鉄門
ヨ−ロッパが今日のマレ−シア北部からタイ南部にかけての地域にあったことは分かっ
た。するとあと残された大問題は、中国の位置についてである。ヨ−ロッパと中国は当然
、陸続きである。そしてかの偉大なアレクサンドロス大王はフン族がペルシャやロ−マに
侵入するのを防ぐために、黒海とカスピ海との間の地峡に鉄門を作った。この鉄門はカス
ピア峡門とかデルベンドの鉄門と呼ばれた。サマルカンドにあったもう一つの鉄門と混同
してはならない。このデルベンドの鉄門については、マルコ・ポ−ロも『東方見聞録』の
中で次のように言及している。
「アレクサンダ−大王がポネント(西方タタ−ル)に進軍せんとしたが、狭隘険阻な道
に妨げられて越せなかったというのはまさにこの地方に当たる。それというのも、一方は
海が迫り他方は広大な山脈・森林を控えていて、騎兵ではとても越せる所ではないからで
ある。山と海にはさまれた中間の道路はとても狭い上に四リ−グ以上も続くものだから、
僅々数名が隘路に拠りさえすれば、それこそ全世界をも相手にできる場所なのである。ア
レクサンダ−大王をもってしても、ついに越しえなかった理由は実にここにあった。そこ
でアレクサンダ−大王はこの地の住民がこの隘路を越えて自分たちを追撃できないように
と、ここに塔を建て砦を築いた。それは<鉄門>と称せられており、かの<アレクサンダ
−物語>に、彼がタルタ−ル人を二山の間に閉じこめたといっているその場所なのである
」(マルコ・ポ−ロ『東方見聞録』)
「ティム−ルはもう一つの有名な『鉄門』も支配しているが、それはデルベンド(カス
ピ海西海)の近く、〔北は〕すぐタタ−ルで〔クリミアの〕カッファの町からも遠くない
ところにある。このデルベンドの『鉄門』も同じく山脈中の切れ目にあるが、その山脈は
タタ−ル王国と、カスピ海〔西〕岸にあり、いまはペルシア王国に含まれているデルベン
ド地方との間にあるのである。したがってタタ−ルからペルシアへ行こうとする者は、サ
マルカンドへ行こうとするものがいまわれわれのやって来た『鉄門』を通らねばならぬと
同じように、デルベンドの『鉄門』を通らねばならぬのである」(クラヴィホ『チム−ル
帝国紀行』)
タルタ−ルやタタ−ルとは、モンゴルのことである。デルベンドの『鉄門』はカスピ海
の西岸、今日のロシアのダゲスタン共和国にある。確かにカフカス山脈とカスピ海に挟ま
れた場所にあるが、ロシアからペルシャやロ−マに行こうとするなら他に道はいくらでも
あるはずだ。カフカス山脈を突破して行くことも可能なはずである。私はここに鉄門が存
在していたという話を聞いて、昔から不思議に思っていたものだ。戦略上の意味がないか
らである。鉄門はどこか別の場所に存在していたのでは、なかったのか。
私は、中国は現在のマレー半島の北東部、すなわちマレーシアのコタ・バルのあたりに
存在していたのではないか、と考えている。ヨーロッパがマレー半島の北西部にあり、中
国が北東部にあったとしたなら、ヨーロッパと中国はマレーシアの山岳地帯を挟んで隣り
合っていることになり、ヨーロッパから見て中国は地の果てにあるという印象と矛盾して
いることになりはしないか。
おそらく、中国とヨーロッパを隔てるこの山越えの道は、一般的にはよく知られていな
かったのではあるまいか。だからこそ、中国と西洋の交易はインド、すなわちマレー半島
南端部を経由する海上の道が利用されたのである。
また、ここでは詳しく述べないが、マレー半島が旧世界であったなら、クラ地峡を通じ
てマレー半島とつながっているインドシナ半島は新世界、すなわちアメリカ大陸であった
のであり、現在のミャンマーとスマトラ島の間に横たわっているアンダマン諸島とニコバ
ル諸島こそ、プラトンのいうアトランティス大陸の名残であったのである。