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(回答先: (故)高山登久太郎氏(博徒任侠):地域住民の皆様方へ 投稿者 あっしら 日時 2003 年 6 月 30 日 21:00:20)
キツネ目事件調書
高山登久太郎氏を悼む
かつて四代目会津小鉄会長を務めた高山登久太郎氏が亡くなった。享年75。
今回は、ごく個人的な気持ちから、追悼の念とともに語っていきたいと思う。
俺が最後に見舞ったのは6月12日の木曜。その2日後の土曜には危篤状態となられたというから、まさに死の直前であった。だが、別 れ際に握手した手にはまだまだ強い力がこもっていた。「週末には自宅に帰るつもりや」と言っておられたから、己の死期が近いことをうすうす感じられていたのかもしれない。
俺は彼からさまざまな面で生き様を教わったが、今回のことで、死に様こそが男としての価値を決める、という最後の教示を得た気がする。俺と高山さんは親の代からの縁だ。当時、彼が所属していた組織の先代組長が俺のオヤジと兄弟分だったのだ。本当にいろいろとお世話になった。
かつて兄が経営してい会社が高山さんから借金をしたまま倒産し、借りた金を踏み倒したことがあった。兄はその後、一時出奔したため、俺が謝罪に高山さんのもとを訪ねた。当然、となり散らされることを覚悟していた。だが高山さんは、「あのときはお前らを助けてやれなかった。本当にすまん」と逆に謝られてしまった。しかも、「俺たちのようなハンディのある人間が事業に失敗するのは当たり前や。それは責めんが逃げるのはあかん。戦い続けるんや」、と、次の事業のための資金まで貸してくれたのだ。
スケールのデカい人であった。その後、俺が東京に出てからはしばらくつきあいはとぎれた。しかし、それまでの彼との関係がなければ、今の俺はなかった。92年の暴対法施行以降、高山さんは法律の不当性を訴える裁判を展開する。以来、彼はさまざまな形で国家権力との戦いを続けていく。当初は全国で同様の裁判が起こったのだが、その多くは取り下げや敗訴に終わっていた。高山さんは孤立無援になりながらも戦い続けたのだ。そんな彼の姿に俺は共感し、デビュー作「突破者」を著した。作家・宮崎学があるのは高山さんがいたからと言っても過言ではない。
最近も高山さんと2人で原告になり、国賠訴訟の裁判を起こした。高山さんと俺がゲスト出演する予定だったトークショーを滋賀県警が妨害したことに対し、憲法で保障さ れた「集会」と「表現」の自由を違反しているという趣旨でだ。県警の言い分としては、高山氏が元ヤクザ、しかも会長なので、会場に〃暴力団。関係者が大勢集まれば「市民の安全が脅かされる」ことから中止依頼を会場側にした、とのことであった。何を笑止な、である。高山さんは滋賀県大津市の琵琶湖至近に居を構えていた。彼の現役時代は強力にこの町を治めていたから、実に平和だった。
だが、警察関係者にとっては平和すぎることは都合が悪い。要は天下り先の警備会社などへの仕事が減り、0Bたちの収入が激減するというわけだ。この状況に業を煮やした警察が騒動を演出し、みずからの存在をアピールした、と俺は見ている。だが、4月に出た一審の判死に様が男の価値を決める・… 決はわれわれの敗訴だった。さっそく入院中であった高山さんに報告・相談したのだが、彼の選択は「迷うこと自体間違っとる」と即断、控訴だった。
「学、勝ち目がないことは俺も知っとる。だかな、そんなもんは問題やない。戦い続けることが大事なんや」男がこうと決めたことは何があっても貫き通 す。相手がどれほど強大であろうと同じ。それが彼の生き方だ。彼が権力との戦いを続けていく根本には、単なる思想ではない。国家権力の汚さを身をもって体験したことにある、と俺は確信する。
その例が、山口組と一和会によるいわゆる山一戦争でのことだ。高山さんはこの抗争を終結させた功労者である。両組織間を奔走する中で見えてきたのは、抗争をあおる目的の情報をリークする警察の姿だった。両組織の組長の居場所というトップシークレットを流していたのだ。表では〃暴力団。の壊滅を旗印にしながら、裏では火に油を注ぐ。高山さんは警察の実体を嘆いていたものである。
だが、それ以上に許せなかったのは、警察が利権拡大のために、ヤクザを「危険な無法者の集団」としてマスコミを操作し世間に刷り込んできたことだろう。
戦争という荒波の中、在日である高山さんは、生きるための唯一の手段としてヤクザの道を選択した(詳細は拙著「鉄KUROGANE」を一読されたし)。直接的には初代中川組の中川芳太郎組長によるスカウトだが、そのエピソードがなかなかいい話だ。
当時、高山さんは愚連隊の頭として若い衆を束ねていた。そんな噂を聞いた中川組長が声をかけてきたという。「若いさかいってケンカばかりはあかんな」と多額の現金をぽっと渡したという。ありがたい金額ではあったが、こんなにもらう義理はない、と高山さんはその金を突き返した。すると、「ワシはヤクザや。男が一度出した金を引っ込めることができるか。ドブにでも捨ててくれ、もうワシの金やない」中川組長はこう言い放った。任侠の男とはなんと格好いいことをするものなのか。高山さんはこの出会いをきっかけに盃を受け、この感動を貫き通 した。今となってはきわめてトラディショナルなヤクザのスタイルではあるが、高山さんはそんな幻想を生涯追い続けだといっていい。
ヤクザは地元の人々に愛されねばならないとし、県内にある福祉施設に匿名で多額の寄付を続けた。さらには、什ハ同体の中での遊水地たるべしとし、地元のガキがクレれば叱りつけ、ドロップアウトした者がいれば面 倒を見た。いわばヤクザとは高山さんの根幹、生活規範であったとも言える。警察権力によるヤクザ蔑視は、彼を全否定することになる。それゆえ警察と戦い続けたのである。20歳で父親を亡ぺした俺にとって、高山さんは父親でもあった。ものを書いたり発言する際、最後は高山のおやっさんならどう考えるやろか、と常に想像する。精神的な支柱であった。俺には高山登久太郎のような生き方はできない。
時代は確実に変わっている。もう彼のような男が生まれる素地すらない社会となった。 合掌